謎のビラ配り

今朝通勤途中に渋谷駅周辺を通ったときの話。

普通の青年がなにかビラを配っている様子だった。朝の渋谷駅周辺は通勤途中のサラリーマンなどでごった返しており、その膨大なトラフィックを持つ駅周辺スペースは、認知度向上を図る企業や政治団体などにとっては、メディアとして大層魅力的なのだろう。むしろビラを配っている人がいないことのほうが珍しい。そういう意味でその風景は、少なくとも視覚的には特段の違和感もない日常風景に思えた。
しかし、彼が、道行く人々に向けて繰り返し唱えている文句がふいに耳に入ってきた途端、私の中の日常は瓦解した。


「・・はよざーす。世界初の四次元認識テクノロジーで世界のあり方を変えまーす、よろしくおねがいしまーす。」


よろしくお願いされても困る。

私の知る限り、不特定多数の一般人に、ましてやビラを配りながら宣伝する文句としては、極めて異例だ。

気がついたときには既にその青年の横を通り過ぎてしまっていた私は、彼が配っているビラにいったい何が書かれているのか無性に気になり、二度ほど振り返ったのだが、どう考えてもバカバカしい内容だと思い至り、先を急いだのだった。

あ、これだ!(追記)

NR JAPAN株式会社 | 5次元認識テクノロジーによるトリプルサクセスセミナー
やっぱり内容を知らない方が面白かった気がする。四次元じゃなくて五次元だったようだ。

損害賠償請求ビジネス

痛いニュース(ノ∀`) : 【韓国】 元慰安婦の「対日損害賠償請求権」を他人へ譲渡可能に - ライブドアブログ

もしこれが可能なら、SPC(カラ会社)を設立してそこに損害賠償請求権を譲渡し、同SPCが証券を発行することで、損害賠償請求権を証券化することができる。

世界的な景気後退、需要の減少、投資機会の不足といった諸問題を解決する新たな投資対象、それが損害賠償請求権。

背景は、元記事の対日賠償請求に加え、食品偽装やなんとか電池の爆発など相次ぐ不祥事。それらに集中的に投資を行い、主にリーガル面のマネジメントを集中して行うことで、リターンを狙うのだ。


具体的に見ていこう。まず話の中心となるのは、(株)謝罪と賠償アドバイザリーといったようなアドバイザリーの会社だ。同社は主に弁護士によって構成され、同社が運営するSPCやファンドに対し、そのSPCやファンドが買い取った損害賠償請求権の管理についてのアドバイスを行う。

実際、ライブドアショックのときなどは、弁護士主導で”被害者の会”のようなものが設立されたと記憶しているが要はあれと似たようなものだ。大きな違いは、被害者からその賠償請求権を「買い取る」点にある。

同社は、企業の不祥事をつぶさにチェックし、その被害者に営業をかける。被害者本人が気がついてもいない損害賠償請求権を発掘し、社会に還元することがこの会社のひとつの付加価値だ。当人が気がついていないものも含めれば、潜在的な損害賠償マーケットはかなり膨大だと推察する。それらを投資対象として顕在化させるわけだ。

営業活動に際しては、その損害賠償請求権の行使、我々にお任せいただけませんかと切り出し、集中的に損害賠償請求権を管理することで企業側との交渉力が高まるとか、どうせ法的な手続きは専門家に委託せざるを得ないとか、あることないこと言って、最終的には10%とか20%とか場合によってはそれ以上のディスカウントレートで、損害賠償請求権を買い取るのだろう。当然買い取り金額の提示においては専門性が発揮されることになる。並み居る競合を振り落とし、高収益債券を落札するには、なるべく高額のBIDを提示する必要があるからだ。


当然、SPCが損害賠償請求権を買い取るにあたっては、資金を調達する必要がある。調達にあたって活躍するのは当然投資銀行だが、ポイントはマーケットの大きさと件数の多さだ。

悪い点ばかりが取り上げられるサブプライムローン証券化スキームだが、非常に理にかなっているのは、複数の債権をひとつにまとめることでリスクを平準化し、さらにそれを細分化して投資家に販売することでリスクの分散を大規模に行えることだ。これらによって投資家のリスク管理は革命的にデジタル化することになる。ただそれにかまけて、サブプライム層への融資に資金を突っ込みすぎた点こそが、件の問題の教訓なのであって、証券化自体が悪の権化のように扱われるべきものではない。

思うに、損害賠償請求権は潜在的なものを含めば非常に大きな規模のマーケットになり得る*1し、それぞれの絶対額は小規模のものも多く、かつリスクも均一化されないので、意外と証券化に向いていると言えなくもないこともなきにしもあらずかもしれない*2


そうして合理的なリスク評価モデルがワークし、セカンダリーのマーケットも用意できれば、ファイナンスはそう難しくない。

もしそうなったら実に瓢箪からコマだが、近い将来損賠償請求バブルが起こったりするかもしれない。当アドバイザリーファームは家電系及び化粧品に特化した損害賠償の専門家集団です、とか言い出す会社なんかも出来たりしたら、結構笑える。

追記

コメントしていて若干気になったのでちょっと調べてみたw
譲受債権請求事件が参考になる気がする。

損害賠償請求権とはつまり、あくまで請求する権利なわけで、債務者側はまだ債務を認識していないわけだから、その譲渡は基本的に将来発生する債権の売買予約ということになるのだろう。

とすると、その場合でもどうやら「債権譲渡の予約にあっては、予約完結時において譲渡の目的となるべき債権を譲渡人が有する他の債権から識別することができる程度に特定されていれば足りる」ようだ。

○○に対する××に基づく一切の債権というように特定すれば、意外といけるのかもしれないと思った。

ただ、譲受側が、第三者対抗要件を充足して、自らの(譲り受けた)権利の正当性を担保するのは結構大変そうだ。将来債権だから当然契約書なんかもないわけだし、譲渡人とその譲渡人に発生した損害賠償請求権の原因となる事象を紐づけるのも並大抵ではない。いちいち裁判にもつれ込んでたら、業としてやるにはリスクが高すぎる印象。

まあ、無理だなw

*1:面倒なので調べてないが・・。

*2:まったく自信はない。

野良猫餌やり論争を勝手に想像してみた

公園などでよく見かける野良猫に餌を与えるな的な看板。一方で後を絶たない餌を与える人物。この裏側には壮大な論争があるのではないかと思い、勝手に想像してみた。予め断っておくが、100%フィクションである。

  • 本流
    • 野良猫に餌を与えるよ派
      • A :かわいそうな猫に手を差し伸べるのは人として当然。
      • B :もとはといえば人間のエゴが起こした悲劇なのであって、人間に責任がある。
      • C :野良猫じゃない、地域猫だ。そして我々は、ボランティアである。
    • 野良猫に餌を与えるな派
      • a :糞被害など、衛生面の問題が多い。責任をとれ。
      • b :餌を与えることで、かえって悲劇は量産されるのだよ。
      • c :(この自己満足の偽善者どもめ!)
  • 支流
    • 実際には与えないけど与えることを支持するよ派
      • C':猫に餌を与え続けられないのだとしたら、それは社会が間違っているのだ。
    • おれも昔は大変だったよ派
      • c':猫より犬を飼え!


基本的に、話はA→a→B→b→C→cの順で進む。

A :かわいそうな猫に手を差し伸べるのは人として当然。

まず、「与えるよ派」は、深く考えずに餌を与えていたはずだ。何故なら、猫が好きだからだ。だってかわいいもの。困ったときはお互い様、情けは人のためならずと、昔ながらの先人の知恵、思考停止ワード(ことわざとも言う。)も、餌やりを後押しする。お腹を空かした猫を見てみぬフリなど、誰ができようか。

a :糞被害など、衛生面の問題が多い。責任をとれ。

対する「与えるな派」は、そもそも猫が好きではない。友人の飼い猫など、かわいさだけを抽出して享受できるシチュエーションであれば、「かわいいねー」などと余裕を覗かせるが、糞尿やゴミ荒らしなど実害に対峙したら最後、一瞬で憎悪をつのらせるのだ。どうも最近猫が増えた気がする。ガレージの糞は以前は週に一度程度の掃除で間に合っていたのに、いまではほとんど毎日だ。そういえば(いけ好かない)隣の婆さんが野良猫を集めて餌をやっていた。それで増えてるに違いない。ふざけるな!かわいがるだけで糞尿の始末だけこっちに押し付けやがって!かわいがるならその猫の行動に責任をとれ!若しくは逆に、猫が好きで、好きで、好きで、実際に飼っている人。そして宅内にトイレを設け、ちゃんと責任を持って管理している人も、自己と比較した場合の「与えるよ派」の無責任さにズルさとそれに起因する不快感をおぼえることだろう。

B :もとはといえば人間のエゴが起こした悲劇なのであって、人間に責任がある。

一見するともっともなこの「与えるな派」の主張に対して、「与えるよ派」は、責任という判断基準は維持したうえで、ひとつメタ的な視点を提示する。猫に餌を与える、与えないという切り分けには何の意味もないと。そう、これは「人間と猫」全体に係る悲しい物語なのだ。野良猫という悲劇のポジションを生み出したのは誰か、その胸に手を当てて聞いてみないさいと「与えるよ派」は優しく諭す。そうです。野良猫とはまさに人間のエゴが生み出した悲劇なのです。すべて我々人間には、等しくこの悲しい物語を語り継ぐ責任があるのです。

b :餌を与えることで、かえって悲劇は量産されるのだよ。

人間誰しも心にやましいところはあるもので、論点のすり替えだとは分かっていても、こうした高潔な倫理感を示されると、自信を持って石を投げることは難しい。例えば、既に生み出された悲劇は埋没コストなのだから、将来の意思決定がそれに縛られるべきではなく、合理的に考えれば即刻すべての野良猫を処分すべきなのだ、とマッチョな自説を説いたところで賛同を得ることは難しかろう。むしろそうした過激な方針は「与えるな派」の内部分裂を引き起こし、戦局にも不利となる可能性が高い。であれば、「与えるな派」のとるべき戦略的方針はひとつだ。「与えるよ派」の支持する倫理観を逆手にとって、将来新たに生み出される悲劇に対する不安を煽るのだ!いま餌を与えることで将来悲しい末路を辿る猫が増えるとしたら!!それでも貴様らは「いま」餌を与えるのか!!!と。

C :野良猫じゃない、地域猫だ。そして我々は、ボランティアである。

人間なら誰しも不安に抗うことは難しい。不安に真っ向から対峙するためには、将来のそれを現在に落とし込み、具体的な対応を行うことが肝要である。野良猫を将来にわたって増やさないためには、不妊手術(避妊・去勢)等の対応は必須である。これはある程度の労力(野良猫の捕獲など)とコストのかかる行為であって、とても個人で対応できる範囲を超えているように思えた。とるべき具体的な対応がわかっていながらそれを放棄したとあっては、「与えるよ派」の信頼にかかわる。草の根的に活動していた「与えるよ派」の人々は、この不妊手術への非対応を根拠に次々と論破されていくのだった。勝負は決したかに見えた。しかしそこで登場したのが、何とかNPO法人とか言う動物愛護団体だったのだ。彼らは、「野良猫」と「地域猫」という新たな区別を導入。「地域猫」に対しては、不妊手術などの必要な処置をとることを明言した。そうして、団体の参加者やそれに賛同する個人などは公然と餌やりを再開したのだ。昔から野良猫を集めて餌をやっていた(いけ好かない)隣の婆さんも、もはや単なる一般人ではない。立派なボランティアの一員になったのだ。

c :(この自己満足の偽善者どもめ!)

必要な対応を行うことを明言されては、表立って批判することは難しい。確かに対応の不備は目に付くし、それを指摘することはできるが、ご助言ありがとうございますと感謝されてしまうのが関の山だ。昔のあのアツいバトルは戻ってこない。(猫ちゃんかわいそうとか言って、結局不妊手術をするのであれば、殺すのと大差ないだろ。子孫は残せなくてもせめて生きている間はつらい思いを紛らわせてやりたいってお前、そう言うのをただの自己満足って言うんだよこの偽善者どもめが!猫ちゃんにはつらいとかそう言う感情はありませんから!!残念!!!)とも思うものの、間違っても口には出せない。人格を疑われてしまうし、そもそも不快感の矛先が、猫による被害から偽善者どもにすげ代わっているのである。これではお話にならない。もやもやした気持ちを残しつつ、「与えるな派」は、ガレージに残されたウンコを(わざわざ)探し、団体にクレームの電話を入れるしかないのだ。

C':猫に餌を与え続けられないのだとしたら、それは社会が間違っているのだ。

ところで、bの段階で不安が提示された際に、「与えるよ派」の多くは上で見たとおり動物愛護的な政治性に回収されていくのだが、一部の人は「与えるよ派」の分派:C'となって、更にメタ的に視点を移動させることで、この不安と対峙する。即ち、人間に<人間が生み出した悲劇たる野良猫>に餌をやり続ける責任があること自体は自明なのだから、もし将来猫が増えたとして、その増えた猫に餌を与え続けることができないのであれば、それは社会の方がおかしいのだ、と。野良猫の糞尿を迷惑と考えること自体が、人としておかしいのかもしれない。若しくは野良猫の糞尿などを解決する財源がないのであれば、財源の配分がおかしいのかもしれない。ただ、何がおかしいかなど、どうでもいい。とにかく何かがおかしいのだ。ちなみに、この分派のほうの特徴は、自分の周りにはたまたまそういうかわいそうな野良猫がいないので、実際に餌を与えることはあまりないというところだ。

c':猫より犬を飼え!

この「与えるよ派」の分派:C'は、実際に餌を与えるわけではないという意味で、誰にとっても実害はないので、現実社会ではあまり出る幕がないのだが、戦場をネットなどに移すと、cでたまった鬱憤のはけ口などとして大いに活躍する。具体的には、「実際にガレージに毎日ウンコされる身にもなってみろこのスカポンタン」という、実はボランティアの活動によっていまや週に一回ウンコされるかどうかになった「与えるな派」による憂さ晴らしの放言に対して、「そもそも猫の糞を迷惑がること自体、人間の責任に対する自覚を欠いている証拠だ」などとして燃料を投下する。昔のバトルの興奮が蘇った「与えるな派」はすっかり病みつきになってしまうのだった。そこで登場するのが、ネット界の大御所「アルファブロガー」だ。彼らには、それがどんな問題であれ盛り上がりさえすれば事後的に口をはさむ習性がある。自分も昔はガレージに糞をされて大変だったと。そんなとき自分がどうしたのか。前から欲しかった犬を飼ったのだ。するとどうだろう。朝の散歩が習慣になって、生活が変わった。適度な運動で体調もいいし、いいアイデアも浮かぶようになった。近所の公園に散歩する仲間が出来、それは仕事上の人脈にもつながった。あ、そうだ、できる男は犬を飼っているのだ!確かに犬は高いかもしれないが、人から子犬をもらうのでもいい。要は勇気が(略

そして、このときばかりは「与えるよ派」と「与えるな派」が異口同音に言う。「おれ○○派なんだけど、なんだこれ・・。」

予想なしにははじまらない

ふと思ったこと。

「未来を予想したところで、どうせその通りにはならない。」
「ネットの浅知恵で導かれる結論など何の意味もない。」
「そもそもユートピアのようなものはない。」
いずれもごもっともだ。

卑しくも証券会社に勤める身であればこそ、将来のマーケットを予想することがどれだけ難しいか、不可能なことであるかは、重々承知している。

ブラックショールズだかシミーズだか知らないが、リスクを定量化してオプションの理論価値を計算するような試みは数あれど、大概は気休め程度の効果にとどまる。それっぽい理論から導かれるそれっぽいリスク算定が本当に妥当なものなのであれば、LTCMは破綻などしていないという話だ。

ある程度のコンセンサスのもとに動く金融マーケットでさえ、こうなのだ。社会の未来を見通す力が誰にも備わることがないという事実は、頷けるものだ。


それでも私が、トレンドを分析し、未来の記述を試みることをやめないのは、予想なしにははじまらないからだ。

トレーディングを経験して思うのは、何も考えずにマーケットにエントリーするのは、とても恐ろしくてできないということだ。その考えが如何に「休むに似たり」であろうと、考えれば考えるほど、自信を持ってエントリーすることができる。

しかし予想があっているかどうかなどは、どうでもいい。どうせあたるはずなどないし、そもそも大事なのは、はじめることなのだ。

はじまってしまえば、あとは如何にうまく着地するかを考えるだけでいい。そしてうまく着地さえできれば、当初の予想があたっているかどうかなど、どうでもいい。はじめてしまいこそすれば、選択肢の無限性は徐々に縮減し、ベストな判断という魅惑的な可能性も現実味を帯びてくる。はじめる前は、選択肢は無限なのであり、ベストな選択肢などというものはそもそも存在しないだろう。


この無限の選択肢、どうなるかわからない不確実性、これらはいつも不安のタネだ。ときに人の行動を抑制する。

しかしそれらに効果的に対処するには、もしあなたが大金持ちでないなら、なにかをはじめるしかない*1。はじまりの方向付けが、その次の軌道を制限し、その制限があるから、前よりも容易に選択をすることができる。そしてその選択はまた次の軌道を制限する。

いつもなにかをしていなくては不安だという心理は、そういうことだ。確かに、人生は既にはじまっているといえるけれども、不安なときこそ、もっといろいろなことをはじめるべきなのだ。

そして、再びなにかをはじめる苦労を味わうことを避けるためには、はじめたことをなるべく続けるべきだ。

私が、結婚して子供ができてよかったと思うことのひとつは、扶養の義務が私を立ち止まらせないところだ。選択肢が多いことや、立ち止まってゆっくり考える時間は、決していいことばかりではない。むしろ人を不安にさせる最大のものだろう。

なにかをはじめるには自信が必要で、それを続けるには義務や制約(誓約)が必要だ。

これらを使いこなすのが、上手く生きるコツではないだろうか。

*1:もし大金持ちなら、そのお金をなるべく使わないことだ。

インターネットユーザーとネコ派の関係

猫好きな人が解せないという増田の記事をを読んで思ったのだけど、確かにオンラインにおける話題のイヌ・ネコバランスは不自然な気がする。

どちらかというとイヌ派である私の認識だと、リアルではネコを飼っている人とイヌを飼っている人の割合は結構イーブンに近いか、むしろ若干イヌが上回っている。先ほどネットで適当に拾ってきたアンケート、『【ワカレメ vol.5】イヌとネコ、どっちが好き?|ニュース|オリコンCSランキング*1でも6:4でイヌ好きが勝っているようだ。900人に聞きましたということなので、まああまり信憑性のあるデータとはいえないかもしれないが、それでも五分五分くらいと言っておけばそう間違いはないだろういう感じが印象としてもある。

ところが、ネットでの話題としては、明らかにネコが多いという事実がある。google検索をしてみても、”ネコ”の検索結果は13,700,000件もあるのに対し、イヌの検索結果は3,260,000件しかない。約4倍の開きだ。画像検索の結果はさらに歴然で、ネコが3,850,000件なのに対して、イヌは僅かに397,000に過ぎない。差は10倍に広がる。「話題」という意味で2ちゃんねるのコピペブログのサイト内検索も比較したが、ネコが6,450件なのに対してイヌはなんと95件である。しかもイヌの検索結果の上位3つはホワイトゴレ”イヌ”とやらについての話だから、これはもうイヌ完敗と言って差し支えなかろう。


さて、認識と現実にここまで大きな差異があるのはなぜか。どちらかが劇的に間違っているのだろうか。私の認識が正確である根拠はまったくないが、かといって10倍もの開きがあるものを五分五分に見誤るほどイヌ派・ネコ派の区別に対して盲目的に生きてきたつもりはない。私は中学まで公立校だったが、公立校は地域と言う最低限のバイアスを除けば、比較的無作為抽出に近い集団だと理解している。そこでもイヌ派・ネコ派議論というのがあった記憶があるから、議論になるということはそれはつまり党派勢力的に五分五分くらいだったのだろう。上で提示したように、若干のイヌ有利を示すアンケートだってある。

一方、ネットで話題にのぼる頻度に関してもこれは単なる検索結果という事実であって、間違っているということは考えづらい。確かに、上で書いたようにホワイトゴレイヌとやらが引っかかったりするので、細かな数字は意味を持たないだろう。しかしあくまでそれは誤差の範囲であって、数百パーセントもの影響を及ぼすものではないと考えられる。そしてそもそも、私が日々ネットを探索している実感としても、確かにネコの話題の方が圧倒的に多いのである。イヌの画像スレなんて立ったことあるのか。


おそらく、世の中的にイヌ派とネコ派は大体五分五分ということと、ネットの話題は圧倒的にネコに関するものが多い、ということはお互い正しいのではないか。少なくとも私の認識はそう告げる。これらがお互いに正しいとはどういうことかと言えばつまり、特にネットで積極的に発言する人は、ネコ好きの人が断然多いということである。そして、上で見たとおり、イヌ派ネコ派の勢力図は現実とネットでかなり大きく異なることから、ネットで積極的に発言する人と、ネコ好きの人との間にはなにかメタ的な相関関係がある可能性があると言えるだろう。

話題を自発的に提供するほどの比較的コアなインターネットユーザーは、社会全体から見てまだまだ一部の層であり、その嗜好が偏っていることを表す事例は他にもある。『日刊スレッドガイド : 日本のWikipedia編集回数ランキング、1位は…』は、Wikipediaで編集回数が多い単語を国別にまとめたものに関する記事である。見ていただければわかるが、アメリカは政治、フランスは歴史系が多いのに対して、日本はアニメばっかりである。このことから言えるのは、日本人が三度のメシよりアニメが好きということだろうか。日本人は政治や歴史に興味がないのだろうか。そうではなくて、日本ではインターネットのヘビーユーザーとアニメを好む人が重なる部分が多いということではないか。


インターネットのヘビーユーザーとはどのような共通的な特徴を持ち得るか。このことを考えるきっかけになったのは『日本のオバマになるべき人がもしいたら、間違いなく2ちゃんねらやってるだろうなという話 - アンカテ』という記事だ。興味深い内容であるし、長くもないのでできれば全文目を通していただきたいところだが、ポイントとなる部分を引用しておく。

日本では、この「ポストオバマ」世代への権力の移行が全く進んでいない。
(中略)
2ちゃんねるというのは、そういう社会の最前線の中で中核を担っている世代の声を代弁している側面もあって、その世代が自分の皮膚感覚に添って組織を動かせていないジレンマが噴出している場所であるようにも思える。

日本のオバマになるべき人がもしいたら、間違いなく2ちゃんねらやってるだろうなという話 - アンカテ

日本社会の大きな特徴のひとつとして、先進諸国にも先駆けて、急速に進む少子高齢化問題に直面していることがあげられる。日本の人口ピラミッドなどを見れば一目瞭然である。アメリカのそれと比較するのもわかりやすいだろう。兎に角、この国の政治的マジョリティは、いまや老人の手中にある。

言いたいことはつまりこういうことだ。インターネットが新しいコミュニケーションのメディアであって、そこに新しい社会が構築されるのだとしたら、その新しい社会に積極的に進出する人種というのは、単にチャレンジ精神が旺盛と言うだけではなくて、既存の社会に何らかの不満を抱いている人種であるはずである。老人がインターネットを敬遠するのは、単に老眼とPCモニターの相性の問題ではない。彼らには、彼らを包摂する、甘美なリアル社会があるのだ。

当然、社会の対立図式は世代だけではないので、一概に言うことは危険だが、実社会において高齢者世代にいつまでも実権を握られ権力の移譲を受けることが叶わない中産階級労働者や、そもそも高齢化や女性の社会進出の煽りで職に就くことすらままならないロスジェネ世代が、インターネットという新しい社会に一筋の光明を見出すことに不自然さはまったくないし、さらに少子高齢化という人口動態の劇的な変化は、日本社会の構造を考える上でも大きな部分を占める問題であり、インターネットユーザーの動態もその因果として発生する面を持つのであれば、その影響は無視できない規模である可能性は十分にあるだろう。

よって、日本のインターネットのヘビーユーザーを概観した場合、次のようなことが言えるのではないだろうか。

  • まず若い。若い世代の方が新しい技術や秩序に柔軟で前向きであることは当然としても、日本はおそらく他国と比べて高齢者のインターネット利用度合が相対的に低いのではないだろうか。上で述べたとおり、インターネットの利用度合は、ある面ではリアル社会での政治・権力状勢の裏返しだと思うからである。
  • そして、旧世代的な価値観を嫌う傾向。若ければ大体そうとも思えるが、おそらく日本において、世代間の意識格差はバブルの体験を境にしてかなり大きい。右肩上がりの経済を生きた人と、デフレ経済の中を生きた人とで、投資に関する考え方がまったく異なるのは自明だろう。前者は相場の好転を無意識的に信じ、それ故投資スタンスはアクティブである。一方後者は、相場の好転をイメージできないため、パッシブな運用を好む。人生を投資と回収の連続だと考えれば、前者と後者の生き方は180度違うことになる。
  • 当たり前だけど、反体制的。旧世代的な価値観を嫌う若者が反体制的なのは当然である。既得権益には人一倍うるさい人がはてなでも数多いのも頷けるというわけだ。


何の話だったかと言うと、ネコの話だ。ネットではネコの話が多いという話だった。
ネコといえば、ネコの「動物言葉*2」は「自由」と「高潔」である。嘘だけど。冒頭で紹介したアンケートでも、ネコ好きの理由として「気まぐれさ」や「気ままさ」をあげる人がほとんどのようだ。一方でイヌはどうだろうか。イヌのイメージは完全に対極的で、「従順」や「忠実」といったものが目立つ。

上にあげた、インターネットのヘビーユーザーの特徴との関連を見出さずにはいられない。ネットユーザーはイヌに対しては旧世代的な秩序に従順な姿勢を、ネコに対しては固体としての快を追求する奔放な姿勢を重ねるのではないか。そうであれば、インターネットのヘビーユーザーがイヌかネコかであればネコを選ぶということは、選択者自身の社会に対する態度・姿勢を考慮すれば、あまりにも自然なことのように思えてくる。


■追記
当記事のはてなブックマークページに以下のようなコメントがあった。

id:hnkn [internet] 犬好きはリア充

はてなブックマーク - hnknのブックマーク - 2008年11月30日

上に書いた考察を完全にまとめきっており、言語も明瞭。しかしこれだけではまったく意味不明で、思わず「そうなの?」と聞き返したくなるような実に優れた言い回しだと思った。そして上の趣旨に則ると、犬好きがリア充といえるなら、老人もまたリア充と読んで差し支えあるまい。
「犬好きと老人はリア充」
ときには切り離して、ときには一緒くたにして、今後も釣りえさなどとしてちょくちょく使ってみたい言い回しである。まあとは言っても老人と犬(好き)くらいしか釣れないだろうが。

*1:「ワカレメ」とカタカナで書くと妙に卑猥ではないか。

*2:「花言葉」みたいなもの。もちろん私がつい今考えた言葉。

コメ欄に罵倒みたいなコメントをしてきたから、罵倒気味にコメントを返すと突然普通のいい人になる人


べジータと呼ぶことにしよう。以下事例。

  • 事例1

用語の間違いをネチネチと指摘しつつ、バカはお前だという皮肉につなげるという空前の感じ悪さだったのに、一転して御礼までされてしまった例。ちなみに、最後に共感に見せかけて、全然関係ないことを言っていくのがミソ。
本エントリーを書こうと思った直接的なきっかけたる、まさに典型的なべジータ。気がついたらブルマと結婚してるはず。

■コメ
「全レスします」ということなので期待してコメントを書きますね。
まず用語の間違いから。橋下に限らず、知事は「統治者」ではありません。統治者とは、統治権を持つ者で統治権とは主権なので、国民主権である現在の日本で知事は統治者ではありません。
ということはy_arimさんも間違っているわけですが、y_arimさんは、皮肉を込めて敢えて使ったように思えます。丁寧に説明すると、「公僕風情が統治者面しやがって」というような意味を込めるための用法ですね。
しかし、chnpkさんの「統治者の仕事のひとつは」「隷属しているようでは〜統治者失格」の使い方は、そういう意味を込めているのではなく、単にy_arimさんが使っていたために、単語の意味を考えず(間違っていることに気付かず)使ったように思えるのですが…きっと気のせいですね。
次。はてブコメントにも「すべからく?」とありますね。
「須く」は漢語由来の、副詞と終助詞を兼ねる再読文字です。意味は「必須」です。
詳しくはwikipediaの「呉智英」の項の「2.3 すべからく 」をご覧ください。そこには誤用に関して呉智英氏の「単なる誤りではなく、自分を文章を高尚なものに見せようとした『卑しい考え』による誤用だ」との批判がありますが、chnpkさんのことを言っているのではありませんよ。
日記の最初に「ちなみに、最初に言っておくと、橋下知事のバカさ加減については最近薄々私も感づいてきており」とありますが、橋下知事を「稚拙でバカ」呼ばわりするのは良くありません。なぜなら、chnpkさんは「バカに贈る」とのエントリーで、「バカ」を
「人生の落伍者」と定義したからです。「橋下は別のバカだ」ということになると、chnpkさんの「バカ」の定義は「単に自分の気に入らない人」という自分勝手かつ頭の悪い定義になってしまいます。
「バカに贈る」も今回と並んで良いエントリーですね。「(引用者注:バカと)私との間に開いた差(社会的な地位、立場、それから収入など)は、もう一生埋まらないんでしょう。」
その通りです。橋下知事のような人生の成功者と、chnpkさんとでは差は歴然ですね。分かります。「そこそこの大学出て」「弱小証券会社勤務」のchnpkさんの子供と、大都市の知事である橋下氏の子供が、「同等の良い教育」を受けられることは、絶対に無いわけですね。分かります。
■私
teenagejesusさん こんばんは。なんか嫌な感じのコメントですね。別にいいですけど。
さて、ご指摘の点について、統治者は単にy_arimさんが使っていたために、単語の意味を考えず(間違っていることに気付かず)使ってます。すべからくもたぶん誤用ですね。
ただバカの定義はteenagejesusさんの誤解です。そういう定義づけをしたつもりはありません。バカに落伍者は多いですが、落伍者じゃなきゃバカじゃないとは書いてません。橋下知事は政治家と言う特別な倫理観を要求される職に身をおきながら、あまりに軽率でかつ視野の狭そうなことを言うので、バカじゃないのかと言いました。
ちなみに、teenagejesusさんのような重箱の隅をつつくくらいしか能がない人にはわからないと思いますが、「バカに贈る」というエントリーは努力次第でなんとかなると思うよ(でも努力しないと追いつけないよ)という趣旨です。また、「差」のあとに括弧書きで社会的な地位、立場、それから収入などと明記しているのは、競争の場を限定する目的です。「差」を普遍化しないための注意書きです。まあそんなこと読み取れるはずもないですが、何がいいたいかと言うと橋下知事と私の間の差だって埋まらないとは限りません。さらに子供教育だなんていう抽象的な尺度であればなおさらです。別に自慢するようなことではないですが「弱小証券会社」とはいえ、別に子供の2人や3人私学にやっても何も問題ないくらいの収入はありますので。
最後にちょっとした忠告ですが、ネット上のテクストの一部だけを見てその人の全体を否定するような物言いをするのは、ちょっと間抜けだから控えたほうがいいかもしれませんね。
上の私の「teenagejesusさんのような重箱の隅をつつくくらいしか能がない人」発言見てもそう思うでしょ?
■コメ
chnpkさん、コメントありがとうございます。
chnpkさんがくれたコメントには、反論はありません。
表現が「嫌な感じ」なのはすいません。ああ書いたほうが、chnpkさんや他の方にも、私の言いたいことが伝わるのでは?と思った結果です。
にもかかわらずのコメント、感謝します。
米欄閉じてるとか、開いてるけど一切無視みたいなプロパガンダ発信基地のようなブログは、早く無くなればいいのにと、益々思いました。
引用元:橋下知事が女子高生を泣かせた事件で、id:y_arimさんは何をそんなに怒っているのかが少し気になる - よそ行きの妄想

  • 事例2

実は「大体賛成」なのに、なぜかとりあえずバカと罵る人。広義のツンデレともいえるが要はべジータ。ほんとはカカロット大好き。みたいな。

■コメ
君はバカだなぁ
『ここで、「ホームレスを援助する動き」の位置づけは「物語の犠牲」を解消する動き、つまり物語の否定です。これはつまり「均衡」を崩壊させようとする動きと同義で、不可能か、もしくは万が一成功したら「均衡」が崩壊します。これも矛盾だと思います。』
とあるが、そもそもその物語自体は誰が書いた物語なのかね?
まずはここをはっきりとしないとな
■私
>mmm
・・・また変なのが。。
『国家が権力を維持するためには、国民に「自分たちの人権は国家に与えられているものだ」と勘違いさせることが必要なんじゃないかということと、その勘違いをさせるためには「人権を与えられていないヒトの物語」を見せる必要があるのではないだろうかということ。』
仮説だけど、書いてるだろ?こっから話がはじまってんだよ。意味はわかるか?
ってか『そもそもその物語自体は誰が書いた物語なのかね?』ってお前読むのめんどくせーだけだろ。そういうときはな、教えてくださいって言うんだよ。どう考えたってバカはお前。お前が望むならお前が望む方法で証明してやるよこのバカ。
■コメ
別に証明なんていないよ。

君が言いたいのは要するに宗教や国家や民族やモラルが社会のルールを定義してきた。
今それらに同じように何が尊いことかを教える役割を期待することは出来なくなった。
変わってホームレスや甘ったれたNEETを反面教師として使って下卑た物を教えよう。
そうすれば逆は尊いということになるだろう。
まぁ、大体賛成するよ。
引用元:例のホームレスのエントリのコメ欄があまりに長くなったし、回答しきれないので別エントリにしてみた。(追記あり - よそ行きの妄想

  • 事例3

その後、kajuntkさんのところで言及されて袋叩きにあってしまった可愛そうなべジータ。当初の妙に高いテンションが何だったのかいまだに不明。

■コメ
類は友を呼ぶって本当だったのですね。あなたのお褒めになっている3種類のクズがホームレスになりやすい。 - Automatons Hacking Guideを書いている人は多くのトラックバックは完全無視のスルーのくせに 女ルンペン売春婦のエントリにだけやたら好意的なレスをしている、実に生理的に気色の悪いおっさんです。最悪の趣味ですね。
■私(ブログ本文にて言及)
もはや正気の沙汰ではない。好意的なレスというのがどれをさすのかわからないが、明らかに「好意的なレスの対象」にも憎悪が向いている。これは嫉妬の一種ではないのだろうか?そもそも私のブログにコメントしているのに、私のブログについての言及が一切ない。好きな人の悪口をつい言いふらしてしまう人に似ている。

カスとかクズとか口汚く罵られたことで、気分が高揚してしまったのではないか。こういう方がこういう状態のときにふいに優しい言葉をかけられると、きっと顔が真っ赤になって、すっかり癖になってしまうだろう。
■コメ
ん?呼んだ?
Automa~の例のエントリについているトラバ巡りたくなるように謎をかけたのですが、elasticaが名乗り上げちゃいましたね。
もうわかっていると思うけどelasticaが売春していると書いたわけではありませんよ、それはchnpkの誤解。
ああ、またブログ言及が...
つか、コメントごときで必死に書いたであろうchnpkのエントリに議論ふっかけても、しょうがないんじゃないだろうか。
*コメントは一つのヒント、感情表現の一部には向いている
*議論はトラックバックで言及のほうが良いと思っている
どうしても話すなら トラックバック打つけど
chnpkが25歳で独身で性格良くてモテなお兄さんだったら張り切るのですが、ごめんね。
引用元:過度な全体最適化の思想は個人を不幸にする。 - よそ行きの妄想

本当にあった怖い不条理コント

まあただの愚痴。というかネタ整理。

今朝方、わが社の社長たる老人Bから直接私に電話があり、突如午後に面談を持つことになったのだ。老人Bは、普段は割りと几帳面に命令系統を使い分けるタイプで、私のような末端に直接何かを言ってくるというのはなかなか珍しいことだ。しかもその面談には私の上司たる本部長の老人Aは出席しないようだった。一体何の話かと思うわけだ。


で、実際に面談に行ってみると、これがまたわけのわからない話で。

何やら組織をつくるにあたって老人Aをしっかりサポートせよ、みたいなやけに抽象的な、まるで雲をつかむような話しぶりだったので、こちらも負けじと、まるで狐につままれたような顔をしながら、何をおっしゃりたいのか全然分かりませんオーラを全力で出してみたところ話はようやく核心へ。

そしてこの核心が実に凄まじかった。

B曰く、老人Aは私と比べて実務的な業務知識にも疎いがために、私に専門的な用語でまくし立てられるとどうしていいかわからずストレスになってしまうのだそうだ。それが気の毒だから、もう少し優しく接してあげないさいと。

な 、 な ん だ そ り ゃ ぁ !

というか、今だからリアクションもとれるが、まさにこの話を聞かされた瞬間は、おそらく驚きと失笑と愛想笑いのようなものとが入り混じって、たいそう間抜けな顔をしながら「ウヘヘ?」みたいな声を漏らしていたと思う。そのくらい衝撃的だった。


確かに心当たりはある。

先日、老人Aにちょっとした新商品の企画のような話を持ちかけられた際に、どう聞いても老人Bあたりにせっつかれた内容を思考停止でそのまま私に丸投げしようとしている様子だったので、あまりいい加減な仕事の振り方をされてもいい加減な仕事しかできませんよ、とか、そもそもそんな商品売れますかね何かお考えでも、とか、かなりネガティブな態度を示した。ただ、私にしてみれば当然の態度だ。中途半端な仕事をしてあとで怒られても気分が悪いし、そもそも無駄なことをあんまりしたくない。

しかしそうは言っても優しい私は、最終的には趣旨含めもろもろ汲み取ってあげて、出来そうな成果物を例示しながら、今後の進め方に至るまで指南をして差し上げたのだ。まさか文句を言われるとは思わなかった。しかも本人以外から。学級会でいきなり議事進行者たる先生さまから、なんとかちゃんを無視したとかいう罪で槍玉にあげられる気分だ。あやつめ、ちくったな、みたいな。

まあそりゃあね、自分の子供くらいの年齢の私に生意気いわれたら、腹も立つだろう。老朽化した頭では新しい知識を吸収できない事情も推察する。でもなんでそのツケが全部こっちにまわってくだよ、っていう。あのーそれって単に手間が増えてるだけなんですけど、的な。


これはもはやコントである。不条理コントだ。仕事を取ってくることもない、仕事を振ることもできない、かといって実務的なこともわからない、さらには部内のコミュニケーションの問題を自分で解決することもできない、そんな人が私の上司なのだ。確かにいい人ではある。その点だけ見れば尊敬に値するほどだ。しかしそのやけに人の良いさまが氏のキャラ立ちを助け、コント的な要素を一層ひきたてているのもまた事実だ。

そして、この突っ込み不在、ボケ*1っぱなしのダメコントについにいたたまれなくなった私は、うっかり帰り道で「トホホ」などと声に出してしまい、その滅多に発音されることのないコミカルな響きによって、はからずしもダメコントにオチをつけるのであった。

ちゃんちゃん。


参照:雨降ってじじいがたまる - よそ行きの妄想
その他ネタシリーズ

*1:痴呆ではない

セックスのプロリーグをつくったら風俗嬢のプレゼンスはあがる

前回エントリ投稿後、
404 Blog Not Found:仮説 - 「売女」や「土方」が蔑まされる理由や、
職業差別は倫理観を形作る源泉ではないか - 狐の王国
などを眺めていたら、ふとタイトルのような妄想が脳裏をよぎったので、そのまま文章にしてみた。

プロスポーツ化

セックスを、フィギュアスケートやアマレスのような採点競技としてスポーツ化する。
体力・持続力やテクニック、見た目の美しさ(エロさ?)、相手に対する思いやり、飛距離などを採点員が採点する。道具の使用は原則自由。ただし、快楽を極端に増幅させる薬物や機械式の玩具は使用禁止。基本的には男女ペアで競技に参加。病的なリスクは科学的に排除される。
セックス用品協会や各種メディアが協賛し、プロリーグを創設する。
年1回開催されるオールスター戦では、エキシビションマッチとして複数同時プレイや視聴者投票による男女それぞれのMVPプレイヤーの夢の競演などが実現する。

「山本さん、この体位は。」
「ええ。かなり負荷がかかってますよ。」

とか、

「この時間帯でこの体位ですが、両選手には焦りは見えますか、山本さん。」
「ええ。時間内の発射がひとつのポイントになってきますね。」

という状況は想像に難くない。既視感さえある。

新しい承認関係

プロリーグ創設当初、当然のごとく期待をあつめるのは、AV男優・女優や性風俗産業従事者などのいわばセミプロだろうが、莫大な協賛金にも支えられ、回を重ねるごとにスポーツとして洗練され、技巧面の発展も著しく、まったく新しいスタープレイヤーを次々と生み出すことだろうと思う。
もともと潜在的な競技人口が極端に多いので、競技化及びプロリーグ創設はかなり壮大なヒエラルキーをつくり、トッププレイヤーは強い信仰の対象となる。


「おまえ、毎日女とヤリまくってばっかりで将来どうすんのよwww」
「いや、おれ(ら)実はプロ目指してんだよね。来月から鷹さんのコンドーム持ちやらしてもらうんだ。だから大学もやめるかも。」
「マジで。・・・そっか、お前のやつ、相当いいらしいもんな。頑張れよ。応援するぜ」


若しくは、


「あんたもいつまでも風俗なんかで働いてないで、まともな職見つけたらどうなの。」
「私はそんな半端な気持ちでやってない!いつか絶対プロになってみんなを見返してやるわ!夢を実現してみせるんだから・・。」
「そんなに本気ならもう止めないわ。精々頑張ってください。」


であったりとか、


「姉ちゃん、ここんとこ毎日シフト入ってんな。もしかしてプロ目指しとんか。」
「笑わないでくださいね。実は子供の頃からの夢なんです。」
「おっちゃん応援するわ。いまベストスコアいくつや?」


などといった承認関係が実現する。すべては正当化されるのだ。

周辺産業の興隆及び思想面の影響

選手生命は長くない(他のスポーツよりは長いか?)ので、コーチや解説者などの裾野産業も整備される。

特に、風俗産業の担う役割は大きいだろう。トッププレイヤーレベルであれば、技術監修などとして複数店舗のチェーン展開を手がけるカリスマも出現する。力士のちゃんこ屋と同じ位置づけだ。男性による女性向けの風俗店も急激に増加するだろう。プロ予備軍の生活力確保と技巧的な修練を兼ねる場としても存在感を示す。

ただ結果として、風俗店はプロを目指す本気の人が集うことになるし、顧客の要望も必然的に高くなるので、なんとなく生活のために、倫理的なリスクテイクの対価を受け取っていたような人はクビになる。風俗店で働くことのリスクプレミアムは消失するということだ。

こうした中、当然の帰結として思想としての非セックスやセックス原理主義をも生み出すことになるだろう。単純な享楽としての独りよがりなセックスは、徐々にではあるが社会的に排除される。レイプ事件などに際しては、プロフェッショナルセックス協会が真っ先にコメントを出すことになるのだろう。

また、普通のプライベートなセックスでも、相手の信仰の度合いによっては、かなり形式的または定量的なダメだしをくらうことになり、ショックで機能不全に陥る男性も急増することとなる。お笑いかぶれがつまらないボケを披露した後に「今のは突っ込むところ」的な能書きを垂れる図式とまったく同じように、スポーツセックスに対する信仰が強い女性が、おもむろに不可思議なポーズをとり、面喰う男性に対して「今のは突っ込むところ」と詰め寄る場面は必ず訪れる。

さらに、女性による早漏差別も社会問題化することは間違いないし、そもそも未経験のセックスに対する風当たりも徐々に強まる。「セックスをするためのセックス経験がない」というレスは間違いなく2ちゃんで飛び交う。そうしてヒエラルキーから排除された男性や、愛のあるセックスを求める原理主義者、風俗店をクビになった無能力者などを中心に、スポーツセックスからフリーセックスへの回帰を求める運動も強まる。周辺産業によって莫大な利潤を生む協会に対する、嫌儲的批判も後を絶たないだろう。しかしながら、上で見たように一方では多くの人が金銭的にも思想的にも救われることになるから、反対運動は功を奏さない。


ところで、意外と盛り上がらないのが国際試合ではないか。文化が違うからだ。民族意識とも密接なため、ホームディシジョンの傾向もかなり強く出ると思う。おそらく、オリンピックの種目入りを果たすには相応の時間が必要だろう。

タバコはなぜクサいのか

昨夜、家に帰る途中の電車のなかで、おそらくキャバ嬢だと思うのだが2人組みの女性が会話していたので、暇さにかまけて全力で盗み聞きした。まあ全力を出さなくても聞こえてしまっていただろうからそのことは責めないでいただきたい。

どうやらどちらか一方の家に遊びに行くところだったようなのだが、問題は2人が喫煙者なのに対して、遊びに行く先の同居者が非喫煙者だそうで、それじゃ吸いづらいよねと。

この問題についての議論がすすむ。そして片方が言い放った。「タバコってなんでクサいんだろうねー。クサくなきゃいいのにねー。」

哲学である。「タバコはなぜクサいのか。」


2つ考えた。

タバコはクサいからこそ好まれる説。

おそらくニコチンの摂取だけを目的と捉えると、においは必然ではない。では何故、敢えてにおいのでる方法でニコチンを摂取するのか。これは、においという制約条件自体がタバコを吸うという経験に内包されており、そしてその内包された制約条件が経験の満足感を増幅させているのではないだろうか。つまり人は、満足感を得るためのさまざまな選択肢のなかから、まさにそれがクサくて公には吸いづらいと言う逆説的な理由で、タバコを選択するのではないだろうか。

そしてこのことは一般化して語ることができる。即ち、制約条件はそれが制約する対象である行為に対して満足感を与える。満足感と得やすさはトレードオフである。と。

タバコを吸わない人が、そのにおいをクサいと定義づけた説。

タバコの健康への害を科学は明確に裏打ちするが、タバコの起源は近代的な科学の発展よりもなお古かろう。しかしながらその段階においても、何らかの理由でタバコを吸わない人がいたとすれば、そういう人はタバコを吸うことによって(自分の知らない)満足感を得ている人に対して、あまり面白くない感情を抱いていたに違いない。そういう場合に、非喫煙者が喫煙者を蔑む方法論としては、科学に頼れないことを所与の条件だとすると、そのにおいというのはほぼ唯一の手段であった可能性が高い。

これが事実であれば、ひとつの示唆に富んだ内容であるといえる。即ち、たとえクサいといったようないわゆる感情でさえも、その系譜をたどると、権力の闘争が垣間見ることができるというものである。


ちなみにキャバ嬢の会話は「ねーそうだよねー。」で終わった。
あと、「におい」と「くさい」は漢字で書くとどっちも臭いになって不便だ。


類似記事:状況は創れる - よそ行きの妄想もよろしく。

夢は時間を裏切らない

・槙原敬之vs松本零士氏が法廷で対決
もうほんとにどうでもいいんだけど、何故か気になってしまうニュース。それが槙原vs松本盗作問題。


原敬之はよくあの顔で歌手になろうと思ったなとか、覚醒剤できまってるんじゃないのかとか、お互い大人げないとか、「こんなことで裁判までするなんて」という感想に触れて、日本の司法はやっぱり社会の外にあるものなんだと実感したりとか、まあ、いろいろ気になる点は多いわけだが、一番気になるのは問題になっている歌詞の意味がさっぱりわからないことだ。さっぱりわからないのは気持ちが悪いので、少し考えてみた。

時間は夢を裏切らない。
これはまだ直感でなんとなくわからないでもない。夢は、真にそれが望まれている場合において、時間によって制約をうけるべきものではない、ということだろう。多少無理やりにはなるが、時間(を支配する神)は夢(を持ち、それに向かって懸命に努力している人)を裏切らない、ということかと。要は夢は叶うということだ。


夢は時間を裏切らない。
これがよくわからない。大体からして、「時間を裏切る」とは果たしてどういうことなのだろう。夢というのはそれを見る人の主観だから、それを裏切ったり裏切らなかったりできるけど、時間にはそもそも主体がない。それを裏切るというのはいかでか。例えば、あなたは目の前のPCを裏切ることはできるか。それをするにはまずPCがあなたに対して期待/予想していることを知らなければならない。さて、夢は、時間からなにを期待されているのか。


「裏切る」、という言葉は、「背く」と同義だろうか。まあ同義だとすると、ここで「背く」の対義語は「従う」だから、「裏切らない」≒「従う」となる。そうすると件のセンテンスは、「夢は時間に従う」と換言できることになるが、いよいよもって意味がわからない。意味がわからないというか、響きに夢がない。従うということは、制約をうけるということだろう。なんでわざわざ、夢が時間の制約をうける歌を、ケミストリーは歌わなければならなかったのか。


槙原は、このフレーズは仏教の因果応報に着想を得ていると語る。因果応報というのはつまり原因と結果である。で、槙原が書いた歌詞では「夢は時間を裏切らない」⇒「時間は夢を裏切らない」という順番になっている。これは前者が原因であり、後者は結果であると考えていいのではないか。


この基本ロジックと、上の換言法を併用すると、「夢が時間に従えば(原因)、結果として時間は夢を制約しない(夢は叶う)」という主張が表れる。ここまでいじくれば、意味がわかるような気もする。しかし、あまり夢いっぱいという感じのフレーズではない。夢(を見る人)が、まず時間の制約を受け入れることで、そうすることではじめて、夢がかなう様をうたっているように思える。確かに仏教を感じさせるリアリズムを内在している。


他方、松本零士のほうはどうか。彼の詩は、正確には、「時間は夢を裏切らない。夢も時間を裏切ってはならない。」である。これは原因と結果ではない。文末が「ならない」とあり、結果を表す表現としては実に似つかわしくないからだ。つまりこの2つの文章は並立か、後者の文が前者を補足するような立場にあると推測できる。


つまり、夢は叶うのである。松本零士はまずそう断言する。但し、夢も時間を裏切ってはならない、つまり、夢(を見る人)も時間に従うようにしなければならないとし、夢(を見る人)に対して努力を促す格好になっている。ように見える。もっと言えば、夢は時間を裏切るという主張が根底にあればこそ、このような促しを行うことに通じるのではないか。


まとめとしては、多少無理はあるが、このように考えてみると、両者の詩は確かに言い回しこそ酷似しているものの、そこに込めた想いというのは随分乖離しているようにも思えなくもない。松本零士の主張が、『夢は叶う、がんばれ』であることに対して槙原のそれは、『現実を受け入れない限り、夢は叶わない』ということのように思える。

法的にも、関連性の外で偶然に考え出されたものかどうかが争点になりそうだし、願わくば、このあたりが裁判でも争点になって、言葉の意味が明らかになることを期待したい。いやしかしほんとどうでもいいな。

状況は創れる

さっき、駅での話。
駅のホームにウンコ座りしてケータイの操作に没頭するスカート姿の女性がいた。
無論、パンツ丸見えである。


男性諸氏においては、もはや論を待たないことであると思われるが、女性の下着というのは、チラリズムとともにあるからこそ価値を持つのであって、特にそういう公共の場においては、前出の例のようにあまりにあけっぴろげにされると価値を感じないというか、むしろ有害でさえある。また、例えば階段で先を行く女性に、ブルマやスパッツなど”見せパン”を見せ付けられ、納得のいかない思いをした経験は誰にでもあるように思う。期待したチラリズムの可能性を根本から否定されるわけであって、悔しくないはずがない。階段に上る前から”よもや”を期待していたとしたらなおさらである。
見えそうで見えないからこそ欲求を駆り立てられるのであって、それは単にパンツを見るということが目的なのではなく、知的(?)好奇心を刺激される感覚そのものが目的なのだ。
なお、万が一この文章を見ている女性の方がいらしたら誤解のないように言っておきたいのが、私が変態なのではなく男というのは総じてそういうものなのだということ。くれぐれも誤解なきよう。


さて、そういうことで、上記の状況は私にとって当然に落胆をもって迎えられたわけであるが、そこで私は、自身の本能的な対応を客観的に把握することに成功した。
即ち、私の本能は直感的に、その女性を直視してはならないものとして位置づけ、そのうえで限りなく限定された視野の中でその状況をチラ見したのだ。これがなにを意味するかということは既に明らかであると思うが、私はまさに、恣意的にチラリズムの状況をつくりだしたといえる。チラリズムという価値を創出したわけだ。


チラリズムという価値は一般的に、受動的な価値と考えられている。相手の女性のふとした仕草にすべては委ねられていて、それを手にするのは幸運のみがなせる業だと信じられている。しかし、その定説が必ずしも真実ではないことを私は今日証明したことになる


確かに、上述した価値の創出でさえ、ホームでウンコ座りする女性に遭遇するという、おそらくはチラリズムそのものよりもさらに、類まれなる外的要因に立脚していることは否定のしようがなく、その意味では私が創出した価値自体も本質的には受動的なものであるといえるかもしれない。しかしながらやはり、それを直視した場合単に有害であるべきものが、能動的なバイアスによって価値を持ち得るという事実は、なお重要であると考える。


状況とは、一見それが不幸を運ぶものであっても、個々人の捉え方によっては、幸運を運ぶものになり得る。状況は想像力を持ってすれば主体的に創造できるのである。


もしもあなたが望むならば、目の前の露出狂に対してでさえチラリズムを感じることは可能なのだ


※追記08/06/26
とか何とか言ってたら、わけのわからない掲示板にて、04年11月02日の段階で、既に能動的チラリズムの概念を提唱している御仁を見つけた。実に世界は広いものである。
http://f11.aaa.livedoor.jp/~ashou/log/kms26.htm

新銀行東京について

新銀行東京がどうにも困っているという話がある。なんでも既存の銀行と違うハイリスク先に高金利で貸し出しをしていたら、貸出先が潰れてしまってにっちもさっちもいかんということらしい。石原閣下曰く前代表者の放漫経営がもたらした体たらくであり、誠に遺憾であるが、銀行をつぶしてしまっては経済への影響が大きい(貸出先が潰れる)からやむを得ず都が再出資しましょう。これからは心を入れ替えて頑張ります、ということらしい。


一案であるが、都が再出資するのではなく、債権を証券化して再販売することで資金を調達してはどうか。新銀行が保有する債権を適当な箱(会社など)に移し、その箱が調達をするのである。箱が発行する株式の部分には当然格付けはつかない。ハイリスク貸出先をたくさん抱えている会社に出資する人はいない。
が、しかし株式に優先して配当がなされる部分、即ちローンであれば、貸出先が相当数倒産しても毀損する部分は株式の部分にとどまり、当該ローンの部分は残った貸出先からの回収部分で返済すればいいわけであるから、当然リスクは劇的にさがり、回収率がそれこそ50%程度でもあれば、おそらく格付けもつく。
この格付けがついたローンの部分に新銀行から移った債権を担保につけ、担保付高格付け高利回り金融商品とし、世界の過剰流動性に対して販売すればよいのではないか。
必要であれば、箱を二重三重にかませることで商品の安全性は高まり、販売は容易になるはずだ。
余った株式の部分は、投資銀行辺りに安値でつかませればよい。投資銀行としては上記商品の流動化の部分でも手数料を落としてやれば、文句は言わないだろう。


待てよ。この仕組みを利用すれば、いかなる金融債権でも大きな信用と流動性をつけることができるのではないか。例えば低所得者向けの住宅ローンなどは、通常流動性がないが、市場の規模は大きい。。
・・・ゴクリ。



以上面白くない冗談でした。

信号は歩行者の義務か

今日、赤信号で横断してて、婦警さんに「赤信号ですよ!信号守ってください!」とか怒られて思ったんだが、信号っていうのは歩行者にとって権利ではないのか。


わたしは凡そ法規制というものは、弱者を保護するためにあると思っている。なぜなら強者は保護しなくても勝つからだ。市場原理である。放っておくとどんどん負けていく弱者を救済するため、もっといえば負けていった弱者たちが団結して暴動を起こすことを防ぐために、法規制というものは存在しているのではあるまいか。基本的には。


だとしたら、だ。道路上で弱者って誰よ、という話である。歩行者を保護するための道路交通法じゃないんか。歩行者にとっての赤信号は注意喚起で、青信号は権利だろ。しかも全然車こない、すっごい見通しのいい道よ?待つか?普通。お前それ私警官よって言いたいだけちゃうんか、と。


ちょっと極端なことを言うけれども、赤信号渡って死んだやつは自己責任、他人に損害を与えたら賠償、くらいの割りきりがあってはいけないのだろうか。


ちなみに、同じことをメタボリックの件にも感じる。メタボリックシンドローム健診・特定保健指導の義務化とかいって。まじほんとほっとけようるせーな。



あと、全然関係ないけど怒りついでに、もうひとつ。ババァってなんで電車降りるときすっごい押すの?みんな降りるんだから順番待てないの?