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ソーシャルゲームに返還請求ってさすがにそれはないでしょ

なにかその、ソーシャルゲームの「被害者」なる方々が、ソーシャルゲーム事業者各社に対して返還請求訴訟を起こすとか何とかという話が聞こえてきて、いくら何でもさすがにそれはないのではないかと思ったので。

話の出所はこのあたりではないかと推察。有名なやまもといちろうブログですね。

これは消費者庁や警察庁関係なく、そもそも懸賞、絵合わせで違法だったコンプリートガチャは、利用者から、使用金額の変換訴訟を起こされる可能性があります。
戸田泉せんせとか腕まくりしてたら笑いますが。
ただ、ざざっと試算しますと、総額で1,200億円以上、返還対象となるんじゃないかと思うので、絶対に取り返したいと思う方は携帯電話の支払い明細を握り締めて、事実上の違法認定となる改善通知が業界団体に送達された報道があり次第、その方面に詳しい弁護士方面に雪崩れ込んで相談していただければと思います。

ソーシャルゲームへの「コンプガチャ」規制関連のメモ: やまもといちろうBLOG(ブログ)

まあ、同ブログの後の記事なども合わせて読むと、要するにそんな動きがあるという噂を聞いたよという話に過ぎず、さらには先般のコンプガチャ規制とは独立した動きだと言うから、微妙に何のことかよくわからないというか、そんなことがあったら面白いねというネタと言う感じもするところではあるものの、一方で、なんとなく1,200億円という数字が一人歩きして、例によって例のごとく2ちゃんねるあたりではソーシャルゲーム憎しとの狼煙が上がっており、実際に株価がストップ安売り気配になっているのを見て、何と言うか、さすがに気の毒だと思ったわけだ。いや誰がというわけでもないのだけど。


で、いい大人が通常のガチャで使いすぎただけというのはもちろん論外で、未成年のウッカリ課金については裁判外で事業者が返金に応じているらしいので別枠として、あるとすればコンプガチャ違法判断に基づく不当利得返還請求だと思うものの、絵合せ懸賞の部分のみが黒で、その前段階としてのガチャ販売の部分が白な現状では、不当利得といっても大した額にならないか、ほとんどゼロというのが穏当な判断ではなかろうか、という話。

そう。確かに民法は不当利得の返還請求権を認めている(703条)。Wikipediaなんかにもある通り、後で契約が無効になった場合や法律上の根拠がないことが明らかになった場合などに、当該契約に基づいて発生した相手方の利益を取り戻せるという権利である。

このように聞くと、ならばコンプガチャの売上は、まさしくソーシャルゲーム事業者の不当利益であると思うのかもしれないけれど、コンプガチャが違法であるというその意味合いというのは、詳しくは昨日書いたエントリーを見ていただきたいと思うが、要するにガチャをやってカードを引き、特定のカードをコンプリートするとレアカードが貰えるよという仕組みの後半部分のみなのであって、前半のガチャでカードを買う部分は特に違法ではない。

文房具屋さんで鉛筆を12本、600円で買いました。例えばね。それで鉛筆にはそれぞれ異なるシールが付いてて、シールの絵柄が数種類揃うと消しゴムが貰えますと。ここで言う消しゴムの提供方法は絵合せ懸賞であり、違法だ。この懸賞は行われるべきではない。しかしながら、鉛筆の販売自体は、普通に合法なのである。

だから、懸賞が違法というだけでいきなり600円全額が返ってくるというのはどう考えてもおかしい。600円は、不当な利得でも何でもない。鉛筆の販売代金なのであって、支払われて然るべきものなのである。

もし鉛筆を使っていなければ、鉛筆を返品することで、取引自体を白紙に戻す(つまり、お互いに不当利得を返還する)という選択肢はあり得る。ソーシャルゲームにおいても、レアカード景品がないのならそもそもガチャをしなかったという理屈で、取引を白紙に戻せるのだろうか。もしそれが通るなら、「ハイハイ返しますよ喜んで」と返還に応じる消費者も多そうだが、それはそれで消費者に有利過ぎると感じないか。

鉛筆は消費しなければ商品が損耗しないが、ソーシャルゲームのカードは消費しても損耗しない。逆に言えば、損耗させずに消費することができる。消費したのであれば対価を払うべきだが、商品の損耗の度合いで消費の形跡を図ることができないのである。このあたりがややこしい部分だ。

カードの消費によってどのような便益が得られるのかいまいち定かではないものの、何のカードが当たるかわからないよということを承知の上でガチャを引いて、出てきたカードが自分のコレクションの一部となった時点、要するに事業者がデータベースに顧客のカード所有情報を登録した時点で、ある程度ユーザーによる消費行動は完了していると考えるのが自然ではないのだろうか。

そうであれば、返還は得られないということになる。ゼロ。今後コンプガチャのような懸賞は慎むようにという話には当然なろうが、過去のコンプガチャに係る売上の返還はなされない。理由は、事業者側が売上に対応する役務の提供を既に完了しているから。

逆に返還が多少なりとも認められる場合というのは、ユーザーの消費行動は、カードの購入時点では完了していないということが認められるときだろう。例えば、一律1年間で均等に消費することにするなどの対応があり得るが、その場合は事業者側の売上計上基準をも変える大々的な話になるだろう。ややこしい。実にややこしい話だ。


ということなので、コンプガチャ売上1,200億円というものが返還の対象になるというのが最悪のシナリオだとすると、私は、会社にとってもう少しという大分ポジティブな決着になるのではないかなという気はする。

とはいえ、たかだかあれだけの報道でこれだけ大騒ぎが起こるという現状の背景には、少なからず世論が、社会がソーシャルゲームに違和感を感じている部分はあるはずで、額面通りに決着するかというと、正直不明なところはある。

個人的には、ソーシャルゲーム各社ともに、国内で売り上げるだけ売り上げて投資は海外という図式の割に、海外投資の成果がなかなか見えてこないところに、マクロ的に見たときの存在意義の微妙さ、ある種のODAなのではないかという嫌疑というものがあるような気がするので、海外でしっかりと成功し出すと世論の傾きというものも少し変わってくるのではないかなという気はする。

消費者庁によるコンプガチャ規制はソーシャルゲーム終了のお知らせか

我が家のPS3をリニューアルしたこともあり、何気なくHuluを眺めていたらいつの間にかうっかり「24」を見始めてしまい、連休の半分が一瞬で失われたので「あーあ」とか思っていたところ、何やら興味深いニュースが急きょ舞い込んできたので、リハビリのつもりでブログを書いてみる。

お知らせ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

当ブログでは再三申し上げている通り、私はソーシャルゲーム界隈に何らの利害もなく、プレイさえしていないので、それこそあの業界があってもなくても本当にどうでもいいのだけれど、まだ新しく未成熟な割にカネの動きだけはやたら派手という、近年の日本では珍しいあの業界についに当局のメスが入ったと聞いては、野次馬根性を大開放せざるを得ないわけである。

コンプガチャは違法か

ということで記事内容だ。記事によると、満を持して登場した消費者庁が、いわゆるコンプガチャについて、景品表示法違反との見解を近く公表する見通しとのことである。

コンプガチャはお分かりだろうか。ドリランドや何やという有名どころのカードバトルを模したソーシャルゲームでは、ゲームで利用するカードを入手する際に、300円を投じると何らかのカードが入手できるという現実のおもちゃ売り場におけるカードダスやガチャガチャのような、「ガチャ」と呼ばれる仕組みが用いられる。「コンプガチャ」は、ガチャによって特定のカードをすべて集めた(コンプリートした)際に、より希少なカードを獲得できるとする仕掛けのことだ。

このコンプガチャ景品表示法に違反するとのことなので、多少疑いの念を抱きつつも、さっそく景品表示法なるものを確認してみたのだが、これがまた本当にしっかり違反していて実に面白いのである。

同法における景品類の定義は、概ね以下の通りだ。

  1. 「顧客を誘引するための手段」として、
  2. 「事業者が自己の供給する商品又は役務の取引に付随」して
  3. 「相手方に提供する物品、金銭その他の経済上の利益」

ここまでは何の問題もない。確かにコンプガチャの仕掛けは、プレイヤーがガチャを行うことを「誘引するための手段」であり、それにより配布されるレアカードは「物品」ではないものの何らかの「経済上の利益」であることは疑いようがないから、コンプガチャにおけるレアカードが景品類に該当することは間違いない。しかしながら、この法律は景品類を一切禁じるものではない。当たり前だ。ヤマザキ春のパン祭りを引き合いに出すまでもなく、世に景品類は氾濫している。

同法は、「必要があると認めるときは、景品類の価額の最高額若しくは総額、種類若しくは提供の方法その他景品類の提供に関する事項を制限し、又は景品類の提供を禁止することができる」と言っている。このあたりが肝だ。要するに程度の問題ということであり、線引きが問題になる話ということだ。

このあたり、線引きの問題を確認するには、法律そのものではなくて告示にあたる必要がある。「懸賞による景品類の提供に関する事項の制限」において、景品類の制限について概ね次のとおり定められている。

  1. 懸賞により提供する景品類の最高額は、取引価額の二十倍(だたし最大10万円)を超えてはならない
  2. 懸賞により提供する景品類の総額が、取引の予定総額の2%を超えてはならない。
  3. 一定地域における事業者相当多数が共同して行う場合などは、例外的に、景品類の最高額を30万円を超えない額、景品類の総額を取引の予定総額の3%まで拡大することができる。
  4. 2以上の種類の文字、絵、符号等のうち、異なる種類の組合せを提示させる方法を用いた懸賞による景品類の提供は金額の多寡によらず一切禁止

上記を読めばわかるだろうが、コンプガチャは4に違反する。私は全然知らなかったが、絵合わせによる懸賞は一切禁止だったのである。

だから例えば、何度も引き合いに出して申し訳ないが、ヤマザキ春のパン祭りが、単にシールを集めて応募するという話ではなくて、複数種類あるシールをすべて揃えなければならず、かつそのシールの種類が商品購入時に選択できない場合は、同法の違反になるというわけだ。

コンプガチャは、誰がどう見ても、2以上のカードについての「コンプリート」という組み合わせを条件に、景品としてのレアカードを提供している。一切禁止なのに。何という真っ黒だろうか。GREEやDeNAに法務部門はないのか。どこかに解釈の問題が入り込む余地があるのなら教えてほしいくらいである。

ちなみに、同法に違反する行為があった場合、内閣総理大臣はその行為をしている事業者に対し差止めを命ずることができる。さっさとしてはいかがか。

ガチャ自体は違法か

ただ、一方で今回の景品表示法適用を過剰に大袈裟なものとしてとらえる向きも少なくないように感じているので、その点については少し釘を刺しておいてもいいのかもしれないとは思っている。つい先日、ソーシャルゲームを規制すべきか否かみたいなべき論を打ち出していたところ、このように議論の余地のない見解が公表されて少し恥ずかしいので、行き過ぎた解釈をディスることで自分内バランスを整えようという魂胆もある。お付合い願いたい。

私も当初、上記告示を確認した時に勘違いしそうになったのだけれど、今回の件は、上記告示における4への該当を示唆するものであり、1ではない。この違いは大変重要である。

1に該当するということになった場合、その判断はコンプガチャの景品たるレアカードが10万円以上の価値を有しているという解釈を含むものだからだ。

もし、一部のレアカード「だけ」が10万円以上の価値を持つという解釈が認められると、コンプガチャだけでなくてそもそもガチャ自体が景品表示法に違反する可能性が高くなってくる。当たれば10万円外れれば紙屑というのは、上記告示の運用基準に例示されるところの「すべての商品に景品類を添付するが、その価額に差等があり、購入の際には相手方がその価額を判別できないようにしておく方法」に他ならない。

この点、現状はどのような解釈がなされているかと言うと、レアカードだろうがノーマルカードだろうが本質的には同じもの(ある固有のゲームで使うカードであり、そのゲームで勝つか負けるかくらいの差しかない)であり、それらを一律300円で売っているという解釈である。300円払うと、カードが購入できる。カードが財産かサービスかは一旦置いておいて、実に単純な商取引である。

RMTが存在するのだから、一律300円という理屈はおかしいと主張する人もいるだろうが、基本的にああいうセカンダリーマーケットというのは、商品の価値の本質を規定するものではない。たまたまレアさ加減がウケて高額で取引されるに至った昔の切手などが、過去に遡って本質的な価値上昇を認められるかというと、そんなはずがない。切手は切手。販売した時は50円の価値しかなかった。それがすべてである。そもそもあんなカード、ゲームの流行が過ぎたら1円にもならないのだ。そんなもの財産ですらないというのが、一般的なものの見方なのだ。

ところがここで、一部のレアカードに10万円以上の価値を認めるとどうなるか。そうすると途端に、300円払ってガチャを回す権利を買うと、10万円相当の景品が当たるときもあるし、ゴミが当たるときもあるという解釈のされ方が成り立ち始めるのである。これは、少なくとも景品表示法に違反する。

こうなってくると、問題はかなり広範に拡散する。リアルなトレーディングカードモノなどは、最もわかりやすい延焼先だろう。これらはすべて、出てくるカードに本質的な違いはないというところを前提にしているからだ。

これらをもグレーゾーンに引き戻すとなると、例えば個別の「カード」の価値をどのように判別するのかといったかなりややこしい問題が頭をもたげ始める。市場価格といっても、個別のカードは短命かつ不安定すぎて全幅の信頼を置くには至らないし、カードの能力差に応じて個別に判断するとなると、壮絶なイタチゴッコが否が応でも想起される。

なので、今回コンプガチャに絵合わせ懸賞(上記告示の4)が適用されることとなったのはかなり大きなニュースだが、実は景品上限額(上記告示の1)が適用「されなかったこと」はさらに大きなニュースだと言ってもよいことだと思う。

今回のニュースは、風営法を擁する本丸警察庁様の出方はまだ不透明なものの、少なくとも消費者庁としては、ガチャという販売手法そのものについては原則として踏み込まない、若しくは踏み込めないという意思表示だと捉えてもいいのではなかろうか。

追記)ソーシャルゲーム事業者が取り得る対策について

いつも遵法精神で溢れかえる当ブログには、上記事案を受けてさっそくいくつかの脱法アイデアが寄せられているのでここで紹介しておきたい。

・絵合せの景品としてレアカードを300円で購入する権利を提供

現在、絵合せ懸賞の景品はレアカードである。このレアカードが果たして「景品」なのかについては若干の議論はある。原価もないし、原則として換金の手段もないことになっているのだから、確かにこれが「経済上の利益」かについては疑わしい部分もある。ただ、ソーシャルゲーム事業者は、まったく同じようなカードを300円で売っている。これは300円分の景品と見られてやむを得ないだろう。

ではこの景品を、「レアカード自体」ではなく「レアカードを買う権利」にしてはどうか。権利には理論的な価値があるが、300円のカードを300円で買う権利であれば理論的にゼロ円である。ゼロ円の価値のものをゼロ円で提供しても、普通景品とは言わない。完璧である。

・絵合せでなくて同一カードの重複を条件にする

「2以上の種類の文字、絵、符号等のうち、異なる種類の組合せを提示させる」から違法なのだ。であれば一種類にすればよいという非常にシンプルな法の潜脱である。

ただ、シンプルなだけに禁止は難しいように思える。あっちこっちの店で配られるスタンプカードや、何度も本当に申し訳ないがヤマザキ春のパン祭りと本質的に何も変わらないからだ。これでも禁止できるんすか消費者庁さんよ、という非常に挑発的な好手であると言える。

有名ブロガーメルマガと芸能人ディナーショーの共通点について

最近、とみに有料メルマガがブームである。

つい先日も、切込隊長で有名なやまもといちろうさんと金融日記の藤沢数希さんが、相次いでメルマガを創刊した。

その他にも、ネットである程度有名と言われるような人は大抵メルマガを発行している。

いまや、ネット界隈である程度名を上げた末に有料メルマガを始めるという一連の流れは、完全にパターン化されたと言っていいだろう。昔メルマガといえば、メルマとまぐまぐくらいしかなかったが、いつの間にかBlogosも始めているし、他にも新規参入は少なくないようだ。

メルマガに新規参入、何か今更だが。メルマガ、やっぱりブームなんだろう。

有効な課金手段としてのメルマガ

理由は分からないでもない。インターネットでの課金手段というものが限られているからだ。

古くパソコン通信の時代から、インターネットというものは、どうにもこうにも課金との相性がよろしくない。当初から課金を前提に設計されたiモードをはじめとするモバイルインターネットが課金天国として力強く発展したこととは実に対照的だ。

そういう中にあると、「ブログが人気です」「月間100万円PVです」というようなことに仮になったとしても、ともすれば単に「よかったね」というだけの話で終わってしまい、いざ課金と言うことになると「うーん」と頭を抱えてしまうということは多い。のだろう、たぶん。

グーグルのアドセンスに代表されるアフィリエイト広告というのは、現状においてブロクを収益化するうえでの最有力手段なのだろうが、これもイマイチパッとしない。実際問題として、いまご覧いただいている拙ブログ、多いときだと月間に10万近いアクセスがあるが、アフィリエイトの報酬というのは精々5,000円程度でしかない。仮にアクセス数が10倍の100万PVになっても、単純計算で5万円にしかならない。大規模になることによるプレミアムで2倍、さらに効果的な広告設置でさらに2倍になったとしても、20万円である。20万円、まあそこそこの金額ではあるが、月間に100万ものアクセスを集めるトップブロガーの収入と考えると、実に夢がない。うーん。

と、そういうときに頭をもたげる選択肢こそが、おそらくメルマガなんである。

思うに、第何次にあたるのかよく知らないが今のメルマガブームの走りは、堀江さんではなかったか。堀江さんのブログは、月額800円という料金設定で、10,000人を超える購読者を獲得した。つまり月800万円の収入であり、年収で言うと、ほぼ1億円。アフィリエイトによる雀の涙的な報酬と比べると、天と地ほどの差だ。 で、そうした懐事情を、堀江さんがまたわりと明け透けに公言するものだから、その発言ひとつひとつが、まるで海賊王の言葉が男たちを海へと駆り立てるかのように、ブロガーたちをメルマガへと駆り立た。

そう。大メルマガ時代の幕開けである。

みたいな。

まあ、概ねこのような理解である。

今メルマガが流行る不思議

ということで、メルマガを出す方の根本のところにある動機(=カネ)というのは想像に難くないわけであるが、よく分からないことが2つくらいある。

まず、なんで今更メールなのかということ。

これは、テクノロジーの話といえばテクノロジーの話だ。IT業界は日進月歩、次から次へと新しいテクノロジーやサービスが生まれている。先週もこのブログで書いたように、つい2年前に誕生したサービスに800億円もの評価がつき、10年前には影も形もなかったフェイスブックなんていうものが、明日にでも時価総額8兆円で株式を公開しようとしているわけだ。にもかかわらず、である。日本のネット界隈でいま一番アツいのはやっぱりメールマガジンですかね、ってなんかおかしくないだろうか。

別にアイフォンやアンドロイドのアプリでもいいし、キンドル電子書籍でもいいではないか。それこそフェースブックのアプリでもいい。なんでメルマガなのか。動的なコンテンツもなければインタラクティブな仕掛けもない。ただのテキストデータをメールサーバーを経由して送るというだけの原始的な仕組み。どうにもこうにも、ブームとしてはローテク過ぎると思うのである。これが最初の疑問。

それから、メルマガを購読する人が世の中にそんなに大勢いるという事実もよくわからない。だって、高くないか?メルマガ。

先にも上げた堀江さんのメルマガは、確か800円で月に4回発行だったと思うが、肝心の内容は、記憶してる限り、「こんなビジネスモデルが儲かるのではないか」的な講釈や、「勾留中はこんなことしてました」的な回顧録なんかがメインのコンテンツとされていたやに思う。

まあ、「あの堀江さんが注目する新ビジネス!」と煽られればまったく興味がないというわけでもないし、あのライブドア事件という特異な事件を、当事者として、しかも勾留中という特殊な環境下でどのように捉えたのかというのも、知りたくないわけではない。

しかしながら、価値とは相対的なのである。エコノミストでも日経ビジネスでもいいが、世に氾濫する数多のコンテンツの中で、堀江さんのメルマガだけが毎週毎週珠玉であられる蓋然性というのは、無いに等しい。そんな毎週書いてたら当然ネタって切れますよね、と言ってもいい。

にもかかわらず、である。

そこで定期購読を選択する合理性というのは、一体何なのか。

よくわからない。

ブログでは書けない話などとよく言うが、そんなものメルマガでも書けまい。

これら疑問というのは、何かメルマガの購読者を腐すとか、そういう文脈では断じてない。いちブロガーの端くれとして将来的な課金収入の可能性に思いを馳せるとき、読者に提供すべき価値がまったく想定できないという、ある種切実な問題なのである。

プライベート空間とファン心理

ということで、メルマガの何たるかに頭を悩ませ続けていたわけであるが、最近啓示が降りた。

タイトルのとおりである。

要するに、芸能人のディナーショーみたいなものではないのかと。

そう考えると、上記疑問が一気にクリアになる。何故今更メールなのか。これはおそらくプライベートな雰囲気と親密さの演出なのである。

堀江さんのメルマガでは、堀江さんが読者からの質問に答えるというQ&Aのコーナーが最も人気を博していて、毎週たくさんの質問が届き、堀江さん自身がそれに全部答えているようなことを、以前に当人のブログで読んだ。そのときは、結局他のコンテンツが大して面白くないということなのではないかと訝しがった記憶があるが、ファンイベントであれば交流がメインになることは、考えれば当たり前のことだった。ディナーショーにおいて、ステージから降りた芸能人が歌いながらテーブルの隙間を練り歩き、ファンと簡単な挨拶を交わすみたいな風景を夢か何かで見たことがあるが、メルマガのQ&Aコーナーというのは、まさにそういうことではないのか。

メールはローテクだと上では書いたが、メールというのは文化的側面が強いものだ。あれは、テクノロジーの進歩が創り出した新しい概念といった類のものではない。あの便箋のアイコン、カーボンコピーという呼称など随所にみられる紙メタファー、無駄に多い儀礼的なマナーなどから明らかなとおり、電子メールというのは、もともと存在していた手紙の文化を、オンライン上に無理矢理置き換えたものである。

だからだと思うが、メールというのはどうにも相手と向き合う感が強い。オープン⇔クローズという尺度で言うと、WEBが極めてオープンであるのに対してメールは実にクローズドだ。最近はWEBでもSNSなんていうクローズドなサービスが活況だが、それでもまだまだメールよりはオープンだろう。だから、普段ブログを読んでいる相手からメールが来るというのは、読者の視点からすると、結構急激に親密さが増すユニークな経験なのかもしれない。みのもんたの思いっきり生電話にも似てる。

次の疑問に移ろう。なぜメルマガは高いのか。これはおそらく、ファンが相手だからだ。

世間広しと言えども、「腹が減ったから」という理由で芸能人のディナーショーに行くやつはいない。みんなファンだから行くのである。当たり前だが。

次のような話を聞いたことがある。

光GENJI諸星和己は、光GENJIの解散から10年以上たった今でも1万人近いファンクラブ会員を組織しており、当該会員から生じる会費や、ファン向けのプライベートイベント(それこそディナーショーの類だと思う)、グッズ販売によって1億円以上の収入があるという話である。噂話のうえにうろ覚えなので、まったく信ぴょう性には欠けるわけだが、何となくさもありなんという感じがしないだろうか。

このさもありなんな感じだけを頼りに話を進めたいと思うが、要するにこのファン心理というやつは、キャッシュ・フローの源泉としては極めて安定しているのだ。ファンであることがアイデンティティの一部になってしまうと、もう金を払わずにはいられない。

蛇足になるが、このことは、アーセナルヤンキース、それにホークスといった人気スポーツ・チームのスタジアムが証券化され、数十年と言う年限の債券を発行していることからもわかる。

証券化される資産はキャッシュ・フローの安定感が肝だから、普通は例えばロンドンの地下鉄など、そういうインフラ系の案件が多くなるものだが、そうしたスタジアムなどが好んで証券化されるというのは、要するにファン心理というものも、インフラ並みに安定したキャッシュ・カウであると考えられているということに他ならない。

ということは、堀江さんのメルマガも、証券化したら30億くらい調達できるかもしれない。生命保険は必須だ。

メルマガ向き不向き

さて。このように考えると、同じ有名ブロガーでも、メルマガという戦略に向いている人とそうでない人がいるような気がしてくる。

堀江さんは、もちろん向いている。

キャラが立っていて、人気もあるからだ。不自然なまでに合理性を前面に押し出した彼の価値判断は、悩み多き子羊たちにはたまらないだろう。要するに持ちネタがプライベート空間で威力を発揮しやすいわけだ。

そういう意味では、逆にハックルさんや池田先生はあまり向いてないようにも思う。

ファンが多いことに違いはないが、彼らの魅力というのは、あまりプライベートな感じのスペースでは映えないと思うからだ。あの統合されているのか何なのかよくわからないキャラクター、筋が通っているのか通っていないのかよくわからない論理、計算されているのかどうなのかよくわからないファン心理。

ディナーショーというよりは、どちらかと言うと野外ライブみたいな見せ方が向いているんではないか。だから、マネタイズを考えるなら、ファンとのプライベートなやり取りを売りにすると言うよりは、野外ライブの会場でビールを売るみたいなやり方のほうが良さそうだ。なんの例えか知らないが。

あとは、冒頭でお名前を出させていただいた藤沢数希さん。こちらは、かなり器用な印象があるので、まあソツなくこなすだろうという気はするが、一方のやまもといちろうさんの方は、さほど向いてない予感もする。ちょっとハラハラするぐらいの毒舌が売りの彼のブログだが、同じ芸風をメルマガでやると、ただの陰口になってしまわないか。あまりマメにファンサービスをしていく風にも見えないし。ただ逆に真面目な感じでやっていくのかなという感じもする。

ファイナルベント翁も、意外とメルマガで商業化という野心を隠さないが、まああんまり向いてないのではないか。誤解を恐れずに言えば、イメージが暗すぎる。消費意欲を煽らない。まじめに社説の解説とかしそう。おそらく、自分というものを客観視し過ぎではないのだろうか。自分のキャラというものに対するコミットが感じられない。もっとこう、なんと言うか、息をするように自然に友達のような顔ができる人が向いてるんじゃなかろうか。人なつっこいというか。

で、私の中では、断トツ向いてそうなのがちきりんさんだったりする。

アンコールに応えて3回くらい、「そんじゃーね。」とかやるイメージというのだろうか。

あの方は、なんとなくファンサービス向きだと思う。そのちきりんさん、残念ながらメルマガについては発行の可能性すら否定している状況だ。きっとそれには訳があって、おそらくメルマガにリソースを割くよりもブログで広範に読者を集めたほうが彼女にとって便益が高いとかそういうことではないかと推察するが、案ずることはない。メルマガでは社会派の冠は脱ぎ捨てて、おちゃらけ人生相談と旅日記にすれば、ブログの方とコンテンツは被らないし、毎週ネタに悩む必要もない。ファンも喜ぶ。何も問題ない。

ということで、何の話かよくわからないが、ちきりんさんは是非メルマガをやったほうがいいというのが本日の結論である。何という大きなお世話だろうか。

Facebookって要するに何なのという件について

先週、SNS世界最大手のFacebookが写真共有サイトのInstagramを買収との報があると、世の中にはだいぶ衝撃が走っていたようだった。

かくいう私はこのInstagramという会社のサービスを、何となく聞いたことはあったものの使ったことはなく、あまり詳しくは知らなかったので、当初はへえという感想しかなかったのだけれど、後になって詳細を見てみると、なるほど衝撃の内容だったわけである。

というのは、このInstagramという会社、実は創業から僅か2年しか経過しておらず、従業員は13名、売上高はゼロ円なのだそうだが、その会社がなんと10億ドルで買収されたというのである。10億円ではない。いや、10億円でもすごいのだが。さらにすごい、10億ドル。日本円にすると実に800億円くらいである。

売上ゼロの会社で良ければ私がいくらでもつくりますよという感じだが、同社の運営するサービスには5000万人近いユーザーがいるというから、一応納得しておこうか。まあそれでも1ユーザーあたりに20ドル以上払ってる計算だから、割安感的なものは一切ないが。

さらに言えば、Facebookは自身の上場も間近に控えており、これがまたなんと時価総額で1000億ドルとか言うから、もう何が何だかわからない。これがどのくらい凄いかというと、日本企業で言うと、トヨタに次ぐ大きさなのである。日本に3千以上ある上場会社は、たった1社を除いてFacebookよりも価値が低いのだ。一体今まで何をしてきたのか。

まあFacebookの方は、件のInstagramとは違い、ちゃんと売上高を計上していて、利益も10億ドルほど出しているそうだから、わからなくもない評価額といえばそうなのだけど、にしてもその巨大さは私の度肝を抜くには十分だ。代表者で創業者のザッカーバーグは若干27歳にして推定資産175億ドルの大富豪だそうだ。

サバンナ高橋みたいな顔をして、なかなか侮れない男である。


それにしても、だ。こうした話というのは、ちょっと射幸心を煽り過ぎではないかと思うのは私だけだろうか。

上述したようなベンチャーで一攫千金みたいな話がまことしやかに語られると、尊大なるものづくりを担う大メーカーで、額に汗して真面目に働くことがバカバカしく感じられ、「すたあとあっぷ」なる破廉恥な営みにうつつを抜かす不届者が増え、ともすればテレビ局に喧嘩を売った挙句国政選挙に立候補したり逮捕されたりして人生を棒に振ってしまう若者が増えかねないから、こういう設立間もない会社が上場したり買収されたりするときのバリュエーションに際しては、マルチプルに一定の制限を設けるべきであると、私は消費者庁に厳重に抗議したいと思う。嘘だが。


話がそれた。まあ何にしても飛ぶ鳥を落とす勢いとしか言いようがないFacebookなわけであるが、それで結局あれは何なのという疑問は多いのではないかと想像している。

おそらく私より上の世代、30代も後半くらいになると、大半の人はFacebookを使ったこともないだろうし、当然理解は追い付いていまい。そうした人にあっては、よくわからないなりに自身の人生経験に照らし、「まあ光通信時価総額8兆円まで行ったし」ということで、つまるところ「光通信みたいもん」として無理矢理整理をつけている可能性は否定できない。ともすれば、「サバンナ高橋が副業で大当たり」くらいまでこじらせている可能性さえある。憂慮すべき事態だ。いや勝手に想像して勝手に憂慮してれば世話ないのだが、今日は少しこのFacebookについて考えてみたいと思っている次第だ。

Facebookの何たるかというのは、ちょっとわかりづらいと思う。似たような感じで数年前に颯爽と登場したGoogleが、「検索」によって欲しい情報にすぐアクセスできるというわかりやすい価値を提供しているのに対して、Facebookでなにができるのか、又は何が実現するのかというのは、すぐにはイメージしづらい。

例によって例のごとく、ITジャーナリストを名乗る欧米マンセーズは合言葉「世界を変える」を操り、Facebookが人々のプライバシーの概念を変えるとか変えたとか、いつもの調子で沸き立っており、いわゆるひとつの持ちネタの披露に余念がないわけだが、冷静に考えて、プライバシーの概念なるものを変えたから一体何だというのかよく分からない。というか、誰がそんなモノ変えて欲しいと頼んだのだ。実に意味不明である。世界は変えりゃあいいというものではない。望ましい方向に変えなくては意味がないのである。

確かにFacebookは、人がプライバシーを他人と共有することの敷居を限りなく押し下げた。今何してる?という共通の問いかけに呼応するかたちで繰り返される単純なテキスト投稿に加えて、写真共有機能や携帯端末のGPSと連動した位置情報機能などを利用し、ユーザーは余すところなく現在の自分の状況を開示している。

そうして今日も今日とてFacebookでは、
「これ食べました」「いいね!」
「子供かわいいです」「いいね!」
「自己啓発セミナーです」「いいね!」
「実話ですが人種差別をこじらせた厄介な客をスチュアーデスが快刀乱麻です」「いいね!」
と、もう何でもいいのかと言いたくなる空虚なやり取りが繰り返されているわけだ。

さて、あれに一体何の意味があるのか。


Facebookがプライバシー公開の敷居を下げたとして、ユーザーがその仕組みに乗じて本当にプライバシーを公開するかというのは、プライバシーを公開することによって何か便益を得ることができる場合に限られるはずだ。

それは何だろうか。

これについて私は、結局自己同一性の強化ということではなかろうかと思っている。キャラクターの獲得と言ってもいい。

キャラクターなるものがどのようにして出来るかといえば、それはコミュニケーションでしかない。他人からどう見られるかが積もり積もってキャラクターを構成するわけだ。ナンシー関は、松岡修造について次のように言っている。

「テレビの中の自分の面白さ」を語った修造の言葉を総合すると、「笑われているのではなく笑わせているのだ」ということになる。しかし、修造のおもしろさはやはり「笑われる」ところにある。たとえば、芸能人にテニスを教えるというバラエティーの企画。修造は、唐突にピンク・レディーの「UFO」を踊らせ、その振りがテニスのストロークにつながると言う。この部分は、まさに修造が「自分に何が求められているか」を熟考したうえでの「サービス」である。しかし、こうしたサービスの部分がおもしろいのではない。おもしろいのは、そのときに修造がはいているピシッとプレスのきいた真っ白い短パンなのである。こいつ短パン何枚持ってんだ。たとえば、の話であるが。
-ザ・ベリー・ベスト・オブ「ナンシー関の小耳にはさもう」100 p.374

長々と引用したわりにはあんまり関係なかったかもしれないが、要するにキャラクターというのは、自分でつくることはできないということだ。そして、他者がそれをすることもできない。ただその人に対する言及・行動の積み重ねによってのみ、かたちづく"られる"のだ。

これは、まるで潜水艦のソナーのようだ。

ソナーというのは、潜水艦が、例えば敵の潜水艦など、何か水中の物体を探知したり位置を把握したりするために出す超音波みたいなやつのことで、対象物からの反射を計測することによって対象物までの距離や方位を測ることができる。Facebookでのコミュニケーションもこれと同じで、内容に意味があるというよりは、発することや反射すること自体に意味がある。行き交うコミュニケーションのなか、それが通過せず反射する場所、そこに人物がいてキャラクターがあるのである。例えば私は、ご覧の通りブログを書いている。1エントリーあたり、多いときは数百という反応があるが、それらの反応こそがWEB上における私という存在というものをかたちづくっている。なんの反応もなければ、私は少なくともWEB上には存在し得ないだろう。


最近、Facebookは「いい人」ばかりで気持ちが悪いという事案が、たびたび話題にのぼる。

お心当たりがないという人は、以下のエントリーなどを、ご参照いただきたい。

違う自分を演じている〜「Facebook上での友達のふるまいに違和感」34.4% -INTERNET Watch
ひとはなぜフェイスブックで「いいひと」を演じてしまうのか問題 - night and sundial

なぜ「いい人」ばかりなのか。

Facebookではフィードバックに使うコミュニケーション手段が、ほぼ「いいね!」だけしかないわけで、そういう中にあって、すべての人が「いい人」キャラに収斂していくのはある意味必然である。

これが例えば、はてなではお馴染みの「これはひどい!」とか「死ねばいいのに!」とかいう悪意のフィードバックが増えれば、結果的に露悪的な振る舞いも増え、現実社会同様に随分多様化していくことだろう。


それで、結局あれは何なのという当初の疑問である。

Facebookで公開される個々人のプライバシー情報というのは、一昔前であれば、路地裏の井戸端、会社帰りの居酒屋、若しくは自宅のリビングルームと言うところで止まっていた情報である。Facebookは、これらをオンライン上にリプレースした。そうすることによって我々は、空間も時間も超えてプライベートなコミュニケーションに興じることができるようになり、自分の存在をより強固に感じることができることとなったのである。

だから、Facebookの価値というのは、どれだけのコミュニケーションをつくりだしたか、によって測ることができると言える。

そして、そうであれば必ず、彼らが悪意のフィードバックをも自らのシステムに組み込む日というのは、遠からずやって来るだろう。多様なキャラクターをつくれた方が、ユーザーの便益は高いからだ。

そのときはおそらく、その道一筋10年弱、生み出した悪意の数やいかほどかという我らがはてなの買収も現実味を持つことになるのではないか。

なので、はてなは、そうなる前に予め私に株をください。

それからFacebookは、買収を検討する際に"はてなブックマークに満ちる悪意に果敢に挑み、そのマネージメントにはじめて成功したキーパーソン"を自称する頭の禿げた男をアドバイザーとして雇わないように。

以上です(なにが)。

参考

まあなのであんまり関係ないのだけど、面白いので。

そもそも勤労の美風とか言ってる場合なのかという問題その他

この間、ソーシャルゲームと賭博の保護法益の関係などを眺めていて、少し思ったことがある。

極論すぎるかなと思って当初のアジェンダには書かず、話が盛り上がってきたら煙幕的に投入しようと思っていたのだけど、どうやらディベートとして盛り上がっていく雰囲気もなさそうなので、何か変な間になってしまうけど、つらつらっと書いておく。まあ、なんでも好きなことを好きなときに書いていいのがブログのいいところであるな。と自分に言い聞かせつつ。

続きを読む

ソーシャルゲームを規制すべきでない理由 ※まとめ追記

前回のエントリーは、まあひとことで言ってしまえば、ウケ狙いで書いた所謂ネタエントリーだったのですが、エントリーアップ後しばらくして、元切込隊長ことやまもといちろうさん(39)から、何を間違えたのか興味深いお申し出をいただきました。

それはツイッター上での簡単なやり取りとなりましたので、以下にサクッとご紹介させていただきます。




唐突にアルファブロガー(死語)に絡まれ、俄かに狼狽して浮足立っている私が笑えるのは置いておくとして、ソーシャルゲーム規制についてのディベートを、とのことです。何度読んでも「納得ずくで」というあたりが微妙に恐ろしいのですが、アクセス乞食の泡沫ブロガーには実にありがたいお話ですね。こうなったら是非Dコーガイさんや池田N夫先生、Hックルベリーの人などの有名どころにも乱入していただき、凄絶な有刺鉄線電流爆破デスマッチの末に全員爆発して欲しいと切に願うばかりであります。

ということで、今日はソーシャルゲームを規制すべきでない理由について書いてみたいと思います。本当は先週書いてアップしようと思っていたのですが、シンガポールに旅行しており、食べたり飲んだりで大変忙しかったので今日になってしまいました。

なお、ディベートとのことなので、いつもより少し口語ぽく書かせていただこうと思います。そのためかわかりませんが、異常に長いです。また、申し上げているような趣旨なので、本エントリーにはオチというものもありません。長いのはまあ毎度のことですが、当ブログ恒例、無理矢理ひねり出した苦し紛れのようなオチを鼻で笑うことを楽しみにして読みにいらしていただいた方は、そっとブラウザを閉じていただくことを推奨いたします。

規制のメリット

さて。根っからの正直者なので最初に申し上げますが、私は、ソーシャルゲームを規制すべき大義というのは少なからずあると思っています。

青少年が、携帯電話を通じて日がなスロットやルーレットを模したガチャに興じ、ともすれば何十万もの支払いを迫られるという状況は、社会として決して望ましいものではありません。それこそ競馬やパチンコといった賭博場への出入りを禁じているように、または夜10時以降のゲームセンターの出入りを禁じているように、未成年者をある程度ソーシャルゲームから遠ざけるというのは、必要な措置であると認識しています。実際、私も自分の子供に対してそういう態度で臨むでしょう。

子供たちは、そもそも自分の財布を持たないので、リスクとリターンのバランスがわからず、下らないものに対してでさえ、ふとしたキッカケで大量の金銭を投入しがちです。また、経験の少なさゆえ、ソーシャルゲームを介して近づいてくる悪意に満ちた大人を、一瞥してスクリーニングすることもできません。そうした子供たちを、ソーシャルゲームのような社交場というか射幸場にみだりに出入りさせることは、ともすれば子供たちを破滅に追い込みかねず、多くの子供たちが破滅していく事態は、社会全体として大きな損失であると理解するところです。

子供の管理は親がすればいいと言うのはまったくそうで、私もそう思いますが、ソーシャルゲーム業界としても、子供たちを搾取してるという悪しきイメージを持たれないために、必要な規制というのはありえる話だと思うわけです。

ただ勘違いしてほしくないのですが、私は、ネット界隈でソーシャルゲーム憎しと怨嗟の念を撒き散らし、規制だ何だと声高に叫んでいる人たちのように、ソーシャルゲームを、詐欺であるとか賭博であるとか、そういった理由で規制すべきとは全く思いません。理由は、ソーシャルゲームが詐欺でも賭博でもないからです。

ソーシャルゲームは詐欺なのでしょうか。違います。詐欺とは、読んで字のごとく、事実を詐(いつわ)り、他人を欺くことによって、不当な利益を得ようとする行為のことです。ソーシャルゲームのユーザーは、ガチャが無料であると言われてカネを騙し取られているのでしょうか。何か月にもわたって?違いますよね。若しくはソーシャルゲームのユーザーは、あの変なビックリマンカードみたいなやつとか、変なおっさんがコスプレしたみたいな絵が描かれたカードではなくて、何か別のもっと素晴らしいもの(貴金属とか?)があたると信じてガチャを回し続けているのでしょうか。そんなはずないですよね。ソーシャルゲームのユーザーは、1回300円でガチャを回すと、ゲームで使えるカードが当たるとわかっていて、そして、それをゲームで使うのが楽しみで、ガチャを回すわけですよね。それは詐欺ではありません。対価の支払いです。

対価が高額すぎるということをもって、ソーシャルゲームを非難する人もいます。結構たくさんいます。でもそれって、あなたがそのゲームに興味がないから高額すぎると感じるのであって、そのゲームを心から楽しんでいる人にとっては、正当な金額なのかも知れませんよね。車でもロールスロイスとかベントレーとかってやたら高いですけど、あれも詐欺なのでしょうか。このようにお互いの主観をぶつけ合っていても正当な対価の水準にたどり着くことは困難ですが、これだけ長い期間にわたって、多くの人が納得して対価を支払い続けているという事実は、対価の正当性を証明するひとつのエビデンスになりそうです。

では、ソーシャルゲームは賭博でしょうか。これも違います。賭博というのは、一般に金銭などを賭けて偶然性の要素が含まれる勝負を行い、その勝負の結果によって、賭けた金銭などのやりとりをおこなう行為であるとされます。確かにソーシャルゲームにおいては、金銭を投じて偶然性の要素が含まれる「ガチャ」が行われます。しかし、投じられた金銭は単に事業者が総取りするだけで、勝負の結果に応じて分配されたりすることはありません。金銭は賭けられたのではなくて、支払われたのです。やはり、対価として。

RMT(リアル・マネー・トレード。ヤフオクなどを利用して、ゲーム内アイテムを現実通貨で取引する行為を指す。)があるから、ソーシャルゲームは実質的に賭博と同じだと言う人がいます。本当に多いです。でもこのRMTというのは、要するにセカンダリーマーケットなんですね。「ドリランド」のカードを、本当に魅力的だと思った第三者が、自らの判断でそれを買い取っているに過ぎないわけです。セカンダリーマーケットで換金が可能なものなんて、世の中には本当にたくさんあって、それこそ遊戯王カードやガンバライドカードなどのトレカものは大体そうですし、株式なんかの有価証券もそうです。本もパソコンも自動車も住宅だってそうです。これ全部賭博ですか?そんなバカな話があるはずがありませんよね。パチンコ屋については、「ケイヒン」と呼ばれるあの何に使うかよくわからない謎の箱を、驚くほど簡単な審査で、しかも無制限に買い取ってくれる正体不明の業者が、たまたまパチンコ屋のそばに、パチンコ屋と1対1対応で存在しているという凄まじい不自然さから、「それはさすがにパチンコホールとグルでしょ(=事実上パチンコホールが賭け金を分配しているでしょ)」という弁が成り立つわけですが、同じ理屈をソーシャルゲームにも当てはめるのは不可能です。

ですから、ソーシャルゲームを規制すべき理由は、やはり一点のみです。上で述べた通り、放置することで社会の風紀が乱れ、結果として児童が犯罪の被害に遭ったり、少年の非行が増加したりするからです。他にはないと思います。

規制のデメリット

話をここで終えると、ソーシャルゲーム規制すべしということで早々に決着がついてしまいそうですが、私は規制に賛成するつもりはありません。ソーシャルゲーム規制には確かに大義がありますが、デメリットも存在するからです。要するに、規制にはメリットもあるもののデメリットのほうがなお大きいと、私はこのように主張したいわけです。

規制のデメリットというのは、言うまでもありませんが、市場の機能を鈍らせ、産業の発展を妨げることです。

これは経済学の大原則の話ですが、市場には神の見えざる手と言われるような自律的な調整機能があって、それは需給のバランスを活用してものごとを望ましい水準に収めるように作用するとされています。個々人の合理的な行動が合わさることによって、全体としても合理的な結果が生じるわけです。だから、政府はなるべく余計な口を挟まず、市場に任せるというのが本来合理的なはずなのです。これは、長きにわたる経済学者による研究の偉大な成果の一つです。

ただし、当然、市場も万能というわけではないですから、大原則にも例外があって、例えば情報の非対称性や外部性がそれに当たります。市場参加者の間で情報に偏りがある場合は、公正な取引がなされず、結果として市場はうまく機能しません。情報量に劣る参加者が、一方的に損失を被りやすくなります。また、取引の影響が市場参加者以外に及ぶ場合、その影響が市場形成に反映されませんから、市場は、参加者以外の人に損失を押し付けるようなカタチで均衡してしまいます。ちなみに、上で述べたソーシャルゲームを規制すべき理由も、外部性によるものの一形態であるとして整理が可能でしょう。例えば工場排水による水質汚濁が周辺住民の健康被害を起こすように、ソーシャルゲーム界隈の風紀の乱れが児童買春などの犯罪を引き起こすからです。

規制のデメリットの話でした。規制が産業の発展を妨げるとはどういうことでしょうか。

例えば、ユーザー数が8億人を超えたとか、IPO時の時価総額が8兆円だとか言われ、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いのfacebookですが、あれはもともと出会い系サイトでした。「でした」、と一応気を使って過去形で書きましたが、今も出会い系といえば出会い系かもしれません。試しに日本における出会い系の定義を見てみましょう。次の通りです。

異性交際を希望する者の求めに応じ、その異性交際に関する情報をインターネットを利用して公衆が閲覧することができる状態に置いてこれに伝達し、かつ、当該情報の伝達を受けた異性交際希望者が電子メールその他の電気通信を利用して当該情報に係る異性交際希望者と相互に連絡することができるようにする役務を提供する事業をいう。
インターネット異性紹介事業を利用して児童を誘引する行為の規制等に関する法律

まず、「異性交際を希望する者」ですが、これは大体みんなそうですよね。で、その大体みんな「に関する情報をインターネットを利用して(中略)伝達し」とありますが、みなさん恋愛対象が女性だとか男性だとか彼氏が欲しいとか彼女が欲しいとかそういうプライベートをfacebookに載せて他人に伝達してますよね。で、そういうプライベートな「情報の伝達を受けた異性交際希望者が(中略)連絡することができるようにする役務を提供する事業」が出会い系だということですが、facebookって、気軽に友達申請とか送れて超Coolですよね!あ、出会い系ですね。

何が言いたいかと言うと、果たしてfacebookが「出会い系」というレッテルを貼られていたとしたら、現在のような成功を遂げることはできたのかということです。日本では、上で見たように出会い系の定義はかなり広範に設定されており、かつその社会的イメージはかなり低いわけです。そういう中で、レピュテーショナルなコストを負担しつつ、facebookのような一大事業が生まれ得るのでしょうか。

mixiもamebaもGREEmobageもそうですが、日本でははてなを除く名だたるSNSはみんな出会い系の誹りを受けてきました。それもそのはずです。出会い系の定義がやたら広いからです。そして、次の節でもまた詳しく見ていきますが、日本の法律における出会い系というのは、犯罪の温床となる純粋な「悪」であり、「発展させるべき産業」としては全く位置づけられていません。

facebookの業績は確かにすばらしく、通期の純利益は1000億円に迫るそうで、これはグリーの約2倍にあたります。ところが時価総額でみると、facebookのそれはグリーの約15倍です。全てがそうだとは言いませんが、この差はグリーの規制リスクに起因するところも少なからずあるでしょう。時価総額がこれだけ違えば、調達できる資金の量も当然まったく違ってきます。資金の調達がうまく行えなければ、いくら事業が有望であっても会社として大成しないことは明らかです。日本からは、米国のようにグローバルに成功するベンチャー企業がなかなか出てこないと嘆く声が比較的多くあります。私はこの原因として、ちょっと儲かるとすぐ規制が入るという日本の悪しき伝統、嫌儲の風習があるように思えてなりません。

要するに、これが規制のデメリットです。

良い規制と悪い規制

規制にはメリットもあるがデメリットもあるという話をしてきました。メリットがデメリットを上回るのであれば規制すべきということになりますし、デメリットが上回るのであれば規制はすべきではないということになります。これから、ソーシャルゲーム規制ではデメリットの方が大きいという話をしていこうと思います。

規制には、良い規制と悪い規制があります。良い規制は、規制のデメリットを最小限に抑えながら、規制のメリットをしっかり享受できる規制で、悪い規制はその逆です。

ソーシャルゲームに対する規制が良いものになるのか悪いものになるのかを予想するために、現在既に施行されている法律のトレンドを見てみましょう。以下に引用するのは、我が国における主要なインターネットサービス関連規制法である、いわゆる出会い系サイト規制法と青少年インターネット規制法のうち、それぞれの目的、つまり法律としてのコンセプトを定めた条文です。

第一条(目的)
この法律は、インターネット異性紹介事業を利用して児童を性交等の相手方となるように誘引する行為等を禁止するとともに、インターネット異性紹介事業について必要な規制を行うこと等により、インターネット異性紹介事業の利用に起因する児童買春その他の犯罪から児童を保護し、もって児童の健全な育成に資することを目的とする。
−インターネット異性紹介事業を利用して児童を誘引する行為の規制等に関する法律

第一条(目的)
この法律は、インターネットにおいて青少年有害情報が多く流通している状況にかんがみ、青少年のインターネットを適切に活用する能力の習得に必要な措置を講ずるとともに、青少年有害情報フィルタリングソフトウェアの性能の向上及び利用の普及その他の青少年がインターネットを利用して青少年有害情報を閲覧する機会をできるだけ少なくするための措置等を講ずることにより、青少年が安全に安心してインターネットを利用できるようにして、青少年の権利の擁護に資することを目的とする。
−青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律

上記2法、非常に特徴的だと思うのですが、お気づきでしょうか。例えば、私が大好きな金商法では当然、「金融商品取引業を行う者に関し必要な事項を定め」ることで「国民経済の健全な発展」に資することを目的とすると書いてありますし、貸金業法にだって「必要な規制を行う」ことで、「国民経済の適切な運営に資する」と書いてあります。あまつさえ風営法ですら、「風俗営業の健全化に資する」ことを目的に据えているのに、上記2例では、児童や青少年の保護のみが専ら謳われるばかりで、産業の育成や社会の発展という大目標が一切出てこないのです。まるで、インターネットこそは純粋な悪であり、その脅威から児童や青少年を守ることこそが、偉大な正義たる法と警察の役目だとでも言わんばかりです。

この違いは、一義的には、金商法や貸金業法が業界に対する直接の規制であるのに対し、インターネット関連規制はあくまで、インターネットサービスを利用した犯罪行為を規制するという建て付けになっていることから来るのでしょう。ただ、そもそもああゆう長ったらしい名前を冠したうえで、そういう周りくどくてややこしい趣旨の法律を用意しなくてはならないあたりに根本的な問題があるように感じるのです。

インターネットサービスがもし純粋に悪であると判断するなら、それはもう刑法で禁ずるべきだし、デメリットはあるものの産業として有益だと判断するのであれば、社会との共存を目指した前向きなルールを設けるべきです。にもかかわらず、単にPTAの抗議に流されただけのような、ああゆう中途半端な何ともいえない法律がつくられてしまうのは、そういう判断ができないことの証左であると言えるのではないでしょうか。

思うに、結局本邦政府関係者はインターネットのことがよく分からないのでしょう。少なくとも、社会を構成する重要な要素であるとか、今後の発展が望まれる有望な産業であると言った認識はなく、何となく社会の外側、つまりバカと暇人のものだと位置づけているフシはあると思います。

この背景には、おそらく年齢的な制約もあることでしょう。年老いてからまったく新しい概念を受け入れるというのは、かなり敷居が高いことです。であればいっそ、Yahoo!の井上社長がそうしたように、若い世代に後を譲るというのがあるべき指導者の姿だと思いますが、日本の政治家はそれもしません。理由は有権者も高齢化しているからです。

悪い規制よりは何もない方がまだマシ

上述したような現状を踏まえる限り、私はソーシャルゲームを規制すべきではないと言わざるを得ません。

悪い規制というのは理念に欠けるため、とかく暴走します。ソーシャルゲー厶界隈はいま、多額の利益を稼ぎ出していますが、警察庁はこれを新たな利権にしようとしているのではないのでしょうか。それこそ、パチンコをそうしたようにです。彼らには前科があるのです。

規制の目的が利権の確保へと流れてしまうと、当初の保護法益などはあっという間にどこかへ行ってしまいます。主要な繁華街の一等地と言うのは、いまやほとんどパチンコホールなわけですが、あれは果たして風紀を乱していないのでしょうか。国民の射幸心を煽り、勤労の美風を損い、国民経済の影響を及ぼしてはいないということなのでしょうか。

シンガポールや香港(マカオ)といった新興国は、ギャンブルを禁じる一方、国営のカジノ施設を設け、観光客の誘致につなげていますが、日本の薄汚いパチンコホールには、そのような国際的な競争力も一切ありません。パチンコを目当てに日本を訪れる外国人観光客とか、見たことも聞いたこともないですよね。そもそもパチンコホールは、国内の証券取引所に上場することすらままならないわけです。理由は、法的にグレーだからです。こんな中途半端な規制に何か意味がありますか。

どうせこんなことになるのだから、もう規制など一切不要であると私は強く主張したいのです。

確かに、私も、冒頭で述べた通り、自分の子供がソーシャルゲームを通じて何らかの被害に遭うような状況は何としても避けたいとは思っていますが、それは私が子供をきちんと監視して制御すればいいのです。幸い、携帯電話は物理的な人間よりもトラッキングし易いわけですから、自分の子供がソーシャルゲームに近づかないように見張ることは、子供がゲーセンや賭博場に出入りしないように見張ることよりも、ずっと容易です。

必要な規制を行わないことによって、業界の信頼は落ちぶれ、結果的に業界自体消え失せるようなことはあるかもしれません。ただ、反対に、自主規制によってうまく折り合いをつけるということもあるかもしれない。いずれにせよ事業存続のリスクは低くはありませんが、それでもやはり警察の利権として生簀で飼われるよりは、よほどマシではないでしょうか。もし万事うまく行けば、日本から国際的な優良企業が新たに生まれるという大きなリターンを享受できる可能性もあるわけですから。


まとめ(4/6追記)

読み返してみると想像以上に冗長でしたので、まとめておきます。

まず、規制にメリットはあります。それは社会の風紀を正常に保ち、青少年を保護することです。

反対に規制にはデメリットもあります。それは産業の発展を妨げることです。

規制によるメリットの実現にはリスクがあります(規制してもメリットが実現しないという本末転倒な事態が起こり得ます)。なぜならオンラインのことをよくわかってない人が、よくわってないままに自己の利益だけを考えて規制を行う可能性があるからです。

最低限の保護法益だけを見据えたシンプルな規制にすれば、規制によるメリットの実現に際してのリスクを減少させることができますが、年齢による利用制限などのシンプルな規制であれば、自主規制や保護者の監視で十分に代替できる以上、政府の出番はありません。

上記を総合すると、規制によるデメリットが小さくない割にメリットはあまりないので、規制をするべきではありません。

以上です。

参考

マンキュー入門経済学
N.グレゴリー マンキュー
東洋経済新報社
売り上げランキング: 7762

経済学の基礎を習熟するための良書。冒頭に纏められている「経済学の十代原理」は覚えておいて損はないという感じ。上記は「第6原理:通常、市場は経済活動を組織する良策である」及び「第7原理:政府は市場のもたらす成果を改善できることもある」から。 

ソーシャルゲーム規制の方向性について 〜金商法あるあるを交えながら〜

もともと騒がしかったソーシャルゲーム界隈だが、先日グリーの人気ゲーム「ドリランド」内で利用されるカードが不正に複製される事件が発覚したことを機に更なる盛り上がりを見せ、部外者と門外漢を中心に無責任で面白半分の盛大な規制コールが巻き起こっているようなので、今日はこの問題について考えてみたい。

なお、過去にも当ブログのエントリーを読んでいただいたことのある読者の方々には今更言うことでもないかもしれないが、かくいう私こそが部外者かつ門外漢の最たるモノであり、これから書くことこそがまさに面白半分の野次に他ならないわけであるから、タイトルに釣られて真面目なエントリーと思って読みに来てしまった方は、そっとブラウザを閉じることをお勧めしたい。

「ドリランド」カード複製事件

さて。まずは、ドリランドカード複製事件を簡単に振り返っておこう。

ドリランドというのは、ダンジョンでモンスターを退治して宝物をゲットしようという、まあよくあるタイプの、いわゆるロールプレイングゲームだ。プレイヤーは、ハンターと呼ばれる存在を操ってモンスターと戦うことになるが、そのためにはハンターを表象したハンターカードと呼ばれるカード持っている必要がある。ハンターカードはいかにして入手が可能かと言うと、主にガチャと呼ばれる仕組みによる。ガチャをすると、ランダムで何らかのハンターカードを得ることができる。ガチャは、ドリランドのプレイヤーであれば誰でも、1日1回無料で引くことができるが、当然いいカードはなかなか出ない。たくさんガチャを回したければ、追加的な課金に応じる必要がある、と大体こういうことらしい。

で、今回起こったことは、このハンターカードを複製できる裏技みたいなものが見つかってしまったということであり、その結果、とりわけレア度の高いカードが大量に複製された挙句、ヤフーオークションなどを経由して流通したとのことである。その取引総額はなんと4億円を超えるというから、驚かないほうがおかしい。ジャスダックあたりのクソ株を遥かに凌ぐ流動性だ。

ゲーム内のアイテムを換金することについては、運営側のスタンスとして基本的に禁止しているものの、ヤフーオークションなどの外部のサイトでやられる分については事実上黙認してきたような部分があった。そうした中で上述したような事件が起こると、「事実上換金できるんじゃん」という共通理解が広がることとなり、結果として「ちょっと問題があるんじゃないの」という話になるのは比較的自然なところだとは思う。

ソーシャルゲーム≒パチンコ?

で、このヤフーオークションなどを活用した換金の仕組み、これがパチンコ業界におけるいわゆる三店方式に酷似していると、そもそもガチャの確率を操作して射幸心を煽るみたいな仕組みはもうパチンコそのものだと、そういう理屈で、このソーシャルゲームというものは要するにパチンコと同じなのであって、そういう前提で規制をするべきなのだと、このような議論がネットでは非常に多くなっている。終いには、ソーシャルゲームの価値をパチンコ産業を参考に試算して、グリーやDeNAの目標株価を引き下げるという新米モデラーのやっつけバリュエーションみたいなものが三菱モルスタ証券から公表され、事態はお笑いの極みとなった。

三菱UFJモルガン、ソーシャルゲームの市場規模予測を上方修正…ただし比較対象をパチンコとし目標株価やレーティング引き下げ | Social Game Info

果たしてソーシャルゲームはパチンコなのかという話であるが、私は、このことについては若干の異議を唱えたいと思っている。

三店方式に似ていると言うが、三店方式というのはむしろ、パチンコを賭博法上限りなくブラックに近い存在から、一応体面上だけでもグレーたらしめるための仕組みなのであって、それは三店方式自体が白だからこそなせる技である。三店方式的な仕組みでアイテムの換金も可能であるという事実を持って、ソーシャルゲームも賭博の一種だと断定するのは、坊主憎けりゃ袈裟まで憎すぎて、ストールを含めた袈裟っぽいファッションの人を端から虐殺していくような暴論であり、八つ当たりも甚だしいのではないか。

また、射幸心を煽るなというのも抽象的すぎて意味不明であり、世の中に数多ある射幸心ビジネスを捨ておいてソーシャルゲームだけを規制せねばならない理由はイマイチ見えてこない。もし射幸心ビジネスを一切世の中から排除すべしということであれば、まっさきに撲滅されるべきは占いや宗教の類ではないだろうか。大体、庶民から幸せを祈る気持ちを奪っていいのか。

金商法の適用

もしかすると、ソーシャルゲーム規制派の人たち(もしそんなのがいれば、だが)は、ここまでのエントリーを読んで頭に血を上らせているかもしれないが、私は断じてソーシャルゲームを擁護したいわけではない。ただ、規制するにしても筋道というものが必要だろうという話をしている。各方面における規制の筋道というものを損ねない限度において、件のソーシャルゲーム業界をギチギチに締め上げるためには、金商法(金融商品取引法)の適用が望ましいのではないか。私はこのように申し上げたいのである。

金融庁による、金商業者(いわゆる証券会社など)に対する取り締まりというのは、年々激化の一途を辿っており、現状において筆舌に尽くし難い水準に至っている。

そう。我々金商業者に言わせれば、賭博法や景品表示法など稚技に等しいと言っても過言ではない。金融庁には、是非とも我々金商業者の恐怖と不安を、ノウノウとネットサービスなど開発しているエンジニアどもにも味あわせてやって欲しい。

金融庁さん、これは管轄を一気に広げるチャンスでもあるんですよ。

実際、例えばドリランドを金融庁管轄にするのはさほど難しいことではなく、要はドリランドのハンターカードを有価証券とみなせばよい。実際問題、有価証券と言えば有価証券だろう。実物券面こそないが、そんなものは株券も一緒である。広義の有価証券とはつまり、何らかの財産やそれを得るための権利を表彰する証券を指すわけだが、ドリランドのハンターカードも、ハンターを操りモンスターを討伐し戦果としての宝物(及びその換金によって得られる金銭)を得ることができる権利を立派に表象しているではないか。

もしドリランドのカードが有価証券であるということになったら、当然それをヤフオクなどで取引することはままならず、金商法の認可を受けた金融商品取引所での売買に限られることになる。

その折には、是非DeNAは当該認可を取得し、忘れられた主力事業である「モバオク」を金融商品取引所に衣替えしたうえで、セントレックス、アンビシャス、キューボードに新たに東京金融取引所を加えた余分取引所四天王あたりと共に、レアカード上場争奪戦を繰り広げるカオスを演じて欲しい。

よろしくお願いします。

金商法あるある

ということで金商法である。

そのレギュレーションは微に入り細に至るが、投資者保護に関する原則自体は極めてシンプルだ。

ひとつは誠実・公正の原則。

そして自己責任原則。

最後に適合性原則である。

これらの素晴らしい原則がいかに厳格に運用されているか。まずは自己責任原則の前提たる説明義務について見てみよう。

金商業者は、有価証券等を顧客に販売しようとするとき、その有価証券に投資する際のリスクを事細かに書き連ね、それらリスクの内容に関する膨大なデータを記した大体100ページくらいある「目論見書」と呼ばれる書面を交付する義務を負う。ただそんな分厚い冊子、渡しただけでは読まないかもしれないということで、リスクだけを簡潔に記した概要書みたいなものも合わせて交付する。しかしながら、そこまでしてもなお、書類と言うのはなかなか読まれないものだということで、これらの書類については要点を読み上げ、必要に応じて咀嚼して説明することで、理解させるよう努めなくてはならない。

こうした説明義務が自己責任原則の前提だということは、ここまで入念に説明しない限りは、投資の失敗は顧客の責任ではないということだ。

これは理屈上そうなるとか、そういう生ぬるい話ではなくて、現に説明義務違反を理由に顧客に対する損害賠償を命ぜられ煮え湯を飲まされる同業者は相次いでおり、消費者金融に対する過払金返還請求を生業とする「正義の味方」の振りをしたチンピラ弁護士・司法書士の次なるターゲットの最有力候補として、この説明義務違反の損害賠償が上がっているくらいなのである。

ドリランドのカードは、極めて高リスクな有価証券であり、そのリスクとしてはざっと考えただけでも次のようなものがあるだろう。

まず、グリーが潰れたら紙屑すら残らない。グリーがドリランドの運営を放棄しても同様である。また、そもそもヤフオクなどで実際は取引がなされているとはいえ、取引の適法性に疑義があるわけだから流動性リスクも極めて高い。そして流動性が失われてしまうと、他のプレイヤーに自慢するくらいしか使い道がなくなってしまうから、みんながドリランドに飽きてしまった場合はもうどうしようもない。アカウントを持っていることすら恥ずかしくなってコッソリ削除するくらいのところまで、目に見えてる。

グリーには、ユーザーがドリランドをプレイ開始した時には上述のようなリスクをしっかりと開示すると共に、グリーの財務状態やドリランドのプレーヤー数推移、課金の実態などを克明に綴った書面を郵送し、更にはユーザーが有料ガチャに手を出そうものならすかさず電話して「全然いいカードは当たらないですけど本当にいいんですか」と小一時間問い詰めるくらいの姿勢が求められる。

もし本当にこんなことになったら、グリーの運営は悲鳴を上げるだろう。

しかし、実はこんなのまだ全然序の口に過ぎない。そうは言っても説明すりゃあいいのだから。

げに恐ろしきは適合性原則なのである。

昨年2月、国内で営業する金商業者の6割が座っていた椅子から転げ落ち、うち1割はそのまま亡くなったとも言われている伝説的な 判例が生まれた。

その事件は、SBI証券が顧客に対して信用取引における決済不足資金の支払いを求めたことからはじまった。SBI証券というのはいわゆるネット証券だから、顧客はきっと、誰に頼まれるわけでもなく勝手にネット経由で口座を開き、勧められることもなく信用取引を始めたに違いない。ところが、不幸なことに大きな損を出してしまった。信用取引では顧客が預託した証拠金を上回って損が出ることがある。だから、その不足分をSBIとしては払ってほしいと、こう主張したわけだ。なんとまっとうな主張だろうか。

ところが、SBIによるこのまっとうな主張に下された裁判所の判決は、実に意外なものだったのだ。

棄却したのである。

裁判所は、その顧客には信用取引をする「適合性」がないというのだ。その顧客は72歳の農業従事者だったそうだが、そういう人は証券取引に慣れてるはずがないんだから、申込みがあった段階で訪問するなり電話するなりしてリスクを説明し、それこそ取引をやめるように勧告すべきだったと。それをしなかったのだから、証拠金を超えた損失はSBI証券さんが負担しなさいと。こういうことのようなのだ。

顧客が勝手に申し込んできて、勝手に取引して、勝手に損したのに、なぜか損失を被らなければならないSBI証券

この恐怖、痴漢冤罪に匹敵すると断言できる。

グリーも、高まる規制プレッシャーに耐えかねてか、15歳以下のユーザーに対する課金を月5,000円までに制限するという一応の具体策を出してきたらしいが、金融庁さんに言わせれば「何をかったるいことを言っているのか」という感じに違いない。

例え15歳を超えていてもリスクの内容を全く理解できないアホというのはいて、そういうアホたちは万難を排しても保護しなくてはならないのだから、事業者は全てのユーザーの属性情報を細かくチェックすることで、ユーザーがアホではないことを確かめなくてはならない。当然だそんなこと。

手間がかかるから年齢などの比較的取得しやすい情報で一律に線引きする他ない?

甘ったれたことを抜かすな!

アホか!

こんぷらくんオチ

ところで、ハンターカードがいわゆる有価証券と異なっている点を敢えて上げるとすれば、それはコレクター心をくすぐることだろう。

この点、あまりコレクター心をくすぐり過ぎると、やはりアホが被害を受けることになりかねないわけであるから、ここでも対策は必要となる。

これについては、すべてのカードの絵柄について、東証の冊子に描かれている妙にアゴの長い"ゆるふわ"マスコット、「こんぷらくん」をベースとすることを義務付けることで、対処可能であると思料する。


楽天にありがちなこと

さて、このエントリーを書いている今の日付は2012年の3月11日ということで、例の東日本大震災からちょうど丸1年である。テレビをつけるとどの局も震災関連の特番に次ぐ特番で、改めて震災被害の甚大さを思わせる1日であった。私としても、1日でも早い被災地の復興を願わずにはいられない。

しかしながら、である。ブロゴスフィアテレビ東京を目指す当ブログとしては、ここで世間の雰囲気に飲まれ、安易にセンチでポエムなエントリーを披露するわけにはいかない。いつも以上に下世話な愚考を開陳して、みなさまの苦笑を誘っていきたいと思っている次第。

ということで、今日は楽天について考えてみたい。

気になる楽天


あれは、こないだ電車に乗っていたときのことだった。ふと楽天の広告が目に止まったのだ。なんの広告だったかはまったく覚えていないが、楽天のロゴだったことだけは、はっきりと覚えている。

前から思っていたのだけど、楽天のロゴというのは、何か言い知れぬ違和感があって、実に気になる存在である。良く言えばインパクトがあるということなのだけれど、例えば楽天ロゴのプリントされたTシャツがあったとして、着るかと言われたら、まあ寝巻にするだろうなとは思う。

楽天のロゴは、漢字でシンプルにドーンと「楽天」と書き、何故か2つの文字の真ん中にはアルファベットのRがくる。まあRakutenのRだと言うのはさすがにわかる。ただ、だったら社名も漢字じゃなくてアルファベットで綴りゃあいいじゃないかと思うのだが、なぜか漢字なんである。とは言え、あの真ん中にある赤地に白抜きのRマークだけで「あ、楽天だ」と思うかというと、これは相当怪しいから、やっぱりあの漢字の字面が必要なんだろうと思う。しかし、だったらあのRマークは一体何なのか。Gakutenじゃないよ、Rakutenだよという補助的なメッセージなのだろうか。気になる。

楽天が気になるのは、昨日今日始まったことではない。

先日も、日経ビジネスのオンライン版に楽天三木谷さんのインタビューが掲載され、少し話題になっていたのだけれど、「経団連って、全然チャレンジとかしないし新しいビジネスにも不寛容で、なんか爺さんたちの互助会みたいだから辞めちゃったよー、いやー奥田さんに頼まれて入ったんだけどさー、辞めちゃったよー、いやー奥田さんに頼まれたんだけどさー」というミサワ風コメントのウザさと共に、話がソーシャルゲームの話に及ぶと、DeNAによるベイスターズ買収に最後まで反対していたことに触れ、「子供の射幸心を煽るようなビジネスをしている会社は球団経営に相応しくない」というかねてからの主張を繰り返し、微妙に新しいビジネスに不寛容な姿勢を見せて、先の経団連に対する辛辣な発言との整合性を疑問視させる構成が印象的だった。

いまだによくわからないのだけれど、三木谷さんは、なぜあそこまで執拗にDeNAのプロ野球参入に反対したのか。子供への影響と再三おっしゃっているけれども、もしそれが本音ならDeNA参入反対の裏でひっそりと処分したプロフサービスや、楽天出身者が代表を務め、かつては資本関係もあったグリーがテレビでガンガンCMやってる件、並びに楽天市場から送られてくる大量の迷惑メールあたりとの整合性がよくわからないし、建前だとしてしまうと、本音がどこにあるのかさっぱりわからない。グリーを守ろうとしてDeNAを批判したと考えることもできようが、ただ、あの批判の仕方だとDeNAだけでなく見まごうことなき同業者であるグリーも決して無傷では済まないわけだから微妙におかしいし、参入候補がグリーでも反対したと言い切っているということもあるから、まあ違うのだろう。しかし釈然としない。

まだある。

先月発売のダイヤモンドは、定期的にやってるビジネス英語特集だったが、そこで楽天の社内公用語英語化に対する取り組みの進捗が「凄絶!」という煽り文句付きで紹介されていた(煽られてつい買ってしまった)。まあ国内売上だけだといずれ頭打ちになるというのはその通りだと思うし、それを打破するためにグローバルな企業になっていく必要があるというのも納得感があるから、社内の公用語はいっそ英語にしますという流れもまあわからないでもないなと思っていた。ところが、前掲の記事に綴られていたのはまさに凄絶としか言いようのない状況であった。

凄絶、単なる煽り文句ではなかったのだ。

曰く、会議資料からはじまった英語化の波は、いまや社食のメニューにまで達したとのことだ。加えて、全社員にはTOEICの一定点取得が義務づけられ、ご親切に短期留学の斡旋までしていただけるのだそうだ。ちょっとやり過ぎじゃねえのか。。

楽天従業員は、日本国内で、日本人相手に仕事をするのになぜか社内だけ英語になって不便じゃあないのだろうか。いや、不便に違いない。世界各地の支社を統括するようなポジションの人は英語マストね、それに伴って主要なレポートラインは英語にするのでよろしく、という程度なら十分わかるのだけれど、それよりも下位の組織というのは現地の言葉でやったほうがいいのではないのだろうか。例えば、今後メキシコあたりで事業をはじめるような時も、現地でメキシコ人を雇って、まずは英語を教育するのか。それとも英語の教育を施された日本人を送り込むのか。いずれにしても合理性の範疇からは逸脱しており、言ってしまえば実に意味不明である。

他にざっと検索してみたところだと、以下のような記事がみつかった。

DESIGN ARCHIVE - BLOG: 楽天Edyのロゴデザインについて考えよう。

まあダサいと。確かにダサいといえばダサいのだろうが、ダサさの源泉みたいなところに何かがある感じがするのである。

大学デビューとの共通点

さてこうした違和感。似たようなものをどこかで見たことあるよなとずっと思っていたのだが、つい先日ふと思い出した。大学デビューした人である。

今さら説明するまでもなかろうが、大学デビューというのは、大学進学という大きな環境変化にあわせて、自分のキャラを、それまで単なる憧れであった対象に一気に近づけていく試みを言う。非常に短い期間で劇的にキャラの切り替えを行うため、ついうっかり昔のキャラが顔を出したりと随所で綻びを見せるものの、それを勢いで乗り切っていくというのが通常の運用だ。

例えば、髪の色がやけに派手な割に、襟足の処理がバリカンライクでヘアスタイルの床屋臭がどうにも強すぎる人。劇的なイメージの切り替えを嗜好するあまり、ヘアカラーなどインパクトの強い手法が優先的に採用される一方、時間的、金銭的な制約のためにディティールには拘りきれていないために起こるチグハグさである。同種のチグハグさとしては、ジャケットのインナーにカットソーみたいな着こなしを志すも、よく見るとカットソーというかグンゼ(黄ばみあり)みたいな事案も4月のキャンパスでは散見される。例を上げればキリがないが、居酒屋で妙にカクテルばかり頼むというのも、大学デビュー的であると常々思っている。

ここで誤解のないように申し上げておくが、私は、楽天のイメージを大学デビューという甘酸っぱい思い出と括り付けて論うことによって、同社を批判しようと言うわけではない。そうした意図は一切ない。大体、大学デビューの何を恥じることがあるか。デビューしないよりはよっぽどいいではないか。大学デビューを馬鹿にするのはやめたまえ、キミタチ。

ということで、楽天と大学デビューの共通点である。

これは、要するに理想ドリブンだということではないか思う。つまり、何か方向性を決めるようなときに、現状から積み上げていくのではなく、理想から逆算するような思考回路が根底にあるように感じる。どう頑張っても、田舎の散髪屋通いと言う現状の延長線上にはメンズノンノは存在しない。そちら方面を目指すのであれば、どうしてもどこかで思い切って連続性を擲ち、現状を打破する必要がある。こうした大仕事を成し遂げるために必要となる膨大なエネルギーの源が、理想への強い憧れであることは言うまでもなかろう。

楽天のロゴに対する違和感についても、大部分は、あれほど素晴らしい業績を上げ続ける日本を代表するエクセレント・カンパニーの割にはダサい、というギャップによる側面が強いと感じる。あれが例えば年商1億くらいの中小企業による零細ECサイトのロゴであれば、誰も何も言うことはなかろう。業績拡大の勢いが急激であったがためにロゴの洗練され具合が追いつかず、結果として、言うなれば大学デビューした人の襟足やインナー部分みたいな位置づけになってしまっているのが楽天のロゴという整理である。

DeNAを執拗に攻撃していたことについても、おそらく合理的な利害関係の帰結というような話ではなくて、三木谷さんが理想として思い描く球団オーナーが子供に優しかったというだけの話なのかもしれない。理想から話を始める場合、今までそんなに子供オリエンテッドではなかったよねという整合性の話は関係ないのだ。むしろ理想を追い求めるに際しては、現状との多少の矛盾はつきものなのであって、それを勢いで乗り越えずしてどうして起業などできようかという話でもある。

また、楽天の現状、即ち売上の9割以上が国内で、社員の8割以上が日本人という現状に基づく限り、社内の言語をすべて英語にするというのはまったく合理的に導ける方向性ではないように思えるが、数年後、完全にグローバル企業と化したRakuten Corporationから逆算してくると、日本語以外喋れないスーパードメスティック社員が幅を利かせているような現状はむしろ説明がつかない。どこかのタイミングで劇的に切り替える以外に手はないわけで、それがたまたま今だったというだけだ。そこが居酒屋だろうが何だろうが関係ない。とにかくカクテルに嵌った自分を打ち出したい年頃なのである。

楽天あるある応用編

いま、楽天の本質にたどり着いた我々は、これから楽天に起こりそうなことについても容易に予想することができる。順に見ていこう。

  • ロサンゼルス本社建立

社員食堂を英語化した次は、もうアメリカに本社移転しかない。ここでのポイントは、微妙にシリコンバレーではないところで、何でもかんでもシリコンバレーマンセーな日本のベンチャーをひとしきり腐した挙句、自分はロスに移転しそうなのである。当然、本社を米国に移しても劇的にグループの米国での売上比率が向上するはずもなく、無駄にオペレーションが複雑化して当面はコスト増以外の効果をもたらさないあたりまでが予定調和だ。ついでと言ってはナンだが、ぜひ近隣には楽天ランド的な何かもオープンさせて欲しい。

特に根拠はないのだけど、誤解を恐れずに言えば、何となくキャリアと名のつくものが好きそうだという話ではある。それにしてもイーモバイルあたり、数年もしたら自然と楽天グループに入っていそうだから恐ろしい。フラッグキャリアは少し敷居が高いが、可能性があるとしたらやはりスカイマークだろうか。いずれにしても買収発表時の記者会見でのセリフはおおよそ見当がついている。「国際競争力のあるグローバルな○○キャリアとしていきたい」だ。この既視感である。件のロゴを機体に大きくプリントした飛行機が大空を飛び回り、世界の空港を席巻する様を想像すると、胸が熱い。

  • 代表権のない会長に退き院政

これは予想というか既に明確な兆候があらわれている。何を隠そう三木谷さんの役職は、会長兼社長だ。前々から不思議なのだけど、必ずしも必要とは言えない、むしろ名誉職に近いような「会長」という役職を、何故わざわざ新設してまで社長がそれを兼ねるようなことをするのだろうか。社長の仕事と別に、会長としての仕事というようなものが果たしてあるのだろうか。いや、ない。思うにこれは、「社長を後任に譲ったら会長職だけになりますよ」という布石だ。院政に向けたはやる気持ちを抑えきれずの兼職である。何という堂々とした伏線だろうか。

  • 三木谷財団設立

フィニッシュは間違いなくここに決めてくるはずだ。いわゆるひとつのノブレス・オブリージュである。日本では、多少成功したくらいでは、米国人のように寄付や社会貢献に精を出すという行動様式があまり一般的になっていないが、それでも最近はソフトバンクの孫正義さんが原発問題を受けて自然エネルギー財団を設立するなどして、話題となった。三木谷さんには、ちょっとスケールの大きい中田英寿といった風情で、是非プロ野球も絡めながら、世界の貧しい子供たちに対する慈善活動を展開する傍ら、今と変わらない大量のスパムメールを量産してこちらを微妙な気持ちにさせてほしい。


好き勝手書いてしまったが、我が国が誇るネット企業の星、楽天には理想(上記含む)の実現に向けて、是非これからも邁進して欲しい。私としては、どこか遠い場所から引き続き応援していきたいと思っている。

はてながCFOを募集していると聞いて

はてながCFOを募集中だそうだ。

はてなが上場目指しCFOを公募、年収最大1200万円 4社がサイトで幹部募集 - ITmedia ニュース

一瞬「あ、そう」とスルーしそうになったが、FTTHさんに煽っていただいたことで、「はてなでブログを書いてる金融方面にちょっと明るい人」という自らのポジションを思い出し、上記職に応募してみるのも面白いのではないか(笑)と思い至った。

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大王製紙、井川元顧問はツンデレのデレの方も出した方がいい

最近、大王製紙から目が離せないわけである。

井川意高元会長が、会社のカネを不正に流用した挙句、あろうことか全部カジノですってしまうという痴態を演じ、会社に巨額の損失を生じせしめた事件は記憶に新しいが、いま、その元会長のお父上にあたる井川高雄元顧問(この呼称も大概普通ではない)が世紀の逆ギレを見せている。

息子の不始末も何のその、会社側に創業家の影響力が強すぎた結果起きた問題と言われれば、他の取締役にも責任はあるのだから創業家ばかりが責められるのは不服と言い返し、何か最近は、創業家が直接株を持っている大王製紙子会社の経営権を強奪してまわっているそうだ。

ページが見つかりません - MSN産経ニュース

元顧問は、株主提案によってか対象会社に臨時株主総会を開催させ、大王製紙から送り込まれた経営陣を解任するとともに、子飼いのジジイなどを次々と役員に送り込んでいるらしく、その結果大王製紙の連結対象は激減、連結業績を下方修正せざるを得ない状況に陥っているというのだから、喩えでも何でもなく、強奪としか言いようがない状況である。

まあ、そもそもの問題として、いくら創業家が相手とはいっても、第三者に子会社の株という会社の重要な資産を持たせるというのは、要するに他人にキンタマというかクラウンジュエルを預ける行為にほかならず、常識的な企業統治のなかで発生し得る状況ではない。息子の事件もひっくるめて一連の騒動は起こるべくして起こった感は否めず、世の中的には、ますますもう勝手にやってよねという感じで結論が出た感はある。

こうした冷笑する周囲に歩調を合わせるがごとく、会社側としては、子会社の買い戻しという至極当然の申し入れを淡々と行ったわけだが、ひとり加速度的にヒートアップし続ける井川高雄元顧問は、この提案を金額が安過ぎるとして却下。大した根拠もなくバッサリ切り捨てると、返す刀で今度は経営権を強奪した子会社をして、よその製紙会社との取引を開始させるようなことまで匂わせる始末であり、ますます敵対の姿勢を強めている。すごい。そこまでやらないよ普通。

こうした元顧問の行動は、見た感じ完全にグリーンメーラーのそれだ。グリーンメーラとは要するに、ある会社の株を買い集めた末、あらゆる影響力を行使してその会社や役員に株を高値で買い戻させるという一連の流れを生業とする輩のことであり、企業再生ファンドやアクティビストファンドなどと並び、概念「ハゲタカ」を構成する主要な要素の一つである。実際、お父さんがグリーンメーラーで息子はカジノ狂いのギャンブラーと整理すると、やはり血は争えないという結論が自ずと導かれ、収まりよく点が線になる感じはある。

ただ、残念ながら、元顧問は厳密な意味でのグリーンメーラーではない。もし彼が真の(?)グリーンメーラーだったなら、保有株はもう売ってしまっているはずだ。推測でしかないが、会社側の提示金額はおそらく元顧問の取得額を大幅に上回っているはずだ。当たり前だ。創業者なわけだから。取得原価はほとんどタダみたいな値段であっても不思議ではない。

例えば、値段を一割吊り上げれば儲けが倍になるとかいう状況であればいざ知らず、もともと大きな儲けがあるのに、それをちょっとだけ増やすためにここまで大揉めするというのは、どう考えても合理的ではないし、得策でもない。揉めてる間にも企業価値はどんどん毀損していくのだから。


それでは元顧問を戦へと駆り立てているものは一体何かと問われれば、それはつまり、愛みたいなものではないかと私は主張したい。いや別に主張するほどのことでもないのだが。

非常によく見られる現象だが、創業者の会社を想う気持ちというのは、親が子を想う気持ちに似通る。私も某IT企業で企業買収に携わっていた折、子離れできない親というのをたくさん見てきた。こちらとしては、いやお義父さん娘さんが可愛いのは分かりますけど、でも僕たち結婚したんですから風呂場まで入って来ないでくださいという感じなのだが、やれ娘は風呂場で転んだことがあるからとか何とかと言って、口を出してくる。

会社に人格はないが、組織としての文化はある。そしてそれは創業者が徐々につくりあげてきたものであり、そのプロセスは育児さながらだ。愛情が芽生える気持ちと言うのは、なんとなくわかる。

元顧問の行動も、会社を想うあまりしつけが行き過ぎるとか、可愛さ余って憎さ百倍とか、倒錯した愛情とか、そういう文脈で捉えたほうが割りと合点が行くのである。そう。殺人事件の約半数は、親族内で起こるのだ。アクティビストファンド不在の本邦株式市場において、何が一番揉め事に繋がるかと言ったら、創業者と会社という擬似親子間の愛憎のほつれしかないではないか。愛憎相半ば。親しき仲にもツンデレあり、である。

ところが不思議なことに、こうした感情というのは、しばしば隠匿され、まるで最初からなかったかのように扱われる。そしてその代わりとして取ってつけたような合理性が掲げられることが常だが、後付けの突貫工事なので、収まりが悪いことこのうえない。これって何なんだろうか。

今回の件でも、安すぎる金額の提示で信頼関係が崩れたから、とりあえず社長が辞めろというのは、理屈として悲しいほどにかみ合ってない。合理性の範疇で考えると、提示金額が安すぎた場合の要求というのは、値上げ以外にはあり得ないだろう。社長を辞めさせたところで一文の得にもならないではないか。このチグハグさは、本音としては要するに恩知らずなバカ息子に対してついカッとなっただけであって、本当は提示金額など見てすらいないという実態を、明け透けに示している。


今回の件、おそらく元顧問の側はいずれグダグダになり、遠からず敗北を喫するだろう。王子製紙の名前を出して牽制したところで、王子製紙としても変な揉め事に巻き込まれたくはないだろうから、こっち見んなという感じであることは疑いようもなく、いつまでも牽制として機能するとは到底思えない。そもそも合理的な論拠など端からない癖に、単にあるようなフリをしているだけなのだから、合理的に話し合って勝てるはずがないのである。

であれば、私は、元顧問はもっと開き直って、正直に、情緒的なスタンスを取るべきではないかと思うのである。「私の親愛なる息子たちへ」で始まる感動巨編をしたため、楽しかった日々の思い出でも綴ってみてはどうか。案外TBSあたりが食いつきそうな予感はするが。

アメリカ人の考えていることはよくわからんという話

幸せな未来は「ゲーム」が創る幸せな未来は「ゲーム」が創る」という本を読んでみた。

先日のエントリーでは、ソーシャルゲームに少し批判的なスタンスを取ってみた私だが、実はゲーム全般に話を広げれば、その将来について、割りと肯定的な見解を持っている。いや、ほんとうは肯定的というよりももう少し大袈裟に、むしろこれからの時代、大半の人々は基本的にゲームしかしないくらいの状況が実現してもおかしくないとさえ思っていたりする。

現実世界では、構造上、参加者全員が自己を実現する、というようなことがない。誰かが自己を実現するということは、同時に他の誰かが実現できなかったということを意味する。「優秀」とか「デキル社畜」といった誉れ高き称号は、誰か他にデキない奴がいるからこそ成り立つのであって、みんながみんな望ましい自己を実現できたら、それは誰もできていないということと同じになる。

私の理解では、こうした現実世界の本質的問題を止揚するテクノロジーこそが、バーチャルリアリティであり、ゲームなのだ。

私がソーシャルゲームについて根本的に合点がいってないのはまさにこうした点で、あれは現実世界をクソ仕様もそのままに、ただオンライン上に置き換えただけではないかと思っている。友達が多いほうが楽しめて。カネがあるやつが有利で。そうではなくて、ゲームというのはもっと、すべからく全員が楽しめるものではないか。現実世界における終わりなき競争に疲れ果てたような人たちも含め、全てのプレイヤーを優しく包摂してこそのゲームではないのだろうか。少なくともそうあろうとするべきではないのか。と、私は思ってる。

先進諸国において、失業はいまや解決不能な類の問題となり始めているが、失業の何が問題かというと、貧困に通じることも去ることながら、社会との関わりが絶たれることで、自己の存在を見失ってしまうことの影響は大きい。労働は、大多数の人にとって主要な自己実現の方法となっているからだ。もし、これをゲームが代替できれば、ゲームが万人にとって新しい自己実現のステージとなり得れば、それは社会のあり方を変えるだろう。

と、何となくそんなことを思っていたものだから、冒頭掲げた「幸せな未来は「ゲーム」が創る」というタイトルは、まさに我が意を得たりと膝を打つ感じだったわけだ。これはきっと、目を潤ませ時折大きく頷いたりしながら、終始高いテンションで読み進められそうだぞと、私はそう確信して、揚々とアマゾンで発注したのだ。

ところが、である。

その確信は完全に間違いで、むしろゲームに対する認識の多様性を見せつけられる結果となったのだった。日本とアメリカではずいぶんスタンスが違うのですね、的な。

よって、今日はその話。

現実を代替するというか、むしろ積極的に関わっているでござる

ということで、私が人々を幸せにするゲームとして思い描いていたのは、例えば、完全にAIなラブプラスだったり、他プレイヤーが全員ボットのモバゲーだったり、徹頭徹尾一人で楽しめる出会い系だったりという、何と言うかある種非コミュのユートピアみたいなものだったわけなのだが、この本に出てくるのは、むしろリア充の権化のような、それはそれは恐ろしいものばかりだった。そのギャップたるや。

なかでもとりわけ破壊力が高かったものを紹介しよう。「C2BK」は、サバイバルゲームに似ているが、異なる点は主に3つだ。街の中で開催される点、誰がゲームに参加していて誰が参加していないかがわからない点、そして最後に武器として銃の代わりに「ポジティブな挨拶」を用いる点 (ちなみに、挨拶にはいくつかパターンがあって、ジャンケンのような強弱関係が決められるらしい) だ。要するに、予め定められた挨拶を街中で無差別に繰り返し、たまたま挨拶した相手がゲーム参加者だったらポイントゲット。ヤッター!という話のようだ。

私はこの基本ルールを読んだ時点でダウン寸前だったが、ダメ押しとなった「ポジティブな挨拶」の具体例を紹介しよう。

  • 標的に「美しい[自分の地区や住まいの名前]にようこそ」と言う。
  • 標的に「今日のあなたはとてもすてき!」と言う。
  • 「とてもきれいな鳥がいますよ!」など、標的に何かすばらしいものを指し示す。
  • 標的の靴を褒める。
  • 標的に何か具体的な手助けを申し出る。
  • 標的が今現在行っていることに対してお礼を言う。
  • 標的に対する「相手がたじろぐほどの」感嘆の念を表す。
  • 標的にウインクし、微笑みかける。
  • 近くにある具体的なものについて標的が抱いている疑問に自発的に答える。

第10章 幸せハッキング 第2部 現実を作り変える p.276

自分も主食を小麦に切り替えたらこんなセリフを吐けるようになるのだろうか、というのが私の率直な感想である。というか、ウインクて。

まあ確かに、英語の直訳であるが故のセリフとしての不自然さというのもあるかもしれない。夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという逸話が一時ツイッターで流行ったが、例えば上の挨拶も同様に意訳して「行楽日和ですなあ」とか「だいぶ春らしくなって来ましたなあ」とすれば、まあ言えないことはないかもしれない。

それでもなお非常に大きな問題として残るのは、自分がゲーム参加者だったとして、運悪く他プレイヤーに上記セリフを撃ち込まれたら一体どういうリアクションをすればいいのか、皆目検討がつかないという点だろう。

例えば銃で撃たれたときのリアクションというのは、両手を挙げてその場に倒れるなり、鮮血に染まった自身の手を見て何じゃこりゃと叫ぶなり、数多の事例をこれまでの人生で見聞しているが、ポジティブな挨拶で攻撃されるというのは全くニュージェネレーションなエクスペリエンスだから、経験の不足分を相当量のテンションで補わざるを得まい。試しに何度か自分を無理矢理自分を鼓舞しながらシミュレーションしてみたが、それでもやはり薄ら笑いを浮かべて「あ、、やられました…フヒヒ…」とか口ごもるのが精一杯であった。何かの罰ゲームだろうか。

こうした罰ゲームはARGと総称され、同著でざっと27個くらい紹介されていた。ARGというのは、Alternate reality game、つまり代替現実ゲームの略だそうだ。プレイヤーが家事を行うとポイントが加算されアバターがレベルアップしていくという家族で参加するタイプのゲーム、「チョアウォーズ」というのもあった。

コメントは控える。

著者にすれば、これらがまさに、ゲームが現実を作り変え現に人々の幸せをハッキングしている事例なのだということらしいのだが、私からすると、お母さんがなかなかオモチャを片付けられない子供に「じゃあどっちが早く片付けられるか競争ね」と促すといった子供だまし的動機付け手法との差異を見出すことは難しく、まさに「グリーだとかモバゲーだとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ、もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ」という感じであった。

世界と直接かかわりたがる人たち

そもそも、かの国では、PS3やXBOXといった家庭用ゲーム機用ソフト市場においても、FPS(First Person Shooting)という一人称視点でゲームが進むゲーセンのガンシューティングみたいなやつがもっともメジャーなジャンルだそうで、神の視点から自キャラを俯瞰するドラクエやFFに慣れ親しんだ我々からすれば、驚きを隠せない。

偏見に通じるだけなので、あまり安易に国民性の違いを語るべきではないと思いつつ、ここまで圧倒的な違いを見せつけられると、そっち方面に逃げ込みたくもなる。上記著作の著者は、やはりと言うべきかアメリカ人だ。やはり日本人とアメリカ人では、何か見えている世界に違いでもあるのではなかろうか。

我々日本人が好むゲームは、操作するキャラクターとプレイヤーである自分との間に神の視点のようなフレームを挟むものが主流だ。FF然り、ドラクエ然り。これはどういうことかと言えば、ゲーム世界と自分との間に、ひとつクッションを置きたがるということではあるまいか。そう考えると、確かに上述した小恥ずかしいサバイバルゲーム風のゲームも、専用の衣装で日常世界と隔絶したり、若しくは武器を物理的なアイテムに代えてコミュニケーションの直接性を減じるなどして、自分とゲームの世界の間にクッションを挟んでいけばプレイの敷居は下がっていくように思える。まあ、単なるサバイバルゲームに近づいていくだけだが。

その点、アメリカ人というのは、要するにどうもこの自分と世界の間に横たわるクッションを取り去り、直接世界と関わることを望んでいるように見える。そのように考えれば、両者の違いは他者や環境との関わり方における嗜好の違いとして整理することができ、 月が綺麗な話をクッションとすることもなく、直接に愛を語るさまも同じフレームで捉えることができる。

ただ、そうはいっても同じ人類、そんなに根本的な違いがあるはずもないと思うのもまた事実だ。勝手に違いを論っておいて何だが、根っこのところでは共有可能な部分があって欲しいのだ。

で、ひとつ思ったのが、世界と自分の間にクッションを挟みたい気持ちは不変だけれど挟む位置が違うのだという説である。我々日本人の感覚からすると精神というのは肉体に宿るものである一方、欧米の方の感覚と言うのはもうちょっとこう、なんていうか魂が分別保管されている感覚なのではないだろうか。要するに、魂と肉体が別々に知覚されているために、肉体が世界と自らとを仕切るクッションになっているのではあるまいか、という。我々が外部に求めるクッションを、彼らは内製化しているのではないかということだ。

ここまでの話の流れからして、以上の説が何の説得力も持たない単なる思い付きであることは明らかであるが、軽い検証の気持ちで試しに和英辞書で「宿る」を引いてみたところ、一応「reside」という英単語は出てくるものの、これはしかし、どちらかと言うと「宿る」というよりは「居住する」や「内在する」という意味の強い単語のようで、「reside on the body」で「(細菌などが)体に住む(生息する)」という使い方をするようだから、我々が思う「宿る」の語感とはずいぶん異なる。我々が「宿る」と言うときは、もう少し融和した、神秘的で一体感のあるイメージを抱いており、間違っても「細菌が体に宿る」とは言わないだろう。

もしかするとやはり、欧米には我々が言うような「宿る」に対応する概念は存在せず、然るに欧米的な感覚からすると、魂も肉体に宿っているものではなくて、細菌のように住まわせてるだけということなのかも知れない。もしそうであれば、身体は限りなくアバターに近いわけであって、旅の恥はかき捨てモードに入りやすいことも頷ける。

というわけで、急にスピリチュアルな感じの話になってしまったが、まとめると要するに、魂を信じ、挨拶を申せば、リア充になるわけなのであって、とりあえず壺買ってください、壺。

参考

歎異抄 (岩波文庫)
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元。本願を信じ、念仏を申せば、仏になる。もし未読であれば一度くらいは読んでみてもいいかもしれない。キリスト教よりは、馴染み安い。

ステマ問題と素人トレーダーが陥りやすい罠について

今日は、いま巷で話題沸騰中の「ステマ」について書きたいと思う。

ステマというのはステルス・マーケティングの略だそうで、どうやら広告であることを隠して行われる広告活動全般を指す言葉らしく、芸能人がブログでオススメ商品を薦めているなと思ったら実は裏で企業から金をもらっていたり、食べログに書き込まれたユーザーレビューが実は店側に依頼を受けた業者によるものだったり、という事案がステマであると糾弾されているようだ。

ステマ問題のどうでもよさについて

ステマについて書くと言いながらこういう姿勢も、我ながらどうかと思うのだが、これ、実にどうでもいい問題じゃなかろうか。

どうでもよさを構成する要素を一応説明すると、まず、何をどう頑張ったところで、世の中からステマ的なものを取り去るのは無理だろうという点があげられる。正直、あれもステマ、これもステマと言い出したら、ほとんどすべてのマーケティング活動はステマになってしまうのではないか。雑誌の記事広告みたいな形態は完全にステマ的だし、SEOも個人的には大概ステマだと思う。

誰かが善意で教えてくれたと思った情報が、実は企業や事業主による広告でした、残念、というのがステマ問題の根幹であると推察するが、そもそもすべての広告は、見る人にとって有益な情報となることを少なからず意図されて制作されるわけだから、情報と広告との境界は極めて曖昧なものにしかならない。というより、ふたつは本質的に同じものだ。

それでも嘘はよくない、嘘は情報にはなり得ないと主張されたい方もいよう。しかしながら、食べログの偽装レビューであってさえ、少なくとも店の人が美味いと思っているのであれば、完全な嘘とは言えない。
「うちの店は味はいい。」「客が来ないのは知られてないだけ。」「そうだ君、ちょっとお礼はするから一回食べてみてみんなにお勧めしてよ。」
この流れに嘘や悪意はない。ここで行われていることはつまり、最適化だ。実力よりも過小評価された評点の最適化。SEOと同じなのだ。

ITオンチからすれば、SEOと言うと何となくハイテクな印象もあるかもしれないが、突き詰めると大した話ではない。要するに、Google検索の表示順位が主にそのサイトが他のサイトからどれだけリンクされているかで決まるという事実に基づき、業者がカネを貰って顧客のサイトにリンクを貼りまくるという仕事である。SEOという名前が何となく洗練されたような雰囲気を醸しているだけで、本質的には業者が飲食店からカネを貰って好意的なレビューを書きまくる仕事と大差ない。試しにレビュー書込代行業者は、業務内容をUser Review Optimization、略してUROなどに改め、堂々と営業してみてはいかがか。セントレックスくらいになら上場できるかもしれない。

結局、ステマを根絶するには、思い切って広告ごと一切禁止するしかないということにしかならないと思うのだが、そんな話が現実味を持ち得るだろうか。

また、良いステマと悪いステマの線引きをしようという話も、正直、興味を持ちづらい。いや、広告業界などで実際に実務に携わる人からすれば、線引きの問題は重大な関心事だろう。それはわかる。せっかくの広告が、逆に商品のブランド価値を下げるようなことがあってはかなわないだろうから。そういった意味で、どういった広告手法はウケが悪いのか、知っておいて損はなかろう。

ただ、この線引き作業というのは、通常、専ら事例を積み重ねることによってのみ達成され得る偉業である。例えば私がここで、「これからのステマの話をしよう」といった風情で、ぼくのかんがえたまーけてぃんぐ論を一席ぶってみたところで、なんの成果も産まないことは火を見るよりも明らかなのだ。こういった難しい問題は、いくら第三者が屁理屈をこねくり回したところで、幼稚な道徳論にしかならない。市場に任せるしかないのだ。基本的には。

リスク許容度を超えた取引をするタレントたち

さて。かくもどうでもいいステマ問題であるが、いや、どうでもいい問題であるからこそ、一体何故これほど世間を賑わすまでに発展してしまったかについては、少し興味があるところではないだろうか。ステマ的なものなど、はるか昔から世に存在し、活発に取引されてきたわけで、 普通であれば取引事例にも溢れ、市場は安定しているはずで、今更線引きがどうのという議論を挟む余地はないはずだ。

いま、突如としてステマなるものが問題視されている背景について、私は、タレントがブログやツイッターなどの新しいメディアを通じて、消費者と直接トレードするようになったことが遠因ではないかと思っている。世の中には、なるべく直接はマーケットにかかわらないほうがいい人たちがいるが、タレントという人種は、その最たる例ではないか。

そう。今でこそ、タレントがインターネットメディアを通じて彼らのファンと関わりを持つということは珍しいことではなくなってきているが、少し前までは両者の間には必ず誰かが介在していた。例えばテレビでは、テレビ局が制作したコンテンツを消費者に提供し、それによって得た消費者の視聴時間を、媒体価値に加工してスポンサーに販売する。この限りにおいて、タレントはある種の商品であり、テレビ局にとっては番組制作の原材料だ。タレントは、基本的に消費者ともスポンサーとも直接接点を持つことはなく、それら役割はテレビ局が担っていた。

ところが、ブログやツイッターといった汎用メディアが、タレントをより直接的な市場に駆り立てた。芸能事務所などの関与は最低限あるだろうから、完全に直接ということでもないのだろうが、芸能事務所というのは本質的にタレントの利益を代弁するだけで、媒体の価値全体を管理するテレビ局のような立場とは異なる。消費者にどういったキャラクターを売っていくか。どういったスポンサーを受けるか。こういった決断に際してタレント本人の裁量が拡大していることは明らかだろう。

そういう意味で、いまタレントが置かれている立場というのは、さながら新米トレーダーだ。「主婦だけど、話題のFXでお小遣い稼いじゃうぞっ♪」というのとよく似ている。カネの匂いに釣られて、浅はかな算段で、慣れない世界に踏み出すあたり、瓜二つだ。

はっきり言ってしまえば、持ちかけられたステマの対象がくだらない、下劣な商品だったら、タレント自らそれを紹介したときに自分自身の価値が毀損するリスクを計算し、リターンがそれに見合わなければ断るという普通の判断をすればいいだけの話なのだ。それを「ブログで紹介するだけで250万円!」みたいな甘言に乗せられてなんでもホイホイ紹介するから、過去培われてきた広告業界のバランスが崩れることになる。

これは、FXを始めたばかりの人が、リターンを求めるがあまり、ついついレバレッジを高めてしまうのと同じ構図だ。要はリスクを取りすぎなのだ。レバレッジを高めれば、ちょっとした値動きで元本に対して大きな収益をあげることができるが、逆もまた然りだ。例えば100万円の証拠金で100万ドル買ったとしよう。この場合、ドル円のレートが1円下がっただけで元本がほぼ消し飛ぶ。1円の値動きなどたった1日のうちに起こることも珍しくないから、いかに向こう見ずというか、アホな賭け方かご理解いただけると思う。

ペニーオークションをブログで紹介していたマヌケが一体どの程度の報酬を得たのかしらないが、彼らが被った損失を補填するために十分なものではないことは明らかだ。情報発信の敷居の低さから、ちょっとした気の緩みや刹那的な感情が表出しやすい一方で、デジタル化されているが故に情報の保存もなされやすいというのがインターネットの恐ろしいところだが、本人にとってなかったことにしたい事実ほど、以下のようにいつまでも証拠が残る。

[NS] なぜ芸能人はペニーオークションで落札できるのか?

彼ら彼女らが失ったものは消費者やナショナルクライアントからの信用であり、つまるところタレントとしての価値だ。ペニーオークションのウソ臭さに疑問を感じることもできない程度の知能しか持ち合わせていない人間だと思うと、どんなに乳がデカかろうが、もう一切の信用は置けないではないか。乳の話はいらなかった。

とにかく。これが、いまステマが問題化している理由ではないだろうか。要するに、タレントのトレード手法が拙すぎて、場が荒れているわけだ。「白、発と鳴かれてんだから中切るなよ、、」みたいなことだと言える。

無意味なポジションを取りすぎるタレントたち

以上が広告市場におけるタレントの下手糞トレードの事例だとすると、同様程度に下手糞なトレードはコンテンツ市場でも散見される。いわゆる、一般消費者の煽りというか批判色の強い感想をスルーできない問題である。

つい先日も佐々木俊尚氏が、ツイッターで同氏の悪口で盛り上がっていた馬の骨的な謎のギョーカイ人一同に突然絡みはじめ、深夜にかけて異様な盛り上がりを見せるという最高にどうでもいい事案が発生していた。同事案については、某切込隊長がまるで水を得た魚のように雄弁にまとめというか茶化していらっしゃるので、興味のある人は是非ご一読いただきたい。

「ノリタカヒロ×イケダハヤト」から佐々木俊尚無双にいたるウェブ論争獣道: やまもといちろうBLOG(ブログ)

果たして佐々木俊尚氏がタレントなのかというのは置いておくとして、こうしたタレントマジ切れ事案は、Blogが普及し始めたくらいからボチボチ顕在化しはじめ、ツイッターによってキャズムを超えた感がある。一見クレバーに見えるロンブー淳でさえ、「フォロワー8人のお前に影響力ない」という極めてラディッツライクなメッセージを一般人に送り付けたという話もあった。

まあ、私のような小物ですらこうしてブログを書いていると、やれ長いとかツマランとかエラそうだとかバカだとかアホだとかわけのわからんメッセージが届くことも少なからずあり、都度々々多少なりともイラッとしているので、マンツーマンの勝負であれば絶対負けることはないのだろうタレント諸氏がついつい売られた喧嘩を買ってしまう気持ちはわからないでもないのだが、自分自身を売り物にしている彼らが、一般消費者と対等の立場で口汚く罵り合うことで何か得をするというのは極めて考えづらいことだ。ある程度その人に対する批判的感想の抑止力にはなろうが、そもそも批判すらされなくなったら人気は底である。アンチは多少泳がせておいた方が合理的だ。

これは、前掲の例に倣えば、FXをはじめたばかりの人に見られる勝算もないのにただ中毒的にポジションを取り続けてしまう、いわゆる「ポジポジ病」の相似形だろう。FXもはじめたばかりの頃は、マクロ的な国際情勢がどうとか、はたまたチャート上のテクニカルなシグナルがどうとか、いずれにせよ何らかの筋道の通った仮説に基づいてトレードしていたはずが、トレードに熱中してきたり負けが込んできて冷静さを欠くと、ポジションを持つこと自体が目的化してしまう。ふと気づいたらパチンコを打っていた的な中毒状態と変わらないわけだ。

いくらインターネットの特徴が双方向性だからと言って、自身にとって不利益になるような対話に身を投じる義務などあるはずもない。無意味な煽りは冷静にスルーというのが、2ちゃんねる全盛の時代から変わらぬオンラインコミュニケーションの鉄則だ。

その点、初代ブログの女王と謳われ、はやくから双方向メディアを主戦場としてきた真鍋かをり女史あたりはしっかりわきまえているようで、先日も「悪口は言われ慣れすぎて、今では悪口を聞きながらプリン飲める」みたいな話から、いつの間にか当該プリン商品化の話になっていた。プリンは売れないと思うが、多少の悪口には動じない心は、ひとつの財産である。プリンは売れないと思うが。

ステマ規制はあるか

自分でもビックリするくらい長くなってしまったので、最後にステマ業界の今後についてサラリと触れて終わりにしたい。

私の見立てだと、この一連のステマ問題で一番カモにされているのはタレント含む媒体側ということになる。タレントのクチグルマに乗って余計な消費をしてしまった個人消費者も被害者と言えば被害者だが、さほど高額ではない一方、タレントが失った信用の価値は、なお大きいと思える。

胡散臭い成功譚で個人投資家外国為替市場という壮大な賭場に駆り立て、冷静さに欠けるダメポジションを丸呑みにすることで多額の利益を計上していたFX業界は、レバレッジ規制や分別保管規制など、数々の規制対象となる憂き目にあったが、ステマも同様の末路を辿るだろうか。

私は、そうはならないのではないかなと今のところ思っている。理由は、上述の通り主な被害者がタレントだと思っているからだ。個人消費者がカモにされていればこそ、世間はその保護に尽力するが、タレントというのは比較的強者に属するのであって、保護するには値しないというのが一般的な感覚ではないか。

どちらかと言うと、騒乱に乗じて一儲けした業者あたりが音頭を取った、自主規制という名の我田引水ルールが敷かれ、ひとつの利権化するというのが通例ではなかろうか、と思う次第。

大老害時代を生き抜くための天下三分のTIPS

御手洗冨士夫キヤノン流現場主義老害王に、俺はなるッ!

ということで、御手洗冨士夫キヤノン会長が、御年76歳にして同社社長に返り咲いた件である。

時事ドットコム

そのとき私はたまたまtwitterを眺めていたが、 上記事案が公表された途端、 TLは瞬時に凍りつき、その後すぐに苦笑混じりの今更感で溢れかえった。

一時、いや待てと、きっとなにか特別な事情があるのだと、まだ慌てるような時間じゃないと、新しいスターの誕生だとはやし立てようとするtwittererを諌める動きも一部にあったが、日経新聞によれば、どうやら御手洗氏自身が「世代交代を急ぐよりベテランの力を結集」すべしと語り、社長復帰を志願したとある。何の事情もなかった。あの歳で何たる意欲か。

ここは嘘でも、急な辞任のため他に適任がおらずとか、一時的に会長が社長を兼ねるとか言って欲しかったが、会社側の見解は「難局はベテランの力でしか乗り切れない」という摩訶不思議なものであった。そうなのか?

常識で考えて、上の世代がいつまでも退かないと、人材育成の効率は悪化する。キヤノン勤務の40代は、70代も後半に差し掛かってようやくベテランという事実について、一体どう思っているのだろうか。このどこまでも果てしなく続くかに見える出世の冒険に心底ワクワクできているようなら、老害王の素質ありだろう。普通は、ゲンナリするところだ。

加えて、更に悪いことに、長期政権は不正の温床となりやすい。同じ体制がいつまでも続くと、組織の風通しは悪化し、不正が明るみに出るオケーションは減少するからだ。オリンパスの不正があそこまで長きにわたって隠匿され続けてきた背景に、退任する社長が後継の社長を指名することで、世代交代を経ても事実上の権力が移譲されずに維持されてきた構造があることは、言うまでもなかろう。

日本社会の中心は老人寄りに大きく移動

いま、老人たちの力は、かつてないほどに強まっている。

もともと老人には、若者にはない特別な含蓄や神通力があった。多くの場合それは、視力や聴力、更には記憶力までもが衰え、外部からの余計なインプットが遮断されたがゆえの内面回帰、独善的振舞いに端を発する諸症状なわけであるが、まあ亀の甲より年の功という言葉もある。

若者たちは、こうした未知の力を備えた老人たちのミコトノリを表面上奉ることによって、適切な距離感を構築してきた。インプットの絶えた人の言うことをいつまでも真に受けるわけにも行かないが、彼らの経験にまったく理がないわけでもない。相談役や顧問に代表されるようなあまりオフィシャルではない名誉職として、 現場からは一歩退いてもらったうえで、 独り言に限りなく近い形でご高説を発信していただくことが、双方にとってベストな関係なのであり、世の中の平和は、そうして保たれていたはずだった。

ところが、いま、このバランスが崩れてきている。理由は今さら私が指摘する必要もなかろうが、少子高齢化である。医療の進歩によって平均寿命がグングン伸びる一方で、若者の晩婚化や、教育費の高騰などで出生率は低下の一途を辿っている。国内全人口に占める老人の割合は、ほんの十数年前まで10%台だったものが、いまでは倍以上になっている。そしてさらに十数年後には40%に達すると言われている。

老人たちが数的な面でも勢いを得たいま、彼らを現場から一歩退かせることは容易ならざることとなった。なぜなら、老人がマジョリティであれば、もう老人がいる場所こそが「現場」に他ならないのだから。仮にコミュニティから老人を追い出したところで、追い出された老人たちは新たなコミュニティをつくり、それはいずれ巨大に成長するだろう。そうなっては、どちらが追い出した側かもうわからない。結局勝てば官軍なのであり、数的マジョリティを得たものが、最終的には正義の名を冠するわけである。

緊迫する社会

老人特有の不思議な力を操って世に害をなす輩を老害と呼ぶが、その勢力はとどまるところを知らず、現役世代を押しのけては数々の要職を手中に収めている。

これは非常に危険な兆候だろう。

いま巷の若いヤングを中心に、発行部数日本記録を更新し続けるほど大ヒットしている漫画カルチャーと言えば「ワンピース」だが、今起こっている老害たちによる勢力拡大のダイナミックさは、ワンピースにおける海賊たちのそれを想起させる。

ワンピースでは、伝説の海賊王が遺したとされる秘宝「ワンピース」を目指して猫も杓子も海賊になるという、読んで字の如しの大海賊時代が描かれる。なかでも秘宝「ワンピース」にもっとも近いとされる「新世界」に君臨する「四皇」と言われるトップ海賊率いる大海賊団にいたっては、一国の軍事力を軽く上回り、リアル世界で言うところの国連軍のようなものと互角に渡り歩く。ソマリアの強奪集団とはスケールが違うのである。

いま、現実社会の老人たちも続々と新世界へと歩を進め、その勢力を拡大させている。

筆頭はやはり、ナベツネこと渡辺恒雄氏だろう。先日、飼い犬の清武犬に突然噛み付かれ、周囲に世代交代時期の到来を予感させたが、その清武犬を即効で保健所送りにすると、返す刀でなぜか新聞を無税にしろと主張しはじめ、健在ぶりをアピールした。妻が参院選に出馬する際をはじめ、何か新しいことを始めるときはナベツネに挨拶をしなければならないというのはもはや風物詩を超えた不文律だが、同氏の憎まれっ子ぶりを鑑みるにあと150年くらいは余裕で世にはばかるものと思われ、若者の将来展望に影を落とすとともに、消費意欲の重しとなっている。

次いで石原慎太郎氏。「震災は天罰」といったまさに神の視点から繰り広げられる全方位DIS体制を敷きつつ、齢80にして東京都知事選まさかの四選を果たすという、まさに石原無双状態。このエントリーを書いている最中にも、噂の石原新党の基本コンセプトに関するニュースが舞い込んできたが、その基本コンセプトは、「反グローバリズム」「国軍保持」「平成版教育勅語」という、まさに猪・鹿・蝶三拍子そろった必殺極右コンボであった。老いは人を右傾化させるのだろうか。また、近年は天上天下唯我独尊ぶりにも更に磨きがかかり、歯に絹着せぬ物言いとよく形容される差別発言も年々研ぎ澄まされ、老人力のますますの充実を感じさせている。

森元首相こと森喜朗氏は、最近特に目立ったエピソードはないが、見た目だけでかなりの老害力を感じさせる逸材だ。確か同氏の自叙伝のようなものに記述があったと記憶しているが、出身大学である早大の入試では、確かラグビー推薦だからという理由で名前しか書かずに入学したらしい(うろ覚え、要出典)。こういう話は、普通真実だとしても隠しておくのが礼儀という気もするが、さも武勇伝のように語る様が実に"らしい"。若いときから高い老人力をいかんなく発揮していたようで、言わば老害界のスーパーエリートだ。この御方が毎回衆議院選挙で圧勝できるカラクリが私にはさっぱりわからないが、地元の方にしかわからない素晴らしい魅力があるのだろう。

そして今回、冒頭ご紹介した、尋常ならざる意欲で我が国が誇る優良国際企業キヤノンの社長に返り咲いた御手洗氏を新たに加え、彼らはさながら、現実社会における四皇だ。

もしナベツネと石原が本気で競り合ったら、マリンフォードくらいはゆうに消し飛んでしまうだろう。

第三勢力の形成へ

こうした状況を受け、強い危機感を募らせた一部の若者の中からは、老人どもから選挙権を奪えなどの強行策も聞こえてくる。

ただ、それはおそらく逆効果だろう。全面戦争は甚大な被害を生むし、そもそも数的有利を頼めない若者には勝ち目がない。目指すべきは老人勢力の内部ゲヴァルト、大勢力を分裂させることによる新しいバランスの形成だ。

ワンピースの世界観が優れている理由のひとつに、王下七武海の存在があげられよう。王下七武海とは、海賊でありながらその活動について政府からお墨付きを得る代わりに、政府と海賊が衝突した場合など、有事の際における政府への協力を言い渡された海賊のことだ。他の普通の海賊からすれば政府の犬にほかならないわけだが、七武海は七武海で、彼らの利益のために政府を利用している側面が強い。その実力は四皇には僅かに及ばないものの、かなり高い。

この図式を現実世界でも応用しない手はなかろう。老害老害でも、さほど浮世離れしておらず、むしろ俗っぽく、小銭やポピュリズムに釣られやすそうな老害たちを若者側に歩み寄らせ、それを持って第三の勢力とするのである。こうした、それこそ老獪な立ち回りこそが、いま若者に求められている。


名づけて、老化七武海。

さっそく人選に移ろう。

みのもんた氏、和田アキ子氏、古舘伊知郎氏あたりは、どうしようもない見識をお茶の間に届ける頻度といい、その偏り方といい、老人力は確実に及第点といえる。特にみのもんた氏は、ババアを意のままに操る能力を備えており、貴重な戦力になるだろう。一方、特に和田アキ子氏あたり、焼け野原みたいな自身のCDセールスを少なからず気にしていると思われるから、少しCDを買ってやればAKBよりも簡単に手なずけることが可能だろうと推察する。

お笑い芸人からは、芸人であることを忘れ、安い感動を振りまくことに必死な欽ちゃんこと萩本欽一氏が筆頭候補だろうか。彼の欲するものはイマイチよくわからないが、あの変な野球団の動きを見るに、若い子たちにチヤホヤされるのは嫌いではないのだろう。

経済界からは、経団連の黒ひげ、マーシャル・D・ティーチこと三木谷浩史氏を推挙したい。同氏はまだ若く、年齢的には老害とは呼べないが、DeNAによるプロ野球参入問題のときに、こどもへの悪影響を理由に一人いつまでも強行に反対を唱えていた様はお前が言うな感に溢れており、老人力全開の様相であったので、今後に期待できる老害ルーキーと言える。

紅一点として、デヴィ夫人はいかがだろうか。一体何が彼女の権威を担保しているのかよくわからないが、とにかく優雅で偉そうだ。タイトル通り偏見に溢れた夫人のブログは、ときおり唐突にこちらがビックリするような内輪話を暴露して注目を集めている。バラエティ番組の出演も比較的積極的で、ふかわりょうと嬉しそうに絡むさまが印象的だ。きっと若い人が嫌いではないのだろう。

あとひとり。できれば政治家がいいと思うが、政治家は真性の老害が多く、取り付く島がない印象がある。強いて言えば鳩山由紀夫は与しやすそうだが、戦力になるかどうか、極めて疑わしい。


まあいろいろと人選には異論があろうが、彼らのような存在こそが日本社会を平和へと導くためのキーなのである、と無理矢理いい話っぽく締めようと思ったがどう見てもただの悪口です。本当にありがとうございました。

スタバで注文前に席を取らない方がいいいくつかの理由

タイトルにはスタバと書いたのだが別にスタバである必然性はなく、実はタリーズでもエクセルシオールでも何でもいい。ただ、少し一般化して喫茶店と書くと、それこそ兜町にあるようなトラディショナルなやつが大量に含まれる気がするし、カフェと書くとハウスミュージックがかかるなかでホットワインを飲むみたいな変なお洒落スポットが混入してくる気がしてイマイチしっくり来なかったので、いっそのこと固有名詞にした。そういうわけで以降もスタバとは書くが、要するにカウンターのような所で商品を注文して、受け取った商品は自分で席まで運んで飲食するスタイルの店全般を指す概念として利用するので、そのつもりで適当に読んでいただきたい。

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マイケル・ウッドフォード氏の戦いは、なぜあんなに負け戦感満載になってしまったのか

先週書いたゲームの話については、もう少し掘り下げてみたいとは思いつつ、少し弾薬の補充が必要な状況であるため、今週は箸休め的にオリンパス事件の中心人物となったウッドフォード元社長についての雑感を書きたいと思う。

ガバナンス界の黒船

さてオリンパス事件と言えば、バブル期に嵌った財テクによって巨額の損失を被るも、問題の表面化を恐れて適正な会計処理を避け続けること20余年、歴代経営陣のお歴々が代々ひた隠しにしてきたところ、何を思ったのか内輪の論理の通じづらい外国人を社長に大抜擢した途端にすべてを明るみに出さざるを得ない状況に追い込まれ、株価は暴落するわ経営陣は全員退陣に追い込まれるわで大騒ぎになった、あの事件である。

同事件は、二代目社長が会社のカネ、それも数百億円規模をあろうことかカジノでスッてしまうという浮世離れした放蕩息子ぶりをみせ付け世間を唖然とさせた大王製紙事件と並び、日本のエクセレントカンパニーにおけるコーポレートガバナンスの何たるかを世に知らしめた好事例であった。

そして、オリンパスの社長に大抜擢され事件を明るみに出すきっかけをつくった人物こそが、何を隠そうマイケル・ウッドフォード氏その人だった。イングランド出身の実業家、1960年生である。

ウッドフォード氏は当初、かなり颯爽と登場した。

それこそ、日本型ガバナンスに引導を渡す欧米からの使者のようなイメージだった。日本人は、意外とこの黒船的概念が好きなのだと思う。開国させられたい願望のようなものでもあるのではないか。なんとか業界の黒船というコピーは、かなり長きにわたってコピーライティング業界のリリーフ的存在だ。リア・ディゾンがグラビア界の黒船と呼ばれていたのはいい思い出である。

ウッドフォード氏は、同氏がオリンパスの社長を突如として降ろされ、しかしまだ同社の取締役として過去の決算内容に疑義ありとの主張を繰り広げはじめたその頃、 まさにガバナンス界の黒船として、世論をかなり味方につけていたと思う。

当時、カウンターサイドのオリンパス側から出るコメントといえば、「ウッドフォードは日本的経営を理解しない独断先行型」などなど、まるで自らを「日本型」の枠にはめ込むためのキャラ作りのような内容ばかりだった。なぜああもオリンパスが自ら進んでチョンマゲレッテルを貼られに行ったのかは未だによくわからない。というか、かなり遺伝子レベルのものを感じる。大体、菊川剛という名前自体、狙ってるとしか思えない。いかにも家着は和服、趣味は日本刀集め、特技は柔道、嫌いなものはガイジンという感じの名前ではないだろうか。

まあ理由はともかく、オリンパスには一瞬で日本的経営の権化のような印象が染み付き、そのことが”チョンマゲ頭の侍が黒船一隻で夜も眠れず”的なコントラストに一層拍車をかけていたことは間違いなかろう。

まさかの敗戦

かくして初戦を華々しい完封勝ちで飾ったウッドフォード氏であったが、あるときから微妙に変調をきたし始める。それがいつであったか、明確に指し示すことはできない。ただなんとなく、氏がオリンパスの経営に並々ならぬ意欲を見せはじめたときに、私としてはおやと思った記憶がある。当時の私によるツイートを引用しておこう。まあさすがに日経が正面切って批判をはじめることはなかったが。

そんなウッドフォード氏の一瞬の隙をついてか、はたまた単なる偶然か、会社側は同時期に第三者員会の調査結果を発表。暴力団絡みはない旨をコメントさせて疑惑のタネを早々に限定し、有価証券報告書の訂正など必要な事務を済ませると、訝しがる周囲をよそに東証からさっさと上場維持を取り付けるという、いわゆる直ちに健康被害はありませんからの勝手に冷温停止宣言コンボを叩き込み、一瞬で勝負を決めた。団結した日本人は、ときに欧米人が理解できないほどのパワーを発揮するのだ。実にリメンバー・パールハーバーである。

その後もウッドフォード氏は、自身のバックに連合艦隊の存在を匂わせながら、委任状争奪戦を経ての社長復帰を目指す意向を表明するなど、全力右ストレート連発の様相であったが、国内主要株主をはじめ、メインバンクにも相手にされなかったとのことで、弾切れからの撤退を余儀なくされた。

最後は妻の体調を気遣って矛を収めるという、これまたまさに典型的としか言いようのない、欧米型エクスキューズを添えての哀しい幕切れとなった。

敗因は何だったのか

思うにウッドフォード氏は、自分から再度の社長登板に名乗りを上げるような真似をせずに、初戦勝ちの余韻をもっとじっくり楽しむべきだったのではないか。代表権を剥奪され、社宅の鍵を没収されても、何事もなかったかのように悠々と振舞っているべきだった。それが正義というものだからだ。正義は孤独なのだ。アンパンマンがもし”僕の顔をお食べよ”の対価を後から請求していたらどう思うか。それは正義ではない。移動パン屋だ。

同じようにウッドフォード氏も、あれだけ社外から騒いでおいて、急にこの会社を建て直せるのは私しかいないとやっても、正直マッチポンプにしか見えないから、社員としてもついて行きづらくないか。これも日本的な考え方なのだろうか。

そもそも、ウッドフォード氏の求めていたものは正義だったのか。違うだろう。英国人実業家は、そんな有名無実なものを求めたりしない。普通、実業家が求めるのは、世界を変える仕事を実現させるに足る十分な職責とそれに見合った報酬だ。

もしそうであれば、ウッドフォード氏はもう少し話を内々ですすめる必要があった。

その後の一連のウッドフォード氏による対オリンパスのネガティブキャンペーンを見ても、冒頭放たれたあの「過去の決算内容に疑義あり」攻撃は、彼の切り札だったのだ。圧倒的だった初戦以降、次は何が出てくるのかと期待して観戦していたが、結局何も出てこなかった。一瞬海外メディアから、オリンパスの背後に暴力団の存在を匂わせる報道がなされたときはおおっと思ったが、単発のラッキーパンチだったようだ。

普通、唯一の切り札をいきなりマスコミにリークするだろうか。

切り札を最初に出せば、そりゃあ初戦は飾れるだろうが、以降の勝負が悲惨なことになるのは目に見えている。大貧民(大富豪?)で強いカードから順番に切って行ったらどうなるかという話である。そりゃ負けるよ。

あるべきは、マスコミへのリークをチラつかせながら監査法人などから情報を引き出すとともに、菊川氏らと水面下で交渉を行い、徐々に権力の移譲を完遂させるという方針だったのではないか。

これはどう考えても、日本的とかそういう問題ではない。洋の東西を問わず、切り札は最後までとっておかなくては意味がないと相場が決まっている。その点において、彼は単純に迂闊だったと私は思う。

切り札を、序盤で切りすぎたのだ、彼は。

そう。倒置法で言えば、である。

敗軍の将兵を語る

最後に、私の中でウッドフォード氏の印象を決定づけることとなったニュース記事を引用させていただこう。このあたりで私の中でウッドフォード氏は、オリンパスの他の経営陣と共に完全なネタキャラと化した。

同氏は現経営陣を一掃するため、自身を含め た役員候補をそろえ、株主の賛同を得ることを 目指していた。現経営陣との委任状争奪戦を視 野に入れていたが、国内の生命保険会社や銀行 などが賛成しなかったもよう。

「株式持ち合いの相手を決して批判しないと いうあしき慣行」と、日本の持ち合い制度が 「企業統治の骨抜き」になっていると批判し た。

具体的な方法は明らかにしていないが、「不正を糾弾する戦いはこれで終わりではない」と 言明。経営陣を追及する活動は続ける意向を示 した。同氏は同日午後3時より都内で会見を開く。

オリンパス元社長「妻に耐え難い苦痛」 復帰断念:日本経済新聞

「不正を糾弾する戦いはこれで終わりではない」らしい。まるで「おれたちの戦いはまだはじまったばかりだ!」という威勢のいいセリフだけを残して打ち切られる少年漫画のようではないか。

このようなベタなボケを繰り出されると、こちらとしても「マイケル・ウッドフォード先生の次回作にご期待下さい!」と叫ばずにはいられない。