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そもそも勤労の美風とか言ってる場合なのかという問題その他

社会

この間、ソーシャルゲームと賭博の保護法益の関係などを眺めていて、少し思ったことがある。

極論すぎるかなと思って当初のアジェンダには書かず、話が盛り上がってきたら煙幕的に投入しようと思っていたのだけど、どうやらディベートとして盛り上がっていく雰囲気もなさそうなので、何か変な間になってしまうけど、つらつらっと書いておく。まあ、なんでも好きなことを好きなときに書いていいのがブログのいいところであるな。と自分に言い聞かせつつ。

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ソーシャルゲームを規制すべきでない理由 ※まとめ追記

議論

前回のエントリーは、まあひとことで言ってしまえば、ウケ狙いで書いた所謂ネタエントリーだったのですが、エントリーアップ後しばらくして、元切込隊長ことやまもといちろうさん(39)から、何を間違えたのか興味深いお申し出をいただきました。

それはツイッター上での簡単なやり取りとなりましたので、以下にサクッとご紹介させていただきます。




唐突にアルファブロガー(死語)に絡まれ、俄かに狼狽して浮足立っている私が笑えるのは置いておくとして、ソーシャルゲーム規制についてのディベートを、とのことです。何度読んでも「納得ずくで」というあたりが微妙に恐ろしいのですが、アクセス乞食の泡沫ブロガーには実にありがたいお話ですね。こうなったら是非Dコーガイさんや池田N夫先生、Hックルベリーの人などの有名どころにも乱入していただき、凄絶な有刺鉄線電流爆破デスマッチの末に全員爆発して欲しいと切に願うばかりであります。

ということで、今日はソーシャルゲームを規制すべきでない理由について書いてみたいと思います。本当は先週書いてアップしようと思っていたのですが、シンガポールに旅行しており、食べたり飲んだりで大変忙しかったので今日になってしまいました。

なお、ディベートとのことなので、いつもより少し口語ぽく書かせていただこうと思います。そのためかわかりませんが、異常に長いです。また、申し上げているような趣旨なので、本エントリーにはオチというものもありません。長いのはまあ毎度のことですが、当ブログ恒例、無理矢理ひねり出した苦し紛れのようなオチを鼻で笑うことを楽しみにして読みにいらしていただいた方は、そっとブラウザを閉じていただくことを推奨いたします。

規制のメリット

さて。根っからの正直者なので最初に申し上げますが、私は、ソーシャルゲームを規制すべき大義というのは少なからずあると思っています。

青少年が、携帯電話を通じて日がなスロットやルーレットを模したガチャに興じ、ともすれば何十万もの支払いを迫られるという状況は、社会として決して望ましいものではありません。それこそ競馬やパチンコといった賭博場への出入りを禁じているように、または夜10時以降のゲームセンターの出入りを禁じているように、未成年者をある程度ソーシャルゲームから遠ざけるというのは、必要な措置であると認識しています。実際、私も自分の子供に対してそういう態度で臨むでしょう。

子供たちは、そもそも自分の財布を持たないので、リスクとリターンのバランスがわからず、下らないものに対してでさえ、ふとしたキッカケで大量の金銭を投入しがちです。また、経験の少なさゆえ、ソーシャルゲームを介して近づいてくる悪意に満ちた大人を、一瞥してスクリーニングすることもできません。そうした子供たちを、ソーシャルゲームのような社交場というか射幸場にみだりに出入りさせることは、ともすれば子供たちを破滅に追い込みかねず、多くの子供たちが破滅していく事態は、社会全体として大きな損失であると理解するところです。

子供の管理は親がすればいいと言うのはまったくそうで、私もそう思いますが、ソーシャルゲーム業界としても、子供たちを搾取してるという悪しきイメージを持たれないために、必要な規制というのはありえる話だと思うわけです。

ただ勘違いしてほしくないのですが、私は、ネット界隈でソーシャルゲーム憎しと怨嗟の念を撒き散らし、規制だ何だと声高に叫んでいる人たちのように、ソーシャルゲームを、詐欺であるとか賭博であるとか、そういった理由で規制すべきとは全く思いません。理由は、ソーシャルゲームが詐欺でも賭博でもないからです。

ソーシャルゲームは詐欺なのでしょうか。違います。詐欺とは、読んで字のごとく、事実を詐(いつわ)り、他人を欺くことによって、不当な利益を得ようとする行為のことです。ソーシャルゲームのユーザーは、ガチャが無料であると言われてカネを騙し取られているのでしょうか。何か月にもわたって?違いますよね。若しくはソーシャルゲームのユーザーは、あの変なビックリマンカードみたいなやつとか、変なおっさんがコスプレしたみたいな絵が描かれたカードではなくて、何か別のもっと素晴らしいもの(貴金属とか?)があたると信じてガチャを回し続けているのでしょうか。そんなはずないですよね。ソーシャルゲームのユーザーは、1回300円でガチャを回すと、ゲームで使えるカードが当たるとわかっていて、そして、それをゲームで使うのが楽しみで、ガチャを回すわけですよね。それは詐欺ではありません。対価の支払いです。

対価が高額すぎるということをもって、ソーシャルゲームを非難する人もいます。結構たくさんいます。でもそれって、あなたがそのゲームに興味がないから高額すぎると感じるのであって、そのゲームを心から楽しんでいる人にとっては、正当な金額なのかも知れませんよね。車でもロールスロイスとかベントレーとかってやたら高いですけど、あれも詐欺なのでしょうか。このようにお互いの主観をぶつけ合っていても正当な対価の水準にたどり着くことは困難ですが、これだけ長い期間にわたって、多くの人が納得して対価を支払い続けているという事実は、対価の正当性を証明するひとつのエビデンスになりそうです。

では、ソーシャルゲームは賭博でしょうか。これも違います。賭博というのは、一般に金銭などを賭けて偶然性の要素が含まれる勝負を行い、その勝負の結果によって、賭けた金銭などのやりとりをおこなう行為であるとされます。確かにソーシャルゲームにおいては、金銭を投じて偶然性の要素が含まれる「ガチャ」が行われます。しかし、投じられた金銭は単に事業者が総取りするだけで、勝負の結果に応じて分配されたりすることはありません。金銭は賭けられたのではなくて、支払われたのです。やはり、対価として。

RMT(リアル・マネー・トレード。ヤフオクなどを利用して、ゲーム内アイテムを現実通貨で取引する行為を指す。)があるから、ソーシャルゲームは実質的に賭博と同じだと言う人がいます。本当に多いです。でもこのRMTというのは、要するにセカンダリーマーケットなんですね。「ドリランド」のカードを、本当に魅力的だと思った第三者が、自らの判断でそれを買い取っているに過ぎないわけです。セカンダリーマーケットで換金が可能なものなんて、世の中には本当にたくさんあって、それこそ遊戯王カードやガンバライドカードなどのトレカものは大体そうですし、株式なんかの有価証券もそうです。本もパソコンも自動車も住宅だってそうです。これ全部賭博ですか?そんなバカな話があるはずがありませんよね。パチンコ屋については、「ケイヒン」と呼ばれるあの何に使うかよくわからない謎の箱を、驚くほど簡単な審査で、しかも無制限に買い取ってくれる正体不明の業者が、たまたまパチンコ屋のそばに、パチンコ屋と1対1対応で存在しているという凄まじい不自然さから、「それはさすがにパチンコホールとグルでしょ(=事実上パチンコホールが賭け金を分配しているでしょ)」という弁が成り立つわけですが、同じ理屈をソーシャルゲームにも当てはめるのは不可能です。

ですから、ソーシャルゲームを規制すべき理由は、やはり一点のみです。上で述べた通り、放置することで社会の風紀が乱れ、結果として児童が犯罪の被害に遭ったり、少年の非行が増加したりするからです。他にはないと思います。

規制のデメリット

話をここで終えると、ソーシャルゲーム規制すべしということで早々に決着がついてしまいそうですが、私は規制に賛成するつもりはありません。ソーシャルゲーム規制には確かに大義がありますが、デメリットも存在するからです。要するに、規制にはメリットもあるもののデメリットのほうがなお大きいと、私はこのように主張したいわけです。

規制のデメリットというのは、言うまでもありませんが、市場の機能を鈍らせ、産業の発展を妨げることです。

これは経済学の大原則の話ですが、市場には神の見えざる手と言われるような自律的な調整機能があって、それは需給のバランスを活用してものごとを望ましい水準に収めるように作用するとされています。個々人の合理的な行動が合わさることによって、全体としても合理的な結果が生じるわけです。だから、政府はなるべく余計な口を挟まず、市場に任せるというのが本来合理的なはずなのです。これは、長きにわたる経済学者による研究の偉大な成果の一つです。

ただし、当然、市場も万能というわけではないですから、大原則にも例外があって、例えば情報の非対称性や外部性がそれに当たります。市場参加者の間で情報に偏りがある場合は、公正な取引がなされず、結果として市場はうまく機能しません。情報量に劣る参加者が、一方的に損失を被りやすくなります。また、取引の影響が市場参加者以外に及ぶ場合、その影響が市場形成に反映されませんから、市場は、参加者以外の人に損失を押し付けるようなカタチで均衡してしまいます。ちなみに、上で述べたソーシャルゲームを規制すべき理由も、外部性によるものの一形態であるとして整理が可能でしょう。例えば工場排水による水質汚濁が周辺住民の健康被害を起こすように、ソーシャルゲーム界隈の風紀の乱れが児童買春などの犯罪を引き起こすからです。

規制のデメリットの話でした。規制が産業の発展を妨げるとはどういうことでしょうか。

例えば、ユーザー数が8億人を超えたとか、IPO時の時価総額が8兆円だとか言われ、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのfacebookですが、あれはもともと出会い系サイトでした。「でした」、と一応気を使って過去形で書きましたが、今も出会い系といえば出会い系かもしれません。試しに日本における出会い系の定義を見てみましょう。次の通りです。

異性交際を希望する者の求めに応じ、その異性交際に関する情報をインターネットを利用して公衆が閲覧することができる状態に置いてこれに伝達し、かつ、当該情報の伝達を受けた異性交際希望者が電子メールその他の電気通信を利用して当該情報に係る異性交際希望者と相互に連絡することができるようにする役務を提供する事業をいう。
インターネット異性紹介事業を利用して児童を誘引する行為の規制等に関する法律

まず、「異性交際を希望する者」ですが、これは大体みんなそうですよね。で、その大体みんな「に関する情報をインターネットを利用して(中略)伝達し」とありますが、みなさん恋愛対象が女性だとか男性だとか彼氏が欲しいとか彼女が欲しいとかそういうプライベートをfacebookに載せて他人に伝達してますよね。で、そういうプライベートな「情報の伝達を受けた異性交際希望者が(中略)連絡することができるようにする役務を提供する事業」が出会い系だということですが、facebookって、気軽に友達申請とか送れて超Coolですよね!あ、出会い系ですね。

何が言いたいかと言うと、果たしてfacebookが「出会い系」というレッテルを貼られていたとしたら、現在のような成功を遂げることはできたのかということです。日本では、上で見たように出会い系の定義はかなり広範に設定されており、かつその社会的イメージはかなり低いわけです。そういう中で、レピュテーショナルなコストを負担しつつ、facebookのような一大事業が生まれ得るのでしょうか。

mixiもamebaもGREEmobageもそうですが、日本でははてなを除く名だたるSNSはみんな出会い系の誹りを受けてきました。それもそのはずです。出会い系の定義がやたら広いからです。そして、次の節でもまた詳しく見ていきますが、日本の法律における出会い系というのは、犯罪の温床となる純粋な「悪」であり、「発展させるべき産業」としては全く位置づけられていません。

facebookの業績は確かにすばらしく、通期の純利益は1000億円に迫るそうで、これはグリーの約2倍にあたります。ところが時価総額でみると、facebookのそれはグリーの約15倍です。全てがそうだとは言いませんが、この差はグリーの規制リスクに起因するところも少なからずあるでしょう。時価総額がこれだけ違えば、調達できる資金の量も当然まったく違ってきます。資金の調達がうまく行えなければ、いくら事業が有望であっても会社として大成しないことは明らかです。日本からは、米国のようにグローバルに成功するベンチャー企業がなかなか出てこないと嘆く声が比較的多くあります。私はこの原因として、ちょっと儲かるとすぐ規制が入るという日本の悪しき伝統、嫌儲の風習があるように思えてなりません。

要するに、これが規制のデメリットです。

良い規制と悪い規制

規制にはメリットもあるがデメリットもあるという話をしてきました。メリットがデメリットを上回るのであれば規制すべきということになりますし、デメリットが上回るのであれば規制はすべきではないということになります。これから、ソーシャルゲーム規制ではデメリットの方が大きいという話をしていこうと思います。

規制には、良い規制と悪い規制があります。良い規制は、規制のデメリットを最小限に抑えながら、規制のメリットをしっかり享受できる規制で、悪い規制はその逆です。

ソーシャルゲームに対する規制が良いものになるのか悪いものになるのかを予想するために、現在既に施行されている法律のトレンドを見てみましょう。以下に引用するのは、我が国における主要なインターネットサービス関連規制法である、いわゆる出会い系サイト規制法と青少年インターネット規制法のうち、それぞれの目的、つまり法律としてのコンセプトを定めた条文です。

第一条(目的)
この法律は、インターネット異性紹介事業を利用して児童を性交等の相手方となるように誘引する行為等を禁止するとともに、インターネット異性紹介事業について必要な規制を行うこと等により、インターネット異性紹介事業の利用に起因する児童買春その他の犯罪から児童を保護し、もって児童の健全な育成に資することを目的とする。
−インターネット異性紹介事業を利用して児童を誘引する行為の規制等に関する法律

第一条(目的)
この法律は、インターネットにおいて青少年有害情報が多く流通している状況にかんがみ、青少年のインターネットを適切に活用する能力の習得に必要な措置を講ずるとともに、青少年有害情報フィルタリングソフトウェアの性能の向上及び利用の普及その他の青少年がインターネットを利用して青少年有害情報を閲覧する機会をできるだけ少なくするための措置等を講ずることにより、青少年が安全に安心してインターネットを利用できるようにして、青少年の権利の擁護に資することを目的とする。
−青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律

上記2法、非常に特徴的だと思うのですが、お気づきでしょうか。例えば、私が大好きな金商法では当然、「金融商品取引業を行う者に関し必要な事項を定め」ることで「国民経済の健全な発展」に資することを目的とすると書いてありますし、貸金業法にだって「必要な規制を行う」ことで、「国民経済の適切な運営に資する」と書いてあります。あまつさえ風営法ですら、「風俗営業の健全化に資する」ことを目的に据えているのに、上記2例では、児童や青少年の保護のみが専ら謳われるばかりで、産業の育成や社会の発展という大目標が一切出てこないのです。まるで、インターネットこそは純粋な悪であり、その脅威から児童や青少年を守ることこそが、偉大な正義たる法と警察の役目だとでも言わんばかりです。

この違いは、一義的には、金商法や貸金業法が業界に対する直接の規制であるのに対し、インターネット関連規制はあくまで、インターネットサービスを利用した犯罪行為を規制するという建て付けになっていることから来るのでしょう。ただ、そもそもああゆう長ったらしい名前を冠したうえで、そういう周りくどくてややこしい趣旨の法律を用意しなくてはならないあたりに根本的な問題があるように感じるのです。

インターネットサービスがもし純粋に悪であると判断するなら、それはもう刑法で禁ずるべきだし、デメリットはあるものの産業として有益だと判断するのであれば、社会との共存を目指した前向きなルールを設けるべきです。にもかかわらず、単にPTAの抗議に流されただけのような、ああゆう中途半端な何ともいえない法律がつくられてしまうのは、そういう判断ができないことの証左であると言えるのではないでしょうか。

思うに、結局本邦政府関係者はインターネットのことがよく分からないのでしょう。少なくとも、社会を構成する重要な要素であるとか、今後の発展が望まれる有望な産業であると言った認識はなく、何となく社会の外側、つまりバカと暇人のものだと位置づけているフシはあると思います。

この背景には、おそらく年齢的な制約もあることでしょう。年老いてからまったく新しい概念を受け入れるというのは、かなり敷居が高いことです。であればいっそ、Yahoo!の井上社長がそうしたように、若い世代に後を譲るというのがあるべき指導者の姿だと思いますが、日本の政治家はそれもしません。理由は有権者も高齢化しているからです。

悪い規制よりは何もない方がまだマシ

上述したような現状を踏まえる限り、私はソーシャルゲームを規制すべきではないと言わざるを得ません。

悪い規制というのは理念に欠けるため、とかく暴走します。ソーシャルゲー厶界隈はいま、多額の利益を稼ぎ出していますが、警察庁はこれを新たな利権にしようとしているのではないのでしょうか。それこそ、パチンコをそうしたようにです。彼らには前科があるのです。

規制の目的が利権の確保へと流れてしまうと、当初の保護法益などはあっという間にどこかへ行ってしまいます。主要な繁華街の一等地と言うのは、いまやほとんどパチンコホールなわけですが、あれは果たして風紀を乱していないのでしょうか。国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済の影響を及ぼしてはいないということなのでしょうか。

シンガポールや香港(マカオ)といった新興国は、ギャンブルを禁じる一方、国営のカジノ施設を設け、観光客の誘致につなげていますが、日本の薄汚いパチンコホールには、そのような国際的な競争力も一切ありません。パチンコを目当てに日本を訪れる外国人観光客とか、見たことも聞いたこともないですよね。そもそもパチンコホールは、国内の証券取引所に上場することすらままならないわけです。理由は、法的にグレーだからです。こんな中途半端な規制に何か意味がありますか。

どうせこんなことになるのだから、もう規制など一切不要であると私は強く主張したいのです。

確かに、私も、冒頭で述べた通り、自分の子供がソーシャルゲームを通じて何らかの被害に遭うような状況は何としても避けたいとは思っていますが、それは私が子供をきちんと監視して制御すればいいのです。幸い、携帯電話は物理的な人間よりもトラッキングし易いわけですから、自分の子供がソーシャルゲームに近づかないように見張ることは、子供がゲーセンや賭博場に出入りしないように見張ることよりも、ずっと容易です。

必要な規制を行わないことによって、業界の信頼は落ちぶれ、結果的に業界自体消え失せるようなことはあるかもしれません。ただ、反対に、自主規制によってうまく折り合いをつけるということもあるかもしれない。いずれにせよ事業存続のリスクは低くはありませんが、それでもやはり警察の利権として生簀で飼われるよりは、よほどマシではないでしょうか。もし万事うまく行けば、日本から国際的な優良企業が新たに生まれるという大きなリターンを享受できる可能性もあるわけですから。


まとめ(4/6追記)

読み返してみると想像以上に冗長でしたので、まとめておきます。

まず、規制にメリットはあります。それは社会の風紀を正常に保ち、青少年を保護することです。

反対に規制にはデメリットもあります。それは産業の発展を妨げることです。

規制によるメリットの実現にはリスクがあります(規制してもメリットが実現しないという本末転倒な事態が起こり得ます)。なぜならオンラインのことをよくわかってない人が、よくわってないままに自己の利益だけを考えて規制を行う可能性があるからです。

最低限の保護法益だけを見据えたシンプルな規制にすれば、規制によるメリットの実現に際してのリスクを減少させることができますが、年齢による利用制限などのシンプルな規制であれば、自主規制や保護者の監視で十分に代替できる以上、政府の出番はありません。

上記を総合すると、規制によるデメリットが小さくない割にメリットはあまりないので、規制をするべきではありません。

以上です。

参考

マンキュー入門経済学
N.グレゴリー マンキュー
東洋経済新報社
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経済学の基礎を習熟するための良書。冒頭に纏められている「経済学の十代原理」は覚えておいて損はないという感じ。上記は「第6原理:通常、市場は経済活動を組織する良策である」及び「第7原理:政府は市場のもたらす成果を改善できることもある」から。 

ソーシャルゲーム規制の方向性について 〜金商法あるあるを交えながら〜

ネタ 金融

もともと騒がしかったソーシャルゲーム界隈だが、先日グリーの人気ゲーム「ドリランド」内で利用されるカードが不正に複製される事件が発覚したことを機に更なる盛り上がりを見せ、部外者と門外漢を中心に無責任で面白半分の盛大な規制コールが巻き起こっているようなので、今日はこの問題について考えてみたい。

なお、過去にも当ブログのエントリーを読んでいただいたことのある読者の方々には今更言うことでもないかもしれないが、かくいう私こそが部外者かつ門外漢の最たるモノであり、これから書くことこそがまさに面白半分の野次に他ならないわけであるから、タイトルに釣られて真面目なエントリーと思って読みに来てしまった方は、そっとブラウザを閉じることをお勧めしたい。

「ドリランド」カード複製事件

さて。まずは、ドリランドカード複製事件を簡単に振り返っておこう。

ドリランドというのは、ダンジョンでモンスターを退治して宝物をゲットしようという、まあよくあるタイプの、いわゆるロールプレイングゲームだ。プレイヤーは、ハンターと呼ばれる存在を操ってモンスターと戦うことになるが、そのためにはハンターを表象したハンターカードと呼ばれるカード持っている必要がある。ハンターカードはいかにして入手が可能かと言うと、主にガチャと呼ばれる仕組みによる。ガチャをすると、ランダムで何らかのハンターカードを得ることができる。ガチャは、ドリランドのプレイヤーであれば誰でも、1日1回無料で引くことができるが、当然いいカードはなかなか出ない。たくさんガチャを回したければ、追加的な課金に応じる必要がある、と大体こういうことらしい。

で、今回起こったことは、このハンターカードを複製できる裏技みたいなものが見つかってしまったということであり、その結果、とりわけレア度の高いカードが大量に複製された挙句、ヤフーオークションなどを経由して流通したとのことである。その取引総額はなんと4億円を超えるというから、驚かないほうがおかしい。ジャスダックあたりのクソ株を遥かに凌ぐ流動性だ。

ゲーム内のアイテムを換金することについては、運営側のスタンスとして基本的に禁止しているものの、ヤフーオークションなどの外部のサイトでやられる分については事実上黙認してきたような部分があった。そうした中で上述したような事件が起こると、「事実上換金できるんじゃん」という共通理解が広がることとなり、結果として「ちょっと問題があるんじゃないの」という話になるのは比較的自然なところだとは思う。

ソーシャルゲーム≒パチンコ?

で、このヤフーオークションなどを活用した換金の仕組み、これがパチンコ業界におけるいわゆる三店方式に酷似していると、そもそもガチャの確率を操作して射幸心を煽るみたいな仕組みはもうパチンコそのものだと、そういう理屈で、このソーシャルゲームというものは要するにパチンコと同じなのであって、そういう前提で規制をするべきなのだと、このような議論がネットでは非常に多くなっている。終いには、ソーシャルゲームの価値をパチンコ産業を参考に試算して、グリーやDeNAの目標株価を引き下げるという新米モデラーのやっつけバリュエーションみたいなものが三菱モルスタ証券から公表され、事態はお笑いの極みとなった。

三菱UFJモルガン、ソーシャルゲームの市場規模予測を上方修正…ただし比較対象をパチンコとし目標株価やレーティング引き下げ | Social Game Info

果たしてソーシャルゲームはパチンコなのかという話であるが、私は、このことについては若干の異議を唱えたいと思っている。

三店方式に似ていると言うが、三店方式というのはむしろ、パチンコを賭博法上限りなくブラックに近い存在から、一応体面上だけでもグレーたらしめるための仕組みなのであって、それは三店方式自体が白だからこそなせる技である。三店方式的な仕組みでアイテムの換金も可能であるという事実を持って、ソーシャルゲームも賭博の一種だと断定するのは、坊主憎けりゃ袈裟まで憎すぎて、ストールを含めた袈裟っぽいファッションの人を端から虐殺していくような暴論であり、八つ当たりも甚だしいのではないか。

また、射幸心を煽るなというのも抽象的すぎて意味不明であり、世の中に数多ある射幸心ビジネスを捨ておいてソーシャルゲームだけを規制せねばならない理由はイマイチ見えてこない。もし射幸心ビジネスを一切世の中から排除すべしということであれば、まっさきに撲滅されるべきは占いや宗教の類ではないだろうか。大体、庶民から幸せを祈る気持ちを奪っていいのか。

金商法の適用

もしかすると、ソーシャルゲーム規制派の人たち(もしそんなのがいれば、だが)は、ここまでのエントリーを読んで頭に血を上らせているかもしれないが、私は断じてソーシャルゲームを擁護したいわけではない。ただ、規制するにしても筋道というものが必要だろうという話をしている。各方面における規制の筋道というものを損ねない限度において、件のソーシャルゲーム業界をギチギチに締め上げるためには、金商法(金融商品取引法)の適用が望ましいのではないか。私はこのように申し上げたいのである。

金融庁による、金商業者(いわゆる証券会社など)に対する取り締まりというのは、年々激化の一途を辿っており、現状において筆舌に尽くし難い水準に至っている。

そう。我々金商業者に言わせれば、賭博法や景品表示法など稚技に等しいと言っても過言ではない。金融庁には、是非とも我々金商業者の恐怖と不安を、ノウノウとネットサービスなど開発しているエンジニアどもにも味あわせてやって欲しい。

金融庁さん、これは管轄を一気に広げるチャンスでもあるんですよ。

実際、例えばドリランドを金融庁管轄にするのはさほど難しいことではなく、要はドリランドのハンターカードを有価証券とみなせばよい。実際問題、有価証券と言えば有価証券だろう。実物券面こそないが、そんなものは株券も一緒である。広義の有価証券とはつまり、何らかの財産やそれを得るための権利を表彰する証券を指すわけだが、ドリランドのハンターカードも、ハンターを操りモンスターを討伐し戦果としての宝物(及びその換金によって得られる金銭)を得ることができる権利を立派に表象しているではないか。

もしドリランドのカードが有価証券であるということになったら、当然それをヤフオクなどで取引することはままならず、金商法の認可を受けた金融商品取引所での売買に限られることになる。

その折には、是非DeNAは当該認可を取得し、忘れられた主力事業である「モバオク」を金融商品取引所に衣替えしたうえで、セントレックス、アンビシャス、キューボードに新たに東京金融取引所を加えた余分取引所四天王あたりと共に、レアカード上場争奪戦を繰り広げるカオスを演じて欲しい。

よろしくお願いします。

金商法あるある

ということで金商法である。

そのレギュレーションは微に入り細に至るが、投資者保護に関する原則自体は極めてシンプルだ。

ひとつは誠実・公正の原則。

そして自己責任原則。

最後に適合性原則である。

これらの素晴らしい原則がいかに厳格に運用されているか。まずは自己責任原則の前提たる説明義務について見てみよう。

金商業者は、有価証券等を顧客に販売しようとするとき、その有価証券に投資する際のリスクを事細かに書き連ね、それらリスクの内容に関する膨大なデータを記した大体100ページくらいある「目論見書」と呼ばれる書面を交付する義務を負う。ただそんな分厚い冊子、渡しただけでは読まないかもしれないということで、リスクだけを簡潔に記した概要書みたいなものも合わせて交付する。しかしながら、そこまでしてもなお、書類と言うのはなかなか読まれないものだということで、これらの書類については要点を読み上げ、必要に応じて咀嚼して説明することで、理解させるよう努めなくてはならない。

こうした説明義務が自己責任原則の前提だということは、ここまで入念に説明しない限りは、投資の失敗は顧客の責任ではないということだ。

これは理屈上そうなるとか、そういう生ぬるい話ではなくて、現に説明義務違反を理由に顧客に対する損害賠償を命ぜられ煮え湯を飲まされる同業者は相次いでおり、消費者金融に対する過払金返還請求を生業とする「正義の味方」の振りをしたチンピラ弁護士・司法書士の次なるターゲットの最有力候補として、この説明義務違反の損害賠償が上がっているくらいなのである。

ドリランドのカードは、極めて高リスクな有価証券であり、そのリスクとしてはざっと考えただけでも次のようなものがあるだろう。

まず、グリーが潰れたら紙屑すら残らない。グリーがドリランドの運営を放棄しても同様である。また、そもそもヤフオクなどで実際は取引がなされているとはいえ、取引の適法性に疑義があるわけだから流動性リスクも極めて高い。そして流動性が失われてしまうと、他のプレイヤーに自慢するくらいしか使い道がなくなってしまうから、みんながドリランドに飽きてしまった場合はもうどうしようもない。アカウントを持っていることすら恥ずかしくなってコッソリ削除するくらいのところまで、目に見えてる。

グリーには、ユーザーがドリランドをプレイ開始した時には上述のようなリスクをしっかりと開示すると共に、グリーの財務状態やドリランドのプレーヤー数推移、課金の実態などを克明に綴った書面を郵送し、更にはユーザーが有料ガチャに手を出そうものならすかさず電話して「全然いいカードは当たらないですけど本当にいいんですか」と小一時間問い詰めるくらいの姿勢が求められる。

もし本当にこんなことになったら、グリーの運営は悲鳴を上げるだろう。

しかし、実はこんなのまだ全然序の口に過ぎない。そうは言っても説明すりゃあいいのだから。

げに恐ろしきは適合性原則なのである。

昨年2月、国内で営業する金商業者の6割が座っていた椅子から転げ落ち、うち1割はそのまま亡くなったとも言われている伝説的な 判例が生まれた。

その事件は、SBI証券が顧客に対して信用取引における決済不足資金の支払いを求めたことからはじまった。SBI証券というのはいわゆるネット証券だから、顧客はきっと、誰に頼まれるわけでもなく勝手にネット経由で口座を開き、勧められることもなく信用取引を始めたに違いない。ところが、不幸なことに大きな損を出してしまった。信用取引では顧客が預託した証拠金を上回って損が出ることがある。だから、その不足分をSBIとしては払ってほしいと、こう主張したわけだ。なんとまっとうな主張だろうか。

ところが、SBIによるこのまっとうな主張に下された裁判所の判決は、実に意外なものだったのだ。

棄却したのである。

裁判所は、その顧客には信用取引をする「適合性」がないというのだ。その顧客は72歳の農業従事者だったそうだが、そういう人は証券取引に慣れてるはずがないんだから、申込みがあった段階で訪問するなり電話するなりしてリスクを説明し、それこそ取引をやめるように勧告すべきだったと。それをしなかったのだから、証拠金を超えた損失はSBI証券さんが負担しなさいと。こういうことのようなのだ。

顧客が勝手に申し込んできて、勝手に取引して、勝手に損したのに、なぜか損失を被らなければならないSBI証券

この恐怖、痴漢冤罪に匹敵すると断言できる。

グリーも、高まる規制プレッシャーに耐えかねてか、15歳以下のユーザーに対する課金を月5,000円までに制限するという一応の具体策を出してきたらしいが、金融庁さんに言わせれば「何をかったるいことを言っているのか」という感じに違いない。

例え15歳を超えていてもリスクの内容を全く理解できないアホというのはいて、そういうアホたちは万難を排しても保護しなくてはならないのだから、事業者は全てのユーザーの属性情報を細かくチェックすることで、ユーザーがアホではないことを確かめなくてはならない。当然だそんなこと。

手間がかかるから年齢などの比較的取得しやすい情報で一律に線引きする他ない?

甘ったれたことを抜かすな!

アホか!

こんぷらくんオチ

ところで、ハンターカードがいわゆる有価証券と異なっている点を敢えて上げるとすれば、それはコレクター心をくすぐることだろう。

この点、あまりコレクター心をくすぐり過ぎると、やはりアホが被害を受けることになりかねないわけであるから、ここでも対策は必要となる。

これについては、すべてのカードの絵柄について、東証の冊子に描かれている妙にアゴの長い"ゆるふわ"マスコット、「こんぷらくん」をベースとすることを義務付けることで、対処可能であると思料する。


楽天にありがちなこと

ビジネス

さて、このエントリーを書いている今の日付は2012年の3月11日ということで、例の東日本大震災からちょうど丸1年である。テレビをつけるとどの局も震災関連の特番に次ぐ特番で、改めて震災被害の甚大さを思わせる1日であった。私としても、1日でも早い被災地の復興を願わずにはいられない。

しかしながら、である。ブロゴスフィアテレビ東京を目指す当ブログとしては、ここで世間の雰囲気に飲まれ、安易にセンチでポエムなエントリーを披露するわけにはいかない。いつも以上に下世話な愚考を開陳して、みなさまの苦笑を誘っていきたいと思っている次第。

ということで、今日は楽天について考えてみたい。

気になる楽天


あれは、こないだ電車に乗っていたときのことだった。ふと楽天の広告が目に止まったのだ。なんの広告だったかはまったく覚えていないが、楽天のロゴだったことだけは、はっきりと覚えている。

前から思っていたのだけど、楽天のロゴというのは、何か言い知れぬ違和感があって、実に気になる存在である。良く言えばインパクトがあるということなのだけれど、例えば楽天ロゴのプリントされたTシャツがあったとして、着るかと言われたら、まあ寝巻にするだろうなとは思う。

楽天のロゴは、漢字でシンプルにドーンと「楽天」と書き、何故か2つの文字の真ん中にはアルファベットのRがくる。まあRakutenのRだと言うのはさすがにわかる。ただ、だったら社名も漢字じゃなくてアルファベットで綴りゃあいいじゃないかと思うのだが、なぜか漢字なんである。とは言え、あの真ん中にある赤地に白抜きのRマークだけで「あ、楽天だ」と思うかというと、これは相当怪しいから、やっぱりあの漢字の字面が必要なんだろうと思う。しかし、だったらあのRマークは一体何なのか。Gakutenじゃないよ、Rakutenだよという補助的なメッセージなのだろうか。気になる。

楽天が気になるのは、昨日今日始まったことではない。

先日も、日経ビジネスのオンライン版に楽天三木谷さんのインタビューが掲載され、少し話題になっていたのだけれど、「経団連って、全然チャレンジとかしないし新しいビジネスにも不寛容で、なんか爺さんたちの互助会みたいだから辞めちゃったよー、いやー奥田さんに頼まれて入ったんだけどさー、辞めちゃったよー、いやー奥田さんに頼まれたんだけどさー」というミサワ風コメントのウザさと共に、話がソーシャルゲームの話に及ぶと、DeNAによるベイスターズ買収に最後まで反対していたことに触れ、「子供の射幸心を煽るようなビジネスをしている会社は球団経営に相応しくない」というかねてからの主張を繰り返し、微妙に新しいビジネスに不寛容な姿勢を見せて、先の経団連に対する辛辣な発言との整合性を疑問視させる構成が印象的だった。

いまだによくわからないのだけれど、三木谷さんは、なぜあそこまで執拗にDeNAのプロ野球参入に反対したのか。子供への影響と再三おっしゃっているけれども、もしそれが本音ならDeNA参入反対の裏でひっそりと処分したプロフサービスや、楽天出身者が代表を務め、かつては資本関係もあったグリーがテレビでガンガンCMやってる件、並びに楽天市場から送られてくる大量の迷惑メールあたりとの整合性がよくわからないし、建前だとしてしまうと、本音がどこにあるのかさっぱりわからない。グリーを守ろうとしてDeNAを批判したと考えることもできようが、ただ、あの批判の仕方だとDeNAだけでなく見まごうことなき同業者であるグリーも決して無傷では済まないわけだから微妙におかしいし、参入候補がグリーでも反対したと言い切っているということもあるから、まあ違うのだろう。しかし釈然としない。

まだある。

先月発売のダイヤモンドは、定期的にやってるビジネス英語特集だったが、そこで楽天の社内公用語英語化に対する取り組みの進捗が「凄絶!」という煽り文句付きで紹介されていた(煽られてつい買ってしまった)。まあ国内売上だけだといずれ頭打ちになるというのはその通りだと思うし、それを打破するためにグローバルな企業になっていく必要があるというのも納得感があるから、社内の公用語はいっそ英語にしますという流れもまあわからないでもないなと思っていた。ところが、前掲の記事に綴られていたのはまさに凄絶としか言いようのない状況であった。

凄絶、単なる煽り文句ではなかったのだ。

曰く、会議資料からはじまった英語化の波は、いまや社食のメニューにまで達したとのことだ。加えて、全社員にはTOEICの一定点取得が義務づけられ、ご親切に短期留学の斡旋までしていただけるのだそうだ。ちょっとやり過ぎじゃねえのか。。

楽天従業員は、日本国内で、日本人相手に仕事をするのになぜか社内だけ英語になって不便じゃあないのだろうか。いや、不便に違いない。世界各地の支社を統括するようなポジションの人は英語マストね、それに伴って主要なレポートラインは英語にするのでよろしく、という程度なら十分わかるのだけれど、それよりも下位の組織というのは現地の言葉でやったほうがいいのではないのだろうか。例えば、今後メキシコあたりで事業をはじめるような時も、現地でメキシコ人を雇って、まずは英語を教育するのか。それとも英語の教育を施された日本人を送り込むのか。いずれにしても合理性の範疇からは逸脱しており、言ってしまえば実に意味不明である。

他にざっと検索してみたところだと、以下のような記事がみつかった。

DESIGN ARCHIVE - BLOG: 楽天Edyのロゴデザインについて考えよう。

まあダサいと。確かにダサいといえばダサいのだろうが、ダサさの源泉みたいなところに何かがある感じがするのである。

大学デビューとの共通点

さてこうした違和感。似たようなものをどこかで見たことあるよなとずっと思っていたのだが、つい先日ふと思い出した。大学デビューした人である。

今さら説明するまでもなかろうが、大学デビューというのは、大学進学という大きな環境変化にあわせて、自分のキャラを、それまで単なる憧れであった対象に一気に近づけていく試みを言う。非常に短い期間で劇的にキャラの切り替えを行うため、ついうっかり昔のキャラが顔を出したりと随所で綻びを見せるものの、それを勢いで乗り切っていくというのが通常の運用だ。

例えば、髪の色がやけに派手な割に、襟足の処理がバリカンライクでヘアスタイルの床屋臭がどうにも強すぎる人。劇的なイメージの切り替えを嗜好するあまり、ヘアカラーなどインパクトの強い手法が優先的に採用される一方、時間的、金銭的な制約のためにディティールには拘りきれていないために起こるチグハグさである。同種のチグハグさとしては、ジャケットのインナーにカットソーみたいな着こなしを志すも、よく見るとカットソーというかグンゼ(黄ばみあり)みたいな事案も4月のキャンパスでは散見される。例を上げればキリがないが、居酒屋で妙にカクテルばかり頼むというのも、大学デビュー的であると常々思っている。

ここで誤解のないように申し上げておくが、私は、楽天のイメージを大学デビューという甘酸っぱい思い出と括り付けて論うことによって、同社を批判しようと言うわけではない。そうした意図は一切ない。大体、大学デビューの何を恥じることがあるか。デビューしないよりはよっぽどいいではないか。大学デビューを馬鹿にするのはやめたまえ、キミタチ。

ということで、楽天と大学デビューの共通点である。

これは、要するに理想ドリブンだということではないか思う。つまり、何か方向性を決めるようなときに、現状から積み上げていくのではなく、理想から逆算するような思考回路が根底にあるように感じる。どう頑張っても、田舎の散髪屋通いと言う現状の延長線上にはメンズノンノは存在しない。そちら方面を目指すのであれば、どうしてもどこかで思い切って連続性を擲ち、現状を打破する必要がある。こうした大仕事を成し遂げるために必要となる膨大なエネルギーの源が、理想への強い憧れであることは言うまでもなかろう。

楽天のロゴに対する違和感についても、大部分は、あれほど素晴らしい業績を上げ続ける日本を代表するエクセレント・カンパニーの割にはダサい、というギャップによる側面が強いと感じる。あれが例えば年商1億くらいの中小企業による零細ECサイトのロゴであれば、誰も何も言うことはなかろう。業績拡大の勢いが急激であったがためにロゴの洗練され具合が追いつかず、結果として、言うなれば大学デビューした人の襟足やインナー部分みたいな位置づけになってしまっているのが楽天のロゴという整理である。

DeNAを執拗に攻撃していたことについても、おそらく合理的な利害関係の帰結というような話ではなくて、三木谷さんが理想として思い描く球団オーナーが子供に優しかったというだけの話なのかもしれない。理想から話を始める場合、今までそんなに子供オリエンテッドではなかったよねという整合性の話は関係ないのだ。むしろ理想を追い求めるに際しては、現状との多少の矛盾はつきものなのであって、それを勢いで乗り越えずしてどうして起業などできようかという話でもある。

また、楽天の現状、即ち売上の9割以上が国内で、社員の8割以上が日本人という現状に基づく限り、社内の言語をすべて英語にするというのはまったく合理的に導ける方向性ではないように思えるが、数年後、完全にグローバル企業と化したRakuten Corporationから逆算してくると、日本語以外喋れないスーパードメスティック社員が幅を利かせているような現状はむしろ説明がつかない。どこかのタイミングで劇的に切り替える以外に手はないわけで、それがたまたま今だったというだけだ。そこが居酒屋だろうが何だろうが関係ない。とにかくカクテルに嵌った自分を打ち出したい年頃なのである。

楽天あるある応用編

いま、楽天の本質にたどり着いた我々は、これから楽天に起こりそうなことについても容易に予想することができる。順に見ていこう。

  • ロサンゼルス本社建立

社員食堂を英語化した次は、もうアメリカに本社移転しかない。ここでのポイントは、微妙にシリコンバレーではないところで、何でもかんでもシリコンバレーマンセーな日本のベンチャーをひとしきり腐した挙句、自分はロスに移転しそうなのである。当然、本社を米国に移しても劇的にグループの米国での売上比率が向上するはずもなく、無駄にオペレーションが複雑化して当面はコスト増以外の効果をもたらさないあたりまでが予定調和だ。ついでと言ってはナンだが、ぜひ近隣には楽天ランド的な何かもオープンさせて欲しい。

特に根拠はないのだけど、誤解を恐れずに言えば、何となくキャリアと名のつくものが好きそうだという話ではある。それにしてもイーモバイルあたり、数年もしたら自然と楽天グループに入っていそうだから恐ろしい。フラッグキャリアは少し敷居が高いが、可能性があるとしたらやはりスカイマークだろうか。いずれにしても買収発表時の記者会見でのセリフはおおよそ見当がついている。「国際競争力のあるグローバルな○○キャリアとしていきたい」だ。この既視感である。件のロゴを機体に大きくプリントした飛行機が大空を飛び回り、世界の空港を席巻する様を想像すると、胸が熱い。

  • 代表権のない会長に退き院政

これは予想というか既に明確な兆候があらわれている。何を隠そう三木谷さんの役職は、会長兼社長だ。前々から不思議なのだけど、必ずしも必要とは言えない、むしろ名誉職に近いような「会長」という役職を、何故わざわざ新設してまで社長がそれを兼ねるようなことをするのだろうか。社長の仕事と別に、会長としての仕事というようなものが果たしてあるのだろうか。いや、ない。思うにこれは、「社長を後任に譲ったら会長職だけになりますよ」という布石だ。院政に向けたはやる気持ちを抑えきれずの兼職である。何という堂々とした伏線だろうか。

  • 三木谷財団設立

フィニッシュは間違いなくここに決めてくるはずだ。いわゆるひとつのノブレス・オブリージュである。日本では、多少成功したくらいでは、米国人のように寄付や社会貢献に精を出すという行動様式があまり一般的になっていないが、それでも最近はソフトバンクの孫正義さんが原発問題を受けて自然エネルギー財団を設立するなどして、話題となった。三木谷さんには、ちょっとスケールの大きい中田英寿といった風情で、是非プロ野球も絡めながら、世界の貧しい子供たちに対する慈善活動を展開する傍ら、今と変わらない大量のスパムメールを量産してこちらを微妙な気持ちにさせてほしい。


好き勝手書いてしまったが、我が国が誇るネット企業の星、楽天には理想(上記含む)の実現に向けて、是非これからも邁進して欲しい。私としては、どこか遠い場所から引き続き応援していきたいと思っている。

はてながCFOを募集していると聞いて

ビジネス

はてながCFOを募集中だそうだ。

はてなが上場目指しCFOを公募、年収最大1200万円 4社がサイトで幹部募集 - ITmedia ニュース

一瞬「あ、そう」とスルーしそうになったが、FTTHさんに煽っていただいたことで、「はてなでブログを書いてる金融方面にちょっと明るい人」という自らのポジションを思い出し、上記職に応募してみるのも面白いのではないか(笑)と思い至った。

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大王製紙、井川元顧問はツンデレのデレの方も出した方がいい

ヒト

最近、大王製紙から目が離せないわけである。

井川意高元会長が、会社のカネを不正に流用した挙句、あろうことか全部カジノですってしまうという痴態を演じ、会社に巨額の損失を生じせしめた事件は記憶に新しいが、いま、その元会長のお父上にあたる井川高雄元顧問(この呼称も大概普通ではない)が世紀の逆ギレを見せている。

息子の不始末も何のその、会社側に創業家の影響力が強すぎた結果起きた問題と言われれば、他の取締役にも責任はあるのだから創業家ばかりが責められるのは不服と言い返し、何か最近は、創業家が直接株を持っている大王製紙子会社の経営権を強奪してまわっているそうだ。

ページが見つかりません - MSN産経ニュース

元顧問は、株主提案によってか対象会社に臨時株主総会を開催させ、大王製紙から送り込まれた経営陣を解任するとともに、子飼いのジジイなどを次々と役員に送り込んでいるらしく、その結果大王製紙の連結対象は激減、連結業績を下方修正せざるを得ない状況に陥っているというのだから、喩えでも何でもなく、強奪としか言いようがない状況である。

まあ、そもそもの問題として、いくら創業家が相手とはいっても、第三者に子会社の株という会社の重要な資産を持たせるというのは、要するに他人にキンタマというかクラウンジュエルを預ける行為にほかならず、常識的な企業統治のなかで発生し得る状況ではない。息子の事件もひっくるめて一連の騒動は起こるべくして起こった感は否めず、世の中的には、ますますもう勝手にやってよねという感じで結論が出た感はある。

こうした冷笑する周囲に歩調を合わせるがごとく、会社側としては、子会社の買い戻しという至極当然の申し入れを淡々と行ったわけだが、ひとり加速度的にヒートアップし続ける井川高雄元顧問は、この提案を金額が安過ぎるとして却下。大した根拠もなくバッサリ切り捨てると、返す刀で今度は経営権を強奪した子会社をして、よその製紙会社との取引を開始させるようなことまで匂わせる始末であり、ますます敵対の姿勢を強めている。すごい。そこまでやらないよ普通。

こうした元顧問の行動は、見た感じ完全にグリーンメーラーのそれだ。グリーンメーラとは要するに、ある会社の株を買い集めた末、あらゆる影響力を行使してその会社や役員に株を高値で買い戻させるという一連の流れを生業とする輩のことであり、企業再生ファンドやアクティビストファンドなどと並び、概念「ハゲタカ」を構成する主要な要素の一つである。実際、お父さんがグリーンメーラーで息子はカジノ狂いのギャンブラーと整理すると、やはり血は争えないという結論が自ずと導かれ、収まりよく点が線になる感じはある。

ただ、残念ながら、元顧問は厳密な意味でのグリーンメーラーではない。もし彼が真の(?)グリーンメーラーだったなら、保有株はもう売ってしまっているはずだ。推測でしかないが、会社側の提示金額はおそらく元顧問の取得額を大幅に上回っているはずだ。当たり前だ。創業者なわけだから。取得原価はほとんどタダみたいな値段であっても不思議ではない。

例えば、値段を一割吊り上げれば儲けが倍になるとかいう状況であればいざ知らず、もともと大きな儲けがあるのに、それをちょっとだけ増やすためにここまで大揉めするというのは、どう考えても合理的ではないし、得策でもない。揉めてる間にも企業価値はどんどん毀損していくのだから。


それでは元顧問を戦へと駆り立てているものは一体何かと問われれば、それはつまり、愛みたいなものではないかと私は主張したい。いや別に主張するほどのことでもないのだが。

非常によく見られる現象だが、創業者の会社を想う気持ちというのは、親が子を想う気持ちに似通る。私も某IT企業で企業買収に携わっていた折、子離れできない親というのをたくさん見てきた。こちらとしては、いやお義父さん娘さんが可愛いのは分かりますけど、でも僕たち結婚したんですから風呂場まで入って来ないでくださいという感じなのだが、やれ娘は風呂場で転んだことがあるからとか何とかと言って、口を出してくる。

会社に人格はないが、組織としての文化はある。そしてそれは創業者が徐々につくりあげてきたものであり、そのプロセスは育児さながらだ。愛情が芽生える気持ちと言うのは、なんとなくわかる。

元顧問の行動も、会社を想うあまりしつけが行き過ぎるとか、可愛さ余って憎さ百倍とか、倒錯した愛情とか、そういう文脈で捉えたほうが割りと合点が行くのである。そう。殺人事件の約半数は、親族内で起こるのだ。アクティビストファンド不在の本邦株式市場において、何が一番揉め事に繋がるかと言ったら、創業者と会社という擬似親子間の愛憎のほつれしかないではないか。愛憎相半ば。親しき仲にもツンデレあり、である。

ところが不思議なことに、こうした感情というのは、しばしば隠匿され、まるで最初からなかったかのように扱われる。そしてその代わりとして取ってつけたような合理性が掲げられることが常だが、後付けの突貫工事なので、収まりが悪いことこのうえない。これって何なんだろうか。

今回の件でも、安すぎる金額の提示で信頼関係が崩れたから、とりあえず社長が辞めろというのは、理屈として悲しいほどにかみ合ってない。合理性の範疇で考えると、提示金額が安すぎた場合の要求というのは、値上げ以外にはあり得ないだろう。社長を辞めさせたところで一文の得にもならないではないか。このチグハグさは、本音としては要するに恩知らずなバカ息子に対してついカッとなっただけであって、本当は提示金額など見てすらいないという実態を、明け透けに示している。


今回の件、おそらく元顧問の側はいずれグダグダになり、遠からず敗北を喫するだろう。王子製紙の名前を出して牽制したところで、王子製紙としても変な揉め事に巻き込まれたくはないだろうから、こっち見んなという感じであることは疑いようもなく、いつまでも牽制として機能するとは到底思えない。そもそも合理的な論拠など端からない癖に、単にあるようなフリをしているだけなのだから、合理的に話し合って勝てるはずがないのである。

であれば、私は、元顧問はもっと開き直って、正直に、情緒的なスタンスを取るべきではないかと思うのである。「私の親愛なる息子たちへ」で始まる感動巨編をしたため、楽しかった日々の思い出でも綴ってみてはどうか。案外TBSあたりが食いつきそうな予感はするが。

アメリカ人の考えていることはよくわからんという話

雑談

幸せな未来は「ゲーム」が創る幸せな未来は「ゲーム」が創る」という本を読んでみた。

先日のエントリーでは、ソーシャルゲームに少し批判的なスタンスを取ってみた私だが、実はゲーム全般に話を広げれば、その将来について、割りと肯定的な見解を持っている。いや、ほんとうは肯定的というよりももう少し大袈裟に、むしろこれからの時代、大半の人々は基本的にゲームしかしないくらいの状況が実現してもおかしくないとさえ思っていたりする。

現実世界では、構造上、参加者全員が自己を実現する、というようなことがない。誰かが自己を実現するということは、同時に他の誰かが実現できなかったということを意味する。「優秀」とか「デキル社畜」といった誉れ高き称号は、誰か他にデキない奴がいるからこそ成り立つのであって、みんながみんな望ましい自己を実現できたら、それは誰もできていないということと同じになる。

私の理解では、こうした現実世界の本質的問題を止揚するテクノロジーこそが、バーチャルリアリティであり、ゲームなのだ。

私がソーシャルゲームについて根本的に合点がいってないのはまさにこうした点で、あれは現実世界をクソ仕様もそのままに、ただオンライン上に置き換えただけではないかと思っている。友達が多いほうが楽しめて。カネがあるやつが有利で。そうではなくて、ゲームというのはもっと、すべからく全員が楽しめるものではないか。現実世界における終わりなき競争に疲れ果てたような人たちも含め、全てのプレイヤーを優しく包摂してこそのゲームではないのだろうか。少なくともそうあろうとするべきではないのか。と、私は思ってる。

先進諸国において、失業はいまや解決不能な類の問題となり始めているが、失業の何が問題かというと、貧困に通じることも去ることながら、社会との関わりが絶たれることで、自己の存在を見失ってしまうことの影響は大きい。労働は、大多数の人にとって主要な自己実現の方法となっているからだ。もし、これをゲームが代替できれば、ゲームが万人にとって新しい自己実現のステージとなり得れば、それは社会のあり方を変えるだろう。

と、何となくそんなことを思っていたものだから、冒頭掲げた「幸せな未来は「ゲーム」が創る」というタイトルは、まさに我が意を得たりと膝を打つ感じだったわけだ。これはきっと、目を潤ませ時折大きく頷いたりしながら、終始高いテンションで読み進められそうだぞと、私はそう確信して、揚々とアマゾンで発注したのだ。

ところが、である。

その確信は完全に間違いで、むしろゲームに対する認識の多様性を見せつけられる結果となったのだった。日本とアメリカではずいぶんスタンスが違うのですね、的な。

よって、今日はその話。

現実を代替するというか、むしろ積極的に関わっているでござる

ということで、私が人々を幸せにするゲームとして思い描いていたのは、例えば、完全にAIなラブプラスだったり、他プレイヤーが全員ボットのモバゲーだったり、徹頭徹尾一人で楽しめる出会い系だったりという、何と言うかある種非コミュのユートピアみたいなものだったわけなのだが、この本に出てくるのは、むしろリア充の権化のような、それはそれは恐ろしいものばかりだった。そのギャップたるや。

なかでもとりわけ破壊力が高かったものを紹介しよう。「C2BK」は、サバイバルゲームに似ているが、異なる点は主に3つだ。街の中で開催される点、誰がゲームに参加していて誰が参加していないかがわからない点、そして最後に武器として銃の代わりに「ポジティブな挨拶」を用いる点 (ちなみに、挨拶にはいくつかパターンがあって、ジャンケンのような強弱関係が決められるらしい) だ。要するに、予め定められた挨拶を街中で無差別に繰り返し、たまたま挨拶した相手がゲーム参加者だったらポイントゲット。ヤッター!という話のようだ。

私はこの基本ルールを読んだ時点でダウン寸前だったが、ダメ押しとなった「ポジティブな挨拶」の具体例を紹介しよう。

  • 標的に「美しい[自分の地区や住まいの名前]にようこそ」と言う。
  • 標的に「今日のあなたはとてもすてき!」と言う。
  • 「とてもきれいな鳥がいますよ!」など、標的に何かすばらしいものを指し示す。
  • 標的の靴を褒める。
  • 標的に何か具体的な手助けを申し出る。
  • 標的が今現在行っていることに対してお礼を言う。
  • 標的に対する「相手がたじろぐほどの」感嘆の念を表す。
  • 標的にウインクし、微笑みかける。
  • 近くにある具体的なものについて標的が抱いている疑問に自発的に答える。

第10章 幸せハッキング 第2部 現実を作り変える p.276

自分も主食を小麦に切り替えたらこんなセリフを吐けるようになるのだろうか、というのが私の率直な感想である。というか、ウインクて。

まあ確かに、英語の直訳であるが故のセリフとしての不自然さというのもあるかもしれない。夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという逸話が一時ツイッターで流行ったが、例えば上の挨拶も同様に意訳して「行楽日和ですなあ」とか「だいぶ春らしくなって来ましたなあ」とすれば、まあ言えないことはないかもしれない。

それでもなお非常に大きな問題として残るのは、自分がゲーム参加者だったとして、運悪く他プレイヤーに上記セリフを撃ち込まれたら一体どういうリアクションをすればいいのか、皆目検討がつかないという点だろう。

例えば銃で撃たれたときのリアクションというのは、両手を挙げてその場に倒れるなり、鮮血に染まった自身の手を見て何じゃこりゃと叫ぶなり、数多の事例をこれまでの人生で見聞しているが、ポジティブな挨拶で攻撃されるというのは全くニュージェネレーションなエクスペリエンスだから、経験の不足分を相当量のテンションで補わざるを得まい。試しに何度か自分を無理矢理自分を鼓舞しながらシミュレーションしてみたが、それでもやはり薄ら笑いを浮かべて「あ、、やられました…フヒヒ…」とか口ごもるのが精一杯であった。何かの罰ゲームだろうか。

こうした罰ゲームはARGと総称され、同著でざっと27個くらい紹介されていた。ARGというのは、Alternate reality game、つまり代替現実ゲームの略だそうだ。プレイヤーが家事を行うとポイントが加算されアバターがレベルアップしていくという家族で参加するタイプのゲーム、「チョアウォーズ」というのもあった。

コメントは控える。

著者にすれば、これらがまさに、ゲームが現実を作り変え現に人々の幸せをハッキングしている事例なのだということらしいのだが、私からすると、お母さんがなかなかオモチャを片付けられない子供に「じゃあどっちが早く片付けられるか競争ね」と促すといった子供だまし的動機付け手法との差異を見出すことは難しく、まさに「グリーだとかモバゲーだとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ、もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ」という感じであった。

世界と直接かかわりたがる人たち

そもそも、かの国では、PS3やXBOXといった家庭用ゲーム機用ソフト市場においても、FPS(First Person Shooting)という一人称視点でゲームが進むゲーセンのガンシューティングみたいなやつがもっともメジャーなジャンルだそうで、神の視点から自キャラを俯瞰するドラクエやFFに慣れ親しんだ我々からすれば、驚きを隠せない。

偏見に通じるだけなので、あまり安易に国民性の違いを語るべきではないと思いつつ、ここまで圧倒的な違いを見せつけられると、そっち方面に逃げ込みたくもなる。上記著作の著者は、やはりと言うべきかアメリカ人だ。やはり日本人とアメリカ人では、何か見えている世界に違いでもあるのではなかろうか。

我々日本人が好むゲームは、操作するキャラクターとプレイヤーである自分との間に神の視点のようなフレームを挟むものが主流だ。FF然り、ドラクエ然り。これはどういうことかと言えば、ゲーム世界と自分との間に、ひとつクッションを置きたがるということではあるまいか。そう考えると、確かに上述した小恥ずかしいサバイバルゲーム風のゲームも、専用の衣装で日常世界と隔絶したり、若しくは武器を物理的なアイテムに代えてコミュニケーションの直接性を減じるなどして、自分とゲームの世界の間にクッションを挟んでいけばプレイの敷居は下がっていくように思える。まあ、単なるサバイバルゲームに近づいていくだけだが。

その点、アメリカ人というのは、要するにどうもこの自分と世界の間に横たわるクッションを取り去り、直接世界と関わることを望んでいるように見える。そのように考えれば、両者の違いは他者や環境との関わり方における嗜好の違いとして整理することができ、 月が綺麗な話をクッションとすることもなく、直接に愛を語るさまも同じフレームで捉えることができる。

ただ、そうはいっても同じ人類、そんなに根本的な違いがあるはずもないと思うのもまた事実だ。勝手に違いを論っておいて何だが、根っこのところでは共有可能な部分があって欲しいのだ。

で、ひとつ思ったのが、世界と自分の間にクッションを挟みたい気持ちは不変だけれど挟む位置が違うのだという説である。我々日本人の感覚からすると精神というのは肉体に宿るものである一方、欧米の方の感覚と言うのはもうちょっとこう、なんていうか魂が分別保管されている感覚なのではないだろうか。要するに、魂と肉体が別々に知覚されているために、肉体が世界と自らとを仕切るクッションになっているのではあるまいか、という。我々が外部に求めるクッションを、彼らは内製化しているのではないかということだ。

ここまでの話の流れからして、以上の説が何の説得力も持たない単なる思い付きであることは明らかであるが、軽い検証の気持ちで試しに和英辞書で「宿る」を引いてみたところ、一応「reside」という英単語は出てくるものの、これはしかし、どちらかと言うと「宿る」というよりは「居住する」や「内在する」という意味の強い単語のようで、「reside on the body」で「(細菌などが)体に住む(生息する)」という使い方をするようだから、我々が思う「宿る」の語感とはずいぶん異なる。我々が「宿る」と言うときは、もう少し融和した、神秘的で一体感のあるイメージを抱いており、間違っても「細菌が体に宿る」とは言わないだろう。

もしかするとやはり、欧米には我々が言うような「宿る」に対応する概念は存在せず、然るに欧米的な感覚からすると、魂も肉体に宿っているものではなくて、細菌のように住まわせてるだけということなのかも知れない。もしそうであれば、身体は限りなくアバターに近いわけであって、旅の恥はかき捨てモードに入りやすいことも頷ける。

というわけで、急にスピリチュアルな感じの話になってしまったが、まとめると要するに、魂を信じ、挨拶を申せば、リア充になるわけなのであって、とりあえず壺買ってください、壺。

参考

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元。本願を信じ、念仏を申せば、仏になる。もし未読であれば一度くらいは読んでみてもいいかもしれない。キリスト教よりは、馴染み安い。

ステマ問題と素人トレーダーが陥りやすい罠について

ビジネス

今日は、いま巷で話題沸騰中の「ステマ」について書きたいと思う。

ステマというのはステルス・マーケティングの略だそうで、どうやら広告であることを隠して行われる広告活動全般を指す言葉らしく、芸能人がブログでオススメ商品を薦めているなと思ったら実は裏で企業から金をもらっていたり、食べログに書き込まれたユーザーレビューが実は店側に依頼を受けた業者によるものだったり、という事案がステマであると糾弾されているようだ。

ステマ問題のどうでもよさについて

ステマについて書くと言いながらこういう姿勢も、我ながらどうかと思うのだが、これ、実にどうでもいい問題じゃなかろうか。

どうでもよさを構成する要素を一応説明すると、まず、何をどう頑張ったところで、世の中からステマ的なものを取り去るのは無理だろうという点があげられる。正直、あれもステマ、これもステマと言い出したら、ほとんどすべてのマーケティング活動はステマになってしまうのではないか。雑誌の記事広告みたいな形態は完全にステマ的だし、SEOも個人的には大概ステマだと思う。

誰かが善意で教えてくれたと思った情報が、実は企業や事業主による広告でした、残念、というのがステマ問題の根幹であると推察するが、そもそもすべての広告は、見る人にとって有益な情報となることを少なからず意図されて制作されるわけだから、情報と広告との境界は極めて曖昧なものにしかならない。というより、ふたつは本質的に同じものだ。

それでも嘘はよくない、嘘は情報にはなり得ないと主張されたい方もいよう。しかしながら、食べログの偽装レビューであってさえ、少なくとも店の人が美味いと思っているのであれば、完全な嘘とは言えない。
「うちの店は味はいい。」「客が来ないのは知られてないだけ。」「そうだ君、ちょっとお礼はするから一回食べてみてみんなにお勧めしてよ。」
この流れに嘘や悪意はない。ここで行われていることはつまり、最適化だ。実力よりも過小評価された評点の最適化。SEOと同じなのだ。

ITオンチからすれば、SEOと言うと何となくハイテクな印象もあるかもしれないが、突き詰めると大した話ではない。要するに、Google検索の表示順位が主にそのサイトが他のサイトからどれだけリンクされているかで決まるという事実に基づき、業者がカネを貰って顧客のサイトにリンクを貼りまくるという仕事である。SEOという名前が何となく洗練されたような雰囲気を醸しているだけで、本質的には業者が飲食店からカネを貰って好意的なレビューを書きまくる仕事と大差ない。試しにレビュー書込代行業者は、業務内容をUser Review Optimization、略してUROなどに改め、堂々と営業してみてはいかがか。セントレックスくらいになら上場できるかもしれない。

結局、ステマを根絶するには、思い切って広告ごと一切禁止するしかないということにしかならないと思うのだが、そんな話が現実味を持ち得るだろうか。

また、良いステマと悪いステマの線引きをしようという話も、正直、興味を持ちづらい。いや、広告業界などで実際に実務に携わる人からすれば、線引きの問題は重大な関心事だろう。それはわかる。せっかくの広告が、逆に商品のブランド価値を下げるようなことがあってはかなわないだろうから。そういった意味で、どういった広告手法はウケが悪いのか、知っておいて損はなかろう。

ただ、この線引き作業というのは、通常、専ら事例を積み重ねることによってのみ達成され得る偉業である。例えば私がここで、「これからのステマの話をしよう」といった風情で、ぼくのかんがえたまーけてぃんぐ論を一席ぶってみたところで、なんの成果も産まないことは火を見るよりも明らかなのだ。こういった難しい問題は、いくら第三者が屁理屈をこねくり回したところで、幼稚な道徳論にしかならない。市場に任せるしかないのだ。基本的には。

リスク許容度を超えた取引をするタレントたち

さて。かくもどうでもいいステマ問題であるが、いや、どうでもいい問題であるからこそ、一体何故これほど世間を賑わすまでに発展してしまったかについては、少し興味があるところではないだろうか。ステマ的なものなど、はるか昔から世に存在し、活発に取引されてきたわけで、 普通であれば取引事例にも溢れ、市場は安定しているはずで、今更線引きがどうのという議論を挟む余地はないはずだ。

いま、突如としてステマなるものが問題視されている背景について、私は、タレントがブログやツイッターなどの新しいメディアを通じて、消費者と直接トレードするようになったことが遠因ではないかと思っている。世の中には、なるべく直接はマーケットにかかわらないほうがいい人たちがいるが、タレントという人種は、その最たる例ではないか。

そう。今でこそ、タレントがインターネットメディアを通じて彼らのファンと関わりを持つということは珍しいことではなくなってきているが、少し前までは両者の間には必ず誰かが介在していた。例えばテレビでは、テレビ局が制作したコンテンツを消費者に提供し、それによって得た消費者の視聴時間を、媒体価値に加工してスポンサーに販売する。この限りにおいて、タレントはある種の商品であり、テレビ局にとっては番組制作の原材料だ。タレントは、基本的に消費者ともスポンサーとも直接接点を持つことはなく、それら役割はテレビ局が担っていた。

ところが、ブログやツイッターといった汎用メディアが、タレントをより直接的な市場に駆り立てた。芸能事務所などの関与は最低限あるだろうから、完全に直接ということでもないのだろうが、芸能事務所というのは本質的にタレントの利益を代弁するだけで、媒体の価値全体を管理するテレビ局のような立場とは異なる。消費者にどういったキャラクターを売っていくか。どういったスポンサーを受けるか。こういった決断に際してタレント本人の裁量が拡大していることは明らかだろう。

そういう意味で、いまタレントが置かれている立場というのは、さながら新米トレーダーだ。「主婦だけど、話題のFXでお小遣い稼いじゃうぞっ♪」というのとよく似ている。カネの匂いに釣られて、浅はかな算段で、慣れない世界に踏み出すあたり、瓜二つだ。

はっきり言ってしまえば、持ちかけられたステマの対象がくだらない、下劣な商品だったら、タレント自らそれを紹介したときに自分自身の価値が毀損するリスクを計算し、リターンがそれに見合わなければ断るという普通の判断をすればいいだけの話なのだ。それを「ブログで紹介するだけで250万円!」みたいな甘言に乗せられてなんでもホイホイ紹介するから、過去培われてきた広告業界のバランスが崩れることになる。

これは、FXを始めたばかりの人が、リターンを求めるがあまり、ついついレバレッジを高めてしまうのと同じ構図だ。要はリスクを取りすぎなのだ。レバレッジを高めれば、ちょっとした値動きで元本に対して大きな収益をあげることができるが、逆もまた然りだ。例えば100万円の証拠金で100万ドル買ったとしよう。この場合、ドル円のレートが1円下がっただけで元本がほぼ消し飛ぶ。1円の値動きなどたった1日のうちに起こることも珍しくないから、いかに向こう見ずというか、アホな賭け方かご理解いただけると思う。

ペニーオークションをブログで紹介していたマヌケが一体どの程度の報酬を得たのかしらないが、彼らが被った損失を補填するために十分なものではないことは明らかだ。情報発信の敷居の低さから、ちょっとした気の緩みや刹那的な感情が表出しやすい一方で、デジタル化されているが故に情報の保存もなされやすいというのがインターネットの恐ろしいところだが、本人にとってなかったことにしたい事実ほど、以下のようにいつまでも証拠が残る。

[NS] なぜ芸能人はペニーオークションで落札できるのか?

彼ら彼女らが失ったものは消費者やナショナルクライアントからの信用であり、つまるところタレントとしての価値だ。ペニーオークションのウソ臭さに疑問を感じることもできない程度の知能しか持ち合わせていない人間だと思うと、どんなに乳がデカかろうが、もう一切の信用は置けないではないか。乳の話はいらなかった。

とにかく。これが、いまステマが問題化している理由ではないだろうか。要するに、タレントのトレード手法が拙すぎて、場が荒れているわけだ。「白、発と鳴かれてんだから中切るなよ、、」みたいなことだと言える。

無意味なポジションを取りすぎるタレントたち

以上が広告市場におけるタレントの下手糞トレードの事例だとすると、同様程度に下手糞なトレードはコンテンツ市場でも散見される。いわゆる、一般消費者の煽りというか批判色の強い感想をスルーできない問題である。

つい先日も佐々木俊尚氏が、ツイッターで同氏の悪口で盛り上がっていた馬の骨的な謎のギョーカイ人一同に突然絡みはじめ、深夜にかけて異様な盛り上がりを見せるという最高にどうでもいい事案が発生していた。同事案については、某切込隊長がまるで水を得た魚のように雄弁にまとめというか茶化していらっしゃるので、興味のある人は是非ご一読いただきたい。

「ノリタカヒロ×イケダハヤト」から佐々木俊尚無双にいたるウェブ論争獣道: やまもといちろうBLOG(ブログ)

果たして佐々木俊尚氏がタレントなのかというのは置いておくとして、こうしたタレントマジ切れ事案は、Blogが普及し始めたくらいからボチボチ顕在化しはじめ、ツイッターによってキャズムを超えた感がある。一見クレバーに見えるロンブー淳でさえ、「フォロワー8人のお前に影響力ない」という極めてラディッツライクなメッセージを一般人に送り付けたという話もあった。

まあ、私のような小物ですらこうしてブログを書いていると、やれ長いとかツマランとかエラそうだとかバカだとかアホだとかわけのわからんメッセージが届くことも少なからずあり、都度々々多少なりともイラッとしているので、マンツーマンの勝負であれば絶対負けることはないのだろうタレント諸氏がついつい売られた喧嘩を買ってしまう気持ちはわからないでもないのだが、自分自身を売り物にしている彼らが、一般消費者と対等の立場で口汚く罵り合うことで何か得をするというのは極めて考えづらいことだ。ある程度その人に対する批判的感想の抑止力にはなろうが、そもそも批判すらされなくなったら人気は底である。アンチは多少泳がせておいた方が合理的だ。

これは、前掲の例に倣えば、FXをはじめたばかりの人に見られる勝算もないのにただ中毒的にポジションを取り続けてしまう、いわゆる「ポジポジ病」の相似形だろう。FXもはじめたばかりの頃は、マクロ的な国際情勢がどうとか、はたまたチャート上のテクニカルなシグナルがどうとか、いずれにせよ何らかの筋道の通った仮説に基づいてトレードしていたはずが、トレードに熱中してきたり負けが込んできて冷静さを欠くと、ポジションを持つこと自体が目的化してしまう。ふと気づいたらパチンコを打っていた的な中毒状態と変わらないわけだ。

いくらインターネットの特徴が双方向性だからと言って、自身にとって不利益になるような対話に身を投じる義務などあるはずもない。無意味な煽りは冷静にスルーというのが、2ちゃんねる全盛の時代から変わらぬオンラインコミュニケーションの鉄則だ。

その点、初代ブログの女王と謳われ、はやくから双方向メディアを主戦場としてきた真鍋かをり女史あたりはしっかりわきまえているようで、先日も「悪口は言われ慣れすぎて、今では悪口を聞きながらプリン飲める」みたいな話から、いつの間にか当該プリン商品化の話になっていた。プリンは売れないと思うが、多少の悪口には動じない心は、ひとつの財産である。プリンは売れないと思うが。

ステマ規制はあるか

自分でもビックリするくらい長くなってしまったので、最後にステマ業界の今後についてサラリと触れて終わりにしたい。

私の見立てだと、この一連のステマ問題で一番カモにされているのはタレント含む媒体側ということになる。タレントのクチグルマに乗って余計な消費をしてしまった個人消費者も被害者と言えば被害者だが、さほど高額ではない一方、タレントが失った信用の価値は、なお大きいと思える。

胡散臭い成功譚で個人投資家外国為替市場という壮大な賭場に駆り立て、冷静さに欠けるダメポジションを丸呑みにすることで多額の利益を計上していたFX業界は、レバレッジ規制や分別保管規制など、数々の規制対象となる憂き目にあったが、ステマも同様の末路を辿るだろうか。

私は、そうはならないのではないかなと今のところ思っている。理由は、上述の通り主な被害者がタレントだと思っているからだ。個人消費者がカモにされていればこそ、世間はその保護に尽力するが、タレントというのは比較的強者に属するのであって、保護するには値しないというのが一般的な感覚ではないか。

どちらかと言うと、騒乱に乗じて一儲けした業者あたりが音頭を取った、自主規制という名の我田引水ルールが敷かれ、ひとつの利権化するというのが通例ではなかろうか、と思う次第。

大老害時代を生き抜くための天下三分のTIPS

社会 ネタ

御手洗冨士夫キヤノン流現場主義老害王に、俺はなるッ!

ということで、御手洗冨士夫キヤノン会長が、御年76歳にして同社社長に返り咲いた件である。

時事ドットコム

そのとき私はたまたまtwitterを眺めていたが、 上記事案が公表された途端、 TLは瞬時に凍りつき、その後すぐに苦笑混じりの今更感で溢れかえった。

一時、いや待てと、きっとなにか特別な事情があるのだと、まだ慌てるような時間じゃないと、新しいスターの誕生だとはやし立てようとするtwittererを諌める動きも一部にあったが、日経新聞によれば、どうやら御手洗氏自身が「世代交代を急ぐよりベテランの力を結集」すべしと語り、社長復帰を志願したとある。何の事情もなかった。あの歳で何たる意欲か。

ここは嘘でも、急な辞任のため他に適任がおらずとか、一時的に会長が社長を兼ねるとか言って欲しかったが、会社側の見解は「難局はベテランの力でしか乗り切れない」という摩訶不思議なものであった。そうなのか?

常識で考えて、上の世代がいつまでも退かないと、人材育成の効率は悪化する。キヤノン勤務の40代は、70代も後半に差し掛かってようやくベテランという事実について、一体どう思っているのだろうか。このどこまでも果てしなく続くかに見える出世の冒険に心底ワクワクできているようなら、老害王の素質ありだろう。普通は、ゲンナリするところだ。

加えて、更に悪いことに、長期政権は不正の温床となりやすい。同じ体制がいつまでも続くと、組織の風通しは悪化し、不正が明るみに出るオケーションは減少するからだ。オリンパスの不正があそこまで長きにわたって隠匿され続けてきた背景に、退任する社長が後継の社長を指名することで、世代交代を経ても事実上の権力が移譲されずに維持されてきた構造があることは、言うまでもなかろう。

日本社会の中心は老人寄りに大きく移動

いま、老人たちの力は、かつてないほどに強まっている。

もともと老人には、若者にはない特別な含蓄や神通力があった。多くの場合それは、視力や聴力、更には記憶力までもが衰え、外部からの余計なインプットが遮断されたがゆえの内面回帰、独善的振舞いに端を発する諸症状なわけであるが、まあ亀の甲より年の功という言葉もある。

若者たちは、こうした未知の力を備えた老人たちのミコトノリを表面上奉ることによって、適切な距離感を構築してきた。インプットの絶えた人の言うことをいつまでも真に受けるわけにも行かないが、彼らの経験にまったく理がないわけでもない。相談役や顧問に代表されるようなあまりオフィシャルではない名誉職として、 現場からは一歩退いてもらったうえで、 独り言に限りなく近い形でご高説を発信していただくことが、双方にとってベストな関係なのであり、世の中の平和は、そうして保たれていたはずだった。

ところが、いま、このバランスが崩れてきている。理由は今さら私が指摘する必要もなかろうが、少子高齢化である。医療の進歩によって平均寿命がグングン伸びる一方で、若者の晩婚化や、教育費の高騰などで出生率は低下の一途を辿っている。国内全人口に占める老人の割合は、ほんの十数年前まで10%台だったものが、いまでは倍以上になっている。そしてさらに十数年後には40%に達すると言われている。

老人たちが数的な面でも勢いを得たいま、彼らを現場から一歩退かせることは容易ならざることとなった。なぜなら、老人がマジョリティであれば、もう老人がいる場所こそが「現場」に他ならないのだから。仮にコミュニティから老人を追い出したところで、追い出された老人たちは新たなコミュニティをつくり、それはいずれ巨大に成長するだろう。そうなっては、どちらが追い出した側かもうわからない。結局勝てば官軍なのであり、数的マジョリティを得たものが、最終的には正義の名を冠するわけである。

緊迫する社会

老人特有の不思議な力を操って世に害をなす輩を老害と呼ぶが、その勢力はとどまるところを知らず、現役世代を押しのけては数々の要職を手中に収めている。

これは非常に危険な兆候だろう。

いま巷の若いヤングを中心に、発行部数日本記録を更新し続けるほど大ヒットしている漫画カルチャーと言えば「ワンピース」だが、今起こっている老害たちによる勢力拡大のダイナミックさは、ワンピースにおける海賊たちのそれを想起させる。

ワンピースでは、伝説の海賊王が遺したとされる秘宝「ワンピース」を目指して猫も杓子も海賊になるという、読んで字の如しの大海賊時代が描かれる。なかでも秘宝「ワンピース」にもっとも近いとされる「新世界」に君臨する「四皇」と言われるトップ海賊率いる大海賊団にいたっては、一国の軍事力を軽く上回り、リアル世界で言うところの国連軍のようなものと互角に渡り歩く。ソマリアの強奪集団とはスケールが違うのである。

いま、現実社会の老人たちも続々と新世界へと歩を進め、その勢力を拡大させている。

筆頭はやはり、ナベツネこと渡辺恒雄氏だろう。先日、飼い犬の清武犬に突然噛み付かれ、周囲に世代交代時期の到来を予感させたが、その清武犬を即効で保健所送りにすると、返す刀でなぜか新聞を無税にしろと主張しはじめ、健在ぶりをアピールした。妻が参院選に出馬する際をはじめ、何か新しいことを始めるときはナベツネに挨拶をしなければならないというのはもはや風物詩を超えた不文律だが、同氏の憎まれっ子ぶりを鑑みるにあと150年くらいは余裕で世にはばかるものと思われ、若者の将来展望に影を落とすとともに、消費意欲の重しとなっている。

次いで石原慎太郎氏。「震災は天罰」といったまさに神の視点から繰り広げられる全方位DIS体制を敷きつつ、齢80にして東京都知事選まさかの四選を果たすという、まさに石原無双状態。このエントリーを書いている最中にも、噂の石原新党の基本コンセプトに関するニュースが舞い込んできたが、その基本コンセプトは、「反グローバリズム」「国軍保持」「平成版教育勅語」という、まさに猪・鹿・蝶三拍子そろった必殺極右コンボであった。老いは人を右傾化させるのだろうか。また、近年は天上天下唯我独尊ぶりにも更に磨きがかかり、歯に絹着せぬ物言いとよく形容される差別発言も年々研ぎ澄まされ、老人力のますますの充実を感じさせている。

森元首相こと森喜朗氏は、最近特に目立ったエピソードはないが、見た目だけでかなりの老害力を感じさせる逸材だ。確か同氏の自叙伝のようなものに記述があったと記憶しているが、出身大学である早大の入試では、確かラグビー推薦だからという理由で名前しか書かずに入学したらしい(うろ覚え、要出典)。こういう話は、普通真実だとしても隠しておくのが礼儀という気もするが、さも武勇伝のように語る様が実に"らしい"。若いときから高い老人力をいかんなく発揮していたようで、言わば老害界のスーパーエリートだ。この御方が毎回衆議院選挙で圧勝できるカラクリが私にはさっぱりわからないが、地元の方にしかわからない素晴らしい魅力があるのだろう。

そして今回、冒頭ご紹介した、尋常ならざる意欲で我が国が誇る優良国際企業キヤノンの社長に返り咲いた御手洗氏を新たに加え、彼らはさながら、現実社会における四皇だ。

もしナベツネと石原が本気で競り合ったら、マリンフォードくらいはゆうに消し飛んでしまうだろう。

第三勢力の形成へ

こうした状況を受け、強い危機感を募らせた一部の若者の中からは、老人どもから選挙権を奪えなどの強行策も聞こえてくる。

ただ、それはおそらく逆効果だろう。全面戦争は甚大な被害を生むし、そもそも数的有利を頼めない若者には勝ち目がない。目指すべきは老人勢力の内部ゲヴァルト、大勢力を分裂させることによる新しいバランスの形成だ。

ワンピースの世界観が優れている理由のひとつに、王下七武海の存在があげられよう。王下七武海とは、海賊でありながらその活動について政府からお墨付きを得る代わりに、政府と海賊が衝突した場合など、有事の際における政府への協力を言い渡された海賊のことだ。他の普通の海賊からすれば政府の犬にほかならないわけだが、七武海は七武海で、彼らの利益のために政府を利用している側面が強い。その実力は四皇には僅かに及ばないものの、かなり高い。

この図式を現実世界でも応用しない手はなかろう。老害老害でも、さほど浮世離れしておらず、むしろ俗っぽく、小銭やポピュリズムに釣られやすそうな老害たちを若者側に歩み寄らせ、それを持って第三の勢力とするのである。こうした、それこそ老獪な立ち回りこそが、いま若者に求められている。


名づけて、老化七武海。

さっそく人選に移ろう。

みのもんた氏、和田アキ子氏、古舘伊知郎氏あたりは、どうしようもない見識をお茶の間に届ける頻度といい、その偏り方といい、老人力は確実に及第点といえる。特にみのもんた氏は、ババアを意のままに操る能力を備えており、貴重な戦力になるだろう。一方、特に和田アキ子氏あたり、焼け野原みたいな自身のCDセールスを少なからず気にしていると思われるから、少しCDを買ってやればAKBよりも簡単に手なずけることが可能だろうと推察する。

お笑い芸人からは、芸人であることを忘れ、安い感動を振りまくことに必死な欽ちゃんこと萩本欽一氏が筆頭候補だろうか。彼の欲するものはイマイチよくわからないが、あの変な野球団の動きを見るに、若い子たちにチヤホヤされるのは嫌いではないのだろう。

経済界からは、経団連の黒ひげ、マーシャル・D・ティーチこと三木谷浩史氏を推挙したい。同氏はまだ若く、年齢的には老害とは呼べないが、DeNAによるプロ野球参入問題のときに、こどもへの悪影響を理由に一人いつまでも強行に反対を唱えていた様はお前が言うな感に溢れており、老人力全開の様相であったので、今後に期待できる老害ルーキーと言える。

紅一点として、デヴィ夫人はいかがだろうか。一体何が彼女の権威を担保しているのかよくわからないが、とにかく優雅で偉そうだ。タイトル通り偏見に溢れた夫人のブログは、ときおり唐突にこちらがビックリするような内輪話を暴露して注目を集めている。バラエティ番組の出演も比較的積極的で、ふかわりょうと嬉しそうに絡むさまが印象的だ。きっと若い人が嫌いではないのだろう。

あとひとり。できれば政治家がいいと思うが、政治家は真性の老害が多く、取り付く島がない印象がある。強いて言えば鳩山由紀夫は与しやすそうだが、戦力になるかどうか、極めて疑わしい。


まあいろいろと人選には異論があろうが、彼らのような存在こそが日本社会を平和へと導くためのキーなのである、と無理矢理いい話っぽく締めようと思ったがどう見てもただの悪口です。本当にありがとうございました。

スタバで注文前に席を取らない方がいいいくつかの理由

金融 ネタ

タイトルにはスタバと書いたのだが別にスタバである必然性はなく、実はタリーズでもエクセルシオールでも何でもいい。ただ、少し一般化して喫茶店と書くと、それこそ兜町にあるようなトラディショナルなやつが大量に含まれる気がするし、カフェと書くとハウスミュージックがかかるなかでホットワインを飲むみたいな変なお洒落スポットが混入してくる気がしてイマイチしっくり来なかったので、いっそのこと固有名詞にした。そういうわけで以降もスタバとは書くが、要するにカウンターのような所で商品を注文して、受け取った商品は自分で席まで運んで飲食するスタイルの店全般を指す概念として利用するので、そのつもりで適当に読んでいただきたい。

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マイケル・ウッドフォード氏の戦いは、なぜあんなに負け戦感満載になってしまったのか

ネタ ヒト

先週書いたゲームの話については、もう少し掘り下げてみたいとは思いつつ、少し弾薬の補充が必要な状況であるため、今週は箸休め的にオリンパス事件の中心人物となったウッドフォード元社長についての雑感を書きたいと思う。

ガバナンス界の黒船

さてオリンパス事件と言えば、バブル期に嵌った財テクによって巨額の損失を被るも、問題の表面化を恐れて適正な会計処理を避け続けること20余年、歴代経営陣のお歴々が代々ひた隠しにしてきたところ、何を思ったのか内輪の論理の通じづらい外国人を社長に大抜擢した途端にすべてを明るみに出さざるを得ない状況に追い込まれ、株価は暴落するわ経営陣は全員退陣に追い込まれるわで大騒ぎになった、あの事件である。

同事件は、二代目社長が会社のカネ、それも数百億円規模をあろうことかカジノでスッてしまうという浮世離れした放蕩息子ぶりをみせ付け世間を唖然とさせた大王製紙事件と並び、日本のエクセレントカンパニーにおけるコーポレートガバナンスの何たるかを世に知らしめた好事例であった。

そして、オリンパスの社長に大抜擢され事件を明るみに出すきっかけをつくった人物こそが、何を隠そうマイケル・ウッドフォード氏その人だった。イングランド出身の実業家、1960年生である。

ウッドフォード氏は当初、かなり颯爽と登場した。

それこそ、日本型ガバナンスに引導を渡す欧米からの使者のようなイメージだった。日本人は、意外とこの黒船的概念が好きなのだと思う。開国させられたい願望のようなものでもあるのではないか。なんとか業界の黒船というコピーは、かなり長きにわたってコピーライティング業界のリリーフ的存在だ。リア・ディゾンがグラビア界の黒船と呼ばれていたのはいい思い出である。

ウッドフォード氏は、同氏がオリンパスの社長を突如として降ろされ、しかしまだ同社の取締役として過去の決算内容に疑義ありとの主張を繰り広げはじめたその頃、 まさにガバナンス界の黒船として、世論をかなり味方につけていたと思う。

当時、カウンターサイドのオリンパス側から出るコメントといえば、「ウッドフォードは日本的経営を理解しない独断先行型」などなど、まるで自らを「日本型」の枠にはめ込むためのキャラ作りのような内容ばかりだった。なぜああもオリンパスが自ら進んでチョンマゲレッテルを貼られに行ったのかは未だによくわからない。というか、かなり遺伝子レベルのものを感じる。大体、菊川剛という名前自体、狙ってるとしか思えない。いかにも家着は和服、趣味は日本刀集め、特技は柔道、嫌いなものはガイジンという感じの名前ではないだろうか。

まあ理由はともかく、オリンパスには一瞬で日本的経営の権化のような印象が染み付き、そのことが”チョンマゲ頭の侍が黒船一隻で夜も眠れず”的なコントラストに一層拍車をかけていたことは間違いなかろう。

まさかの敗戦

かくして初戦を華々しい完封勝ちで飾ったウッドフォード氏であったが、あるときから微妙に変調をきたし始める。それがいつであったか、明確に指し示すことはできない。ただなんとなく、氏がオリンパスの経営に並々ならぬ意欲を見せはじめたときに、私としてはおやと思った記憶がある。当時の私によるツイートを引用しておこう。まあさすがに日経が正面切って批判をはじめることはなかったが。

そんなウッドフォード氏の一瞬の隙をついてか、はたまた単なる偶然か、会社側は同時期に第三者員会の調査結果を発表。暴力団絡みはない旨をコメントさせて疑惑のタネを早々に限定し、有価証券報告書の訂正など必要な事務を済ませると、訝しがる周囲をよそに東証からさっさと上場維持を取り付けるという、いわゆる直ちに健康被害はありませんからの勝手に冷温停止宣言コンボを叩き込み、一瞬で勝負を決めた。団結した日本人は、ときに欧米人が理解できないほどのパワーを発揮するのだ。実にリメンバー・パールハーバーである。

その後もウッドフォード氏は、自身のバックに連合艦隊の存在を匂わせながら、委任状争奪戦を経ての社長復帰を目指す意向を表明するなど、全力右ストレート連発の様相であったが、国内主要株主をはじめ、メインバンクにも相手にされなかったとのことで、弾切れからの撤退を余儀なくされた。

最後は妻の体調を気遣って矛を収めるという、これまたまさに典型的としか言いようのない、欧米型エクスキューズを添えての哀しい幕切れとなった。

敗因は何だったのか

思うにウッドフォード氏は、自分から再度の社長登板に名乗りを上げるような真似をせずに、初戦勝ちの余韻をもっとじっくり楽しむべきだったのではないか。代表権を剥奪され、社宅の鍵を没収されても、何事もなかったかのように悠々と振舞っているべきだった。それが正義というものだからだ。正義は孤独なのだ。アンパンマンがもし”僕の顔をお食べよ”の対価を後から請求していたらどう思うか。それは正義ではない。移動パン屋だ。

同じようにウッドフォード氏も、あれだけ社外から騒いでおいて、急にこの会社を建て直せるのは私しかいないとやっても、正直マッチポンプにしか見えないから、社員としてもついて行きづらくないか。これも日本的な考え方なのだろうか。

そもそも、ウッドフォード氏の求めていたものは正義だったのか。違うだろう。英国人実業家は、そんな有名無実なものを求めたりしない。普通、実業家が求めるのは、世界を変える仕事を実現させるに足る十分な職責とそれに見合った報酬だ。

もしそうであれば、ウッドフォード氏はもう少し話を内々ですすめる必要があった。

その後の一連のウッドフォード氏による対オリンパスのネガティブキャンペーンを見ても、冒頭放たれたあの「過去の決算内容に疑義あり」攻撃は、彼の切り札だったのだ。圧倒的だった初戦以降、次は何が出てくるのかと期待して観戦していたが、結局何も出てこなかった。一瞬海外メディアから、オリンパスの背後に暴力団の存在を匂わせる報道がなされたときはおおっと思ったが、単発のラッキーパンチだったようだ。

普通、唯一の切り札をいきなりマスコミにリークするだろうか。

切り札を最初に出せば、そりゃあ初戦は飾れるだろうが、以降の勝負が悲惨なことになるのは目に見えている。大貧民(大富豪?)で強いカードから順番に切って行ったらどうなるかという話である。そりゃ負けるよ。

あるべきは、マスコミへのリークをチラつかせながら監査法人などから情報を引き出すとともに、菊川氏らと水面下で交渉を行い、徐々に権力の移譲を完遂させるという方針だったのではないか。

これはどう考えても、日本的とかそういう問題ではない。洋の東西を問わず、切り札は最後までとっておかなくては意味がないと相場が決まっている。その点において、彼は単純に迂闊だったと私は思う。

切り札を、序盤で切りすぎたのだ、彼は。

そう。倒置法で言えば、である。

敗軍の将兵を語る

最後に、私の中でウッドフォード氏の印象を決定づけることとなったニュース記事を引用させていただこう。このあたりで私の中でウッドフォード氏は、オリンパスの他の経営陣と共に完全なネタキャラと化した。

同氏は現経営陣を一掃するため、自身を含め た役員候補をそろえ、株主の賛同を得ることを 目指していた。現経営陣との委任状争奪戦を視 野に入れていたが、国内の生命保険会社や銀行 などが賛成しなかったもよう。

「株式持ち合いの相手を決して批判しないと いうあしき慣行」と、日本の持ち合い制度が 「企業統治の骨抜き」になっていると批判し た。

具体的な方法は明らかにしていないが、「不正を糾弾する戦いはこれで終わりではない」と 言明。経営陣を追及する活動は続ける意向を示 した。同氏は同日午後3時より都内で会見を開く。

オリンパス元社長「妻に耐え難い苦痛」 復帰断念:日本経済新聞

「不正を糾弾する戦いはこれで終わりではない」らしい。まるで「おれたちの戦いはまだはじまったばかりだ!」という威勢のいいセリフだけを残して打ち切られる少年漫画のようではないか。

このようなベタなボケを繰り出されると、こちらとしても「マイケル・ウッドフォード先生の次回作にご期待下さい!」と叫ばずにはいられない。

ソーシャルゲームとキャバクラの違い

ビジネス

ソーシャルゲームはなぜハマるのか ゲーミフィケーションが変える顧客満足ここ最近、ソーシャルゲームと呼ばれる新ジャンルのゲームを提供するGREEDeNAといった企業が、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでもって、快進撃を続けている。

ゲーム関係で言うと、私は、例えばリア充コミュニティにあっては「あいつちょっとゲームヲタっぽいよね」と微妙に囁かれる程度のいわゆる半可通なのだが、ことソーシャルゲームに関して言うと、割と早くにガラケープラットフォームから決別したこともあって、比較的縁遠い生活を送っていた。半可通ならではの「あんなのゲームとは呼べないでしょ」的な見下しもあったかもしれない。

ところが、GREE時価総額6000億円はいまやゲーム業界では任天堂に次ぐ2番手であり、その任天堂時価総額も大部分は単にその豊富な現預金によって裏付けられたものであるから、GREEは実は、事業の価値だけで考えるならば既に任天堂をも上回っているとさえ言える。GREEを何かに例えるなら、プロ2年目若干18歳でいきなり賞金王に輝いた石川遼のようなものだ。古参は何をやっているのだ、古参は。

いくら個人的に縁遠いとは言え、ここまでの急成長を見せつけられるとビジネスとして注目せざるを得ないというか、どんな形でもいいからあやかりたいというスケベ心が芽生えるのが人情だ。このたびは、そうした不純な動機から「ソーシャルゲームはなぜハマるのか ゲーミフィケーションが変える顧客満足」という書籍を拝読してみた次第である。

なお、新しいものを学ぶときにとりあえず実際にやってみるのではなく、まず書籍から入るというのは老化現象の一形態だとは思うが、まあ実際問題老化しているので仕方がない。

ソーシャルゲームの"ゲーミフィケーション"

さて、同著によれば、ソーシャルゲームにハマる理由は、大きく分けて2つの仕掛けに集約されるということだ。

2つの仕掛けのうちひとつは可視化とフィードバックのサイクル、もうひとつがソーシャル・パワーという謎の力として整理されている。同著の基本的な構成は、これらのフレームワークゲーミフィケーションと称して事例を交えて解説するとともに、同フレームワークはあらゆる場面で活用が可能なのだと続けることで、ソーシャルゲーム発展の大義を見出そうとするものだ。

ただ、このフレームワークの前者、即ち可視化とフィードバックは、要するにステータスやランキングを可視化すること、及び目標達成時に達成感を味わえるような演出を導入することなどによってプレイヤーのゲームに対するモチベーションを維持させる仕掛けのことを言うらしいが、それは何もソーシャルゲームに限った話ではなく、古くファミコンの時代からあまねくゲームとはそういうものである。

GREEが提供する人気ソーシャルゲーム釣り★スタ」では、「釣り日誌」と呼ばれる画面において、プレイヤーのアバターと共に過去の釣果数や現在の称号(何段とか)、釣った魚の魚拓などが可視化され、また、段が上がったり新しい魚を釣り上げた時などには演出効果が施されることで、プレイヤーのモチベーションに働きかけるのだそうだが、これを聞いて「なるほどよく考えたな」と思う人(いないと思うが)はゲームをやったことがなさ過ぎだろう。ドラクエのレベルアップ音を携帯メールの着信音に設定する人が一時大量発生していたが、あれはドラクエのレベルアップ時の快感が人々のドラクエ体験を決定的に印象づけていることを端的に表しており、演出効果の歴史が一朝一夕でつくられたものではないことを物語っている。

ソーシャルゲームが携帯電話などのゲーム専用ではない端末で主に提供されていることからも明らかなとおり、そのグラフィックなどは既存のコンソールゲームに大きく劣ると言わざるを得ず、そうであれば可視化やフィードバックと言った演出面での仕掛けにおいてソーシャルゲームが得るものは、どちらかと言うとむしろディスアドバンテージだろう。そうした既存のゲームに劣る部分を、同著が言うソーシャル・パワーのような新しい仕掛けで補っていると考えるのが妥当なのではないか。

ではそのソーシャル・パワーとやらが一体何かと言うと、プレイヤーを他のプレイヤーと協力して目標に挑ませたり、逆に目標の達成のために他のプレイヤーと競わせたりすることによって生み出せられるエネルギーのようなものを指すらしい。

前掲の釣り★スタでは、ギフト専用アイテムのプレイヤー間でのやり取りを始め、他ユーザーとのチームでしか参加できない「大会」の存在など、プレイヤー同士を交流させる各種仕掛けが、プレイヤーのモチベーションを醸成するソーシャルパワーとして機能するのだそうだ。

なるほど、既存のコンソールゲームなどでも当然友達同士で集まってゲームの情報を交換したり、協力して知恵を出し合ったりする場面はあるものの、それは必ずしもゲーム提供側がゲームに組み込んだものではないし、何より現実に一堂に会さないといけないという意味でハードルが高かった。この点、携帯電話の通信機能をうまく活用することで、幅広く、いろんな人が、気軽に集えるようにしたというのは、ソーシャルゲームの最大の特長と言って差し支えなさそうだ。うむ。

顧客は何を求めているのか

それでは、このソーシャル★パワーの仕掛けによって、ユーザーはどのような便益を得ているのだろうか。

我々門外漢には驚きの事実だが、例えば釣り★スタの竿は、買うと大物を釣り安くなるものの、なんと何回か使うと壊れてしまうというものだそうだ。上州屋で販売したらクレームが殺到するのではないか。だから、とにかく大物を釣りやすい状態を維持するためには、継続的に課金に応じ続けないとならないらしいが、こうしたアイテムに、毎月数万円単位を支払っているプレイヤーも少ないくないと言う。そうした人々は余程大きな便益を得ているのだろう。

この問いについても、同著に答えが用意されている。それはつまり、承認欲求の充足だと言う。

承認欲求とはつまり、我々が常日頃抱く「誰かから認められたい」という感情のことだ。チームで協力し合うような設計のソーシャルゲームでは、ステータス値の高いプレイヤーはそのチーム内で頼られ、必要とされる存在になるし、逆にプレイヤー同士が競い合うゲームでも、競争の結果獲得したステータスは自己表現としての意味を持ち、他プレイヤーからの称賛を得ることができる。これらがユーザーの満足感につながっているということだ。

要するにソーシャルゲームの重課金プレイヤーは、偏にチヤホヤされたいがために、ゲームを有利に進めることができる「アイテム」にせっせとカネを払っているということに他ならないわけだ。そして、それと似たようなサービスとして私のような頭が老化したオジサンが真っ先に思いつくのが、キャバクラなのである。

キャバクラ。

皆さんご存知の通り、場所代と極端に割り増しされた飲料代とを絶え間なく払い続けることによって、その間に限りキレイに着飾った美しい女性が、お酌をしながらチヤホヤしてくれるサービスである。

人々が何かにカネを払うとき、その根底に他人からチヤホヤされたいという性根があるケースは極めて多い一方で、あまりに商品自体の価値からかけ離れ、チヤホヤに対して直接対価を払っているとしか考えらないという意味で、キャバクラにおけるドンペリ(ピンク)と釣り★スタの三倍竿は極めて特殊であり、それが故に似通っている。

そう思って少しネットを検索したところ、以下の興味深い体験談がすぐにヒットしたので嬉々として紹介したいと思う。

番組では、実際にソーシャルゲームに大金をつ ぎ込んでいるというユーザーの声が紹介される。
「あるゲームに累計300万円弱を課金していま す。常にステータスをMAXにしておかないと サイト内の上位者として君臨できないので、毎 月10万円以上は払っています。 そんな自分に少し酔っています。ただ、このゲー ムを始めてからキャバクラに行かなくなったの で、 安上がりかなと思っています」
ソーシャルゲームに300万円つぎ込んだ男「キャバクラより安上がり」 - Ameba News [アメーバニュース]

そう。実際、ソーシャルゲームとキャバクラはリプレースが可能なのだ。

ソーシャルゲームの持続可能性

ソーシャルゲームとキャバクラは、一見すると非常に似ているというか、ユーザーにとっては代替製品となり得ているわけだが、運営側からすると、実は非常に大きな違いがあるように思う。それは、原価率だ。

キャバクラの運営に際しては、店側は顧客をチヤホヤする女の子に対して多額の報酬を払う。ところが、ソーシャルゲームにおいて重課金のヘビーユーザーをチヤホヤする役目を担うライトユーザー層は、一切の報酬を受け取ることがない。これは、よくよく考えると歪な構造である。

そこでは明らかに、実質的な価値の移転が起こっている。チヤホヤされたいヘビーユーザーは、ライトユーザーがいるから自らの欲求を満たすことができている。にも関わらず、ヘビーユーザーが払うカネは全部胴元の総取りに遭い、ライトユーザーには一円も還元されない。そりゃあ胴元は儲かるはずである。GREEの営業利益率は実に50%に及ぶ。

この歪さから生じる負担は、おそらくライトユーザーのソーシャルゲーム離れというかたちで顕現することになるだろう。「結局毎月毎月バカみたいにカネを注ぎ込んでいる一部のプレイヤーにデカイ顔されるだけで何もいいことないよね」とライトユーザーたちが気づいた時点で、ソーシャルゲームのエコシステムは瓦解することになる。これは、10年ほど前に一世を風靡した格ゲー業界で起きたことの相似系だ。ヘビーユーザーの存在自体がライトユーザーにとっての参入障壁になってしまうと、結局市場は縮小してしまう。

冒頭紹介した「ソーシャルゲームは…」に面白いエピソードが載っていたので紹介したい。

ゲームを遊ぶというよりは、ゲームを通じてコミュニティに参加する、あるいはゲーム内の友人とコミュニケーションを取るということが、ゲームを遊ぶ目的になってきます。実際、釣り★スタの上級者インタビューにおいて、あるプレイヤーは、チームのモチベーションを維持するために毎月有料アイテムをチームメンバー全員(30人とのことです!)に自腹を切ってプレゼントしていたとのことでした。現実の世界でも、上司が部下に食事をおごって日ごろの仕事ぶりをねぎらうということがありますが、バーチャルなコミュニティでも同様の現象が起こるというのはたいへん興味深く思います。
P.97 4-5 ソーシャルパワー:ソーシャルアクションの活用

まるでソーシャルゲームにおけるコミュニティの結びつきの強さを誇るかのうような語り口だが、ここで語られているような出来事が象徴することはまったく逆だ。即ち、ライトユーザーは放っておくとゲームに飽きていなくなってしまうから、ヘビーユーザーは身銭を切るくらいのことをしなければ、自らの地位を維持することができないのだ。

そういう意味で、ソーシャルゲームの原価というのは、ライトユーザーに無料でゲームを提供するための開発費用と、無料と煽ってユーザーをかき集めるために乱発されるTVCM費用ということになる。繰り返すが、ライト層が永遠に流入し続けないと、課金ユーザーのインセンティブが減っていき、結果的に売上が減少することに繋がるためだ。ただ、いくら無料だからと言ってもつまらないゲームをいつまでも続けるものでもあるまいとは思うのである。

任天堂の岩田社長は、ソーシャルゲームについてユーザーとの長期的な関係が構築できないのではないかと言っていた。これはもしかすると、上述したような歪な構図を指してのことだったのかもしれない。実際今のような収益を将来にわたって維持するということは、不可能に近いのではないかと私も思う。

結局、持続可能性を重視すると、ライトユーザーに提供する価値=原価を高めていくしかないだろう。

端的に言うと、グラフィックや演出レベルの向上であり、開発費の上乗せを意味する。要するに、「こんなリッチなゲームが無料でできるなんてほんとスゴイ」をつくっていかないといけない。安かろう悪かろうではいずれ飽きられてしまう。サプライズを与える必要がある。

ただ、ソーシャルゲームはこのサイクルに嵌った時点で、基本的に既存のゲーム業界と同じ道だ。開発費が高騰し、リスクを取りきれなくなった開発会社は、大作モノの続編ばかりつくるようになる。そのことは中長期的にライトユーザーのゲーム離れを引き起こし、いずれまた新しい事業者がイノベーションを引き下げて参入してくると、ライトユーザーを根こそぎ奪いとられてしまうだろう。任天堂は、過去PS陣営に奪い取られたライトユーザー層を、DSで見事に奪還した。いま、ソーシャルゲームに流れて行ったライトユーザー層についても彼らが奪還を狙っていることは間違いなく、それが実現する日もないとは言えない。


まあ正直なところ、ソーシャルゲームとは縁遠い老化した元ゲーム好きの半可通としては、どうでもいいと言えばどうでもいいわけだけど、 いち日本国民としては、折角国内で蓄えた潤沢な利益を、海外展開による成長性アピールくらいの理由で、わけのわからない国のわけのわからない開発会社に突っ込み、結果として溶かしまくることだけはご勘弁願いたいというか、もったいないなと思うばかりなのであった。

参考

ソーシャルゲームはなぜハマるのか ゲーミフィケーションが変える顧客満足
深田 浩嗣
ソフトバンククリエイティブ
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上述の通り、約半分は「それソーシャル関係ないでしょ」な内容ではあるものの、事例を交えた解説は門外漢にもわかりやすい。最近の話題にことごとく乗り遅れていて、いっそのこと若い人に人気があるものは全般的によくわからないというスタンスに移行してしまおうか迷っているオッサン諸氏にはお勧め。

アダルトビデオ業界にみるリスクプレミアムの消失について

ネタ 経済

今日は新年最初の更新であり、当ブログにとって2012年の方向性を決めかねない重要なエントリーであるので、爽やかにアダルトビデオ(以下AV)の話をしようと思う。

最近のAV女優

最近ネット界隈では、いわゆるAV女優が綺麗すぎるというシンプルな事実がたびたび話題にのぼる。以下にその一例を示そう。
最近のAV女優レベル高すぎワロタ ※リンク先はエロ画像ではありません。

確かに上記リンク先で紹介されている女優陣はいずれも見目麗しきこと天女の如しであり、最近流行りの歌って踊れない、素人っぽさと大人数が売りの新時代的アイドルよりもよほどアイドル的ですらある。例えばAKBと恵比寿マスカッツのスナップ写真をそれぞれ用意して昭和の時代にタイムスリップし、この中でAV女優はどれかというクイズをしたら正当率はさぞ低かろうという何の意味もない無駄な妄想も、いささか現実味を帯びる。

そう。その昔AV女優といえば、一目みてそれとわかるAV女優臭さのようなものを放っていたものだった。桜樹ルイがいくら美人キャラであったとしても、それはあくまで"AV女優としては"という暗黙の前提の上にだけ成り立つお話だったわけで、別に例えば中山美穂と比べてどうかなどといったような野暮で無粋な議論をするものは存在しなかった。

それがいまや、AV特有の臭いが無くなっただけにとどまらず、あわや本家のアイドルをルックスで凌駕せんとする勢いであるというのだから、理由はともかくとして男性諸氏にとって喜ばしい事象であることは疑いようがなく、まさに豊食の時代ニッポンという様相なわけである。

AV出演と風評被害

さて。こうした現象について、私は端的にAV出演に伴うレピュテーショナルリスクプレミアムの消失という文脈において捉えることが可能ではないかと考えている。

つまり、その昔我々というかAV愛好家が支払っていた対価は、多分に女性がAV出演によって受けることになる又は受ける可能性のある風評被害に対する手当てを含むものであったところ、近年はこの風評被害に対する手当てが何らかの理由で不要になり、より多くの対価が女優の外見的美しさなどの直接的な価値に対して支払われているのではないかと思うのである。

もっとも、風評被害に対する手当てだろうが、外見的美しさへの対価でだろうが、受けとるのが出演女優であるという事実に変わりはないから、払う側からしてみれば何ら問題にはなり得ないわけで、即ちこれは、専ら女優側の心理的な変化を言い表しているに過ぎない。換言するならば、「家族や友人にばれたらマジでヤバイからそのくらいの金額じゃちょっとムリー」から、「まあバレたって死ぬ訳じゃないしそれだけの金額もらえるならまあアリー」に変わってきたということでしかない。

AV出演の事実が周囲に知られると本当にまずいことになるという場合、出演者は、出演時点において、会計上というか気持ち的に、合理的に予想される将来の損害を引当金として損失計上することになる。具体的に言うと、AVに出演したことによって将来の不安が増大するから、貯金を増やすということだ。増大する不安の度合いと積み立てる貯金の額との相関は個々人によって異なるだろうが、最悪の場合、引当金控除後の実質的な損益は、むしろマイナスとなる可能性すらあるだろう。

ちなみにAV出演による収支が実質的にマイナスとなる場合であっても、借金など目先の現金に窮した女性が出演する可能性はある。出演料は借金の返済に充てられ手元には残らないから、結果的には引当金の積立不足、言わば債務超過のような状況に陥るが、これはつまり将来の自分からの借金である。獰猛な借金取りからの借り換え先が将来の自分というのは、追い詰められた人にとっては決して悪い選択肢ではなかろう。

いずれにしても、見積もられる風評被害の額が増えれば利益が減るということは、逆に被害の見積もりが減ればAV女優にとっては出演による利益が実質的に増加することになる。経済学の原則から明らかな通り、利益の増大は新規参入を伴った供給量の増加をもたらし、競争の激化に通じる。競争激化の末、何となくあか抜けないルックスの女優は淘汰され、高い報酬に見合った価値(ルックスなり)を提供する女優だけが生き残る。いま、AV業界で起こっていることは要するにこういうことなのではないかだろうか。

レピュテーションリスクのライフサイクル

AV出演に伴うレピュテーションリスクは、なぜ低下したのか。

このことについて私は、AV業界に限らず、遍くレピュテーションリスクプレミアムというものはそういうものなのではないかと思っている。

例えば消費者金融。あれはもともと賤業だった。銀行マンが自らのプライドに阻まれて積極的に事業を展開できなかったというだけではなく、カネに困った人の足元を見て、自身は何ら労することもなく高い金利を貪るさまがいかにも金の亡者的に思われていたのだろう。そうすると、消費者金融業を営むにはレピュテーションのリスクがあるということになるが、大手資本というのはなかなかこのリスクはとらない。実際に風評が悪化した時の損害が大きいからだ。レピュテーションリスクマーケットのメインプレーヤーは、いつだって失うもののない弱小零細企業なのだ。武井保雄氏が一代で武富士を築くことができたのも、そういうカラクリだろう。ところが武富士がもはや中堅企業ですらなくなってくると、様子が変わってくる。儲けすぎだという批判を生むわけだ。いまや、消費者金融業界は突然の、しかも過去に遡っての上限金利規制によって壊滅的な打撃を受け、プレーヤーは一転して大手銀行資本に取って代わられた。

少し前、MSCBから派生した極端なダイリューションを生じせしめる、あわや有利発行かという如何わしい資本調達スキームが新興市場を中心に蔓延った際も、メインのプレーヤーは大手証券ではなく、当時日本では無名に近かった外資証券や正体不明のファンドが多かった。これもその利益の巨大さから参入が相次ぎ、終にはMSCB専業の証券会社まで出来る始末だったが、徐々に規制が整備され怪しさが濾過されると、旨味がなくなっていき、数えられる程度のプレーヤーが細々と食いつなげる程度の規模に落ち着いた感がある。

新しいビジネス、特に法的にグレーだったり倫理的に訝しかったりするものは、当初提供に際してのレピュテーションリスクが高いから、利鞘は大きくても大手は参入してこない。

これは、その昔AVに美人が参入してこなかったのとまったく同じだ。

ところが、ある程度プレーヤーが増えてくると、倫理的な線引きがなされはじめ、レピュテーションのリスクは下がり始める。何がセーフで、何がアウトが明確になれば、もうそこにリスクは存在しないわけで、当然プレミアムも発生しないこととなる。

レピュテーションのリスクがなくなった後にも大きな市場が残る場合もあれば、極めて小さい市場に落ち着いてしまう場合もあるが、これはそもそもの需要の規模の違いだろう。AVは、非常に堅固な顧客基盤を有するから、レピュテーションのリスクが低下しても価格は高止まりし、結果的に大資本(美人)の参入に繋がったということではないだろうか。


とまあ、ダラダラと書いてしまったが、前段「理由はともかく豊食の時代」の時点で重要な点については言い切った感があり、以降は蛇足であった。本年もよろしくお願いします。


健康志向と原発問題(2011年を振り返って)

生活

この時期になると毎年言っている気がするが、気付けば今年ももう残すところあと僅かだ。昨年、紅白歌合戦の出場歌手を見ながらAKBについてのエントリーを書いてからもう1年が経つというのだから、実に早いものである。このブログも、前回更新したのが7月だそうで、要するに半年近く放置していたことになる。とりあえず、死亡説が流れる前に何か書いておこうと思い、書きはじめた次第。

震災の影響で

2011年は、とりあえず「震災の影響で」と言っておけばまあ8割くらいの問題でお茶を濁せる程度に、震災の印象が強烈な1年だった。今年の漢字は「絆」だそうで、流行語大賞にも同じ単語がノミネートされていた。震災を契機に人々の絆が強まったという総括なのか、絆を深めて復興にあたろうという訓戒なのか知らないが、ネット界隈ではむしろ、脊髄反射によるデマ拡散と、エネルギー政策論争の箕を着た原発是非を巡る即席ニワカ専門家同士のプリミティブな糞の投げあいにいつも通り終始した感があり、絆の重要性というかむしろ双方向コミュニケーションに纏わるコストのようなものが改めて露呈していたような気もする。あまり聞き覚えのない大学の教授同士が、インターネットメディアを活用して罵り合いを繰り広げた末、年末に開催された某ブロガーの式典でも壇上で互いにけん制しあうパフォーマンスを見せ、式典参加者の失笑を買っていたのは記憶に新しい。あれも絆だろうか。

私はと言えば、原発の怪しい挙動が報じられ初めてからしばらくのうちはさすがに不安が拭えず、なんとなく喉に骨が刺さった様な気分で生活していたものの、程なくして「まあ実際問題、避難勧告が出たら避難するという消極的な対応以外はあまり現実的ではないよね」という結論に達することである種のラインを引いてしまったので、それこそ4月以降は原発関連の報道にもほとんど興味を持てなかったし、ここのブログなどでニワカ仕込のエセ知識を開陳することもなかった。

よって、原発が私の行動に対して何らかの影響を与えるなどということはあり得ないことだと思っていたが、冷静に1年を振り返ってみると、矢張り意外に影響は大きかったのかもしれないなと感じていたりもするのだった。

健康志向への転換と減量の成功

理由についての考察は後回しにするとして、とにかく今年、私の興味は専ら「健康」に向かった。4月に煙草をやめ、6月にジョギングを初めたかと思えば、9月からは水泳もはじめた。

煙草については、実はもともとかなりライトなスモーカーで、平日は平均すると1日に3〜5本程度、休日にいたっては一切吸っておらず、ヘビースモーカーの諸氏に言わせればそもそも喫煙者ですらないというレベルだったので、さしたる労苦もなく禁煙には成功した。

我ながら感心しているのはむしろジョギングや水泳の方で、6月の開始以降、特に挫けることもなく継続できているばかりか、むしろ徐々に距離を伸ばし、今では日に10km程度走ることもザラになってきたし、水泳でも休みなく1.5kmくらいは泳げるようになった。あるときは皇居にも赴き、歩行者に迷惑なことで有名な皇居ランナーに混じって外周をまわり、そのまま走って帰宅(20km)したりもした。

これがどれ程度画期的なことかをご理解いただくためには、それ以前における私の生態をご紹介せねばなるまい。

私の運動遍歴は、中学二年の時にサッカー部の幽霊部員に昇華したところで止まり、以降は運動と言えばエスカレーター上を歩くことくらいという不摂生を絵に描いて額に飾ったような生活を続けてきた。それでも大学生くらいまでは、そもそもあまり積極的には食事を摂っていなかったし、若さゆえの基礎代謝にも助けられ痩せ形で通していたが、社会人になりストレスを暴飲暴食で紛らわせることを覚えたあたりから腹回りが肥大化しはじめ、体重も増加の一途をたどった。

体重はたしか今年の春くらいがピークで、85kgに達した。身長が180cmあるので、必ずしも深刻な水準ではないといえばそうなのだけれど、上述の通り運動らしい運動を一切しない生活があまりにも長く、筋肉量が推定で生まれたての子供くらいのレベルだったので、体は数字以上に病んでいたと思う。あまり読まないようにしていたが、健康診断をするとイチイチ悪玉コレステロールがどうとか内臓脂肪がどうとかというウンチクの書かれた紙を送り付けられたりしていたし、やたら肩こりが酷かったのも、食後に眠くてどうしようもなくなるのも、二日酔いが三日目くらいまで残るという語義矛盾の発生も、思えば運動不足と太りすぎの結果だったのだろう。

問題を更に深刻にしていたのは、こうした生活及びその結果としての不健康並びに肥満体が、完全に私のアイデンティティの一部となっていたという事実だ。

不健康や肥満体をフィーチャーした自虐ネタはいわゆるひとつのテッパンで、そういう意味では便利と言えば便利に活用していたわけだ。長年の不摂生の果てにようやく手に入れた武器くらいに、おかしな倒錯をしていたような気もする。いずれにしても、おそらく大抵の人は、私が締まらない体でノソノソと動くからこそ私を私として認識できているのだろうと思っていたわけで、それを手放すということは、少し大袈裟に言うと自己の同一性が脅かされる危機でもあった。はじめてのジョギングは普段より1時間ほど早起きして家の周りを2kmほど走るというものだったが、何となくムズムズと恥ずかしくなって、ついうっかりツイッターで告白してしまった。何故かfinalventさんや(元)切込隊長さんという大物古参を含む6〜7人くらいからリツイートされたが、以下は当時の私の率直な気持ちだ。

そうして、半年前に85kg前後であった体重は、今は78kg前後で推移している。1か月に1kgのペースで順調に減量できていると言えるだろう。肩こりもほとんどなくなった。

ちなみに、体重の推移はAndroidアプリを活用して記録していたため、ある程度減少が見て取れるようになった段階でグラフ化してブログに掲載し、皆様にお披露目しようと目論んでいたのだが、先月、酔って帰宅した翌朝にケータイが見当たらないので捜索したところ風呂の底に沈んだ状態で発見されるという実に悲痛な事件が起こり、全てのデータを失ってしまったので、残念ながらお披露目は叶わぬこととなった。なお、何故かくも痛ましい事件が起こってしまったか、その過程や原因については一切記憶に残っておらず、事件はこのまま迷宮入りという様相である。

物質的な豊かさ追求の見直し

少し話を戻そう。

何故私は自己の同一性が崩壊するリスクを負ってまでジョギングや水泳に勤しんだのか。病気のリスクを恐れてではない。そういう後ろ向きの動機は長続きしない。実はもっとずっと単純で、単に美しい体型、とりわけ割れた腹筋に憧れたからだった。

美しい体型に憧れたこと自体の理由は曖昧だが、ある種、物質的な豊かさの追求からの離反、身体への回帰なのではないかと今は考えている。

思えば。社会人になり、より高額の報酬を求める過程で腹まわりに蓄えた脂肪は、肉体労働からの決別と贅沢で栄養価の高い食事に恵まれたことの結果であり、言うなれば豊かさの象徴であった。

痩せているという状態はつまり、病気でなければ、食事量を抑えているということに他ならないわけで、消費こそ美徳という高度経済成長期的倫理観に照らせば、必ずしも望ましいものではない。実際、太っている人のほうがいくらか羽振りよく見えたりするものだ。

そして、この物質的豊かさ追求の螺旋を突き進むコトの是非こそが、先の大震災及び原発問題が世に問うているイシューなのではなかろうかと個人的には感じているところだ。さすれば私が物質的な豊かさから距離を置き、身体に内在する価値に回帰したことも、あながち世相と全く関係がないとは言い切れないこととなる。

「反原発は信仰」というコピーは誰が言い出したか知らないが当を得ていて、市民が原発を見直そうというとき、主要な関心事は発送電に係わるコスト構造や安定性といった具体論ではなく、人はどう生きるべきかというような、より抽象的な議論である。数字を使った個別具体的な検討などは公務員あたりにやってもらえば良い話で、国家の主権者たる我々国民が打ち出すべきは、より原理的な方向性なのである。

いま、反原発を唱える人の思想的背景は、きっと、我々人間は一体いつまで物質的な豊かさを追い求め続けるのか、ヒトの欲望は無限という前提のうえにのみ成り立ち得る強欲で品のない資本主義というシステムにいつまで踊らされ続けるのか、そろそろ引き返してもいいのではないか、という疑念であると思っている。

思えば、近年日本で生まれるヒット商品のうちには、これまでの拡大・発展・進化の路線から外れたようなものが多い。ソーシャルゲームなんかはその典型で、そのプアでシャビーなユーザーインターフェースは、高性能の演算処理能力と画像処理技術を前提としたコンソールゲームとは一線を画すどころかまるで別物だ。AKBの華の無さも、アイドルとしては異端にみえる。

エネルギーというのはそれこそまさに豊かさの象徴だった。我々は家電製品や自動車など様々な技術の結晶を通じて大量のエネルギーを消費し、それにより豊かさを実感してきた。そうであれば、発電などエネルギーの精製に伴うリスクやコストなどの諸問題は、腹回りの脂肪のようなものだと言えるだろう。豊かさを象徴する一方で、我々の生命を脅かしもする。これとどう付き合っていくかというのは、まあ個々人が考えればよいと思うが、一度思い切ってそぎ落とし、別のもっと本質的な価値を求めるというのも一案だとは思ったりもするのだった。

滅び行く株屋の街、兜町

金融

東京駅のすこし東、地下鉄東西線の日本橋駅と茅場町駅の間くらいに兜町という地域がある。その中心に位置するのが日本の株式取引の中心地、東京証券取引所であり、その周囲にも銀行や証券会社などの金融機関が多い。まあ、私の勤務地なのだが、この兜町という街がなかなか特殊なところなのである。

オヤジの街

まず、兜町にはやたら喫茶店が多い

ドトールやスタバといった大型チェーン店ではない。それもあるが、特に多いのがいかにも家族経営風の、昔ながらの喫茶店である。そうした喫茶店は、特に都心では大型チェーン店による出店攻勢と価格競争によってすっかり駆逐され、あまり見かけることもなくなったと思うが、兜町にはいまだに大量に繁殖しているのである。

こうした喫茶店の特徴だが、まず高い。

コーヒー一杯で、普通に400円以上する。

値段はスタバ並だが、ほとんど持ち帰りの需要には対応しておらず、その場で飲んでいく客が大半を占める点がスタバとは大きく異なる。だから、おそらくコーヒーの料金設定も、コーヒー豆の原価というよりは、居住設備の減価償却費という側面が強いのだろう。コーヒーは、値段の割には決してうまくない

で、その施設設備だが、これがまた古い。

つい先ほど、コーヒーの原価が主に設備の減価償却費ではないかと言ったばかりだが、その設備も明らかに償却が終わったようなものばかりなのである。30年は余裕で経っているだろと感じる。

結果として、割高感が強い。

なぜかくも割高なコーヒーを提供する喫茶店が淘汰されずに存続しているのだろうか。

市場経済の聖地たる兜町でこのような市場の歪みが放置されていては東証のメンツにかかわるだろうから、代わりに私の方でいくつか仮説を提示すると、まずは顧客における高い喫煙率である。兜町の喫茶店の客は10人いたら8人くらいは喫煙者であり、コーヒーをすすりながらスポーツ新聞を読み、合間にタバコをふかしまくるというのが基本スタイルだ。

今日び、ドトールでさえ分煙政策をとらざるを得ない程に嫌煙社会が徹底されているが、今話題にしているような兜町の喫茶店で、禁煙ないし分煙を導入している店は皆無だ。これは例え話の類ではない。本当に一件もないのだ。兜町の喫茶店は、社会に迫害されている喫煙オヤジにとって最後のオアシスということなのだろう。

兜町の喫茶店が提供していると思われる価値は他にもある。

夏になってみて気付いたが、兜町の喫茶店はやたら涼しい。いや、寒いと言った方がいいだろう。先般の大地震に端を発する原発問題によって、いま日本列島はどこも節電ムード一色なわけだが、そんなことはおかまいなし。兜町の喫茶店は、冷蔵庫かと思うくらいの気温で絶賛営業中である。これもおそらく、基本暑がりの汗ダルマオヤジにとって、何にも替え難い価値となっているに違いない。

更に言うと、兜町の喫茶店で提供されるアイスコーヒーには、デフォルトでガムシロップが混入されている。はじめて飲んだ時はあまったるくて驚いたものだ。アイスコーヒーをブッラクで頼みたい場合は、態々「ガム抜き」という旨を添えねばならない。昨今の健康志向をまったく顧みない暴挙であると言える。

少し長くなってしまったが、兜町の喫茶店は完全にオヤジオリエンテッドなのである。ある意味、ドラッカー式マネジメントの鏡ではなかろうか。

「顧客が第一」

である。もうこれは、オヤジのオヤジによるオヤジのためだけの喫茶店と言っても過言ではなかろう。


で、実は、兜町という街においては、オヤジに照準を合わせているのは喫茶店だけではない。街全体がそうなのだ。

イタリアンやフレンチなどのナウな感じのレストランは基本的に存在しない。たまに間違ってできるときがあるが、大体つぶれる。そしてつぶれた後にできるのは、8割がた立ち食いそば屋。これもこれで、糖尿病や痛風を患い、接種可能な食事に厳格な制限を課せられているオヤジの生態を浮き彫りにしていると言えるだろう。

若い人はみんな都会に行ってしまった

兜町という街がオヤジの街になってしまった理由は単純で、若者が出て行ってしまったからである。別にどこからともなくオヤジが集まってきてそこが街になったという話ではない。残されたものがオヤジだっただけである。

つまり、いわゆるひとつの過疎化なのだ。

兜町に起こっていることは。

倒置法で言うと。


過疎が起こるとき、若者たちの行く先は決まっている。

都会だ。

若い人たちはみんな大手町や丸の内に建った新しいビルに引っ越してしまった。日興証券大和証券も丸の内に行ってしまった。野村證券は一応日本橋の東証裏にシンボリックな本社ビルを残しているが、大手町にも本社がある。兜町に残ったのは、そういう都会に引っ越すことのできなかった居残り組であり、新卒を雇って教育するだけの体力がない会社なのだ。

だから、兜町の街は空きテナントで溢れている。1階部分にはさすがにテナントが入っているビルが多いものの、2階から上はよく見るとガラガラだ。で、数少ないテナントから立ち出でるは、上述したような人生の折り返し地点を超えたオヤジばかり。

そう。兜町はいまや廃墟と呼んで差し支えない風情となっているのだ。


ところで、お気づきの人も多かろうが、若者が出て行った先の大手町や丸の内というのは、実は兜町の目と鼻の先だったりする。具体的には、兜町から永代通りを西に1kmほど行けばそこはもう大手町だし、そこから南に300mも行けば丸の内なのだ。完全に徒歩圏内である。

古びたオヤジ共の街と若者たちの都会は隣接しており、それが故にはっきりと境界線がある。

ちょうど日本橋駅と茅場町駅の中間くらいに昭和通りという通りがあるが、そこを境にまったく雰囲気が変わることになっている。昭和通りさえ越えれば、そこにはCOREDOなんていうシャレオツな駅ビルもあって、そこにはかの有名なメリルリンチさんがご入居されていたりとなかなか華があるが、昭和通りよりも茅場町寄りは、上述した通り。からっきしなのである。

なんとも不思議な話だが、もう歩いている人種からしてまるっきり違うのである。兜町界隈では、そもそも女性がほとんどいない。いたとしても95%が制服だ。歳は40前後だろうか。いかにも給湯室で上司の悪口を言いそうな、絵にかいたようなOLである。これがCOREDO近辺まで行くと、カジュアルにしろフォーマルにしろ、私服の女性も散見されるようになる。男性でも平均年齢が5歳〜10歳くらい一気に変わるのではなかろうか。無論、兜町の方が上。

ダブルのスーツとか、イマドキ兜町くらいでしか見かけないような気がするのだが。

証券業界の不況の根

さて。1年や2年景気が低迷したくらいでは、ここまでのことにはならない。兜町の景気はもうずっと下り坂なのである。兜町という街は、証券業界が長きに渡る不況に晒され続けた結果なのだ。

証券業界の不況はある種構造的なもので、それ故に根の深いものである。簡単に言うと、市場が健全に発展すると証券会社の利ざやは減ってくいく関係にあるのだ。

証券会社は市場を通じた資金調達、いわゆる直接金融において投資家と調達主体を結びつける役割を担うが、市場が本当に効率的であれば証券会社など必要ない。要するに、証券会社の利益の源泉は、本質的には市場に存在する情報の非対称性であり、非効率性なのだ。市場が効率的で真に株価が適正であれば、本当は個別銘柄のリスクなど分析する必要もなく、その時点でいわゆるセルサイドアナリストは職を失う。公表されている事実は全て株価に織り込まれているわけだから、利鞘を抜くためには、未公表の事実を「予言」するか「こっそり聞いちゃう」しかない。市場から「利鞘」は消失するから、何の銘柄を買っても平均的なリターンしか上がらないこととなり、プロ投資家も存在できないこととなる。

証券会社が生き残るための基本戦略はふたつだ。

ひとつは新しい市場をつくりだし続けること、もうひとつは、市場の利鞘が拡大するタイミングをじっと待つことだ。前者が総合証券の戦略であり、後者は株屋のそれだ。

前者について言えば、新しい市場では市場参加者も未成熟だから、価格形成も適正には行われない。すると利鞘が生まれる。例えばデリバティブと言われる設計した人でさえわけのわからないような複雑な商品がそれにあたる。あれはある意味、証券会社が顧客に説明するために複雑な形状になっているようなところがある。いわゆるマッチポンプであり、硝子屋が街中の硝子を割ってまわる行為に近いものがある。

後者は、自ら市場を創造するような知恵も資本も持たない中小零細証券会社にとっては唯一の道である。それはつまり、景気の波にのるということだ。株式のような手垢のついた商品でも市場がパニックに陥った時や、新参者が大量に流入してきたときなどは一時的に値動きが荒くなり、利鞘が生まれることがある。市場は波のようなもので、4年とか5年くらいの周期で上昇トレンドと下降トレンドを繰り返している。上昇が極限まで来ると人々は熱狂して株を買い漁り、下降が極限まで来ると人々はパニックになって株を売り浴びせる。こういうときに利鞘が拡大するのだ。だから、証券会社にとってのひとつの重要なビジネスモデルが景気の波の少しだけ先を読んで、コストをコントロールすることなのである。

そうして波間を漂う藻のように生きてきたのが兜町の零細証券たちであるが、長期的な利鞘の収縮に抗うには足りず、徐々に基盤を失い、生命力を失っている。

兜町の未来

遠からず、兜町の証券会社はほとんどが潰れるのではないだろうか。

古くからの証券会社は東証の株を持っており、膨大な含み益があるから、東証が近く上場したら、それらの証券会社は保有株を市場で売却すれば利益を廃業資金に充てることができる。

だから、東証が上場すると一気に廃業する証券会社が相次ぐだろうというのは、兜町では有名なオヤジギャグである。

そうして本当に街から人がいなくなれば、再開発が行われることになるだろう。

なにせ場所はいい。銀座からも丸の内からもほど近く、ベッドタウンとしては最適だろう。ただ地価は安くないので、住める人は銀座のホステスか丸の内の金融マンくらいかもしれないが。ただそれはそれで、また面白い街になりそうではある。