ソーシャルゲームとキャバクラの違い

ソーシャルゲームはなぜハマるのか ゲーミフィケーションが変える顧客満足ここ最近、ソーシャルゲームと呼ばれる新ジャンルのゲームを提供するGREEDeNAといった企業が、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでもって、快進撃を続けている。

ゲーム関係で言うと、私は、例えばリア充コミュニティにあっては「あいつちょっとゲームヲタっぽいよね」と微妙に囁かれる程度のいわゆる半可通なのだが、ことソーシャルゲームに関して言うと、割と早くにガラケープラットフォームから決別したこともあって、比較的縁遠い生活を送っていた。半可通ならではの「あんなのゲームとは呼べないでしょ」的な見下しもあったかもしれない。

ところが、GREE時価総額6000億円はいまやゲーム業界では任天堂に次ぐ2番手であり、その任天堂時価総額も大部分は単にその豊富な現預金によって裏付けられたものであるから、GREEは実は、事業の価値だけで考えるならば既に任天堂をも上回っているとさえ言える。GREEを何かに例えるなら、プロ2年目若干18歳でいきなり賞金王に輝いた石川遼のようなものだ。古参は何をやっているのだ、古参は。

いくら個人的に縁遠いとは言え、ここまでの急成長を見せつけられるとビジネスとして注目せざるを得ないというか、どんな形でもいいからあやかりたいというスケベ心が芽生えるのが人情だ。このたびは、そうした不純な動機から「ソーシャルゲームはなぜハマるのか ゲーミフィケーションが変える顧客満足」という書籍を拝読してみた次第である。

なお、新しいものを学ぶときにとりあえず実際にやってみるのではなく、まず書籍から入るというのは老化現象の一形態だとは思うが、まあ実際問題老化しているので仕方がない。

ソーシャルゲームの"ゲーミフィケーション"

さて、同著によれば、ソーシャルゲームにハマる理由は、大きく分けて2つの仕掛けに集約されるということだ。

2つの仕掛けのうちひとつは可視化とフィードバックのサイクル、もうひとつがソーシャル・パワーという謎の力として整理されている。同著の基本的な構成は、これらのフレームワークゲーミフィケーションと称して事例を交えて解説するとともに、同フレームワークはあらゆる場面で活用が可能なのだと続けることで、ソーシャルゲーム発展の大義を見出そうとするものだ。

ただ、このフレームワークの前者、即ち可視化とフィードバックは、要するにステータスやランキングを可視化すること、及び目標達成時に達成感を味わえるような演出を導入することなどによってプレイヤーのゲームに対するモチベーションを維持させる仕掛けのことを言うらしいが、それは何もソーシャルゲームに限った話ではなく、古くファミコンの時代からあまねくゲームとはそういうものである。

GREEが提供する人気ソーシャルゲーム釣り★スタ」では、「釣り日誌」と呼ばれる画面において、プレイヤーのアバターと共に過去の釣果数や現在の称号(何段とか)、釣った魚の魚拓などが可視化され、また、段が上がったり新しい魚を釣り上げた時などには演出効果が施されることで、プレイヤーのモチベーションに働きかけるのだそうだが、これを聞いて「なるほどよく考えたな」と思う人(いないと思うが)はゲームをやったことがなさ過ぎだろう。ドラクエのレベルアップ音を携帯メールの着信音に設定する人が一時大量発生していたが、あれはドラクエのレベルアップ時の快感が人々のドラクエ体験を決定的に印象づけていることを端的に表しており、演出効果の歴史が一朝一夕でつくられたものではないことを物語っている。

ソーシャルゲームが携帯電話などのゲーム専用ではない端末で主に提供されていることからも明らかなとおり、そのグラフィックなどは既存のコンソールゲームに大きく劣ると言わざるを得ず、そうであれば可視化やフィードバックと言った演出面での仕掛けにおいてソーシャルゲームが得るものは、どちらかと言うとむしろディスアドバンテージだろう。そうした既存のゲームに劣る部分を、同著が言うソーシャル・パワーのような新しい仕掛けで補っていると考えるのが妥当なのではないか。

ではそのソーシャル・パワーとやらが一体何かと言うと、プレイヤーを他のプレイヤーと協力して目標に挑ませたり、逆に目標の達成のために他のプレイヤーと競わせたりすることによって生み出せられるエネルギーのようなものを指すらしい。

前掲の釣り★スタでは、ギフト専用アイテムのプレイヤー間でのやり取りを始め、他ユーザーとのチームでしか参加できない「大会」の存在など、プレイヤー同士を交流させる各種仕掛けが、プレイヤーのモチベーションを醸成するソーシャルパワーとして機能するのだそうだ。

なるほど、既存のコンソールゲームなどでも当然友達同士で集まってゲームの情報を交換したり、協力して知恵を出し合ったりする場面はあるものの、それは必ずしもゲーム提供側がゲームに組み込んだものではないし、何より現実に一堂に会さないといけないという意味でハードルが高かった。この点、携帯電話の通信機能をうまく活用することで、幅広く、いろんな人が、気軽に集えるようにしたというのは、ソーシャルゲームの最大の特長と言って差し支えなさそうだ。うむ。

顧客は何を求めているのか

それでは、このソーシャル★パワーの仕掛けによって、ユーザーはどのような便益を得ているのだろうか。

我々門外漢には驚きの事実だが、例えば釣り★スタの竿は、買うと大物を釣り安くなるものの、なんと何回か使うと壊れてしまうというものだそうだ。上州屋で販売したらクレームが殺到するのではないか。だから、とにかく大物を釣りやすい状態を維持するためには、継続的に課金に応じ続けないとならないらしいが、こうしたアイテムに、毎月数万円単位を支払っているプレイヤーも少ないくないと言う。そうした人々は余程大きな便益を得ているのだろう。

この問いについても、同著に答えが用意されている。それはつまり、承認欲求の充足だと言う。

承認欲求とはつまり、我々が常日頃抱く「誰かから認められたい」という感情のことだ。チームで協力し合うような設計のソーシャルゲームでは、ステータス値の高いプレイヤーはそのチーム内で頼られ、必要とされる存在になるし、逆にプレイヤー同士が競い合うゲームでも、競争の結果獲得したステータスは自己表現としての意味を持ち、他プレイヤーからの称賛を得ることができる。これらがユーザーの満足感につながっているということだ。

要するにソーシャルゲームの重課金プレイヤーは、偏にチヤホヤされたいがために、ゲームを有利に進めることができる「アイテム」にせっせとカネを払っているということに他ならないわけだ。そして、それと似たようなサービスとして私のような頭が老化したオジサンが真っ先に思いつくのが、キャバクラなのである。

キャバクラ。

皆さんご存知の通り、場所代と極端に割り増しされた飲料代とを絶え間なく払い続けることによって、その間に限りキレイに着飾った美しい女性が、お酌をしながらチヤホヤしてくれるサービスである。

人々が何かにカネを払うとき、その根底に他人からチヤホヤされたいという性根があるケースは極めて多い一方で、あまりに商品自体の価値からかけ離れ、チヤホヤに対して直接対価を払っているとしか考えらないという意味で、キャバクラにおけるドンペリ(ピンク)と釣り★スタの三倍竿は極めて特殊であり、それが故に似通っている。

そう思って少しネットを検索したところ、以下の興味深い体験談がすぐにヒットしたので嬉々として紹介したいと思う。

番組では、実際にソーシャルゲームに大金をつ ぎ込んでいるというユーザーの声が紹介される。
「あるゲームに累計300万円弱を課金していま す。常にステータスをMAXにしておかないと サイト内の上位者として君臨できないので、毎 月10万円以上は払っています。 そんな自分に少し酔っています。ただ、このゲー ムを始めてからキャバクラに行かなくなったの で、 安上がりかなと思っています」
ソーシャルゲームに300万円つぎ込んだ男「キャバクラより安上がり」 - Ameba News [アメーバニュース]

そう。実際、ソーシャルゲームとキャバクラはリプレースが可能なのだ。

ソーシャルゲームの持続可能性

ソーシャルゲームとキャバクラは、一見すると非常に似ているというか、ユーザーにとっては代替製品となり得ているわけだが、運営側からすると、実は非常に大きな違いがあるように思う。それは、原価率だ。

キャバクラの運営に際しては、店側は顧客をチヤホヤする女の子に対して多額の報酬を払う。ところが、ソーシャルゲームにおいて重課金のヘビーユーザーをチヤホヤする役目を担うライトユーザー層は、一切の報酬を受け取ることがない。これは、よくよく考えると歪な構造である。

そこでは明らかに、実質的な価値の移転が起こっている。チヤホヤされたいヘビーユーザーは、ライトユーザーがいるから自らの欲求を満たすことができている。にも関わらず、ヘビーユーザーが払うカネは全部胴元の総取りに遭い、ライトユーザーには一円も還元されない。そりゃあ胴元は儲かるはずである。GREEの営業利益率は実に50%に及ぶ。

この歪さから生じる負担は、おそらくライトユーザーのソーシャルゲーム離れというかたちで顕現することになるだろう。「結局毎月毎月バカみたいにカネを注ぎ込んでいる一部のプレイヤーにデカイ顔されるだけで何もいいことないよね」とライトユーザーたちが気づいた時点で、ソーシャルゲームのエコシステムは瓦解することになる。これは、10年ほど前に一世を風靡した格ゲー業界で起きたことの相似系だ。ヘビーユーザーの存在自体がライトユーザーにとっての参入障壁になってしまうと、結局市場は縮小してしまう。

冒頭紹介した「ソーシャルゲームは…」に面白いエピソードが載っていたので紹介したい。

ゲームを遊ぶというよりは、ゲームを通じてコミュニティに参加する、あるいはゲーム内の友人とコミュニケーションを取るということが、ゲームを遊ぶ目的になってきます。実際、釣り★スタの上級者インタビューにおいて、あるプレイヤーは、チームのモチベーションを維持するために毎月有料アイテムをチームメンバー全員(30人とのことです!)に自腹を切ってプレゼントしていたとのことでした。現実の世界でも、上司が部下に食事をおごって日ごろの仕事ぶりをねぎらうということがありますが、バーチャルなコミュニティでも同様の現象が起こるというのはたいへん興味深く思います。
P.97 4-5 ソーシャルパワー:ソーシャルアクションの活用

まるでソーシャルゲームにおけるコミュニティの結びつきの強さを誇るかのうような語り口だが、ここで語られているような出来事が象徴することはまったく逆だ。即ち、ライトユーザーは放っておくとゲームに飽きていなくなってしまうから、ヘビーユーザーは身銭を切るくらいのことをしなければ、自らの地位を維持することができないのだ。

そういう意味で、ソーシャルゲームの原価というのは、ライトユーザーに無料でゲームを提供するための開発費用と、無料と煽ってユーザーをかき集めるために乱発されるTVCM費用ということになる。繰り返すが、ライト層が永遠に流入し続けないと、課金ユーザーのインセンティブが減っていき、結果的に売上が減少することに繋がるためだ。ただ、いくら無料だからと言ってもつまらないゲームをいつまでも続けるものでもあるまいとは思うのである。

任天堂の岩田社長は、ソーシャルゲームについてユーザーとの長期的な関係が構築できないのではないかと言っていた。これはもしかすると、上述したような歪な構図を指してのことだったのかもしれない。実際今のような収益を将来にわたって維持するということは、不可能に近いのではないかと私も思う。

結局、持続可能性を重視すると、ライトユーザーに提供する価値=原価を高めていくしかないだろう。

端的に言うと、グラフィックや演出レベルの向上であり、開発費の上乗せを意味する。要するに、「こんなリッチなゲームが無料でできるなんてほんとスゴイ」をつくっていかないといけない。安かろう悪かろうではいずれ飽きられてしまう。サプライズを与える必要がある。

ただ、ソーシャルゲームはこのサイクルに嵌った時点で、基本的に既存のゲーム業界と同じ道だ。開発費が高騰し、リスクを取りきれなくなった開発会社は、大作モノの続編ばかりつくるようになる。そのことは中長期的にライトユーザーのゲーム離れを引き起こし、いずれまた新しい事業者がイノベーションを引き下げて参入してくると、ライトユーザーを根こそぎ奪いとられてしまうだろう。任天堂は、過去PS陣営に奪い取られたライトユーザー層を、DSで見事に奪還した。いま、ソーシャルゲームに流れて行ったライトユーザー層についても彼らが奪還を狙っていることは間違いなく、それが実現する日もないとは言えない。


まあ正直なところ、ソーシャルゲームとは縁遠い老化した元ゲーム好きの半可通としては、どうでもいいと言えばどうでもいいわけだけど、 いち日本国民としては、折角国内で蓄えた潤沢な利益を、海外展開による成長性アピールくらいの理由で、わけのわからない国のわけのわからない開発会社に突っ込み、結果として溶かしまくることだけはご勘弁願いたいというか、もったいないなと思うばかりなのであった。

参考

ソーシャルゲームはなぜハマるのか ゲーミフィケーションが変える顧客満足
深田 浩嗣
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上述の通り、約半分は「それソーシャル関係ないでしょ」な内容ではあるものの、事例を交えた解説は門外漢にもわかりやすい。最近の話題にことごとく乗り遅れていて、いっそのこと若い人に人気があるものは全般的によくわからないというスタンスに移行してしまおうか迷っているオッサン諸氏にはお勧め。

アダルトビデオ業界にみるリスクプレミアムの消失について

今日は新年最初の更新であり、当ブログにとって2012年の方向性を決めかねない重要なエントリーであるので、爽やかにアダルトビデオ(以下AV)の話をしようと思う。

最近のAV女優

最近ネット界隈では、いわゆるAV女優が綺麗すぎるというシンプルな事実がたびたび話題にのぼる。以下にその一例を示そう。
最近のAV女優レベル高すぎワロタ ※リンク先はエロ画像ではありません。

確かに上記リンク先で紹介されている女優陣はいずれも見目麗しきこと天女の如しであり、最近流行りの歌って踊れない、素人っぽさと大人数が売りの新時代的アイドルよりもよほどアイドル的ですらある。例えばAKBと恵比寿マスカッツのスナップ写真をそれぞれ用意して昭和の時代にタイムスリップし、この中でAV女優はどれかというクイズをしたら正当率はさぞ低かろうという何の意味もない無駄な妄想も、いささか現実味を帯びる。

そう。その昔AV女優といえば、一目みてそれとわかるAV女優臭さのようなものを放っていたものだった。桜樹ルイがいくら美人キャラであったとしても、それはあくまで"AV女優としては"という暗黙の前提の上にだけ成り立つお話だったわけで、別に例えば中山美穂と比べてどうかなどといったような野暮で無粋な議論をするものは存在しなかった。

それがいまや、AV特有の臭いが無くなっただけにとどまらず、あわや本家のアイドルをルックスで凌駕せんとする勢いであるというのだから、理由はともかくとして男性諸氏にとって喜ばしい事象であることは疑いようがなく、まさに豊食の時代ニッポンという様相なわけである。

AV出演と風評被害

さて。こうした現象について、私は端的にAV出演に伴うレピュテーショナルリスクプレミアムの消失という文脈において捉えることが可能ではないかと考えている。

つまり、その昔我々というかAV愛好家が支払っていた対価は、多分に女性がAV出演によって受けることになる又は受ける可能性のある風評被害に対する手当てを含むものであったところ、近年はこの風評被害に対する手当てが何らかの理由で不要になり、より多くの対価が女優の外見的美しさなどの直接的な価値に対して支払われているのではないかと思うのである。

もっとも、風評被害に対する手当てだろうが、外見的美しさへの対価でだろうが、受けとるのが出演女優であるという事実に変わりはないから、払う側からしてみれば何ら問題にはなり得ないわけで、即ちこれは、専ら女優側の心理的な変化を言い表しているに過ぎない。換言するならば、「家族や友人にばれたらマジでヤバイからそのくらいの金額じゃちょっとムリー」から、「まあバレたって死ぬ訳じゃないしそれだけの金額もらえるならまあアリー」に変わってきたということでしかない。

AV出演の事実が周囲に知られると本当にまずいことになるという場合、出演者は、出演時点において、会計上というか気持ち的に、合理的に予想される将来の損害を引当金として損失計上することになる。具体的に言うと、AVに出演したことによって将来の不安が増大するから、貯金を増やすということだ。増大する不安の度合いと積み立てる貯金の額との相関は個々人によって異なるだろうが、最悪の場合、引当金控除後の実質的な損益は、むしろマイナスとなる可能性すらあるだろう。

ちなみにAV出演による収支が実質的にマイナスとなる場合であっても、借金など目先の現金に窮した女性が出演する可能性はある。出演料は借金の返済に充てられ手元には残らないから、結果的には引当金の積立不足、言わば債務超過のような状況に陥るが、これはつまり将来の自分からの借金である。獰猛な借金取りからの借り換え先が将来の自分というのは、追い詰められた人にとっては決して悪い選択肢ではなかろう。

いずれにしても、見積もられる風評被害の額が増えれば利益が減るということは、逆に被害の見積もりが減ればAV女優にとっては出演による利益が実質的に増加することになる。経済学の原則から明らかな通り、利益の増大は新規参入を伴った供給量の増加をもたらし、競争の激化に通じる。競争激化の末、何となくあか抜けないルックスの女優は淘汰され、高い報酬に見合った価値(ルックスなり)を提供する女優だけが生き残る。いま、AV業界で起こっていることは要するにこういうことなのではないかだろうか。

レピュテーションリスクのライフサイクル

AV出演に伴うレピュテーションリスクは、なぜ低下したのか。

このことについて私は、AV業界に限らず、遍くレピュテーションリスクプレミアムというものはそういうものなのではないかと思っている。

例えば消費者金融。あれはもともと賤業だった。銀行マンが自らのプライドに阻まれて積極的に事業を展開できなかったというだけではなく、カネに困った人の足元を見て、自身は何ら労することもなく高い金利を貪るさまがいかにも金の亡者的に思われていたのだろう。そうすると、消費者金融業を営むにはレピュテーションのリスクがあるということになるが、大手資本というのはなかなかこのリスクはとらない。実際に風評が悪化した時の損害が大きいからだ。レピュテーションリスクマーケットのメインプレーヤーは、いつだって失うもののない弱小零細企業なのだ。武井保雄氏が一代で武富士を築くことができたのも、そういうカラクリだろう。ところが武富士がもはや中堅企業ですらなくなってくると、様子が変わってくる。儲けすぎだという批判を生むわけだ。いまや、消費者金融業界は突然の、しかも過去に遡っての上限金利規制によって壊滅的な打撃を受け、プレーヤーは一転して大手銀行資本に取って代わられた。

少し前、MSCBから派生した極端なダイリューションを生じせしめる、あわや有利発行かという如何わしい資本調達スキームが新興市場を中心に蔓延った際も、メインのプレーヤーは大手証券ではなく、当時日本では無名に近かった外資証券や正体不明のファンドが多かった。これもその利益の巨大さから参入が相次ぎ、終にはMSCB専業の証券会社まで出来る始末だったが、徐々に規制が整備され怪しさが濾過されると、旨味がなくなっていき、数えられる程度のプレーヤーが細々と食いつなげる程度の規模に落ち着いた感がある。

新しいビジネス、特に法的にグレーだったり倫理的に訝しかったりするものは、当初提供に際してのレピュテーションリスクが高いから、利鞘は大きくても大手は参入してこない。

これは、その昔AVに美人が参入してこなかったのとまったく同じだ。

ところが、ある程度プレーヤーが増えてくると、倫理的な線引きがなされはじめ、レピュテーションのリスクは下がり始める。何がセーフで、何がアウトが明確になれば、もうそこにリスクは存在しないわけで、当然プレミアムも発生しないこととなる。

レピュテーションのリスクがなくなった後にも大きな市場が残る場合もあれば、極めて小さい市場に落ち着いてしまう場合もあるが、これはそもそもの需要の規模の違いだろう。AVは、非常に堅固な顧客基盤を有するから、レピュテーションのリスクが低下しても価格は高止まりし、結果的に大資本(美人)の参入に繋がったということではないだろうか。


とまあ、ダラダラと書いてしまったが、前段「理由はともかく豊食の時代」の時点で重要な点については言い切った感があり、以降は蛇足であった。本年もよろしくお願いします。


健康志向と原発問題(2011年を振り返って)

この時期になると毎年言っている気がするが、気付けば今年ももう残すところあと僅かだ。昨年、紅白歌合戦の出場歌手を見ながらAKBについてのエントリーを書いてからもう1年が経つというのだから、実に早いものである。このブログも、前回更新したのが7月だそうで、要するに半年近く放置していたことになる。とりあえず、死亡説が流れる前に何か書いておこうと思い、書きはじめた次第。

震災の影響で

2011年は、とりあえず「震災の影響で」と言っておけばまあ8割くらいの問題でお茶を濁せる程度に、震災の印象が強烈な1年だった。今年の漢字は「絆」だそうで、流行語大賞にも同じ単語がノミネートされていた。震災を契機に人々の絆が強まったという総括なのか、絆を深めて復興にあたろうという訓戒なのか知らないが、ネット界隈ではむしろ、脊髄反射によるデマ拡散と、エネルギー政策論争の箕を着た原発是非を巡る即席ニワカ専門家同士のプリミティブな糞の投げあいにいつも通り終始した感があり、絆の重要性というかむしろ双方向コミュニケーションに纏わるコストのようなものが改めて露呈していたような気もする。あまり聞き覚えのない大学の教授同士が、インターネットメディアを活用して罵り合いを繰り広げた末、年末に開催された某ブロガーの式典でも壇上で互いにけん制しあうパフォーマンスを見せ、式典参加者の失笑を買っていたのは記憶に新しい。あれも絆だろうか。

私はと言えば、原発の怪しい挙動が報じられ初めてからしばらくのうちはさすがに不安が拭えず、なんとなく喉に骨が刺さった様な気分で生活していたものの、程なくして「まあ実際問題、避難勧告が出たら避難するという消極的な対応以外はあまり現実的ではないよね」という結論に達することである種のラインを引いてしまったので、それこそ4月以降は原発関連の報道にもほとんど興味を持てなかったし、ここのブログなどでニワカ仕込のエセ知識を開陳することもなかった。

よって、原発が私の行動に対して何らかの影響を与えるなどということはあり得ないことだと思っていたが、冷静に1年を振り返ってみると、矢張り意外に影響は大きかったのかもしれないなと感じていたりもするのだった。

健康志向への転換と減量の成功

理由についての考察は後回しにするとして、とにかく今年、私の興味は専ら「健康」に向かった。4月に煙草をやめ、6月にジョギングを初めたかと思えば、9月からは水泳もはじめた。

煙草については、実はもともとかなりライトなスモーカーで、平日は平均すると1日に3〜5本程度、休日にいたっては一切吸っておらず、ヘビースモーカーの諸氏に言わせればそもそも喫煙者ですらないというレベルだったので、さしたる労苦もなく禁煙には成功した。

我ながら感心しているのはむしろジョギングや水泳の方で、6月の開始以降、特に挫けることもなく継続できているばかりか、むしろ徐々に距離を伸ばし、今では日に10km程度走ることもザラになってきたし、水泳でも休みなく1.5kmくらいは泳げるようになった。あるときは皇居にも赴き、歩行者に迷惑なことで有名な皇居ランナーに混じって外周をまわり、そのまま走って帰宅(20km)したりもした。

これがどれ程度画期的なことかをご理解いただくためには、それ以前における私の生態をご紹介せねばなるまい。

私の運動遍歴は、中学二年の時にサッカー部の幽霊部員に昇華したところで止まり、以降は運動と言えばエスカレーター上を歩くことくらいという不摂生を絵に描いて額に飾ったような生活を続けてきた。それでも大学生くらいまでは、そもそもあまり積極的には食事を摂っていなかったし、若さゆえの基礎代謝にも助けられ痩せ形で通していたが、社会人になりストレスを暴飲暴食で紛らわせることを覚えたあたりから腹回りが肥大化しはじめ、体重も増加の一途をたどった。

体重はたしか今年の春くらいがピークで、85kgに達した。身長が180cmあるので、必ずしも深刻な水準ではないといえばそうなのだけれど、上述の通り運動らしい運動を一切しない生活があまりにも長く、筋肉量が推定で生まれたての子供くらいのレベルだったので、体は数字以上に病んでいたと思う。あまり読まないようにしていたが、健康診断をするとイチイチ悪玉コレステロールがどうとか内臓脂肪がどうとかというウンチクの書かれた紙を送り付けられたりしていたし、やたら肩こりが酷かったのも、食後に眠くてどうしようもなくなるのも、二日酔いが三日目くらいまで残るという語義矛盾の発生も、思えば運動不足と太りすぎの結果だったのだろう。

問題を更に深刻にしていたのは、こうした生活及びその結果としての不健康並びに肥満体が、完全に私のアイデンティティの一部となっていたという事実だ。

不健康や肥満体をフィーチャーした自虐ネタはいわゆるひとつのテッパンで、そういう意味では便利と言えば便利に活用していたわけだ。長年の不摂生の果てにようやく手に入れた武器くらいに、おかしな倒錯をしていたような気もする。いずれにしても、おそらく大抵の人は、私が締まらない体でノソノソと動くからこそ私を私として認識できているのだろうと思っていたわけで、それを手放すということは、少し大袈裟に言うと自己の同一性が脅かされる危機でもあった。はじめてのジョギングは普段より1時間ほど早起きして家の周りを2kmほど走るというものだったが、何となくムズムズと恥ずかしくなって、ついうっかりツイッターで告白してしまった。何故かfinalventさんや(元)切込隊長さんという大物古参を含む6〜7人くらいからリツイートされたが、以下は当時の私の率直な気持ちだ。

そうして、半年前に85kg前後であった体重は、今は78kg前後で推移している。1か月に1kgのペースで順調に減量できていると言えるだろう。肩こりもほとんどなくなった。

ちなみに、体重の推移はAndroidアプリを活用して記録していたため、ある程度減少が見て取れるようになった段階でグラフ化してブログに掲載し、皆様にお披露目しようと目論んでいたのだが、先月、酔って帰宅した翌朝にケータイが見当たらないので捜索したところ風呂の底に沈んだ状態で発見されるという実に悲痛な事件が起こり、全てのデータを失ってしまったので、残念ながらお披露目は叶わぬこととなった。なお、何故かくも痛ましい事件が起こってしまったか、その過程や原因については一切記憶に残っておらず、事件はこのまま迷宮入りという様相である。

物質的な豊かさ追求の見直し

少し話を戻そう。

何故私は自己の同一性が崩壊するリスクを負ってまでジョギングや水泳に勤しんだのか。病気のリスクを恐れてではない。そういう後ろ向きの動機は長続きしない。実はもっとずっと単純で、単に美しい体型、とりわけ割れた腹筋に憧れたからだった。

美しい体型に憧れたこと自体の理由は曖昧だが、ある種、物質的な豊かさの追求からの離反、身体への回帰なのではないかと今は考えている。

思えば。社会人になり、より高額の報酬を求める過程で腹まわりに蓄えた脂肪は、肉体労働からの決別と贅沢で栄養価の高い食事に恵まれたことの結果であり、言うなれば豊かさの象徴であった。

痩せているという状態はつまり、病気でなければ、食事量を抑えているということに他ならないわけで、消費こそ美徳という高度経済成長期的倫理観に照らせば、必ずしも望ましいものではない。実際、太っている人のほうがいくらか羽振りよく見えたりするものだ。

そして、この物質的豊かさ追求の螺旋を突き進むコトの是非こそが、先の大震災及び原発問題が世に問うているイシューなのではなかろうかと個人的には感じているところだ。さすれば私が物質的な豊かさから距離を置き、身体に内在する価値に回帰したことも、あながち世相と全く関係がないとは言い切れないこととなる。

「反原発は信仰」というコピーは誰が言い出したか知らないが当を得ていて、市民が原発を見直そうというとき、主要な関心事は発送電に係わるコスト構造や安定性といった具体論ではなく、人はどう生きるべきかというような、より抽象的な議論である。数字を使った個別具体的な検討などは公務員あたりにやってもらえば良い話で、国家の主権者たる我々国民が打ち出すべきは、より原理的な方向性なのである。

いま、反原発を唱える人の思想的背景は、きっと、我々人間は一体いつまで物質的な豊かさを追い求め続けるのか、ヒトの欲望は無限という前提のうえにのみ成り立ち得る強欲で品のない資本主義というシステムにいつまで踊らされ続けるのか、そろそろ引き返してもいいのではないか、という疑念であると思っている。

思えば、近年日本で生まれるヒット商品のうちには、これまでの拡大・発展・進化の路線から外れたようなものが多い。ソーシャルゲームなんかはその典型で、そのプアでシャビーなユーザーインターフェースは、高性能の演算処理能力と画像処理技術を前提としたコンソールゲームとは一線を画すどころかまるで別物だ。AKBの華の無さも、アイドルとしては異端にみえる。

エネルギーというのはそれこそまさに豊かさの象徴だった。我々は家電製品や自動車など様々な技術の結晶を通じて大量のエネルギーを消費し、それにより豊かさを実感してきた。そうであれば、発電などエネルギーの精製に伴うリスクやコストなどの諸問題は、腹回りの脂肪のようなものだと言えるだろう。豊かさを象徴する一方で、我々の生命を脅かしもする。これとどう付き合っていくかというのは、まあ個々人が考えればよいと思うが、一度思い切ってそぎ落とし、別のもっと本質的な価値を求めるというのも一案だとは思ったりもするのだった。

滅び行く株屋の街、兜町

東京駅のすこし東、地下鉄東西線の日本橋駅と茅場町駅の間くらいに兜町という地域がある。その中心に位置するのが日本の株式取引の中心地、東京証券取引所であり、その周囲にも銀行や証券会社などの金融機関が多い。まあ、私の勤務地なのだが、この兜町という街がなかなか特殊なところなのである。

オヤジの街

まず、兜町にはやたら喫茶店が多い

ドトールやスタバといった大型チェーン店ではない。それもあるが、特に多いのがいかにも家族経営風の、昔ながらの喫茶店である。そうした喫茶店は、特に都心では大型チェーン店による出店攻勢と価格競争によってすっかり駆逐され、あまり見かけることもなくなったと思うが、兜町にはいまだに大量に繁殖しているのである。

こうした喫茶店の特徴だが、まず高い。

コーヒー一杯で、普通に400円以上する。

値段はスタバ並だが、ほとんど持ち帰りの需要には対応しておらず、その場で飲んでいく客が大半を占める点がスタバとは大きく異なる。だから、おそらくコーヒーの料金設定も、コーヒー豆の原価というよりは、居住設備の減価償却費という側面が強いのだろう。コーヒーは、値段の割には決してうまくない

で、その施設設備だが、これがまた古い。

つい先ほど、コーヒーの原価が主に設備の減価償却費ではないかと言ったばかりだが、その設備も明らかに償却が終わったようなものばかりなのである。30年は余裕で経っているだろと感じる。

結果として、割高感が強い。

なぜかくも割高なコーヒーを提供する喫茶店が淘汰されずに存続しているのだろうか。

市場経済の聖地たる兜町でこのような市場の歪みが放置されていては東証のメンツにかかわるだろうから、代わりに私の方でいくつか仮説を提示すると、まずは顧客における高い喫煙率である。兜町の喫茶店の客は10人いたら8人くらいは喫煙者であり、コーヒーをすすりながらスポーツ新聞を読み、合間にタバコをふかしまくるというのが基本スタイルだ。

今日び、ドトールでさえ分煙政策をとらざるを得ない程に嫌煙社会が徹底されているが、今話題にしているような兜町の喫茶店で、禁煙ないし分煙を導入している店は皆無だ。これは例え話の類ではない。本当に一件もないのだ。兜町の喫茶店は、社会に迫害されている喫煙オヤジにとって最後のオアシスということなのだろう。

兜町の喫茶店が提供していると思われる価値は他にもある。

夏になってみて気付いたが、兜町の喫茶店はやたら涼しい。いや、寒いと言った方がいいだろう。先般の大地震に端を発する原発問題によって、いま日本列島はどこも節電ムード一色なわけだが、そんなことはおかまいなし。兜町の喫茶店は、冷蔵庫かと思うくらいの気温で絶賛営業中である。これもおそらく、基本暑がりの汗ダルマオヤジにとって、何にも替え難い価値となっているに違いない。

更に言うと、兜町の喫茶店で提供されるアイスコーヒーには、デフォルトでガムシロップが混入されている。はじめて飲んだ時はあまったるくて驚いたものだ。アイスコーヒーをブッラクで頼みたい場合は、態々「ガム抜き」という旨を添えねばならない。昨今の健康志向をまったく顧みない暴挙であると言える。

少し長くなってしまったが、兜町の喫茶店は完全にオヤジオリエンテッドなのである。ある意味、ドラッカー式マネジメントの鏡ではなかろうか。

「顧客が第一」

である。もうこれは、オヤジのオヤジによるオヤジのためだけの喫茶店と言っても過言ではなかろう。


で、実は、兜町という街においては、オヤジに照準を合わせているのは喫茶店だけではない。街全体がそうなのだ。

イタリアンやフレンチなどのナウな感じのレストランは基本的に存在しない。たまに間違ってできるときがあるが、大体つぶれる。そしてつぶれた後にできるのは、8割がた立ち食いそば屋。これもこれで、糖尿病や痛風を患い、接種可能な食事に厳格な制限を課せられているオヤジの生態を浮き彫りにしていると言えるだろう。

若い人はみんな都会に行ってしまった

兜町という街がオヤジの街になってしまった理由は単純で、若者が出て行ってしまったからである。別にどこからともなくオヤジが集まってきてそこが街になったという話ではない。残されたものがオヤジだっただけである。

つまり、いわゆるひとつの過疎化なのだ。

兜町に起こっていることは。

倒置法で言うと。


過疎が起こるとき、若者たちの行く先は決まっている。

都会だ。

若い人たちはみんな大手町や丸の内に建った新しいビルに引っ越してしまった。日興証券大和証券も丸の内に行ってしまった。野村證券は一応日本橋の東証裏にシンボリックな本社ビルを残しているが、大手町にも本社がある。兜町に残ったのは、そういう都会に引っ越すことのできなかった居残り組であり、新卒を雇って教育するだけの体力がない会社なのだ。

だから、兜町の街は空きテナントで溢れている。1階部分にはさすがにテナントが入っているビルが多いものの、2階から上はよく見るとガラガラだ。で、数少ないテナントから立ち出でるは、上述したような人生の折り返し地点を超えたオヤジばかり。

そう。兜町はいまや廃墟と呼んで差し支えない風情となっているのだ。


ところで、お気づきの人も多かろうが、若者が出て行った先の大手町や丸の内というのは、実は兜町の目と鼻の先だったりする。具体的には、兜町から永代通りを西に1kmほど行けばそこはもう大手町だし、そこから南に300mも行けば丸の内なのだ。完全に徒歩圏内である。

古びたオヤジ共の街と若者たちの都会は隣接しており、それが故にはっきりと境界線がある。

ちょうど日本橋駅と茅場町駅の中間くらいに昭和通りという通りがあるが、そこを境にまったく雰囲気が変わることになっている。昭和通りさえ越えれば、そこにはCOREDOなんていうシャレオツな駅ビルもあって、そこにはかの有名なメリルリンチさんがご入居されていたりとなかなか華があるが、昭和通りよりも茅場町寄りは、上述した通り。からっきしなのである。

なんとも不思議な話だが、もう歩いている人種からしてまるっきり違うのである。兜町界隈では、そもそも女性がほとんどいない。いたとしても95%が制服だ。歳は40前後だろうか。いかにも給湯室で上司の悪口を言いそうな、絵にかいたようなOLである。これがCOREDO近辺まで行くと、カジュアルにしろフォーマルにしろ、私服の女性も散見されるようになる。男性でも平均年齢が5歳〜10歳くらい一気に変わるのではなかろうか。無論、兜町の方が上。

ダブルのスーツとか、イマドキ兜町くらいでしか見かけないような気がするのだが。

証券業界の不況の根

さて。1年や2年景気が低迷したくらいでは、ここまでのことにはならない。兜町の景気はもうずっと下り坂なのである。兜町という街は、証券業界が長きに渡る不況に晒され続けた結果なのだ。

証券業界の不況はある種構造的なもので、それ故に根の深いものである。簡単に言うと、市場が健全に発展すると証券会社の利ざやは減ってくいく関係にあるのだ。

証券会社は市場を通じた資金調達、いわゆる直接金融において投資家と調達主体を結びつける役割を担うが、市場が本当に効率的であれば証券会社など必要ない。要するに、証券会社の利益の源泉は、本質的には市場に存在する情報の非対称性であり、非効率性なのだ。市場が効率的で真に株価が適正であれば、本当は個別銘柄のリスクなど分析する必要もなく、その時点でいわゆるセルサイドアナリストは職を失う。公表されている事実は全て株価に織り込まれているわけだから、利鞘を抜くためには、未公表の事実を「予言」するか「こっそり聞いちゃう」しかない。市場から「利鞘」は消失するから、何の銘柄を買っても平均的なリターンしか上がらないこととなり、プロ投資家も存在できないこととなる。

証券会社が生き残るための基本戦略はふたつだ。

ひとつは新しい市場をつくりだし続けること、もうひとつは、市場の利鞘が拡大するタイミングをじっと待つことだ。前者が総合証券の戦略であり、後者は株屋のそれだ。

前者について言えば、新しい市場では市場参加者も未成熟だから、価格形成も適正には行われない。すると利鞘が生まれる。例えばデリバティブと言われる設計した人でさえわけのわからないような複雑な商品がそれにあたる。あれはある意味、証券会社が顧客に説明するために複雑な形状になっているようなところがある。いわゆるマッチポンプであり、硝子屋が街中の硝子を割ってまわる行為に近いものがある。

後者は、自ら市場を創造するような知恵も資本も持たない中小零細証券会社にとっては唯一の道である。それはつまり、景気の波にのるということだ。株式のような手垢のついた商品でも市場がパニックに陥った時や、新参者が大量に流入してきたときなどは一時的に値動きが荒くなり、利鞘が生まれることがある。市場は波のようなもので、4年とか5年くらいの周期で上昇トレンドと下降トレンドを繰り返している。上昇が極限まで来ると人々は熱狂して株を買い漁り、下降が極限まで来ると人々はパニックになって株を売り浴びせる。こういうときに利鞘が拡大するのだ。だから、証券会社にとってのひとつの重要なビジネスモデルが景気の波の少しだけ先を読んで、コストをコントロールすることなのである。

そうして波間を漂う藻のように生きてきたのが兜町の零細証券たちであるが、長期的な利鞘の収縮に抗うには足りず、徐々に基盤を失い、生命力を失っている。

兜町の未来

遠からず、兜町の証券会社はほとんどが潰れるのではないだろうか。

古くからの証券会社は東証の株を持っており、膨大な含み益があるから、東証が近く上場したら、それらの証券会社は保有株を市場で売却すれば利益を廃業資金に充てることができる。

だから、東証が上場すると一気に廃業する証券会社が相次ぐだろうというのは、兜町では有名なオヤジギャグである。

そうして本当に街から人がいなくなれば、再開発が行われることになるだろう。

なにせ場所はいい。銀座からも丸の内からもほど近く、ベッドタウンとしては最適だろう。ただ地価は安くないので、住める人は銀座のホステスか丸の内の金融マンくらいかもしれないが。ただそれはそれで、また面白い街になりそうではある。

それってアービトラージなのかなっていう

本当は先週アップする予定だったものがすっかり遅くなってしまったけど、いつも小器用な文章と池田信夫先生仕込みのエクストリームな経済理論を操り、はてなのブックマーカーを爆釣りしている自称米系投資銀行勤務の天才クオンツトレーダー(そこまで言ってないか)の藤沢数希さんが、孫正義氏による自然エネルギー財団の設立について、いつにもまして気合の入った素敵なエントリーをあげておられるので、ぜひご注目いただきたい。

金融日記:孫正義の秘密のアービトラージ

曰く、「熱せられた石炭が熱放射によって煌々とオレンジ色に輝くように、孫正義の小さな体の中にある巨大なエネルギーは、隠し切れずに、その特徴的な前頭部からある種の赤外線を発していて、インターネット空間のツイッターを通して、僕の皮膚をも温めているかのようだった」そうで、確かにこのエントリー自体何か得たいの知れない熱気を帯びている気もする。まあそんな素敵な文章なのだけれど、枝葉末節の部分にいささか違和感があって本エントリーを書いているわけである。

藤沢氏が言うには、孫正義氏の狙いは「クロスボーダー電力アービトラージ」なのだそうである。通常は送電ロスによるコストを考えると電力のアービトラージは実現不可能であると断ったうえで、孫正義氏による奇跡のスキームを次のように説明している。

まずソフトバンク傘下の電力を大量に消費するデータセンターなどを韓国に移し、そこで大量の電気を韓国で買う。一方で、日本ではメガソーラー発電施設を建造し、極めて高い電気を地域独占の半官半民の電力会社に好きなだけ売る。これによって、日本海の国境を渡って韓国から日本に電気を運ぶことなく、実質的に韓国で買った電気を、極めて高い値段で日本国民に売りさばくことが可能になる。

金融日記:孫正義の秘密のアービトラージ

同エントリーでも簡単には説明されているが、アービトラージというのは要するに同一商品の価格差を利用して利鞘を稼ぐ取引のことである。

例えば、日本と欧州でリンゴの値段が全然違って、欧州ではリンゴが日本の1/10以下の金額で取引されていたとすると、欧州で買ってきたリンゴを日本で売れば鞘を抜くことができる。これが原始的なアービトラージだ。

ところが、上で紹介されている韓国で電力を買って日本では売るというスキームは、どうもこれとは勝手が違うように感じる。韓国で買って日本で売っているのだから「実質的に」鞘を抜くことができるのだと書いてあるが、あまり合点がいかない。

まず、韓国で買う量と日本で売る量がまったくバランスしない。ソフトバンクのデータセンターの電力消費量について正確なところはまったく存じ上げないが、あれだけの規模の会社のデータセンターであれば相応の規模だろう。一方で、国内における発電は自然エネルギーということだが、自然エネルギーによる発電というのはどうやら「技術的にも経済的にも」難しいもののようだから、あまり大規模な発電能力は期待できないのではないのか。いくら価格差が大きかろうが、買う量より売る量が少なかったら、あまり儲からないのではないか。

逆に、もし国内の自然エネルギーによる発電が、韓国で購入する電気量に近しいものであるなら、つまり自社のデータセンターの電力をまかない得るものであるなら、自社のデータセンターを自家発電にすればよいだけの話ではないか。それができないから、安い電力料金を求めて態々韓国まで出張るのである。

また、韓国で買った電力は、すべてサーバーの駆動のために消費されるのであって、日本の電力事業とは何の関係もない独立した取引だ。

これはつまり、リンゴの喩えで言うなれば、日本のリンゴ農家が欧州に行ったときにリンゴを買って食べた、いや日本ではリンゴを売ってるのだけどねという特に面白くもない小噺のような状況に近い。

確かに、態々欧州に行ってまでリンゴを食べる理由が、リンゴを食べずには生きていけないが国内で食べると高いから だとすると、必要な費用を削減するというかたちで「鞘を抜いて」いるのだから、アービトラージ的だと言えなくもない。ただその場合、欧州でリンゴを食べることによって鞘を抜く主体が日本でリンゴを売っている必要はまったくない。

要するに、孫正義氏が電力料金のアービトラージをするためには、日本で変な財団をつくって電力事業を行う必要はまったくない。単に電力料金の安い国でデータセンターを運営して、ローコストでオペレーションされるホスティングサービスなりデジタルコンテンツなりを日本に輸出すればそれでアービトラージは成立、めでたしめでたしだと思うわけである。

確かに独立した取引を組み合わせるタイプのアービトラージも金融業界にはあって、例えば三菱UFJの株を買う一方でみずほの株を売るという取引がそれだ。これらはそれぞれが独立した取引として成立しているが、アービトラージに分類される。この取引のカラクリは、2つの銘柄の間に統計的に相関性があることであり、つまり統計的に異常な水準まで価格がかい離した時に高いほうを売って安いほうを買う。要するにかい離率が統計的に正しい値に収束することに賭けるわけだ。よって、この場合はかい離が収束するからこそ収益が生まれるのであって、かい離が「永久に縮まらな」かったりしたら大失敗なのである。

■■

ということで、孫正義氏が自然エネルギー財団を設立する狙いは電力のアービトラージで儲けるためだというのには強い違和感がある。もし孫正義氏が自然エネルギー固定買取制度の実現などを通じて日本の電力料金を吊り上げて何か得をするとしたら、それは競合他社のコスト増ではなかろうか。NTTやKDDIが高い電気料金に苦しむ中、自社だけが安い電気料金を満喫できれば、素晴らしい優位性を確保できる。

ただこれも、NTTなどの競合がデータセンターを海外に移設しないという前提があってこそ成り立つ戦略である。現実的にはそのような不確かな前提のもとで自社が採用する戦略を決定することはあり得ないから、この仮説もイマイチ説得力に欠ける。

結局のところ、孫正義氏はロマンチックなだけではないかと思ってる。日本のみんなが困ってる。ワシが立ち上がらねばならんじゃろうが!みたいな。日本版ノブレスオブリージュというか。

最近の事案で言うと、松本復興相による恫喝事件(大袈裟?)からの連想で注目された「えせ同和行為」の方が余程アービトラージぽい事案である。

えせ同和行為(えせどうわこうい)は、同和、部落を名乗る個人あるいは団体が、企業団体に対し同和問題への取り組みなどを口実とした賛助・献金を要求したり、企業・行政機関等の業務に差別問題を当てつけて抗議を行い、示談金名下にゆすり・たかり等の不当要求をする行為である。
また、同和利権に絡み、公共事業等への不正な参画を目指す行為も同義として扱われることもある。これらの犯罪行為を行う団体は暴力団と密接に関わっていることが多いため、警察などの監視対象となっている。

えせ同和行為 - Wikipedia

要するに、同和や部落民の被る差別等の損害について、実体と世間によるイメージに乖離があるからこそ利権が生まれるのである。差別の損害がまったくないわけがないことは自明である。ところが世間がイメージするところよりは少ないから、世間からの賛助や献金が損害を穴埋めしてなお余ることとなり、その余りの部分がある種の利鞘であり利権なのである。

2011年度総選挙振り返り(AKB)

今年もはやいもので総選挙の季節がやって来て、気づけば終わっていた。AKB48については「AKBバブルの終焉 - よそ行きの妄想」に「AKB48に学ぶ証券化の基礎技術とCDO48 - よそ行きの妄想」と、2度にわたって駄文を連ねており、あろうことかそれなりにご好評をいただいた感もあるので、調子に乗って先日の総選挙なるイベントについて感じたことを書いておくこととしたい。毎度のことながら、ファンでも何でもない人間が外部から難癖をつけるというのがそもそもエントリーの趣旨なので、ファンの方は気分を損なう可能性があるため、最初に謝っておきます。スイマセン。

柏木3位

さて、AKB48の総選挙と言えば毎度目を見張るのがトランチングの効能である。AKB48のメンバーが総選挙で高順位につけると途端にかわいくみえてしまう現象を、本質的に似たようなリスクであってもシニアと聞くとエクイティよりリスクが低い気になってしまうというファイナンスのマジックに準えて、私はトランチングと呼んでいる。

このたび、柏木由紀なる娘が前回8位から急伸、前田、大島の二大巨頭に次ぐ3位につけたという。これをもってこの微妙なルックスの少女が晴れてトップアイドルの仲間入りを果たすこととなるわけであるが、AKBで3位というカタガキがなければ、一体だれがこの娘がトップアイドルの器であると見抜くことが出来るのだろうか。

ファンがその器を見抜いたからこその3位なのだという反論があろうが、そもそもファンがファンたりえたのも、AKBとしての露出があってこそなのである。知らないが、この人の人気は、単に見た目だけによるところではないのだろう。いや、見た目だけでは説明つかな過ぎる。失礼だが。何かしら、見た目ではないキャラの要素によってここまで上り詰めてきたと考えることが妥当だろう。いや、失礼だが。

元来、アイドルの成否と言うのはルックス軸に対して効率的であったはずだ。どんなにキャラが立っていようが、ルックスでまず足きりがあって、そこを通過しなければキャラを活かすこともできなかったはずなのだ。AKB48というシステムは、この不文律を見事に打破したと言える。

普通に考えて、一部の熱狂的なマニアに担がれることと世間に認知されることの間には越え難い隔たりがある。AKB48のシニア・トランシェたちがその隔たりをやすやすと超えて行くのは、偏に総選挙と言うこの拝金主義的な仕組みがあるからに他ならない。世間は、選挙と銘打っておきながら実は票がカネで買えるという民主主義の原則をまったく無視したこの邪悪な集金システムに嫌悪感を抱きつつも、多くの貢物をかき集めたトップランカーたちを認めざるを得ない。これはつまり、キモヲタとパンピーが金銭を媒介にして価値を伝達し合うことに成功したのだと言い換えることもできよう。

かくして、ヲタによるヲタのためのイベントでしかないはずであった総選挙は金銭のチカラによって世間の注目を集めることとなり、トランチングの効能は計り知れないものとなる。AKB48のシニアトランシェであると告げれば、何も知らないパンピーが勝手に大騒ぎをして大量消費するわけで、もはや素体となるアイドルなど誰でもいいわけだ。AKBの箱の中に適当に何人かアイドルの卵を詰めておけばキャラは適当に割り振られ、選挙をすれば誰かが必ず1位になる。それで十分なのだ。

前田1位

今回トップの前田敦子は、昨年こそ大島優子に次ぐ2位の座に甘んじたものの、一昨年もやはり1位であるから、今回は王座を奪還したかたちである。ただ、私は前田と大島の争いにどういったコンテクストがあるのか、一切知らないければ興味もない。私が認識するのは、前田敦子が14万もの票を集め、1位の座を戴冠したという事実のみである。

14万票。1票1,600円らしいから、実に2億2千万円である。1か月足らずで2億を超える貢物を集める能力を有した人間は、世界広しと言えどそういまい。銀座のホステスなどにおけるマンション買って貰っちゃった的な事案を遥かに凌ぐ規模感である。今回2位の大島は「票数はみなさんの愛」と表現したが、まさにその通りだ。ホストが誕生日にシャンパンの塔を築くのとまったく同じなのであって、要するに愛は金銭によって形式化されることによって交換可能となるのである。

惜しむらくは、ヲタの愛を媒介した大量の音楽CDが、何の用途もなく部屋の押し入れに眠ってしまっていることだろう。楽曲の複製が書き込まれたメディアを個人が複数所有することに何の意味もなく、それはまるで金銭によって形式化された愛の抜け殻とでも言うべき存在である。これ、どうせだったらもうちょっと意味のあるものを使えばいいのに(外部経済的なのに)と思うのは私だけではあるまい。いっそのこと、マンション買ったら10万票!とかしたらどうだろうか。住めるし。

板野8位

最後に板野友美にも触れなければなるまい。他メンバーに先駆けて華々しくソロデビューをかざり、CMなどでも大活躍の板野は、パンピー向けの
露出が段違いに高く、私の周囲のニワカも押しなべて板野推しである。興味深いのはその度合いがオヤジになるほど高いことだが、これは、あの判で押したようにいつも同じな何かに挑むような感じの表情と、オヤジのスケベ心のプロトコルが偶然一致したということなのではないかと思っている。

ともかく、ファン層を大きく広げた板野は総選挙でも順位を伸ばすのだろうというのが常識的な下馬評であったが、ふたを開けてみれば前回4位からのまさかの4ランクダウン、第8位であったわけだ。実に興味深い結果ではないだろうか。

結局、選挙の仕組みを考えれば明らかな通り、板野についた客のカネ払いが悪かったということなのだろう。スケベオヤジは一見カネ払いが良さそうだが、キャバ嬢という貢ぎ先をすでに持っているから、板野までカネがまわらなかったのではあるまいか。そもそも推しメンのランクを押し上げるというストーリーが実利主義的なオヤジにはあまり魅力的ではなかった可能性もある。

いずれにせよ板野としては、選挙などでない方がよほどチヤホヤされるだろうから、もうAKBは辞めるしかないだろう。辞めないにしろ徐々にフェードアウトしていくのではないか。以前、当ブログに「板野友美のソロデビューは、AKBという企業体におけるレガシーコストをカットするための布石だ」というコメントが寄せられた時は、あまりのエクストリームさに度肝を抜かれたものだが、現実はまさにそのようになっている。

そしてこれは、捉え方によっては、キモヲタが世間やオヤジに迎合した板野を許さなかったというふうにも見ることも出来る。他のメンバーに対して積極的に投票すれば板野の順位を相対的に下げることができることは明らかで、パンピー及びオヤジ不在の総選挙でキモヲタが連帯すればそのくらいのことができそうな予感はする。何たる負のパワーか。

結果として板野がソロでやっていけるかどうかはわからない。高須クリニック的なクラスターではひとつの成功モデルとして捉えられている節もあるようなので、そういうキャラを濃くしていけばイス取りゲームの芸能界でも固有のポジションを確保していけるのかもしれない。ただ、再三申し上げている通り、個々ではイマイチなものを集団にすることで抽象化して(誤魔化して)売り出すというのがAKB商法の根幹にある限り、卒業は死を意味する確率の方が高いだろう。

大枚をはたいてヲタが手にしたものは、AKB48というエコシステムにおける正義だ。ヲタに迎合しないものはヲタによって葬られるのである。

キャラ化する企業

先日の「日本のベンチャー企業に見られる3つの類型 - よそ行きの妄想」というエントリーは、印象だけでテキトーに書きなぐった割には770ものブックマークを集めてしまい、誠に恥ずかしながら当ブログの最高記録となってしまったわけだが、あのエントリーを書きながら、ふと企業にとってもっとも重要なことは、製品でもビジネスモデルでもなく「キャラ」なのではないかなどと思ったわけなのである。

重要性が高まるキャラ

キャラが重要視されること自体は、特段珍しいことではない。

中学や高校の教室を思い出してほしい。それこそ、エリートやヤンキー、オタクといった基本分類からはじまって、モテキャラやアイドルキャラ、毒舌キャラに天然キャラ、キモキャラ、いじられキャラなど、各人に固有のキャラが割り当てられ、キャラの優劣によっていわゆるスクールカーストがかたちづくられていく。

各人のキャラは一度割り当てられると容易に変更することは難しく、キャラからはみ出した言動をとることも基本的には許されない。最近では「キャラ疲れ」なる言葉もあるようで、キャラを演じるのに疲れたという症例が学生などに増えているそうだ。

芸能界でもキャラが重要であることは言うまでもない。というかむしろ、芸能界で行われていることが、学校で行われていることのモデルになっているのかもしれない。

芸能界には同じキャラは何人もいらないという基本ルールがあるから、新しい人が売れるには、すでに存在するキャラをより洗練させて、というかキャラを濃くして前任者を駆逐するか、これまでになかったキャラを新たに創造(イノベーション)するしかない。先日メチャイケのオーディションを見ていたら、単なる巨乳アイドルだけではキャラが弱いから亀甲縛りをミックスしましたと宣う明らかに二流っぽいタレントが出演していて思わず引いたが、ことほどかように「キャラのイノベーション」は袋小路にはまっているということなのかもしれない。

テレビというのは、そういう意味で、新しいキャラのモデルを売っているところなのだと考えることもできる。テレビで新しいキャラを仕入れた視聴者たちが、それを自らが所属するコミュニティに持ち込むわけだ。

キャラが大事であることはブロガーも然りであるから、私も他人事ではない。いっとき極論キャラが複製され過ぎた時期があって、ブロゴスフィアは極論で埋め尽くされていたが、いまではむしろあまりストレートな極論というのはみかけなくなってきた感もある。いやそうでもないか。

キャラが求められる理由

さて斎藤環によれば、キャラとは「同一性を伝達するもの」である。同一性の考え方が難しいので同氏の著書から少し引用しておこう。

異なった場所で同型の車をみかけたとしてみよう。このとき、僕たちは「車の同一性」を認識できるだろうか。むしろ「よく似た車だな」と思うのではないか。しかし、もし異なった場所で同じ外見の人物を認識したなら、彼(女)は、ごく自然に、同一の人物とみなされるだろう。
これは僕たちの現実認識において、人間にのみ強い固有性が与えられているからだ。哲学的な問題としては、もちろん車に限らず事物の固有性を取り扱うことは可能だ。しかし僕たちの日常問題においては、事物の固有性は、それが人間に関連づけられない限り、ほとんど問題にならない。

キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人(双書Zero) p.235

基本的に事物を機能で捉えるとき、固有性は失われる。同じ機能さえ持っていれば、違う個体であっても同じものとみなすことができる。車で言えば、同じ車種はすべて同じ車になってしまう。もっと狭い意味で、ある固有の車が同一性を保つためには、"Aさんの車"というように誰か人間に紐づけるか、もしくは擬人化して"車たん"のようなキャラをつくるしかない。キャラが同一性を伝達するとはこういう意味だろう。

とすると、我々がキャラを求めるのは、自らの同一性を伝達したいがためということになる。ただ上の引用部からも明らかなとおり、人間の同一性というのは、もともとそこら辺の物体などに比べれば充分担保されているということになっている。にもかかわらず、いまキャラの重要性が高まっているとすれば、それは我々の同一性が何か危険に晒されているということなのかもしれない。

これは私の推測だけれど、我々の同一性を脅かすもののひとつは、やはり機能であると思う。社会が複雑化するに従って、我々はますますシステムの一部に成り下がっている。システムは複雑かつ巨大であり、我々の挙動がシステム全体に影響を及ぼすということはほとんどない。既にみたように、事物は機能で捉えられると固有性を失う。おそらく人間とて例外ではないのだろう。

「自分が死んでも替えはいる」に対抗する手段が、他人と被らない「キャラ」なんではないか。

企業とキャラ

で、企業である。

キャラが立った企業というのは、要するに同一性が保持された企業なのであって、語られる時間や空間や文脈が異なってもそれらが同一の企業であると人々が認識できる企業である。企業にとって、そういう特性を持つことは極めて重要なことである。

繰り返しになるが、我々は複雑で巨大なシステムに接続するにあたって、自らの同一性を本質的に認識できない。できないから、我々はキャラをこしらえる。それでも足りない分を、社会との接続ハブである企業に対して仮託するのではないか。

だから企業のキャラが立つと、まず採用が有利になると思う。その企業に所属することで、要するに自らのキャラが立つことにも繋がるのだから。これは、先のエントリーで解説したヤンキー的な価値観を媒介にベンチャー企業に結集した非エリートがチーム的な連帯感で恍惚とする現象とまったく同じだ。

同じ理由で、最終的には企業のキャラ自体が、製品やサービスの付加価値になる。いま、世界で一番キャラが立っている企業と言えば、やはり米国アップル社だろうか。少なくとも現状だけ見れば、アップル社の製品を持つということは、消費者にとって自らをアイデンティファイするためのひとつの手段となっているように見える。

ただ、アップルについて言えば、もしジョブズがいなくなったらと考えると、あれはアップルのキャラが立っているというか、ジョブズのキャラが強過ぎるだけという気もしなくもない。その場合は単に「Aさんの車」という方法で車に固有性を持たせる例と同じで、「ジョブズの会社」だから意味があるということになり、会社自体が何らかのキャラを持っているということではないということになる。奇抜な本社ビルの建設などは現行のキャラをジョブズ以外のものに紐づけようとしているのかもしれないが、それがうまく行くかはよくわからない。悪い方法ではないと思う。

まあ、キャラというかブランドイメージのことでしょと言われればそれまでのような気もする。けれど、ブランドイメージが良い悪いで捉えられがちな一方で、キャラは被る被らないで捉えられるから、やはり少し違うものだとも思うわけだ。今後ますますグローバル化が進むだろう経済を舞台に、企業間でキャラのイス取りゲームが繰り広げられると思うと、なかなか悲愴感があってよろしい。

参考

キャラクター精神分析 マンガ・文学・日本人(双書Zero)
斎藤 環
筑摩書房
売り上げランキング: 3937

表紙の絵がなんとなく池田信夫センセのtwitterアイコンに似た感じなのが若干気になるが、内容は面白かった。結論は要するに上で引用してしまった部分、即ち、キャラとは同一性を伝達するものだということに相違ないわけだが、そこに至るまでの推論や考察にも読みでがある。あとがきによると実に8年もの歳月をかけて世に出されたのだそうだ。

読んでみればわかるが、キャラとはなにかという問いは、要するに人間とは何かという問いなのであって、もしあなたが暇ならば、時間潰しにはうってつけの題材であることは間違いない。

人間の必死さが織りなすコント的なものについて

民主党が政権交代を果たしてしばらく経ったくらいからだろうか、私の政治に対する興味は急速に失われつつあり、最近はニュースもあまりチェックしないのだが、先週末くらいからあまりにも各方面が騒がしいので見てみると、なにやら鳩山元総理が、辞めるといっておきながら辞めない人はペテン師だの何だのと騒いでいる。何のことはない新手の自己紹介ネタかと思ったが、どうやら管総理のことを言っているらしい。

菅内閣に対する不信任案提出を巡って、一時は民主党内からも不信任案に賛成する意見が乱れ飛ぶなど、管総理は絶体絶命の危機に陥ったものの、時期が来たら自ら退くので不信任案賛成はちょっと待ってくれと話を持ちかけて、鳩山前総理との間でスピード合意し、苦し紛れの急場凌ぎで何とかその場をやり過ごすと、今度は一転辞めるとはいったがいつとは言ってないという子どもじみた詭弁を弄し、だらだらと政権に居座る姿勢を見せはじめ、ようやく騙されたと感づいた鳩山前総理がペテン師だと叫んでいるということのようだ。さらに言えば、いつも通り裏で糸を引いているつもりでいた小沢元幹事長は、管・鳩山合意のあたりから話を聞かされていなかったらしく、どういうことだと怒っているというのだから、いよいよわけがわからず、ただのコントと評さざるを得ない状況に陥ってる。


ところで、ペテン師オチのリアルコントで思い出したが、何年か前にある非上場企業の株主総会に出席した時も非常に完成度の高いコントを拝むことができた。

その株主総会は、議案からしてそもそもコントの設定じみているわけだが、確か創業者の背任だか横領だかが発覚したから、その会社の事業を創業者以外の役員が用意した新会社に引き継がせ、その会社自体は清算するという話であった。割を食うのは株主で、払い込んだ資本は創業者に使い込まれるわ、新会社の株式は持てないわで散々な目に合うことが約束されており、株主総会が紛糾することは疑いようがなかった。

よって他人の揉め事が大好きな私としては、期待に胸を膨らませながら株主総会の会場に向かったわけであるが、果たしてその株主総会は期待に違わぬものであったのである。

会場には数十人の株主がいたと思う。非上場会社の株主総会としてはかなりの規模である。その中でも明らかに異彩を放つグループがあったので気になって会社関係者に聞くと、どうやら創業者の関係者だそうで、予め当該株主総会の議案には反対の意思表示をしているということだった。要するに株主総会の運営を妨げ、議案の成立を防ぐ目的で会場に来ているわけで、言うなれば一種の総会屋なのだが、そのグループが特殊だったのは、何故かメンバーがおばさんばかりだった点だ。総会屋と言えば強面の男性という既成概念に捉われていた私には、なかなかのアハ体験だった。

さて、議長が定刻を告げ株主総会がはじまると、さっそく飛び出したのは議長解任動議である。議長は普通定款の定めに従って社長が務めるものだが、お前では信用ならんからおれに議長をやらせろというのが、議長解任動議である。ただ、この動議なるものは立派な名前がついている割には株主総会の運営側としては特別取り合わなくてはならない理由はないという代物で、基本的には単に無視されるだけの相撲で言えば”猫だまし”のような奇手である。

議長解任動議は事前に想定された範囲だったのだろう。議長はそれをセオリー通りに落ち着いて無視すると、株主総会を進行していった。議案説明の合間合間に挟まれる創業者の悪事に関する述懐はどこか情緒的で涙を誘う。自分たちも株主のみなさまと同じで被害者なのだ、もう会社は清算するしかないのだと繰り返し語られる。このあたりは、まあ普通だったと思う。

会社側の言い分がひととおり語られると、ついに質疑応答からの採決である。資本を拠出していたベンチャーキャピタルなどからいくつか真面目な質問が出た後、真打ちは登場した。異彩を放つ総会屋崩れ集団の親玉らしき人物が語り始めたのだ。メモ片手に語られた内容は、なにやら新経営陣が事業を引き継ぐ際に支払う対価は不当に安いとか、株主総会の招集手続きが適法になされていないとか、確かそんな感じであったと思う。いや実をいうと内容はほとんど覚えていない。親玉が何か喋るたび、一味のおばさんたちがいちいち野次というか合いの手をいれてくるのだが、総会屋というよりむしろ商店街の祭りの打ち上げみたいで、想像されるおばさんたちのセルフイメージとアウトプットされているもののギャップが激しすぎて、私は笑いを堪えるのに必死だったのである。

まったく緊迫感のない野次に耳を傾けながら、なぜ今日あのメンツが集まってしまったのか、突然欠員が相次いでしまったから最寄駅で急きょ募集したのだろうかなどと、奇妙な総会屋集団に関する思索にひとりふけっていると、それまで会場の後ろの方でじっと息をひそめていた別のおばさんが突然立ち上がって叫んだ。「ペテン師!ペテン師吉田!!」まさかの急展開である。

突然の出来事に一瞬呆気にとられたが、その後話を聞いてみると、どうやらその創業者の関係者成る人物に、その会社の株を売るなどと言われ、カネをだまし取られたのだそうだ。要するに、ただの未公開株詐欺事件だった。

ペテン師吉田は、詐欺の負い目がありながら何のためにノコノコ株主総会に出てきたのかよくわからないし、仲間がおばさんばかりになってしまった理由も結局わからず仕舞いである。突然叫んだ詐欺被害者のおばさんも、なぜあんなにもドラマティックでセンセーショナルな手法で詐欺を明るみに出す必要があったのか、今となってはよくわからない。ただみんな、何かを必死に考えた結果、ああゆう行動になったということなのだろう。

で、私の感想としては、申し訳ないが大変面白かった。

思うに、必死さと可笑しさというのは紙一重なのである。人間は必死になればなるほど笑いを誘うもので、既に万策尽きた感溢れる民主党も、そういう意味で良質のコント題材であることはある種の必然なのだろう。ちきりんさんが指摘する通り民主党の先生方は、次の選挙までになるべくポストを回さなくてはならないわけだから、みんな必死なのだ。


ということで何の話かはよくわからないが、とにかく民主党政権、飽きのこない政権である。

政治がぐっと身近になった気がする。卑近とも言うが。

持たない、稼がない、稼がせない

月日が経つのははやいもので、気付けば前回ブログを更新してから2週間以上経っているし、2011年も半分終わろうとしているし、21世紀もすでに11年目なわけだが、幼い時に夢見た明るい未来とは違って現実が随分陰鬱かつ暗澹としているので、陰鬱ついでに今日は少し陰鬱な予言をしてみたいと思う。

椅子取りゲームの時代

その昔、マルサスは著書「人口論」のなかで、人口は急激に増加を続けるから供給が追いくことはなく、人類は常に飢餓に直面し続けるという陰鬱な予言をした。マルサスの死後、主に技術革新による生産性の向上によって供給量は需要量の増加を上回って増え続け、現代に至るまで貧困は暫時解決に向かっているから、要するにこの予言は見事に外れたわけだが、今日においては全く逆の理由から似たような陰鬱な予言をすることができる気がしている。即ち、生産性は向上し続け経済の産出量は増大するから、人類は常に失業に直面し続ける、という。

生産性が向上すると、同じ量をつくるのにも労働力が余るというのは当然のことだが、新しい産業が芽生えれば余剰な労働力を吸収しながら、さらに経済を発展させることができる。一次産業から二次産業、二次産業から三次産業、最近では情報通信やソフトウェア関連の産業が四次産業と呼ばれるらしいが、生産性が向上するにつれて産業が高次化してきた。ただ、高次の産業ほど一人あたりの生産性が高く、それ故必要とされる労働力が少ない傾向があるように感じるのである。

例えば、Google情報通信産業を代表する世界的な大企業だけれど、従業員はたった2万人程度しかいないという。世界中の数億人のユーザーを虜にするWeb検索やWebメールなどの革新的なサービスが、たった2万人によって提供されているのだ。amazonにはGoogleよりも若干多くの労働者が就業しているが、それでも3万人程度である。ちなみに我が国が誇るスーパーコングロマリット日立グループの連結従業員数は30万人超だが、時価総額ではGoogleの1/10しかない。

よって、世界的にみても労働需要(採用枠)は減り続けるのではないかと感じているところであるが、日本国内に限ればその傾向は更に顕著である。四次産業などと呼ばれる産業の代表的な企業はほとんど米国に集中していて日本国内ではほとんど育っていないし、二次産業でもアジアの安い労働力に職を奪われている。いま国内で積極的に労働力を確保している産業というと介護くらいだが、介護という仕事は何かを生み出しているというか、社会的なコストなのであって、その薄給ぶりたるや目を覆うばかりである。

供給量が需要量を超えたそのときから、生産性の向上は失業の原因であり続ける。世界に先駆けて成長がとまってしまった我が国日本では、ワークシェアが高度に発達した結果、米国よりも失業率は低くおさえられているが、そんな日本でもついに失業率の高まりが問題化してきた。来春の新卒内定率は、前年よりなんと12.6ポイントも低い35.2%だそうだ。そして今後もグロオバルな資本競争の結果、生産性は向上し続けるだろうから、失業率の悪化という傾向はこの先もずっと続くのではないだろうかと思うわけだ。

これはつまり、完全に椅子取りゲームだ。21世紀は椅子取りゲームの時代なのである。

新しい道徳

さて、新しい時代に必要となるものは新しい道徳である。今日は新しい道徳に関するいくつかのアイデアをここで披露してみたいと思う。

それはまず、持たないことだ。

椅子取りゲームの時代では、持つことは悪しきことである。持つことには流動性のリスクがつきものだ。家でも車でもいいが、一旦持ってしまうと、すぐには換金できない。明日には仕事を失うかもしれないというのに、流動性のリスクは命とりである。シェアリングやクラウド型のサービスを最大限に活用して、持たない生活を心がける必要がある。家はシェアハウス、車はカーシェア、書籍や映像、音楽などのコンテンツについてはクラウド型のレンタルサービスを活用すれば、生活を圧迫する固定費はずいぶん削減することができる。

更に言えば、仕事においても正社員というポジションに慣れてしまうとそれを失ったときに路頭に迷ってしまうので、ノマドのようなワークスタイルの方が実は環境の変化には強い。家族も旧世代的には魅力的なオプションだが、新時代では重荷でしかない。バーチャルリアリティソーシャルネットワークの活用によって、代替するべきである。最終的には自らの身体からも抜け出し、サイバー空間を漂うようにして生きるということが新時代における理想的なライフスタイルである。

次に、稼がないこと。

持つことをやめればそこまで稼ぐ必要がなくなるということもあるが、そもそも椅子取りゲームの時代にあって、他人よりも多くを稼ぐということは、他人を出し抜き、蹴落とし、騙し搾取することに他ならないのであって、極めて非道徳的である。我々はいくら貧しくなったとしてもそうした悪行に手を染めてはならない。ボロを着てても心は錦というやつである。

基本はやはりワークシェアだ。メールは非常に便利なコミュニケーションのツールだが、便利さに胡坐をかいて無駄に生産性を向上させてはならない。メールの利用に際しては、個人情報保護などの屁理屈をこじつけて、二重三重の宛先チェックやプロクシサーバーを活用したセキュリティ体制の構築を義務付けよう。そうすればまた雇用を生み出すことができるではないか。当然、そうして生み出された雇用は何を生み出すものでもないから、言うなれば一脚の椅子に複数人で腰かけるような行為に他ならないが、椅子が減っていくのだからしようがない。仲良く分け合うしかないのである。

当然、他人にも稼がせてはならない。

もし、自分だけ稼ごうなどという非道徳な輩がいたら、我々は全力でその足を引っ張る必要がある。これは嫉みではない。新しい道徳であり、社会正義だ。新時代においては、ものを所有することよりもむしろ、ものを創り出すことのほうが希少な権利となるのだ。他人の権利を踏みにじるような行いは、糾弾されて然るべきである。

新規事業やイノベエションの類についても、同じことだ。既に述べた通り、産業の高次化による発展が必然的に失業を生むのであるから、産業の高次化自体が悪なのだと断ぜざるを得ない。そういう時代遅れの戯言にうつつを抜かすアントレプレナアたちには、我々は無言の圧力をもって「空気読め」と言わなければならない。特に目立った派手な起業家がいたら、社会正義によって司法を突き動かし、牢屋に送ってしえばよい。社会正義の前には些末な法律論など実に無力である。そうすれば、前時代的な<優秀な起業家>たちは恐れをなして発展途上国などに逃げていくに違いない。

豊かさの新機軸

持たない、稼がない、稼がせないという生活を続けていると、物質的な豊かさを実感する機会は次第に減っていき、終にはまったくなくなるので、なかには心まで貧しくなっていく人も出てくるかもしれない。そんなとき、新しい豊かさの尺度として重要な意味を持つのは、おそらく「身体」だろう。人類は宇宙に出てはじめて地球が青く美しいことを発見したわけだが、これと同じように、我々はサイバー空間に進出することで、身体の意味を発見するのである。

情報通信技術がますます発達すると、我々が「ここにいる」ことの価値は薄れていき、「連絡が取れる」ことによって代替されていく。私が物理的にどこに存在しようが、Facebookの「友人」たちは、サイバー空間上に存在する私を身近に感じることができる。このことは私の身体にはもはや何の重要性もないことを意味するわけだが、重要性が失われたからこそ、身体は新しい意味の舞台になり得るのである。

SF小説などではしばしば、脳だけが異様に発達して身体は退化し、身体の諸機能をテクノロジーによって補完している人類の未来像が描かれるが、これはたぶん身体の重要性の低下にとらわれ過ぎている。おそらく実際にはまったく逆のことが起こるだろう。未来の人類は、きっとまったく重要性の失われた身体を、まるで箱庭でもいじるように丁寧にケアし、健康で屈強な肉体に人生の豊かさを見出しているに違いない。

というわけで、豊かさを求めて今週から朝のジョギングをはじめてみましたという話に繋がる。

ゼビオの店員さんによれば踵のクッションが強い方が初心者にはいいそうで、上のAdidas Boston 2を購入した。日本の靴にしては少し幅が狭いので、足の幅が広い人はいつもより少し大きめのサイズを選んだ方がよいだろう。陰鬱さに苛まれているみなさんも是非早起きしてジョギングをしてみよう。

6/9追記

靴、まだ1足も売れてないよ!

ソフトバンクに見るスマートさの秘訣

ソフトバンクの2011年3月期の決算が発表された。業績は絶好調らしく、同社としては初の売上3兆円を達成だそうで、何やら景気がよろしい感じなので少し覗いてみたわけである。ソフトバンクとはあまり縁のない人生を歩んできたので、決算書を見るのはもう何年振りかというような気もする。

ソフトバンクと企業買収

というわけで、ソフトバンクの決算短信を見てみると、セグメント別損益の説明に大胆にページが割かれており、否が応でも目に入ってくる。その注目の内容は概ね以下の通りである。

移動体通信事業というのが、要するにボーダフォンの買収で新設された通信キャリア事業だが、同事業による売上高および営業利益が全体の64%を占めている。さらに、2010年3月期からの売上高の増加分については、ほぼ完全に同事業の伸びによるものとなっている。ソフトバンクの成長をけん引しているのは、間違いなくこの移動体通信事業だ。

ソフトバンクにとってボーダフォンの買収は大きな賭けであったことと思う。1兆7千億円という買収金額は日本のM&A史に残る巨額なもので、国内のLBOとしては過去最大ではないだろうか。そしてソフトバンクは、今のところ、この賭けを成功させていると言っていいのだろう。ボーダフォンソフトバンクモバイルとして生まれ変わり、周囲の予想をはるかに超える成長を遂げている。上の表を見れば明らかなとおり、この1年だけでも営業利益が1.5倍になっているのだ。いまソフトバンクモバイルを買収しようと思ったら、きっと1兆7千億円では全然足りないだろう。

ボーダフォンだけではない。固定通信事業を担うソフトバンクテレコム(旧:日本テレコム)もヤフーも、全部買収してきた会社だ。ソフトバンクが高成長を実現してこれた最大の理由は、間違いなく企業買収にあると言ってよいだろう。

ちなみに、ソフトバンクは、もともとは社名の通りPC向けパッケージソフトの卸売を行っていたわけだが、一体あれはどこに行ってしまったかのと思えば、どうやら”その他”に入っているようだ。この”その他”セグメント、子会社数では96社と実に全体の8割以上を占めるが、売上的には全体の1割ちょっとしかなく、なんとなく捨てるに捨てられないものをしまっておく倉庫のような、実に物悲しさを感じるセグメントである。

ソフトバンクはM&A業界の白眉

さて、私は別にソフトバンクが本業を捨て、買収に次ぐ買収で成長してきたことを嘲りたいわけではない。まったく逆で、ここまで何度も大型の買収というか投資を成功させていることに心底感服しているのだ。

企業買収というのは言うほど簡単ではない。投資に際して企業の成長性を判断するためには市場や業界の動向に関する深い理解が不可欠だし、買収した後も対象会社のハンドリングには様々な課題があることが常である。さらに、”いい会社”であればあるほど買収金額は高騰するから、元を取るためにはシナジー効果の発揮など、あらゆる価値創造の仕掛けを活用して対象会社の利益を伸長させなければならない。

一般の人はむしろ成功例の方を多く見るだろうから、M&Aの難しさと言われてもピンと来ない方もいるかもしれないが、業界的には、成功するM&Aは2割未満だと言われている。8割以上のM&Aでは、価値が生み出されるどころか損が発生しているということだ。そんな中で次から次へと巨大なM&Aさせるソフトバンクは白眉な存在なのである。

ソフトバンクのようにあれだけ巨大な企業買収をいくつも成功させているような会社は、考えてもなかなか浮かばない。海の向こうにはウォーレン・バフェットという怪物投資家がいるが、実績だけ見れば、孫正義はバフェットに匹敵する投資家ではないかとすら思う。

孫正義とバフェット

ところがその割に、孫正義にはなぜかスマートで知的な印象がまったくないという点が実に不思議ではないだろうか。例えば、バフェットが敬愛の念を込めて「オマハの賢人」と呼ばれるのに対して孫正義は親愛の意を込めて「禿」と呼ばれている。

孫正義とバフェットのイメージの間に横たわる巨大な溝。私はこの土日を使って、恵比寿ガーデンプレイスでビール片手に、必死でこの謎に迫ってみた。しかし恐ろしいことに、「見た目」以外の答えはまったく浮かばなかったのである。twitterでも質問してみたが、帰ってきた答えは、「老けてるから」(ビジュアル)とか、「頭が宣教師みたいだから」(ビジュアル)とか、「ハゲタカを連想させるから」(ダジャレ)とか、見た目に関するものばかりだった。

なんだろうか。結論としては実にパワー不足であるが、これだけ偉大な実績を積んでも全く覆らないほどに、見た目のイメージというのは実に強固なのだなあと思うわけであり、人は見た目が9割というのはまあよく言ったものだと思うわけである。

「もしも孫さんが佐藤浩一だったら?」もしソン。RT @chnpk: 見た目説強すぎ。RT @aqrcity 見た目RT @CHNPK ソフトバンクの孫さんて、あんだけ買収成功させてるのはホントに凄いと思うんだけど、なんかスマートなイメージないよな。なんで?

Twitter

もし、孫正義の外見が佐藤浩市だったら、ソフトバンクのイメージはどのようなものになっていたか。みなさんも考えてみて欲しい。

日本のベンチャー企業に見られる3つの類型

ということで、先日のエントリー「木村剛はなぜ暴走したのか」からの流れで、「ヤンキー的なもの」を求めてナンシー関を読んでみたわけである。

ナンシー関は、横浜銀蠅を論じる文脈において、「銀蠅的なものを求める人は、どんな世の中になろうとも必ず一定数いる」と述べ、次のように続けている。

銀蠅なきあと、世の中は無意識のうちに銀蠅の代わりを探していたようにも思える。これは私の個人的見解だが「X」や「BUCK-TICK」などの売れセンヘビメタや、工藤静香の方向性、THE虎舞竜のヒット、一部の素人女にみられる露出狂の域にまで達したボディコン(というよりコスプレ)文化などの根底に、いずれも「銀蠅の魂」が流れているように感じられてしようがないのだ。
現在、不良の傾向は「ツッパリ・ヤンキー」ではなく「チーム」みたいなことになってるみたいだけど、世の中が(意識下で)連帯するのはやはり「ツッパリ」なのだと思う。日本人に愛されるのはやはり真木蔵人(チーマー系)ではなく、的場浩司辰吉丈一郎(ツッパリ系)であることは確かだ。

ザ・ベリー・ベスト・オブ「ナンシー関の小耳にはさもう」100 (朝日文庫)

非常に鋭い指摘ではないだろうか。ここで語らている「銀蠅的なもの」、「銀蠅の魂」を、便宜上「ヤンキー的なもの」として扱うが、さてこの「ヤンキー的なもの」は実にさまざまなかたちで世の中に現れてくる。ナンシー亡き後も、亀田一家や氣志團(DJ OZMA)、そのものズバリのゴクセンなど、世を席捲した「ヤンキー的なもの」は枚挙に暇がない。

一方、ナンシーも指摘する通り、いわゆる暴走族形式の典型的なヤンキーを見ることは今ではあまりなくなってしまった。特に都心では皆無と言っていい。あの集団を突き動かしていた膨大なエネルギーは一体どこに行ってしまったのかと疑問に思っていたところ、ふとあの渋谷〜六本木あたりに生息するベンチャー企業の群れのことを思い出したのである。

ヤンキータイプ

日本のベンチャー企業というのは、多かれ少なかれどこかヤンキー的である。特に渋谷系USEN宇野氏を筆頭にサイバー藤田氏、GMO熊谷氏に共通する、あの「若いときはちょっとヤンチャしてまして」感。たしか誰かの著書に記載があったと思うが、あの辺のメンツはみんな一緒にダイヤルQ2で小遣い稼ぎをしていた仲間で、そこで蓄えた小銭を元手に現在に続く事業を興したという武勇伝があったやに思う。実際、昔はヤンチャだったのだ。

それから、仕事を通じて自己実現みたいなノリ。大企業のエリートに一泡吹かせたがる反骨精神。更に言えば奥菜恵を嫁にもらう派手好きさ。

このあたりの雰囲気というのは、社の隅々まで行き渡っており、まるで金太郎あめのように社員の誰と会っても感じることができる。

また、妙に仲間意識というか連帯感を重んじるキライもある。サイバーエージェントのビジョンには、モロ「チーム・サイバーエージェント」と書いてあったりする*1。あなたね、暴走族じゃないんだから。

もう1世代前だと光通信があるが、ここも凄い。何せ携帯電話とコピー機のトナーを売り続けてはや幾年、気合と根性だけで売りも売ったり年間3,500億円だ。イノベーティブな技術や巨大資本の後ろ盾などなくとも、気合と根性があれば世の中十分にわたっていけるということを示している。

あと、このあたりのメンツに混じった時のドリコムの”舎弟”感も相当凄いと思っている。完全に印象だけどベンチャー企業には歴然とした先輩後輩関係があって、第4世代などと呼ばれるドリコムは要するに末席なのである。

エリートタイプ

で、こうしたヤンキーと対をなす集団がある。

「エリート」。言わずと知れた優等生タイプである。

ヤンキーが感性や根性を重視するのに対し、エリートはロジックやフレームワークなど学習したことを重視する。

ベンチャー企業は大概がヤンキー的で、あまりエリートの雰囲気を感じる企業は少ないが、その中ではマッキンゼー出身の南場女史率いるDeNAがなんとなくエリート的だ。儲かるビジネスで冷静に儲ける小賢しさがある。何かにつけて計算高く、ロジカルにものを考えている印象で、行き当たりばったり感や気合で乗り切る感に乏しい。

携帯の無料ゲームサイトとしては後発のグリーに一旦は捲られるも、地道に客単価を吊り上げ、こっそり抜き返したかと思うと、いつの間にか収益的には倍近い差を付けるなど、やることにいちいちソツがない。以前に自社のプラットフォームにゲームを提供する開発会社に対して、優越的な立場を利用し、他プラットフォームへのゲーム提供をやめるように圧力をかけた問題が報じられた時も、南場女史は「あら、国内にライバルなんていたかしら(証拠はあって?)」という風情でシラを切っており、実に嫌味なエリートという感じであった。

他方、微妙にわからないのが楽天で、三木谷さん自体は興銀出身だし、エリートと言えばエリートなのだろうが、体育会系のイメージが強すぎてイマイチ判別できない。

楽天テナントのサイトの色彩がいちいちデコトラじみているのが若干気になると言えば気になるが、あれはヤンキー趣味というよりはマーケティングの結果という気もする。

大企業系列の社内ベンチャー系も、当然エリートに分類される。ただ、なんとなくエリートの手先という感じだが。

オタクタイプ

ところで、ミクシィはどう考えてもベンチャー企業だが、ヤンキー臭くもなければエリート風でもない。ミクシィを分類するなら、オタクと呼ぶのがもっとも適切だろう。

オタクは、コミュニケーションが不得手な代わりに、特定の専門分野に関しては深い造詣を持つ。ただ、半々の確率でコミュニケーション拙者が単に逃げ場としてオタクであることを選択するから、そういう場合はヤンキーに引け目を感じており、頭が上がらないことが多い。そういう意味ではオタクとヤンキーは同じヒエラルキーを構成している仲間と言える。いわゆるスクールカーストでも、オタクはヤンキーから2〜3枚落ちる下位層に位置する。

ミクシィ絡みで面白かったのは、笠原氏と奥菜恵の熱愛疑惑が報じられたときだ。奥菜恵は言わずと知れたサイバーエージェント藤田氏の前妻で、笠原氏は藤田氏とも親交があった。当時の私は「オイオイ、オタクが先輩(ヤンキー)の元カノを略奪ですか、カネがあると人間違うね!」と一人で勝手に盛り上がっていたが、一瞬で笠原氏から「そのような事実はまったくございません」が放たれ、事態は収束してしまった。一度や二度のIPOで得たあぶく銭程度では覆らない、動物的で本能的な序列の存在を垣間見た気がしたのである。

そんな笠原社長のパーソナリティを反映してか、ミクシィ自体も実に大人しい印象の会社である。ミクシィがM&Aをしたことがあっただろうか。私の記憶する限りはただの1件もない。IPOで調達した資金も何に使うでもなくタンス預金で、粛々と日記コミュニティサイトと人材紹介のサイトを運営している。極めて地道。真面目。目立たない。

ミクシィ以外では、ライブドアも結構オタクだったと思う。まあ、堀江氏の、オンザエッヂが上場した当時の金八先生みたいなへアスタイルを見て、堀江氏自体がオタクであることを否定する人はいないと思うが。ライブドアは、M&Aなどを担うファイナンス部門だけがヤンキー的だったんじゃないだろうか。オタクがヤンキーを従えて、道路を蛇行しながらテレビ局などのスーパーエリートに喧嘩を売っていたわけだ。そりゃ逮捕もされるというものである。逮捕というか補導だな、あれは。

一応のまとめ

以上、完全に印象だけで話を進めてきたので何の自信もないが、日本のベンチャー界にはエリートとヤンキーとオタクという3種類の企業があると言える。

3つのうちで一番数が多いのがヤンキーなわけだが、これは考えてみれば当然のことだ。我が国では、エリートコースという言葉の意味するところがそれ即ち大企業での出世であるから、ベンチャー企業に集まる人材は必然的に非エリートが中心となる。「ヤンキー的なもの」は非エリートが自らをアイデンティファイするための最適な価値観なのだ。

元暴走族のヘッド矢島金太郎が、熱いハートや筋の通った考え方などといったわけのわからない力を操ってエリートサラリーマン共を蹴散らし、出世街道をばく進する様にカタルシスを覚えるのは、読み手が非エリートだからである。

我が国の学歴社会ぶりは世界でも有数で、数年の受験戦争が人生の大半を左右する。そこでの落伍者が「学校では教えてくれない大事なこと」を求めてヤンキー道を進むのはある種の必然であり、社会全体として見ても必要なガス抜きなのである。

「ヤンキー的なもの」とはつまり、「エリート的なもの」に対するアンチテーゼである。ヤンキーが「粗暴だけどほんとは優しい」とか、「ワルだけどカワイイ(ファンシーな)とこもある」などといった二面性を重視するのはこのためだろう。上で述べた通りだ。学習することでエリートに敵わなかったヤンキーたちは、容姿を筆頭に、気合や根性や熱いハート、人としての筋など、なんとなくより本質的な感じがするもので勝負したがるのである。

オタクは元来能力が特定の方面に特化した天才タイプを指すが、近年インターネットの普及によって概念としての「オタク」が一般化したことに伴い、エリートにもヤンキーにも成りきれなかったいじめられっ子タイプが大量に「オタク」に流入し、玉石混交を極めた。よってオタクの大半はヤンキーの手先に過ぎないが、マレに天才タイプがいるという状況になっている。

読者の皆様におかれましては、もしベンチャー企業への投資を考えるようなことがあれば、大部分を占めるヤンキー系企業(手先としてのオタクを含む)は捨て置いて、極マレに混じっているエリートタイプか天才型の純オタクタイプを探すと良いだろう。

参考

ナンシー関は有名なので知ってる人も多いかもしれないが、同著はどうでもいいけど言われてみれば確かにそうだよねという考察で溢れている。どうでもいいついでに似たようなものを並べて、上記のようなエントリーを書くこともできるという優れものである。

*1:それ以外にも「ライブドア事件を忘れるな」というのは果たしてビジョンとしてどうなのというのもある。

資本を恐れ私欲に共感する社会

いわゆるライブドア事件の裁判で、ライブドアの元CEOである堀江貴文氏による上告が棄却されたようだ。堀江氏としては一応異議の申し立てを行う意向があるようだが、これはほとんど形式的なもので、司法の判断が覆る可能性はほとんどゼロであるから、事実上、懲役2年6月の実刑が確定したと言ってよいのだろうと思う。

ライブドア事件については既に語られ尽くしている感もあり、もしかすると当ブログ読者の皆様も食傷気味なのかもしれないが、旬のネタということで私も少し思うところを書いてみたい。

ライブドア事件に関するお茶の間の認識

よくライブドア事件と山一證券や日興証券などの粉飾事件とを比較して、量刑の妥当性を問うたり、恣意的で情緒的な司法判断を憂う論調を見るが、私はこれは少し違うと思っている。想像するに、ライブドア事件に関するお茶の間の認識というのは、山一證券や日興証券などよりはむしろ、円天などに近いものではないだろうか。

一般論として、本当は有望な事業など何もないのに、あたかもそれがあるかのように装って投資を募り、集めた資金を別のことに流用したら、それは詐欺だが、2004年当時のライブドアに、現に収益の柱であり、また将来的にも有望な事業があったかというと、私はなかったと思う。ライブドアと言えばポータルサイトが有名だったわけが、ただでさえ先行者利得が働きやすいネットサービス業界において、圧倒的な先行者であるYahoo!の前で、独自の存在感を出すことはできずにいた。かろうじてブログサービスではそこそこのプレゼンスを保っていたが、収益化には至っていなかったと記憶している。

当時のライブドアにあったのは、根拠のはっきりしない期待感だけだった。それが堀江氏の大言壮語によるものなのか、M&Aや株式100分割に代表される活発な資本政策によるものなのか、はたまたネット企業全体が注目を集めていた中の単なる一社だったのかはわからないが、ライブドアは業績のわりに高い株価を維持していたと思う。

この当時、膨れ上がった期待感と現実の業績との隙間を埋めるために画策されたさまざまな手法が、後に証券取引法違反偽計取引の罪に問われる原因となったものである。それは、例えば株式交換した相手から買い取った自社株式の売却益を傘下のファンドを通じて売上高に計上することであったり、買収予定先の会社から自社に発注させ、売り上げを水増しすることであったりした。

個別のスキームに関する法的・会計的な論点は尽きないが、単純化して言うと、これらはすべて期待感を利益に計上し、単なる思惑を現金に変える仕組みであったと言える。通常、会社の買収というのは、成否が判明するのに長い期間を要するものである。シナジー効果などが発揮され、実際に業績が向上するまでにはある程度時間がかかるからだ。買収の公表は投資家の判断に影響を与え、それによって株価が上昇することもあるが、それはあくまで思惑の話なのである。でも、その思惑を現金に変えることができたら?

もし企業が期待感を収益に変えることができれば、まさに百戦危うからずである。期待自体が収益の源泉なのだから、収益が期待に背くということはまずあり得ないということになるのだから。期待が収益を生み、高い収益がまた次の期待を生む。

東京地検による強制捜査があったのが2006年1月で、容疑の対象となった各手法がとられたのは2004年9月期の話であるから、2004年10月以降の取引には少なくとも違法性のある取引はなかったということになるが、上述の本質は大きく変容したわけではなかった。今でも覚えているが、会社四季報だったかに、MSCBの買取拡大で業績好調の見通しと、およそIT系企業とは思えないコメントが書かれていたのだ。MSCBというのは株式に転換できる社債のうち転換価額が時価に応じて修正されるもののことだが、ライブドアは子会社の証券会社を通じて様々な企業のMSCBを買い受け、それを転換して取得した株式を市場で売却するという取引によって多額の収益を計上していた。この取引に違法性はまったくないが、同取引のミソは、ライブドアが買収や資本提携を発表すると、その相手企業に対する期待感もライブドア並に引き上げられ、無根拠に株価が急上昇するという謎の傾向だった。ライブドアがある会社の株を買うと、ライブドアが株を買ったという理由でその会社の株価が上がるのだから、投資で失敗などということがあり得ないのは火を見るより明らかである。

こうして投資家の期待感を利益に変えることでライブドアは拡大を続けたわけだが、無限に続くかに見えるこれらの仕組みは、確かにネズミ講のようにも見える

今回、検察側は、ライブドアによる粉飾を「損失額隠ぺい型」ではなく「成長仮装型」と位置付けることで前例のない事件ぶりをアピールし、一般的な「損失額隠ぺい型」粉飾事件と比較して量刑が重いことを正当化しようとしている。この筋書きはあまりにもクリエイティブ過ぎるということで一部で話題なわけだが、個人的にはお茶の間の感覚をそれなりにうまく表現できているのではないかとは感じている。

成長の仮装という罪

さて、ライブドア事件には普通の粉飾事件と異なる点が多かったということにはそれなりに同意する一方、私が興味深いと感じるのはむしろ、我が国では「損失隠ぺい型」よりも「成長仮想型」の方が罪が重いという事実である。

上で説明したライブドアによる成長の仮装は、実際に資金の流入を伴うものばかりである。現実には資金が入って来ていなかったり、逆に出て行ってしまっていたりしているところを、単純に帳簿上の数字だけを加工して投資家に対して虚偽の報告をしていたわけではない。持続的に成長を仮装するためには、外部からの資金の獲得が必須なのだろう。そういう意味でライブドアが行った「成長仮装型」の粉飾は、その他の一般的な「損失隠ぺい型」の粉飾よりも高度で、より洗練されている。例えば、東京地検特捜部があのタイミングで強制捜査に踏み切らなかったら、誰か損をしたのだろうか

期待が先行して、その後辻褄があうという構図はベンチャー企業であればある程度どこにでも当て嵌まるもので、何もライブドアだけが例外というわけではない。例えばソフトバンクは、いまでこそ大手通信キャリアの一角として大手を振っているが、2004年ごろのソフトバンクは日本の通信インフラに革命を起こすとかなんとか言いながら、街頭で道行く人にADSLのモデムをばら撒き、回線契約を押し売りするという新しいんだか旧いんだかよくわからない事業にまい進していたし、そもそも初期のころは、PC向けパッケージソフトの卸売りという割とアナログな事業を中心的に行っていた。未分化のベンチャー企業であれば、時間の経過とともに事業が変容していくというのは極めて自然な現象で、要するに結果的に辻褄が合えばいいのだ。

ライブドアも、事件当時は確かにネズミ講的な手法で成長を仮装していたと言えるかもしれないが、当時の勢いを思えば、それこそソフトバンクにおけるボーダフォンのような”本業”をM&Aなどにより手中に収めていたかもしれない。そうすればおそらく辻褄は合い、誰に損失を生じせしめることもなかったはずである。

株主の視点から考えると、仮装だろうが何だろうが現実に資本が拡大していることが重要なのであって、現実に生じてしまった損失を隠される方がデメリットは大きいと私は思う。株主は会社の残余財産の分配権を有するから、会社資産の棄損は株主資産の棄損である。それが開示されないとあっては、恐ろしくてまともに投資など出来ない。だから「損失隠ぺい」と「成長仮装」を比べたとき、その罪は同程度かむしろ「損失隠ぺい」の方が重くて然るべきだと思うのだが、不思議なことに我が国ではまったく逆なようだ。

この不思議な傾向の背景にあるのは、資本主義への猜疑であり、恐怖ではないかと私は思う。

考えてみれば、ライブドアによって行われたネズミ講的なものは、人間の欲望を原動力として資本が資本を生み続けることで無限に拡大を続けるという資本主義の構図の相似形である。よく言われるところではあるけれども、資本主義自体が本質的に壮大なネズミ講なんであって、資本主義的なものがネズミ講的であるのはある種の必然なのだ。事件が明るみに出る前から、堀江氏は時代の寵児として扱われ、ライブドアという存在は新しい時代の幕開けを象徴するものとして論じられた。新しい時代というのはつまり、日本にはなかなか根付かないとされた「株主資本主義」の時代である。そしてそれは、やはり根付かなかったのだ。

以下に引用する産経の記事中の一文は、日本社会に厳然と存在する資本主義に対する怨嗟の念のようなものを端的に表している。ベンチャー企業が期待感をもとに資本を調達することも、投資家から資本調達した限りは利益を追求する必要があることも資本主義的には当然のことだが、それは詐欺的行為だと断じている。

一時は「IT(情報技術)ベンチャーの旗手」ともてはやされた堀江被告だが、事業の実態は違った。法の抜け穴を利用して次々に企業買収を繰り返すマネーゲームに明け暮れていた。「成長性の高い有望な企業」という幻想を投資家に抱かせ、利益追求だけをめざしたことは詐欺的行為と批判されても仕方がない。

ページが見つかりません - MSN産経ニュース

私利私欲に共感する社会

「成長仮装」が資本主義というオートポイエティック・システムの一環であり、株主視点に立った経営の結果として生じるものとして捉える事ができる一方で、「損失隠ぺい」とは言うなればその場凌ぎの保身であり、それを生じせしめるものは純粋な私利私欲ではないかと感じる。

先日、当ブログでも紹介した「凋落」のあとがきに、次のような一節がある。他人とかいて”ひと”と読ませるわざとらしさと語呂の悪さが少し気になるが、一理あると思わせられる記述である。

数々の上場企業を輩出し、一方で会員企業が相次ぎ不祥事を起こすという波乱万丈の十年史を刻んだ「日本ベンチャー協議会」を主宰した天井次男によれば、今の日本で成功するのは「他人(ひと)犠牲の経営者」ばかりなのだという。誰もが成長のパイに与ることができた右肩上がりの時代はとうに過ぎ去り、勝ち組・負け組で表されるような限られたパイを奪い合う時代が定着してしまった。そうした世界では、相手を貶め、出し抜き、ひどい場合には騙し、傷つけられるような人間ほど成功を収めがちだという。起業家たちの裏も表も見てきた天井だけに「他人犠牲の経営者」という造語は妙な説得力がある。
凋落 木村剛と大島健伸 P.277

私はライブドアは、実は他人を犠牲することから縁遠かったがゆえに負け組となった企業のひとつなのではないかと考えている。もし堀江氏が私利私欲に突き動かされる人間だったら、ライブドアの前身であるオンザエッヂが上場した際に、自身が有する株式を売り出して数億円の資金を得、その後は会長職か何かに退いて低迷する業績は放置、損失は全て個人株主に押しつけていたはずだ。そうではなくて、何とかして辻褄を合せ、成長を実現しようと模索するうちに、ライブドア事件は発生したのである。

実際、損失を全て株主に押しつけて自分だけ悠々自適の生活を送っているような経営者は新興市場の会社にたくさんいるが、そのほとんどが罰せられることなく、堀江氏のように何とか辻褄を合せようとした人のみが実刑に処されるというのは、我が国の特性を極めて象徴的に表す出来事であると言えるだろう。

我が国では、資本主義などという得体の知れないものにうつつをぬかすくらいであれば、私利私欲に走った方がむしろ健全とみなされるのである。

参考

ヒルズ黙示録—検証・ライブドア
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虚構 堀江と私とライブドア
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iPhoneはなぜ売れたのか

先週iPhone3Gから機種変更して、auのスマートフォンを買った。購入したのは「htc EVO WiMAX ISW11HT」(以下単に「EVO」)で、日本初のWiMAX搭載ケータイとして多少注目を浴びている例のアレだ。これによって、私の2年間に及ぶiPhone生活に終止符が打たれたこととなったので、果たしてiPhoneとは何だったのかなどということを少し考えてみたわけである。

WiMAXとテザリングという高機能

iPhoneとは何だったのか、他のスマートフォンとの比較でわかることもあるだろうから、まずは新しく購入したスマートフォンの説明を少しさせていただくが、EVOの目玉は間違いなくWiMAXとテザリングである。

EVOは、日本で初めてのWiMAXを搭載した携帯電話である。WiMAXとはなにかについて、コチラのページから適当に引用すると「大容量のモバイルブロードバンド通信の方式のひとつ」で、通信速度は「下り最大40Mbps、上り最大10Mbps」、「サービスエリアは全国の主要都市をカバー」しているのだそうだ。簡潔に言うと、少しエリアに不自由があるが滅法早い通信回線ということだろう。

下り40Mbpsという数字は当然理論上の最大値なわけだが、先ほどスピードテストサイトで実測したところ6Mbpsは超えており、実際使った感じも確かに早い。光回線と比べてもそん色のない水準である。エリアはもちろん携帯回線と比べればイマイチだが、私の場合は幸い自宅でもオフィスでも余裕で繋がるのでまったく問題なし。ただ、地下鉄が駅を含めて絶望的なので、これははやく何とかしてほしいところではある。

また、EVOはテザリングに対応しており、EVOをアクセスポイントとしてWi-Fi対応した機器を8台まで同時にネット接続させることができる。家のデスクトップも、ノートPCも、iPadも、iPod Touchも、Nintendo DSも、Playstation Portableも全部だ。設定も実に簡単で、EVO側ではパスワードだけ設定して、テザリング機能をONにするだけ。あとは、接続したいWi-Fi対応端末でEVOのアクセスポイントを探し、先ほど設定したパスワードを入れるだけ。1分でできる。

ここで気になるのは料金だと思うので、iPhoneとの比較を一応下表にまとめてみた。

iPhone EVO
基本使用料 980 780
基本パック 315 315
パケット通信 4,410 5,460
WiMAX 0 525
端末割賦 1,920 2,843
月々割 -1920 -2,000
合計 5,705 7,923

iPhoneは、Softbankによるまるでガソリン暫定税率なみにいつ終わるのかわからないキャンペーンによってパケット通信料が通常の5,980円から4,410円に値引きされているし、全世界で5,000万台以上出荷している超大量生産機種なので端末代金の負担もかなり低く、全体としてかなり安い。対するEVOはiPhoneよりも毎月約2千円高くなるが、この値段をどう捉えるかというのは、テザリングに対する考え方によるのだと思う。

iPhoneなどの他に、屋外でPCを接続するためにPocket Wi-FiなどのデバイスやUSB接続するデータカードなどをお持ちの人は、それを解約することができる。月2千円以上の節約が見込めるケースは決して少なくないだろう。別に何の保証もしないが、一人暮らしの人などはおそらく自宅の光回線なども解約し、通信回線をEVO一台に集約してしまっても大丈夫ではないかとさえ思う。

iPhoneにないもの

さて、上のような話は、あまりスマートフォンなどに興味がない人に対しても意外とウケが良く、話すと結構感心されたりもする。2年前にiPhone を購入した時も「どうなの」と聞いてくる人にはいろいろと説明し、最終的には感心されることなども少なくなかったが、今回はそれとはまた少し違った手ごたえを感じている。

私の知り合いで、妙に現実主義的で雰囲気に流されるようなことを嫌う人がいる。その人と何度かiPhoneについても話をしたのだが、私は終にその人にiPhoneの魅力を伝えることはできなかった。その人は常に「iPhoneでしかできない便利なこと」を求めてくるのだが、意外とそんなものはないんである。iPhoneのAppStoreには10万を超えるアプリケーションがあり、「なにか凄いものがありそうな予感」はあるが、その具体的な「なにか」を提示することはなかなか難しい。どれも普通のケータイでもできることばかりである。実際、iPhoneを買ったばかりのときはいくつもアプリケーションをダウンロードしたものの、結局メールとSNSiPodくらいしか使ってないという人は多いだろう。ただでさえiPhoneにはオサイフもワンセグもついてないのに、それを補って余りあるような画期的な「なにか」がないとあっては、その事実だけをとらえる限りiPhoneは確かに魅力のない端末である。

他方のEVOだが、今回その同じ人に世間話でEVOを紹介してみたところ、これが意外とウケたのだ。てっきりiPhoneの二番煎じ的扱いを受けるものと思っていたが、予想に反して「すごい」みたいな反応だった。何がそんなに気に入ったのか、実はあまり突っ込んで聞いたわけではないので本当のところはわからないのだが、おそらく上に書いたWiMAXやテザリングの話ではないかと思う。

つまり、「機能」である。

そう、iPhoneには目玉となるような「機能」がないが、EVOのWiMAXやテザリングというのは実にユニークな「機能」なのである。

iPhoneにあるもの

目玉となるような「機能」を持たない端末が、世界で5000万台も売れたのは一体なぜなのだろうか。

twitterでこのiPhoneの謎についてひとりごちていたら、いくつかレスがあった。

ジョブズのプレゼンのうまさなど、appleのマーケティング能力に解を求めるものもあったが、私にとっては以下のものが合点がいった。

「操作」である。普通、ある「機能」を実現するための手段が「操作」であるところ、iPhoneでは「操作」そのものが価値を持っているという面はないだろうか。iPhoneのホーム画面に指を這わせると、綺麗に整頓されたアイコンがぴったりと追従してくる。まるで本当にそこにアイコンがあって、指で触れているかのように。こうした経験は今でこそAndroidという類似品があるが、当時は非常にユニークなもので、iPhoneでしか味わえないものだった。何の目的もなくiPhoneのホーム画面を行ったり来たりした経験はiPhoneユーザーなら誰しもあるのではないだろうか?

iPhoneの価値は、単なる「機能」ではなく「操作」を含めた”iPhoneという経験”すべてだったのだと思う。これは、読売ランドのようないわゆる遊園地とディズニーランドの差に似ている。アトラクションの機能というか動き自体は遊園地もディズニーランドも大して変りなく、要すればシェットコースターだったりお化け屋敷だったりメリーゴーランドだったりバーチャルリアリティ的なものだったりするが、ディズニーランドが他の遊園地と圧倒的に差別化されているのは、その世界観である。ディズニーランドのヘビーユーザーは、別にビッグサンダーマウンテンと名付けられたジェットコースターにスペシャリティを感じているわけではなくて、むしろそこにたどり着くまでの造形物やすれ違う有名なキャラクター、そしてあの独特な雰囲気を楽しむのだ。まさに”ディズニーランドという経験”すべてが価値なんである。

思えば、上で紹介したiPhone嫌いの知人でさえも、iPhoneの地図には些か関心を寄せていたやに思う。iPhoneの地図は要するにただのGoogle Mapだが、ピンチインやピンチアウトも含めて、iPhoneの操作感が見事に凝縮されたアプリケーションだった。

なぜiPhoneを買うのか

私がiPhoneから機種変更した理由のひとつに、いまやあまりにも大勢の人がiPhoneを持っていて、特別感がまったくないというのも少なからずある。電車に乗っていても普通に両隣と正面が全部iPhoneだったりする。本当に多くの「普通の人」がiPhoneを持っているのだ。こういうのを、「キャズムを超えた」と言うのかもしれない。

一方iPhoneの設定は「普通の人」には若干難しく、私が知っているiPhoneユーザーのうち何人かは、ろくにアプリケーションをダウンロードすることすらできない。確かにあのiTunesの不安定な挙動に「普通の人」が寛容でいられるはずもない。私が家電量販店でiPadをいじっていたとき、隣の客は店員に「インターネットとか見れるんですか」とだけ質問し、購入を決めていた。そうした人々は、そもそもアプリケーションをダウンロードしたいともまったく思ってないのだ。

そんな使い方も満足にわからないような端末をなぜ好んで買うのかがずっと不思議で、本人たちに聞いても「みんな持っているから」とか「思ったより安かったから」とかあまりに消極的な理由しか出てこないので謎は深まるばかりだったのだが、これは私も「機能」に捉われていたということなのだろう。

使い方もわからないような人が、そもそもどんな「機能」があるかなど知る由もない。彼らはそもそも「機能」など求めていないのだ。すべての携帯電話は彼らにとって機能過剰だから、「機能」の話は等しく意味がなく、単に新しくて刺激的な「経験」をしたいだけなのだろう。

まあ、何を今さらという話もあるだろうし、そもそも「機能」を重視しようが「経験」を重視しようが人の勝手なわけだが、何となくiPhoneを卒業するにあたって総括をしてみたくなったのである。

木村剛はなぜ暴走したのか

凋落 木村剛と大島健伸凋落 木村剛と大島健伸」は、少し前に世間を騒がせた振興銀行とSFCG(旧商工ファンド)という二つの経済事件に関するノンフィクションである。同著は、木村剛大島健伸というまったく出自の異なる二人の経営者の運命が交錯しそして同様に破滅へと向かう様を、綿密な取材に基づき克明に書き綴ったものだが、ひとつのテーマとして「なぜ政府のブレーンまで務めた当代きっての金融エリートが、誰の目にも明らかに異常な資金還流工作や経理操作に走り、そして、自滅したのか」という疑問が呈される。同著の著者は、この疑問について木村剛は自らのレピュテーション(評判)を守りたかっただけではないかと結論付けているが、もう少し違った捉え方もできるのではないかと思い、このエントリーを書いている。

木村剛の暴走

なぜ木村剛が暴走したのかを考える前に、まずはどのように暴走したのかを振り返っておこう。

木村剛は、東京大学経済学部卒業後、日本銀行に入行し自らのキャリアをスタートさせている。その後35歳で日本銀行を退職すると、世界の四大会計事務所のひとつKPMGが日本に設立した金融コンサルティング会社「KPMGフィナンシャル」の代表に就任。小泉純一郎政権当時、経済財政政策担当大臣であった竹中平蔵から僅か5名の各界における有識者から成る「金融分野緊急対応戦略プロジェクトチーム」に大抜擢されると、中心的な立場を担い金融再生プログラムをまとめ上げ、りそな銀行の実質国有化を筆頭に銀行の不良債権処理を劇的に進行させるなど多大な成果を残し、名声を手にした。

ところが、その後落合伸治という、最終的には「暴力団から命を狙われているからあとのことは頼む」とまるで漫画のようなセリフを言い残して突如姿をくらましたとされる怪しい人物にたらしこまれて、日本振興銀行の設立に関与し始めたあたりから徐々に様子がおかしくなりはじめる。あれよという間に振興銀行内で独裁的な立場を確立すると、「ミドルリスク・ミドルリターン」というなんとも言えない微妙な標榜を掲げ、既存の銀行が扱わないような高リスクの中小企業などに資金を融通するという理念のもと、銀行経営をまい進する。

振興銀行のビジネスモデルは、完全にモラル・ハザード型モデルとしか言いようがないものであった。我が国にはペイオフという制度があり、個人の銀行預金はその銀行が破たんしても10百万円までであれば公的に保護されるが、日本振興銀行はこのことを利用し自行の低い信用力を補完する一方、他行よりも高い預金利息を提示することで個人から資金を集めた。個人からすれば10百万円以内に資金を限定すれば、極めて低いリスクで高利で運用できるのだから願ってもない話だが、自らの営業のためにペイオフという制度を活用する振興銀行は、要するにペイオフという制度のフリー・ライダーに他ならない。

こうして広範に預金を募った結果、振興銀行の預金総額は最終的に6,000億円に達したという。困ったのはこの多額の資金の運用先で、預金者に支払う金利を上回る運用益を出さない限り、銀行の経営は立ちいかないことになる。結果、木村剛は上述したミドルリターンを求めて彷徨い、微妙な企業に資金を提供しては自らが起案した金融再生プログラムも忘れて不良債権の山を築き、商工ファンドのゴミ債権をバルクで買い取ったかと思えば二重譲渡の詐欺に遭って多額の損失を計上し、挙句にはビービーネットやインデックスといったITバブルの燃えカスのようないわゆる怪しい系ベンチャーを次々と傘下に収めて中小企業振興ネットワークという謎の組織を構築、同ネットワーク内で資金を還流させたり不良債権の飛ばしを行ったりとやりたい放題だったところを金融庁に刺され、終には逮捕されるに至った。

振興銀行の経営をはじめた以降における木村剛の転落ぶりは確かに凄まじく、一体どうしてしまったのという疑問は確かに頭をよぎるものではある。

木村剛はヤンキーである

木村剛はなぜ暴走したのか。そのヒントは同著でしばしば語られる木村剛の素行にあるような気がする。以下、いくつか引用する。

ただ、木村が同期のなかで一頭地を抜くほどの存在だったかというと、そうでもないと指摘する声がある。たとえば、日銀入行後、キャリア組は海外留学を一度は経験するが、木村の留学先はイギリスのハル大学という日本ではあまり知名度のない大学だった。前出の日銀OBは「お情け留学だった」と話すほどだ。行動派でとにかく馬力のあった木村は後輩から慕われた。ただ、そんな時も「俺はカラオケが上手くて日銀に採用された」などと自身を偽悪的に語ることが多かった。木村は尾崎豊松山千春の曲をよく歌った。
凋落 木村剛と大島健伸 P.56

東大卒で日銀入行と言えば一般人の我々からすればスーパー・エリートに間違いないが、木村剛は、そのスーパー・エリートの集団内にあっては必ずしもエリートとまでは言えない存在だったようだ。「カラオケで採用された」という寒いギャグには、エリートであるという自覚は微塵も感じられず、どちらかというと日本銀行に大勢いたであろう”真のエリート”に対するコンプレックスのようなものすら感じる。木村剛は、同著によれば大学時代は麻雀に没頭していたそうで、私の個人的な経験に照らすと、もしかすると大学の成績もあまり振るわなかったタイプだったのかもしれない。

日銀は公家タイプの職員が大半を占める。政治にまみれ、剛胆さを求められる旧大蔵省とは対照的に、職員は大人しく、時に政治オンチとも揶揄される。そうしたなか、木村と福井*1は平均的な日銀マンなら眉をひそめるような場に出向いていく度胸があったという点でも共通していた。
その一つが、「B&Bの会」とその流れを汲む経営者の集まりだった。
凋落 木村剛と大島健伸 P.52

この「B&Bの会」というのは、後の「ベンチャー協議会」である。「ベンチャー協議会」といえば、株価操縦で有名なキャッツや、暴力団との親密な関係で有名なアイ・シー・エフ、100億円に迫る額の巨額横領事件で有名なジャック、覚せい剤で有名なダイナシティ、インサイダーや仕手取引で有名なジェイブリッジなど、数々の有名ベンチャー企業を世に輩出したアグレッシブな経営者の集いだが、木村剛日本銀行時代からこうした集いに顔を出していたのだそうだ。参加していた面子の濃さを考えると、普通の人にとってはシーベルト値が高すぎて健康被害を受ける可能性すらあるが、木村剛がこうした場に普通に出入りできていたとすると、そもそもそういう素質があったのではないかと疑わざるを得ない。少なくとも、一般的に我々が抱く「日銀マン」のイメージとはまったくかけ離れた人物像を垣間見ることができる。

東大時代に数々の懸賞論文に応募していたという木村はニューヨーク赴任のすこし前から「織坂濠」との筆名で専門誌に寄稿を始め、1994年にはジャーナリストの財部誠一と共同で不良債権問題に関する最初の著作も出している。織坂の姓は織田信長と坂本竜馬から一文字ずつとったとされる。ともに時代の変わり目に登場し、旧弊を打ち破ることで、歴史を前進させた変革者である。織坂との筆名は、その頃から木村に芽生えていた志向を如実に物語っている。
凋落 木村剛と大島健伸 P.57

まさかの織田信長と坂本龍馬である。別に悪いとは言わないが、チョイスがまるで中学生のようだ。普通の大人は自らを織田信長や坂本龍馬に準えるようなマネは恥ずかしくてできないものだが、そんな人物を二名とも採用してしまうというのだから並の感覚ではない。別に同じコンセプトで「坂田濠」にすることもできただろうに、それを敢えて「織坂濠」にするあたりのファンシーなセンスは、最近たまに話題になる自分の子供に「悪魔」だの「天使」だの「騎士」だのと過剰に個性的な名前を付けたがる親のセンスに通じるものがあるような気がする。

スモークがたかれ、レーザー光線が照らすなか、理事長の木村剛が壇上に現れると、パワーポイントを時折使っての基調講演が始まった。「大志共鳴」「切磋琢磨」「互恵互栄」「唯一生き残るのは変化できる者である」 一時間半に及ぶそのなかで、木村は教育や研修、雇用をその年の重点分野に挙げ、大学の買収も臭わすなど、相変わらず遠大な構想を一人熱く語り続けた。(中略)
そして最後はいつものようにアメリカのオバマ大統領に倣って会場全体で気勢を上げた。「イエス!」壇上の木村がそう叫ぶと、それに続けて全員が唱和した。「ウィ・キャン!」 それを三回繰り返すのである。
凋落 木村剛と大島健伸 P.236

このセンスである。上記引用部では途中を省いたが、省略した部分ではアントニオ猪木が成績優秀者にビンタをするというベタな余興や、お笑い芸人を司会に据えてのクイズ大会の様子が語られていた。この全編を通じて散りばめられた凄まじい量のバッド・センスは、かつてナンシー関が提唱したヤンキーの美学と完全に一致する。上のイベント、実は氣志團のライブイベントですと言われても何の違和感もない。「イエス・ウィ・キャン」、オバマ大統領に倣ってというか、ただのパクリである。

これは、急速に拡大したネットワークに自らの尊厳を重ねることで陶酔した結果などではない。こんなに完成度の高い”外した”感じのバッド・センスを、人は一朝一夕で身につけられるものではない。考えられる可能性はただひとつで、木村剛のセンスはもともとこういうものだったということだ。

「カラオケで日銀に採用された」という露悪的なギャグを飛ばしつつ、怪しい会合にも積極的に顔を出し、織田信長と坂本龍馬を自身に重ね、スモークとレーザー光線のなかで四字熟語を連呼するような人を、普通”エリート”とは呼ばない。これは完全に”ヤンキー”である

ヤンキーが暴走することに理由(ワケ)なんてない

木村剛はなぜ暴走したのか。木村剛をエリートとして捉えるからわからなくなるが、見てきたとおり木村剛という人物は学歴こそ高いものの、その精神的支柱は明らかにヤンキーである。そして、ヤンキーが「暴走」するのは極めて自然なことだ。放っておいても勝手に盗んだバイクで走りだすわけである。

ちなみに、大島健伸の方は会社の経営が傾くや否や自らの報酬を10倍にも吊り上げて資産の保全を図るなど、身体のどこを切り取っても私利私欲というタイプで、木村剛とは俄かにタイプが異なる。木村剛がヤンキー的なら大島健伸はチーマー的で、いわゆる辰吉丈一郎真木蔵人の違いのような差があるように思う。

と、ここまで書いたところで、そもそも「日本のベンチャー」の大部分は「ヤンキー的なもの」で構成されているのではないかという画期的な仮説に思い至ったが、長くなったのでその話はまた今度にしたい。

参考

凋落 木村剛と大島健伸
高橋 篤史
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冒頭で紹介した通り綿密な取材に基づいて書かれたノンフィクションで、木村剛大島健伸という人物の人となりをかなり具体的にイメージでき、将来は両名のようになりたいという人にも、なりたくないという人にもお勧めできる。


ヤンキー文化論序説
ヤンキー文化論序説
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五十嵐 太郎
河出書房新社
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複数のサブカル系(?)知識人がヤンキーについて語るというもの。人によっては単なる不良文化の紹介というか、いわゆる”あるあるネタ”になってしまっているが、やはり多くの日本人が内に秘めているというヤンキー的な美学に対する憧れのようなものにスポットライトをあてたナンシー関の分析は鋭く、それに基づいた論考には読みでがある。私自身はそうしたヤンキー的なものに心惹かれることはあまりない方だが、確かにそういうのが好きな人は良く見る気がする。

*1:日本銀行総裁 福井俊彦

学歴偏重主義の弊害

少し前の記事だが、日経新聞によれば、日本マクドナルドが従来の採用方法を排しすべての採用をインターンシップ経由に切り替えたとのことである。やたらと学歴を重視する日本の採用慣行は明らかに悪弊であり、こうした新しい試みというのはもっと歓迎されるべきものではないかと思った次第。

日本マクドナルドホールディングスは2012年春入社の新卒採用から会社説明会を廃止し、インターンシップ(就業体験)参加者から選考する方式に一本化する。3日間のインターンシップで学生の資質をじっくり見極め、学生にも会社への理解を深めてもらう。先進的な取り組みとして注目を集めそうだ。
マクドナルド、新卒の説明会廃止 選考は就業体験のみ

学歴偏重主義というチキンレース

我が国における大学進学率は年々上昇を続け、最近では50%を超えている。つまり大半の人が四年制大学へ進学するわけだが、これは単に企業の採用枠が大卒中心だからその対策として進学するのであって、大学で学ぶ知識なり経験なりが何かの役に立つということではないと思っている。

少なくとも私は、中学・高校で学んだことはまだ覚えていても、大学で学んだことなど何一つ覚えてない。いわゆるひとつの青春時代的な意味合いでは貴重な4年間だったのかもしれないが、学業や資質向上の面からは、完全に失われた4年間*1だった。

一方、採用企業側が何故かくも無意味な学歴という単なるシンボルに固執するかといえば、学歴競争の結果を援用することで、選別にかかるコストを削減したいがためだろう。

学歴の重要性がある程度社会的に共有されている限り、学歴競争の結果はそれなりに有意である。現状、学歴競争は10年にも及ぶ熾烈なもので、そこでの敗者は他の競争でも敗者となる可能性がある。企業にとって、そうした敗者と勝者をある程度選別できることの意味合いは大きい。

こうした状況は、ある種のチキンレースのように見える。学生側も企業側も、大学教育自体には大した意味がないことは薄々感づきながらも、既存の採用慣行から外れると損をする可能性が高まる(学生は就職できない可能性が高まり、企業は学生を選別する方法を別途考案する必要がある)から、仕方なくレースを続けている。

経済発展と教育

これは純粋に私見だが、例えばある社会において、経済の発展と共にナレッジが蓄積されると、教育コストは上がる。そして教育コストが上がると、家計の負担が増えるため出生率は低下するだろう。結果として労働人口は減少することになるが、その影響は一人あたり生産性の向上で補われる。

子供を農業に従事させる場合、生産活動に従事するまでの期間は比較的短く、また田畑さえあれば生産のためのナレッジも伝達に膨大な時間を要する類いのものではない。一方、子供を医者や弁護士にしようと思うと、20年から30年の期間と莫大な初期投資(教育費)がかかる。仮に生まれた子供をすべて農業に従事させる社会と、すべて弁護士にする社会があったとすると、どちらの社会の出生率が低いかは自明だろう。

よって、弁護士になる人が増えると人口は減ることになるが、一般に弁護士は農家よりも高い付加価値を生むから、人口の減少を1人当たりの生産性向上によって補うことができる。弁護士は起業家などに置き換えても良い。

教育バブルと長期低迷

ところが、ナレッジの蓄積と乖離して教育コストだけが上昇してしまうと、人的資本は減少し、社会の経済的発展は阻害される。人口が減少するだけで、生産性の向上がみられないからだ。

そして、上でみたように学歴がチキンレース化している状況こそはまさに、ナレッジの蓄積とは無関係の教育バブルであり、実際に我が国の経済は長期に渡って低迷を続けている。私は、日本の長期低迷の原因の一端を教育(特に高等教育)に見出さずにはいられない。

日本が長引く低迷から抜け出し、再び成長の軌道にのるためには、庶民に大卒という有名無実のステータスを高値で売りつける詐欺大学を一掃し、社会全体としての教育コストを押し下げるべきである。

そのためにはまず、企業が学歴偏重の採用活動をやめる必要があるだろう。言うほど簡単なことではないが、冒頭で紹介したマクドナルドのような事例が徐々に増えればいいと思う。

企業はかつてない採用コストを負担することになろうが、成功すれば有能な社員を他社に先駆けて雇い入れることが可能になるというメリットもある。

*1:ほんとは5年行った。