コミュニケーションのテンプレート

 ウケる技術

残念ながら我々にはテレパシーは使えず、それ故意思の伝達を図る際には発信者は言語なりジェスチャーなりといった何らかのプロトコルに変換し、受信者はそれを解読しなければならない。

変換する際にも解読する際にも必ず漏れや過誤が出るから、真に正確な意思の伝達は不可能で、合意形成は実に困難である。

にもかかわらず、見ず知らずの他人との間で会話が成立するという奇跡のようなことが、何故日常的に起こり得るのか。

それは、テンプレートがあるからである。

テンプレートとは、既に形成された合意である。どういう表現をすると、相手がそれをどのように受け取るかという経験の集積である。


少し古いが「ウケる技術」という若干すべり気味のタイトルのこの本は、まさに他人を少し笑顔にさせるためのテンプレート集に他ならない。

誰かを笑わせたい。これはつまり、「親しみ」の意思表示だ。

日常会話の大部分は「親しみ」の意思表示のために費やされているといっても過言ではないだろう。

「親しみ」のテンプレートを多く覚えておくことができれば、いろいろな対人関係がきっともっと有利になる。


以下に自分用のメモを兼ねてアウトラインを抜粋するので、はてなの非コミュ諸君も是非参考にして欲しい。

同著内には、以下の構成に基づく小粋な一言ネタの他、多くのケーススタディが掲載されている。これをまるまま暗記さえすれば、立食パーティーだってこなせるはずだ。

番号 ウケル技術 定義
1 ツッコミ 相手の面白さに気づいて拾う
2 建前 思ってもいないことをオーバーに言う
3 カミングアウト 自分のはずかしい部分を告白する
4 前置き 後に続くセリフの心の準備をさせる
5 分裂 ふつうと逆の言い方で言う
6 自分ツッコミ 行きすぎた自分にツッコミを入れる
7 下心 下心を口に出してしまう
8 タメ口 目上の人に友だち感覚で話しかける
9 恐縮 極端に下手に出る
10 切りかえ 会話の矛先をいきなりかえる
11 詭弁 ヘリクツをつけて説得する
12 俯瞰 全体像にツッコミを入れる
13 カン違い 物事を都合よく解釈する
14 フェイクツッコミ 怒り口調で傷つかないことを言う
15 キザ 過剰にカッコよく演技する
16 パロディ 有名な歌・フレーズを会話の流れにあてはめる
17 自分フォロー 自分で自分をはげます
18 ディテール化 話の細部を具体的にして、ころがす
19 深読み 相手の行動の裏を読む
20 アピール 自分の魅力をアピールする
21 キャラ変 態度を急変させる
22 同調 相手のネガティブな期待に応える
23 便乗 あつかましく相手にねだる
24 裏切り 相手に次の行動を読ませておいて、逆を言う
25 カウンター 普通ためらうことを即レスで言う
26 ミスマッチ 話の文脈と違うモノを組み合わせる
27 相手をいたわりながら切り返す
28 天丼 一度ウケタ言葉を再度登場させる
29 レッテル展開 相手の行動を1つのレッテルで解釈する
30 悪い空気 雰囲気の悪さを共感しあう
31 ロールプレイング 相手を設定に巻き込み演技させる
32 擬人化 モノの目線でコメントする
33 強がり 自身ありげにふるまう
34 ビジュアル化 体を使ってこっけいな映像を再現する
35 決まり動作 決まり動作を場面にあてはめる
36 決まり文句 決まり文句を場面にあてはめる
37 述語をそろえて対比させる
38 ボキャブラリー 会話の面白さが増す語彙を意識している

このブログがすごい

まったく思いつきの単発企画だが、何の気なしにWEBを徘徊していて、ふと目に留まったブログにうっかり心を打たれたので紹介してみたい。

いきなりだが、核心部分を引用する。

万全の流れができてるなら良いけど、
ネガティブな要素がある段階では、
しっかり観察して情報収集してそれを元に組み立てるのが当たり前。
(中略)
ゴールを設定して、
そのゴールへ進むために変わりゆく状況で最適の組み立てをして
自然な流れを作るための最適の言動を取らなあかんけど、
ゴールも設定できてないし組み立てもないし流れも作れない。。

まったくもってその通りだと思う。将来の不確実性に対処する最大のポイントは、しっかりとした具体的な目標を設定し、自分がぶれないことだ。

その場その場の状況にただ流されるのではなくて、しっかりと状況を観察し、自らの目的に適合する部分とそうでない部分をキチンと理解し、より好ましい状況に変えるためにどのような対処があり得るのかを常に考え、そうして考え至った仮説に基づいて粛々と行動するということが大事である。

状況は変わる、判断の基準も変わる、ということではお話にならない。状況が変わるからこそ、判断の基準がぶれないことが必要なのだと思う。


しかしこれがナンパの話だとは。

引用元:かわいい女の子大好きナンパ日記〜ストリートナンパ編〜:思考停止


何でも突き詰めると似たようなところにたどり着くのかも知れないと思った。

勝間和代さんのような行動こそが真の経済学者にとっての本業なわけですよ

 断る力 (文春新書)*1

珍しくid:Midas閣下からご質問をいただいたので、返答がてらつらつらと書きます。ご質問は以下の通り。

ここに書いてある話はアンダーセンやモルガンに勤めてた人なら目をつぶってても判る常識、基本中の基本では?故に問題はむしろ何で彼女が己の評判を落とし過去を否定する様な話をわざわざしてるのか。なぜ?>id:chnpk

はてなブックマーク - 財)パタフィジック収集館ふくろう団地出張所 - 2009年11月10日

「ここ」というのは、私が書いた「マーケットから見た「リフレ派」の誤謬 - よそ行きの妄想」のことで、「彼女」というのは言わずと知れた「国家戦略室への提言「まず、デフレを止めよう~若年失業と財政再建の問題解決に向けて」 - 勝間和代公式ブログ: 私的なことがらを記録しよう!!」で物議を醸した勝間和代女史を指すわけですが、勝間さんの評判、落ちてるんですかね?どうなんでしょう。


私は、基本的に勝間さんが言ってるのはこういうことだと思ってます。

今の日本が不況であることの原因を知ってますか?あなたの給料が下がり続ける理由を知ってますか?そうです。全部日銀が悪いのです。これは陰謀です。ある必要な金融政策が実行されないことがすべての原因なのです。その政策とはNASAの最先端技術に基づく全米No.1の大ヒットスーパー脳科学に裏付けされた超勉強法で、成績の良い子はみんなやってます。さあ、みんなでリフレ派の旗印の下で愚民どもの間違った認識を正し、日本を正しい方向に導きましょう!

これはつまり、ターゲットは経済学者やマーケット関係者などのいわゆる専門家ではなく、我が国国民の半数以上を占めると言われる迷える哀れな子羊たちでしょう。

なんでそんなことをするかと言えば、広義の政治力のためだろうと思います。ファンを増やして本を売りたい(お布施)のか、はたまたほんとうに代議士先生になりたいのかは知りませんが、なんとなくそっち方向なのは間違いないでしょう。で、子羊たちを扇動することを考えると、とりあえずわかりやすい主張をかかげて、派手な行動を起こすことが目的に対して合理的だというだけのことではないでしょうか。とりあえず耳目を集めて興味を持ってもらえばそれでいいわけです。

「俺の邪悪なメモ」跡地」で紹介されてましたが、勝間さんが著書の内容を池田信夫先生にくだらないと批判された際に、池田信夫Blogのコメ欄に華麗に光臨して、以下のようなコメントを残していますね。

タイトルも内容も含めて、ある意味、確信犯的にやっています。意図は以下の通りです。
・自分よりも若年層を中心に、どんなにあざといタイトルでもいいから、本を手にとってもらうこと
・そして、本の内容をきっかけに、自分のアタマを使うことにひとつでも多く、目覚めてもらうこと
です。
なので、知識層が見ると不満に感じることも、あざとく感じることもあるのは承知の上での施策、戦略です。
オリジナルとは、既存のものをこれまでにない切り口で組み合わせても、それはオリジナルの一種だと理解をしています。

あなたの知的生産性を10倍上げる法 - 池田信夫 blog(旧館)

要するに合理性の原理主義者*2なんですね。ですからむしろ、勝間さんが万が一入閣するようなことがあっても、今般主張しているような政策をそのまま実行するような真似はしないと思います。単に大衆にウケることから、(権力を維持するために)結果を出すことに目的がシフトするわけですから。そのときはそのときで、きっとびっくりするくらい穏当な政策を選択するような感じがします。

リフレ政策とやらは、悪者を明確化(→日銀)するためそもそも庶民受けが良く、実際ネットではそれなりの人気を誇っていますから、勝間さんがなにか庶民を扇動して自身の政治的力に変えるための題材を探していたとすれば、さぞ魅力的だったのではと推察します。しかも、それなりにウケがいい割にはリフレ派にはキャラの立った旗振り役が不在なために、まるで真ん中にポツンと旗が放置されていたような状況でしたから、それを見た勝間さんが「ちょっと失礼しますよ」と真ん中に躍り出て、いきなり猛然と旗を振り始めたという感じですよね。私なんかは小物なので、こういう手腕を見るにつけ、大したものだなあと心底感心します。ですので冒頭述べたとおり、今回の件で勝間さんが評判を落としたという印象は私にはそれ程ありませんね。


そもそも、経済学というのはすべて、根本的な意味で学問ではなくて政治的な権力ゲームのツールなんですね。正解なんてないわけですから。根本的には政策採用される理論以外は何の意味も持たないと言っていい。野次馬隊長じゃなくて切込隊長が、今回の騒動を以下のように野次っています。

経済論争というものは神学と一緒で、神を見たものはいないという前提で進む部分があり、学問的な正しさよりも説得の力学で動くゲームに過ぎないということを、なぜ池田信夫氏ほどの賢い人が気づかないのでしょうか。

「池田信夫のデフレFAQはクズ」と言下に否定する学問貴族現る: やまもといちろうBLOG(ブログ)

これは実に的確だと思います。こうした意味においても、勝間さんのリフレ政策は内容はともかくとしても、操り方としては非常に高得点だと言えるのではないでしょうか。


ちなみにですが、面白いのは池田信夫先生も、過去に上で引用した切込隊長とまったく同じようなことを言っているところだったりします。

経済学は、自然科学のように真理を探究する学問ではない。それは応用科学にすぎず、政策として役に立たなければ何の価値もないのだ。国際ジャーナルに載せるためには、定理と証明という形で論文を書かなければならないが、これは茶道の作法みたいなものだ。その作法を守らないと家元に認めてもらえないので、ポスドクのころは一生懸命に論文を書くが、終身雇用ポストを得るとやめてしまう。そんな作法が生活の役に立たないことをみんな知っているからだ。

しかしインターネットは、そういう状況を変えつつある。2年も3年もかけて国際ジャーナルに載せるより、本当に大事な論文はディスカッションペーパーでウェブに出して、いろいろな人に引用してもらったほうが有利だ。そして、いくら数学的に優美でも、政策的に意味のない論文はウェブでは相手にされない。これは健全な傾向だ。ケインズも言ったように、経済学はジャーナリズムだからである。手前味噌をいわせてもらえば、当ブログのような「パンフレット」こそ経済学者の本業かもしれない。

パンフレットとしての『一般理論』 - 池田信夫 blog(旧館)

今般、真顔で勝間さんを批判してる人が書いたとはとても思えませんね!

追記

当記事に対するMidasさんからのフィードバック。

Midas そのとき←その時彼女の教えwを受けた大衆が彼女以上の合理性原理主義者になってたとしたら?君も勝間も大衆ナメすぎ/若年←自分よりバカを鞭打って金を巻上げてると公言する感覚(高慢と謙遜の取り違え)が正に金融屋

はてなブックマーク - 財)パタフィジック収集館ふくろう団地出張所 - 2009年11月11日

「君も」?
しまった。一緒にDISられてしまった!

*1:書影と本文は関係ありません。

*2:悪い意味ではないです。悪しからず。

どう考えてもまったく勝ち目のない交渉で相手の譲歩を引き出すための3つの戦略

 交渉人 [Blu-ray]

  1. 相手の言うことには一切聞く耳を持たず、
  2. 自分が言いたいことだけをでかい声で喚きながら机を叩き、
  3. いつまでも居座る(又は帰さない)。

こうすることで交渉相手は、自分の言うことがまったく通じないことに絶望し、大きな声と机を叩く音に恐怖を覚え、いつまでも終わる気配がないことに焦燥に駆られ、多少のことであれば譲歩してしまうはずだ。

ただし、この方法は、実行した人の評判を著しく貶めることに加え、得られる譲歩と言うのも意外と大したことないものだったりするので、その点は注意されたい。

元ネタ

何かを言ってるようで実は何も言ってない人

考え方の整理箱」というのを読んだ。

説明が下手な理由として、「正確な理解」をしないままものごとを伝えようとするからだということがあげられている。「脳内に描くイメージ以上に正確なものをアウトプットできるはずが」ないのだと。

なにか持って回ったような言い方をしているが、ここに書かれていることは要するに、「知らないことを言うことはできない」というだけの話である。そんなことアタリマエである。「これは林檎です」という主張ができるのは、「林檎」というものを理解しているからなのであって、「林檎」を知らずに同じ主張ができるはずがない。

これでは単にものを伝えるにあたって最低限必要となる条件を述べているだけであり、ではどうすればものが伝わるのかという最大の関心事にまったく応えられていない。この記事では「見てるような気になっているだけで何も見ていない」ことが問題視されているが、言うなればこの記事は「何かを言ってるようで実は何も言っていない」記事だろう。見てるようで見てない人なんかよりも、よほどたちが悪い。噂によると同記事は何かのパクリとのことだが、元ネタの程度の低さも察して余りあると言うものだ。


他者に対して何かを伝えようと思う場合、最も大事なことは正確さなどではない。それは言うまでもなく、相手にとっての理解しやすさである。「林檎」を知らない人に、いくら「林檎です」という正確な記述を繰り返したところで、それが伝わる可能性は皆無なのだ。

なすべきは相手のセカイを理解することなのであって、自分のセカイにおける正確さを押し付けることではない。「林檎です」という主張を通じて、それが食に適したものだということを伝えたいのであれば、相手のセカイにおける「食べられるもの」を例示すればよい。「これはパパイヤのようなものです」という言い方になるかもしれない。話し手のセカイの基準からするととても正確とは言えない表現だろうが、相手にとっては幾分マシになるだろう。

当然話し手は、ひととおりの「林檎」の機能と、それらのうち相手に伝えるべき機能はなにかということ(=自らの主張)について、まずは自分がしっかりと理解する必要がある。それは最低条件だ。その意味では件の記事は正しい。しかしながら、それと伝わるかどうかということはまた別の問題だ。伝わるためには、相手の理解可能な範囲に落とし込むという作業が不可欠なのだ。

同記事でも例示されている絵画の件を引き合いに出せば、もっとも示唆に富む事実は、往々にして写実的な絵画よりもむしろ抽象的なものや心象風景のようなものの方がより高い人気を博しているということだろう。画家は、自らが見た風景や人物そのものを見たままに伝えたくて筆をとるわけではなく、その風景や人物を通じて得た感動を共有したいのである。そのためには、どれだけ正確性を犠牲にしようが、それは合理性の範囲内だ。むしろもっとも避けなければならないのは、正確さに拘泥するあまりに本来の目的を見失うという愚であると言えるだろう。


なお、ついでに言えば、そこが都会であろうと田舎であろうと、日常会話においては、そもそも「伝えたいこと」などない。精々「自分はここにいるよ」ということくらいである。具体的に言えば、「雨が降ってきたね」と「お腹が空いたね」で会話になるのだ。理由は、単に言葉を交わすことが目的なのであって、別に天気の状況やお腹の状況を伝えることが目的ではないからだ。

参照(ネタバレあり)

絵を描けない人、文章を書けない人、なに言ってるかわからない人 - よそ行きの妄想
考え方の整理箱
というか私の書いたのより伸びてるとか。。
EXILEにカヴァーされる昔の曲の歌手とかこんな気分なのだろうか。若しくは「亜麻色の髪の乙女」を島谷ひとみにカヴァーされたヴィレッジ・シンガーズとか。自分の作品が改めて評価されると受け取って喜べば良いのか、自分の力量のなさに落ち込めば良いのか。
しかしこれはあれか、(一部の物忘れの激しい人を除いて)はてなのホッテントリもやっぱり日によって見てる人が全然違うから、同じ内容でも2度載ると単純に2倍注目されるということかな。ガジェット通信とか、向こうの記事もまた載せちゃったりしてね。
今度過去記事のセルフカヴァーでもしてみるかね。

「人助け」という娯楽

金くれ」という身も蓋もない名称のサービスがリリースされているのを発見した。

知らない人のためにサービスの説明を引用すると、「金が欲しい人が口座番号とメッセージを記載する、次世代ネット乞食プラットフォーム」なのだそうだ。一瞬ただのネタと断じて何も考えずに通り過ぎるところであったが、意外とこうしたサービスというのは需要と供給がマッチしたりするのかもしれないと思い至り、少し思ったことを書いておくことにした。


以前、米国のサブプライムローン関連商品の破綻が明るみに出た際に、まるでウォールストリートに巣食うバンカーどもの意地汚い守銭奴的強欲さと、特権階級的な優越意識に溺れた邪悪さなどが調和して凝縮したかのような見事な記事がブルームバーグに掲載され、注目を集めたことがあった。

記事は、人助けと思って貧乏人にカネを貸したことへの後悔と、カネを返さずにファンドに損失を被らしめた貧乏人に対する侮蔑で満ち溢れたものだった。

本件と関係のありそうな部分のみ抜粋してご紹介する。関係ない部分も面白いので未読の方はこの機会に是非ご一読を。

気前のよさが後になってこのように批判されるとは夢にも思わなかった。サブプライム(信用力の低い個人向け)住宅ローン関連資産を購入したとき、私は社会への恩返しのようなものだと感じていた。

ロマンチストだと言われるかもしれないが、私はすべての人に「アメリカン・ドリーム」を感じてもらいたい。働いてその権利を得た人以外にもだ。だから、これらの人々が少なくとも自分の家を持てるように、できる限りの支援をしたのだ。

【米経済コラム】ウォール街とサブプライムと危険な貧者−M・ルイス

引用部分は、同記事の著者がサブプライムローン関連商品の購入を決めた際の心情を表したもので、基本的には「恩返し」や「支援」という、捉えようによっては恩着せがましい言葉で語られている。

ここに綴られるような動機は単なる欺瞞であると切って捨てられることが多いだろうと勝手に推察するが、私はこうした行為を選択するこの著者のようなメンタリティについて、わりと人間誰しも少なからず持っているものだと思っていたりする。こうした行為というのはつまり、人助けをもって快感を得るという行為だ。それが倫理的な意味で、あまり褒められた行為でないことはわかる。ただ、いかに動機が不純であろうと、そこで行われた人助けによって困っている人が助かる可能性が少しでもあるのであれば、自らの不潔さに萎縮して何もやらないよりは、幾分マシなのではとも思う。

それはさておき、こうした行為、又はそれに対する欲求(「人助け欲求」とでも呼ぼう。)こそが、冒頭で紹介したようなサービスというかプラットフォームにおける需給を成立せしめる可能性を持つのかもしれないと思い、このちょっと懐かしい記事を紹介してみたのだった。


人間にそうした「人助け欲求」的なものがあるかもということについては、ニーチェあたりも「力への意志 - Wikipedia」という概念の説明のなかで述べていたように思う。自らについて十分な権力を得、十分な富を手にしたものは、それを他者に施す*1ことを求めるのだというような。

ビルゲイツが財団をつくったり、マイケルジャクソンが多額の寄附を行ったりというのも似たような話のようにも思われたり*2

ともかく、人間には「人助け欲求」があるのだという前提で話をすすめると、冒頭で紹介したサービスと言うのはまさにそうした欲求を充たすものとして意味を持ち得るのではないか。もう少し前のめりな言い方をすると、冒頭で紹介したようなサービスこそは、庶民が、それこそビルゲイツのような成功を収めずとも、お手軽に「人助け欲求」を充たすことのできる画期的なサービスであるのだと言えるのかもしれない。

これはつまり、「人助け」のコモディティ化、「人助け」という娯楽である


世界的な大不況という世の趨勢を考えると、冒頭のサービスを見る際にも、どうしてもカネを求める側の庶民に主眼を置いてしまいがちだが、実はカネを与える側の庶民も、注目に値するのかもしれない。

カネを与える側の需要に主眼を置くのであれば、冒頭のサービスのようなサービスに求められる重要な要素のひとつは「物語」だろう。自分によってカネを与えられた「乞食」が、その後いかにして些細でも幸せを手にしたか、そうした「物語」を見て庶民は悦に浸るわけである。世間一般に普及している募金や寄附などと比べると、与える対象が明確で、物語性があることが競争力になる。ユニセフや変なテレビ局を通すよりは、直接対象が見えたほうが、与える側の満足度は高いのではないか?

「乞食」がストーリーを語るためには、ブログというメディアは最適なように思われるから、こうしたサービスはブログとの連携を最も重視すべきであろう。乞食のための投げ銭システムみたいなブログパーツを無料で公開して、そのブログパーツを導入したブログを一覧・検索したりできるポータルをつくってはどうか。「人助け欲求」に突き動かされた庶民が、物語を求めてサイトに集まり、自らの予算制約のなかで「人助け欲求」を最大化させるような「乞食」をあの手この手で物色するのだ。実際問題としては決済手数料や贈与税などは課題になりそうだが、まあ細かい話は別にしてなんとなくの印象ベースでは結構大きな取引が生れるかもしれないなと妄想した。これはつまり、ついに「乞食」すら資本主義システムに回収されるということを意味する。そして究極的には、市場経済に内包されるかたちで、合理的な社会福祉システムが構築される。なんとなくあり得そうな話ではなかろうか。


どことなく不謹慎な話をした気もするが、そうは言っても貰ったカネで(又はカネを与えた経験を通じて)少しでも幸せになれる人がいるかもしれないのだ。それはやっぱり「いいこと」なのだろうと思うがどうか。

どっかで見たと思ったら

権力の「マキャベリズム」によせて
力への意志は、

  1. 被圧迫者のところ、あらゆる種類の奴隷のところでは、「自由」への意志としてあらわれる。たんに解放されることのみが目標とみえる(道徳的・宗教的には、「おのれ自身の良心に対してのみ責任あり」ということである。「福音書的自由」その他)。
  2. 権力へと生長しつつある比較的強い者のところでは、権力の優勢への意志としてあらわれる。最初それが失敗に終わったときには、この意志は、「公正」への、いいかえれば、支配者がもっているのと同程度の権利への意志に制限される。
  3. 最も強い、最も富める、最も独立的な、最も気力あるもののところでは、「人類への愛」、「民衆」への、福音への、真理、神への愛としてあらわれる。同情、「自己犠牲」その他としてあらわれる。圧倒、掠奪、奉仕の要求として、方向を与えられることのできる大いなる権力量との本能的一体感としてあらわれる。すなわち、英雄、予言者、帝王、救世主、牧人。(略)

「自由」、「公正」、「愛」!
ニーチェ入門 (ちくま新書)

*1:他者に施しを与えるということは、言い換えればその他者を支配するということに限りなく近いという話だったような気もする。

*2:税務メリットがあるからといううわさも一部ではあるが。

亀井静香の重力とスーパー詭弁大戦

月刊亀井静香

金融日記:みんな亀井静香を甘く見ない方がいい」には笑わせていただいた。

要約すると、

返済モラトリアム発令→中小企業壊滅→徳政令発動→銀行壊滅→公的資金注入で全銀行が国有化→1500兆円の個人金融資産が亀井のものに→これは21世紀の共産主義革命だったんだよ!

といったような、どう考えてもインチキなドミノ理論陰謀論むき出しで語られ、挙句には延々と自分で書いておきながら、突然「そういうことだったのか!」と驚くというキバヤシの物真似を小ネタとして挟み、「くそ、なんてこった」という一発ギャグ系面白フレーズでオチをつけられている。

これはもう吹き出さずにはいられない。上記事の著者藤沢数希さんの話のはこびもうまいが、あながちまんざらでもないレベルで本気でトンデモシナリオのひとつやふたつは考えてそうな亀井静香のコント題材としてのハイレベルぶりにも気づかされた。実に優れた記事であったと思う。


というだけの話であればわざわざブログに書くほどの話ではなく、はてブのコメントに「吹いたw」とか書けばいいだけの話*1なのだが、さらに面白かったのは、同記事に対するはてブのコメント群にマジレスが散見された件である。

実に400を超える数のブックマークが付いているが、結構半分くらいの人がマジレスしてる。マジレスの方向は2つあって、「亀井やばい」系と「藤沢やばい」系に分かれているようだが、「亀井やばい」系の人は要するにほんとに「亀井やばい」と思いすぎて、冗談だと受け止められなかったということだろう。上述の通り、件の記事の面白みの一翼は間違いなく亀井静香の強烈なキャラクターが担っているが、逆にキャラクターが強烈過ぎて冗談も冗談にならないという一面もあるわけだ。ネタをネタと見抜くことができなくなるほどに人々の心を捉え、審ネタ眼を曇らせる亀井静香の強烈なキャラクターは、まるで地球の重力のようである。

そんなこんなで件の記事はネタとしては実はスベっていたようだが、そのことがむしろ亀井静香のキャラクターを更に引き立てることとなり、私にとっての例のインチキドミノ理論の面白みは増す一方だった。


というだけの話であればわざわざブログに書くほどの話ではなく、メタブのコメントに「さらに吹いたw」とか書けばいいだけの話*2なのだが、さらに面白かったのは、同記事に対して2005年の衆院選広島6区亀井静香とあついバトルを繰り広げたホリエさんがこっそり便乗している件である。

該当箇所を引用するのでご覧いただきたい。

これもその通りだ。私は先の選挙に落選してから亀井ウォッチャーになったから良く分かるが、彼の選挙区広島6区で戦った民主党候補佐藤氏は参議院に鞍替えし国民新党の推薦も受けた。その前には私にまで彼は国民新党での出馬を要請してきた。これはどういうことか?広島6区で完勝すべく有力相手候補の排除に回ったわけだ。私との選挙戦では敢えて雨が降ってきたのに傘も差さずずぶぬれのスーツ姿をアピールしたりもしていた。彼にとっては政局を利用した利権獲得が最大の目標だし、本気で自分の政策が日本を良くすると思い込んでいるのは間違いない。

収入の多寡|堀江貴文オフィシャルブログ「六本木で働いていた元社長のアメブロ」

理路がおかしくないだろうか。「有力相手候補の排除」や「ずぶぬれのスーツ姿をアピール」といった事実と、「利権獲得が最大の目標」や「本気で自分の政策が日本を良くすると思い込んでいる」といった結論の間には大きな飛躍がある。これは別に私が引用に際して大胆な省略をしたからとかではなく、もともと飛躍してる。

どう贔屓目に見ても、「ずぶぬれのスーツ姿をアピール」することは、「利権獲得が最大の目標」と判断するための根拠としては途方もなく薄弱であり、単なる印象論であると断ぜざるを得ない。上のドミノ理論と比べても負けず劣らずのトンデモ理論として仕上がっている。

大体、「その通りだ」と語り始めて、「利権獲得が最大の目標だし、本気で自分の政策が日本を良くすると思い込んでいる」と結論付けているが、いまいち元記事の話と噛み合ってない気もする。というかそもそも、もし本気で(自分の政策によって)日本を良くしようと思っているのであれば、普通はそれこそが「最大の目標」なのであって、「利権獲得」はむしろ関係ないという話にならないか。

おそらく、「利権獲得が最大の目標」などではなく「目的のためには手段を選ばないマキャヴェリスト」くらいの良くも悪くもとれるような評価を結論として持ってきておけば、理路もすっきりしたし話も噛み合ったのに、わざわざ出所不明の印象を持ち出したりするものだから話がすっかりややこしくなってる。

ホリエさんもまた、亀井静香の強力な重力に引き寄せられ、方向感を失ってしまったのだろう。確かに亀井静香の顔には「利権獲得が最大の目標」と書いてる。ように見える。実はこれは単なる印象に過ぎないわけだが、亀井静香にはそれを単なる印象ではなく、まるで自明であるかのように見ている人に思わせる強烈なキャラクターの濃さがある。その強烈なキャラクターが発する強力な重力には、かのホリエさんでさえも魂を引かれ、冷静さを失ってしまうのだ。


ということで、だからどうしたのかよくわからないが、まあ要するに亀井静香の質の高さには脱帽だという話である。

*1:実際書いたし。http://b.hatena.ne.jp/chnpk/20090929#bookmark-16322400

*2:実際書いたし。http://b.hatena.ne.jp/chnpk/20090929#bookmark-16332217

三井住友と大和は相変わらず面白いな

三井住友FGと大和証券が合弁解消へ : J-CASTニュース」だそうで、既に出がらしのネタとは承知しつつ、これはなにか書かざるを得ない。

三井住友「大和、落ち着いて聞いてくれ。おれは日興と交際しようと思ってる。」
大和「え?」
三井住友「日興はかわいそうなやつなんだ。それにすごくいいやつだ。日興のこども(日興citi)もひきとろうと思う。」
大和「は?」
三井住友「みんなで仲良く暮らせな・・」
ガッシボカッ!
大和「あほか!やめさせてもらうわ!」


みたいな流れが面白すぎる。そんなこと事後で交渉したって筋も何も通らないだろうに。


大和「私たちのこども(大和SMBC)の養育費はしっかり払っていただきます」

と続けば完成か。

追記

本家のほうが更新されていたので確認。

でもそれから10年、撫子さんは本当に頑張られたと思います。息子さんだって立派に育てられました。それなのに、今になって。

“新たな運命を受け入れて” by 日興証子 - Chikirinの日記

ほんとだよな。

私もこれから、今まで撫子さんがずうっと尽くしてきたお取引先を回って、「今は私が住友の正妻なんですのよ。おわかりかしら?」とかいう話をしてまわらないと行けないのかと思うと・・・ほんとにため息がでますわ。撫子さんにどう顔向けすればいいのか・・。

“新たな運命を受け入れて” by 日興証子 - Chikirinの日記

これはまあたぶんそういうことなんだろうけど、逆に日興が持ってた三菱系の主幹事を大和が持ってったりするのかな。とも思う。

「消毒しましょ!」のものまねで増田読解www

娘のことで起こったこと、思ったこと。(追記アリ)」という記事(以下の本文に元記事の概要説明はないので元記事を未読の方はリンク先の一瞥を推奨)について、id:AntiSepticがなにやら分析を試みているようだが、少し異論があるので書いてみる。本人のものまね*1でw

相手が「不幸」であることに過敏な反応を示すのは自分こそが一番不幸であると信じていたい人間に他ならない。普段から「不幸自慢」をしているのはむしろ増田自身の方であろう。

違うだろw 普通に考えれば、もっとも「過敏」に「反応」するときというのは嫉妬しているときであり、では誰かに嫉妬するときとははどういうときかと言えばその誰かが持っているものを自分は持っていないときなのであって、自分もその対象を持っているときではないw つまり増田が不幸でありたいと思っていることこそ間違いなかろうが、読むべきは自分のことをそこまで不幸だと思っているかというとそうではないということであり、「普段から不幸自慢をしている」などとしてあたかも増田が不幸であるかのような結論を導くのは単なる偏見と断ぜざるを得ないwww

もしこのバカが言うように増田が「普段から「不幸自慢」をしている」のであれば、匿名ダイアリーで愚痴をこぼすにあたってはここぞとばかりに自らの「不幸自慢」が綴られて然るべきであるところ、むしろ「不幸自慢」に対する批判に終止しているわけであって、この推論がまったくの見当外れであることは屁をこくよりも明らかであるwww 要するにこのバカはバカだから「不幸でありたい」という願望と実際に「不幸である」という認識を混同してしまっているわけだw 試しに「不幸」を「金持ち」に置き換えてみれば誤謬があることは一目瞭然で、他人の金持ち自慢に人一番敏感な人がいたら、普通はその人について貧乏人か少なくとも金持ちではないだろうと考えるわけで、金持ちを自慢したい金持ちなのだろうということなどにはなりようがないではないかwww

ではこの増田が自分のことを不幸ではなくどう思っているのかと言えばそれもちゃーんと書いてあって、「離婚した人間は人として失格、忍耐力の欠如した人間」だと思ってるわけだ。要するに、この増田が「[普段から」感じていることは、自分が夫を失った理由が、自らの責に帰すべきものではなく、単なる不幸であればどれだけよかったかということであり、だからこそ他人の不幸が羨ましくうつるということに他ならないw


父親不在の原因は、相手方が死別であるのに対して増田は協議離婚。これにメイン・テーマであるところの「盗み」を掛け合わせれば、恐らく父親は他に女を作って出て行ったのであろうと思われる。

思われ」ねーよww 離婚、盗みと来たら「寝取られた」のだろうということになる極めて貧相な連想ゲームにはもはやため息すら出ないw要するにこのバカは、「盗む」という行為に対しての考察がまったく足りておらず、字面だけ眺めてわかったようなことを言おうとするから、ことほどさように貧困な発想力を公開して恥をさらしているわけであるが、少し考えれば盗むという行為が他人のものを所有することだということは明らかで、そこまでわかれば盗みに「掛け合わ」すべきは「離婚」ではなく結婚のほうであることもまた明白であるw

結婚こそがまさに、他人を独占的に支配乃至は所有する行為に他ならないからであり、上述したとおり増田が「負い目」を感じている対象もまた、結婚の失敗としての離婚であって盗まれた結果としての離婚ではないからである。

この母親が自身について思っていたのは、不幸ではなく不出来である。不出来故に、また「忍耐力」が「欠如」していたが故に男を所有できずに逃がしてしまった自分を責めているのだ。そして、そんな母親をみて娘が思うことは、他人のものを所有、専有してはじめて女性は一人前なのだということであり、だからこそ友達のソフトを盗んで返すまいとするのである。娘は友達のソフトを所有することで、母親に対して「どう、すごいでしょ」と言いたかったのであり、だからこそ増田の説教を「何も理解してなかった」わけだ。もうオレがなにを言ってるかわからないだろ?ケケケwww

*1:参照→[http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20090815/p2:title]

キャバクラの価値

一般論ですけども、キャバクラへ通う男性って何が目的なんだと思.. - 人力検索はてな」より。

キャバクラの価値とはなにかという問いに対して、下のように考える人は多いように思う。全然多くなかったら申し訳ない。

ですが質問の「キャバクラへ通う」の場合、お目当ての女の子に会いに行くのが目的のはずです。
恋人や結婚の有無を問わず、お目当ての女の子に会いに行くのは「口説くこと」が第一の目的です。
口説いて付き合うか、一夜の出来事で満足かは人それぞれですが、性的なあれこれを期待していくに決まっています。

たぶんそういう人もいなくはないというか、それなりにいるとは思うが、本質的には違うと思ってる。キャバクラが「出会い」の提供に主眼を置いたとしても、出会い系サイトやmixiなどの低コストな「出会い」を提供するサービスに原理的に劣る。一晩何十万という高額な対価を払うような話ではない。


私が思うに一般的なキャバクラの価値とはむしろ、「口説いても付き合ったりしなくてもいいこと」にある。

イケメンやベンチャー経営者や外資証券マソあたりを適当に想像して欲しいが、そういう人は基本モテるから、女性を本気で口説こうものなら案外落とせてしまったりする(のだろう知らないけど)。ところが、そもそも彼らの目的は単に口説くという行為を通じて自らの雄としての魅力だったり狩猟の腕前だったりを実感することであり、必ずしも末永いお付き合いを求めて口説いているというわけではない。要するに口説くこと自体が目的である場合がしばしばである。勢いのある経営者や優秀なセールスなんかにはそういう人が比較的多い。

むしろ、女性のほうからあれこれと要求されるような関係になるやいなや、関係を断ち切りたくなるということのほうが多いように聞く。ところが関係を断ち切るためには時間もかかるし、心労も多い。男女関係のこじれが思いもよらぬ事件に発展することも少なくない世の中だ。つまり、「女性を口説く」というスリリングな体験には、往々にして「その後のケア」という煩わしいコストが付きまとうわけである。特に既婚者にとっては「その後のケア」はときに人生を左右するほどのリスクを含んでいたりもする。

これに対してキャバ嬢とは要するに口説かれることのプロフェッショナルであり、ちょっとやそっと客に口説かれたところで、ほぼ完全に受け流すスキルを教育と経験によって体得している女性のことである。それも完全なシャットアウトではなくて、微妙に思わせぶりなことを言いつつも最後のところではしっかりとガードするという凡そ商売でなければ無用なスキルを身に着けているわけだ。しかも、万が一「口説いた後」に発展するようなことがあっても、プロフェッショナルとしてのプライドを持つ彼女らはことを荒立てるようなことはしない傾向がある。

要するにキャバクラのひとつの価値とは、そうしたスキル・耐性を備えた女性を揃えることで、上述したような煩わしいコストからモテ男性諸氏を解放し、思う存分ガールハントの気分を満喫させることにある。限りなくリスクを限定しつつホンモノに近い環境を整備するという意味では、遊園地の体験型アトラクションやサファリパークなどのサービスと酷似している。


他方、「口説いた後」に目的意識を持つような合理的な人は、いわゆるキャバクラ嬢を揃える店よりも素人の多い店を好む傾向がある。あの六本木とか赤坂とかにある大学生ばっかりの店のことだ。そうした店にあっては、女の子はあまり教育されておらず、店の値段も安い。特に教育されていないので気が乗らないときは普通に愛想が悪かったりまったく話が弾まなかったりという欠点があるが、口説くとホントに落ちたりするリアルな感覚はアマチュアならではである。

こうした店が提供している価値は、「常にそこにあり」、「多くの女性を揃えていること」である。ここで対比され得るのは、普通の素人開催の合コンである。みんなでワイワイ盛り上がったり新しい異性と出会ったりするのは楽しいが、幹事をした経験のある人であれば誰しもがご存知の通り、参加意向のある面子を集め、それらの日程を調整し、場所を決め、どうのこうのというのは非常に大きな手間だ。そうした諸々の手間をまとめてアウトソースする方法が、キャバクラの利用に他ならない。特に相手が気に入らなかったら交代してもらえるというのは、失敗合コンで辛酸をなめた経験がある男性には非常に魅力的なシステムではないだろうか。


ちなみに、そういう安くて素人の多いキャバクラに赴き、敢えて誰かを指名するということをせずに、時間内になるべく多くの女性と接し、品定めを行いながらなるべく多くの電話番号を聞き出し、「後」*1に繋げていくという極めて合理的と思える戦略をとる人物をリアルに何人か知っているが、そういう人は上述した煩わしい「その後のケア」に労力をかけることを厭わないタイプ*2であることが多く、であるからこそ、プロフェッショナルなキャバ嬢が集うような店にはあまり価値を見出さない傾向が強い。

逆に面倒なことを嫌うタイプやリスクをなるべく回避するタイプの人は、(カネがあれば)普通のキャバクラに行く。

*1:別にエロいことばかりではなく、仕事上の接待のときに場を盛り上げるために呼んだりするらしい。「仕入れ」である。

*2:いわゆるまめなタイプ

またお前か!

なんか絡まれたので。

「はてなーになるとはどういうことか」を教えてやろう。それは、バカなことを書けばこっぴどくオレに罵られるということだw

子供に全く愛情を持たず、人権を尊重しているつもりの自分に酔い痴れる大馬鹿者w - 消毒しましょ!

な、なにを調子にのってるんだこのクソデブリは。他人の揚げ足を取って嘲るくらいしか脳がないはてな界のデブリが、一体なにをどう勘違いしてしまったのだろうか。新世界の神にでもなったつもりかこのバカは。あんまり人前で言わないほうがいいぞそういうことは。

何故「息子」が「保育園に行きたくな」かったのかについては微塵も関心を持ってない」わけないだろうが。相手の主張を理解せずに交渉が出来ると思うか?少しは考えろこのバカ。散々聞いたよ、行きたくない理由は。寒いからとか疲れるからとかいろいろ言ってた。だから、歩けば暖かくなるとか、疲れたらそのときは抱っこしてやるとか、そういう条件で交渉したわけだよ。

で、なにを反省したかといえば、「行かなきゃダメなんだお前のためだ」というような姿勢だよ。そういう姿勢は大概、体罰とか脅迫めいた命令とか不平等な取引とか強制的な押し付けとかにつながる。ことが多い。ように思う。そういうのが厭だという話をしてるわけ。つまりな、”しつけ”という単語にたぶん少し特殊な意味合いをこめてるんだよおれは。それはあとで説明するよこのバカ*1

って書くとどうせあれだろ、そういうことが言いたいのであろうことはわかってたが、あの書き方じゃ伝わるはずないだろバカwとか言ってくるんだろ?大きなお世話だバカw*2


あ、あとな、「子供に全く愛情を持たず」はさすがに失礼だぞ。気をつけろ。ブログだからまだあれだけど、真面目に子育てしてる人に面と向かってそんなこと言ったら、あんまり冗談ではすまないと思うぞ。

追記

またきたwwww

あのな、『保育園が楽しければ子供が寒さや疲れなど感じる筈などない』なんてことはないぞ。知らないのに適当なこと言うなよ。子供は、今歩いた成果が楽しい保育園につながるなんていう論理的思考はできんよ*3。保育園に行けばいつもすごく楽しそうにしてるのは、こっちは見て知ってるわけ。でも子供はとにかく、いま、そのとき歩くのが嫌なんだよ。なんのために歩いてるかなんて関係ないわけ。子供の気持ちがどうのとかしつこく絡んでくるからなにを言うのかと思ったら、こんなに短絡的なことを言ってくるとはまさに噴飯物である。

あと、『子供が自分の気持ちを論理明快に正しく説明出来る筈などない』ことくらいな、常識だよ。常識。そんなことを鬼の首をとったかのように語られたのでは、こっちが恥ずかしくなるわ。子供に理屈なんてないんだよ。そんなことはわかってる。でも話さなきゃいけないの!

それから、『それが子供のためであるなら、引っ叩いてでも行かせれば良いのであり、ためにならないことが判明したならば、さっさと止めれば良いだけの話』らしい。大した自信だなしかし。なにが『子供のため』になるかわからず、『引っ叩いてでも行かせ』ることに論理的な正当性が確認できないから悩んでるんじゃねえか。

でだ、子供の話を聞くことが親の自己満足だと断じる一方で、子供のためだと思えば叩いてでも無理やりやらせるのは自己満足ではないとは、いったいどこの封建領主様だこのバカは。というかこのバカ、ほんとにバカなんじゃねーのか?

追記2

なんと、『要するにこいつは、その「濫用」例にビビって「親の優越的立場」を引き受けるだけの勇気がないのである』ときたもんだ。まさかここで「要は勇気がないんでしょ」というベタなオチをつけてくるとは思わなかった。

まあ、たしかにびびってるよ。強大な権力だから。でも引き受ける勇気がないわけじゃない。慎重に考えてるだけだよ。運用のルールを。

で、『バカ丸出しの観念論をblogで吹聴している暇があるなら、真正面から子供と対峙すべきなのだ。こいつは単に現実から目を背けてネットに引きこもっているだけである』とかなんとか。いや、さすがに大きなお世話だよ。子供と普通に対峙してもBlog書く暇くらいあるっつうの。てゆうかそんなん言うんだったら、お前もこんなくだらない個人blog読んでぶつくさ文句言ってねえで、仕事のひとつでも片付けろよこのバカ。

ちょっと子供と食後の散歩に行く時間だからこの辺でな。

*1:[http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20090502/1241239358:title]

*2:ご指摘ありがとうございます。

*3:当然年齢によるけど、2歳くらいまではきつい。

子供が大人になっていく

今朝の話。

我が家では目下「およげたいやきくん」ブームが到来している。3歳になる息子のたっての希望もあり、BGMとしてエンドレスリピートされていることもしばしばで、毎日毎日鉄板のうえで焼かれるたいやき諸氏ほどではなかろうが、多少嫌になっちゃう感じではある。

しかも、さすがにシングルレコード売り上げ記録としてギネスに登録されているだけのことはあり、これが相当耳に残る。朝に数回聞いたが最後、その日いちにち頭の中で鳴り響くこともざらだ。

そんなこんなで、今朝も身支度を整えながら、うっかり口ずさんでしまっていた。2番を。塩水ばかりじゃふやけてしっまっうぅ、というところだ。

すると、息子が最初から最後までちゃんと歌ってくれと言ってきた。きっと歌詞などを覚えたいのだろう。殊勝な心がけではないか。

だが断る。私は忙しかったのだ。あと5分で身支度を済ませなければならない。「無理無理」。とっさにそう告げた。


さて、さうしてさっそうと断りをいれた私に対して息子が間髪いれずに言い放ったひとことだ。

「パパ、でも仕事はちゃんと最後までやれよ。」

お前はおれの親父か。

新社会人に送る社会人としての心得4つ

最近やたらと社会人の心得みたいなご高説が目に付くなあと思っていた*1ら、なるほどいま世間は4月で新入社員が会社にやってくる時期なのかとふと気づいたので、ここはひとつこの流れに便乗して自説を垂れ流すことにした。

4つの心得

私には、仕事上これだけ気をつけていれば間違いなかろうという心得が4つある。

  1. 目的意識を持つこと
  2. 柔軟に手段を検討すること
  3. コンセンサスをつくること
  4. 最後までやること

と、書けばもう既に「あーはいはい」という感じで食傷気味だろうが、ここは私のブログなので構わず説明する。

目的意識を持つことについて

どんな企業活動にも目的があるわけであるからして、その企業活動の割り振り、つまりは仕事で成功を収めようと思うならば、まずは当該目的を把握し、自身の目的意識として落とし込むことが肝要である。

目的とは往々にして抽象的なものなので、ここはあの、悪名高きコミュニケーション能力と双璧をなすようにして、シューカツという極めて不合理な所謂通過儀礼において再三求められたであろう謎の能力、論理的思考力を活かす場面であると言える。

次のような問いかけは有効だろう。

  1. 自分に与えられた仕事はなにか。
  2. その仕事は企業活動というバリューチェーンにおいてどういった位置づけを担うか。
  3. その仕事の成功とはどのような状態をさすのか。
  4. 成功するためのポイントはなにか。

ときには企業活動全体を俯瞰し、ときにはその仕事の内容を精緻に把握することで、目的は段々浮き彫りになってくる。かもしれない。

柔軟に手段を検討すること

きちんとした目的を定義することさえできれば、ことさら言うほどのことではないが、ビジネスマンたるもの目的に対してオリエンテッドでなければならない。

手段とは、しばしばそれ自体が目的化されてしまうもので、そうなると当初の目的に対しての最適な手段とはというのは、すっかり見えなくなってしまう。先日地方の病院に赴いた際の話だが、まだ真っ昼間だというのに、掃除のおじさんが病院の廊下にワックスをかけていた。普通に通り過ぎようとしたした私は叱責を受け、ワックスをかけたところは踏むなと指示された。素直な私は足がつりそうになりながらも、手すり等を駆使することでその難局を切り抜けたわけだが、どう考えても私にそんな義理はないはずだ。件のおじさんは、本来であれば患者や見舞客の快適さのためにワックスがけをしていたはずなのに、いつのまにかワックスがけ自体が目的化してしまっているという良い例のように思われる。

これはまあ極端な例だが、似たような話はいたるところにあるので、気をつけられたい。

コンセンサスをつくること

さあ目的はわかりましたと、手段についても客観的に考えて確からしい仮説をいくつか用意しましたと。素人はここで舞い上がってしまって早速仕事に取り掛かろうと鼻息を荒げがちだが、一流のビジネスマンたるものは、ここで一息ついて、関係者のコンセンサスづくりに腐心しなくてはならない。理由はいくつかある。

ひとつには、なんでもそうだと思うが、一人で出来ることには限界があるわけで、他人を上手に巻き込むと言うのは、ことを成就させるうえでの重要な秘訣だ。与えられた仕事について、きちんとタスクわけして、優先順位をつけて、スケジュールに落とし込んで、それを共有しておけば、あとはそこかしこにタスクを放っておくだけでも意外に親切な人が片付けてくれるかもしれない。また、そもそも近代企業のビジネスにおいては、分業が高度に発達しているため、仕事の受注から納品、請求、入金までをひとりで担当することはまずない。あなたがどのパートを担うかはしらないが、いずれにしても何らかの部署や人に引き継ぐ必要性がある。であれば、最初からオープンにして進めましょうよということでもある。

次に、折角心血を注いで取り組む仕事であれば、途中で梯子を外されることや、プロジェクト自体が有耶無耶になるついでに自身の評価も有耶無耶になるような自体は避けなければならない。これらのリスクは非常に高いので、あらかじめその対策を講じるべきである。考え至った仕事の目的をはじめとして、そのための手段、できればスケジュールまでを関係者で共有しておくべきだ。関係者は、チームのメンバーや直属の上司はもちろん、最終的な意思決定を担う取締役会や会社の管理部、取引先までを含むのでぬかりなきよう。各方面に対する発言力などは当然持ち合わせていないだろうから、上司をうまくコントロールしなくてはならない。そうしておけば、例えば途中でプロジェクトが立ち消えになってしまっても、やってる感はアピールできる。

実際問題として、高度に複雑化した現代社会ではコンセンサスをつくるということは極めて難しい偉業になりつつあるわけだけれども、逆に言えばそれさえできてしまえば、それだけでもう立派な価値になり得るということである。そうした偉業を成し遂げる人物を指す呼び名としては、ファシリテーターでもフィクサーでもなんでもいいが、今後ますます需要が高まる能力だろうと予想してみる。

理由はふたつだったね。

最後までやること

成功の最大の秘訣は失敗しないことなのであり、最後までやれば誰もそれを失敗とは言わないのだ。負けなければ勝ち。体力勝負。最後は気合で。

ちなみに、ここで当初設定した目的が意味を持ってくる。あまり短いスパンの目的ばかりだと、ちょっとしたミスが命取りになってしまう。上述した「自分に与えられた仕事はなにか」を考えるに際してはメタ的な視点を忘れず、なるたけ抽象的な、潰しのきくものを持ってくることを推奨する。

おわりに

このご時勢、どんなに個人が頑張ったところで、会社が潰れてしまうようなことはよくある。所詮個人の力ではどうしようもないときというのは、いつか来るものだ。そのときはめげたりせずに、上記プロセスを繰り返すなかで自身に蓄積したノウハウとスキル、それとわずかばかりの退職金を握り締めて、是非再チャレンジして欲しい。人生短いようで長いからさ。

*1:「[http://b.hatena.ne.jp/entry/http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51452432.html:title]」とか「[http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20090405/1238913937:title]とか「[http://dochikushow.blog3.fc2.com/blog-entry-1131.html:title]とか。

自己責任論の恐怖

なんか面白い人がいたので。

最近以下の2つの痛いというか痛ましいニュースがあった。

  1. 痛いニュース(ノ∀`) : 息子への輸血を「宗教上の理由」で拒んだ両親に対し、即日審判で親権を停止 - ライブドアブログ
  2. 痛いニュース(ノ∀`) : 強姦された9歳少女が妊娠、中絶手術→カトリック大司教「中絶は強姦以上の大罪」と医師らを破門 - ライブドアブログ

このmichiakiという人は、上の件については宗教上の教義を重んじるべきだという感覚を持ったそうなのだが、下の件についてはその教義はあんまりだと思ったらしい。で、これら2つの件に関する自分の受け取り方の違いに対する自己分析(笑)が述べられていたのだが、これがさっぱりわからない。どうやら、上の件については法律vs教義、下の件については倫理vs教義という構図が見出せるという視点を捻出したうえで、自分には「倫理>教義>法律」という基準があるのだと結論付けているようだが、どちらの件も教義よりもこどもの命を守るべきという判断に基づいているのにどうしてそれが倫理だったり法律だったりするのかてんでわからないし、そもそも倫理と法律の隙間に教義が入るという発想も、私の感覚からすると突飛過ぎてとてもじゃないが納得できる代物ではない。

普通に考えて、良いとか悪いとかよりも弱者を保護するのが社会のひとつの存在意義なのだから、2の件における親権停止は当然である。また、『「血を穢されてしまった子供」と「大事な子供を異教徒のなすがままにされてしまった両親」が、いるのではないでしょうか』などと粗末な想像力を披露しているが、普通に考えれば、今般の親権停止という措置は、自分のこどもの命を守りたい一方で教義に違反する決断を下しあぐねて困っていた両親に、一時的な親権停止という法的な措置を活用することで、行き詰った状況にうまく辻褄をあわせた*1という、大岡裁判並みに絶妙な判断だった可能性もある。一般的に考えれば親は子を大事に思うから、この可能性の方が高いだろと普通に思う。


というように同氏による自己分析がイマイチの出来なので、私の絡み方としては、この人の直感的な受け取り方が異なったという点だけを既成事実として肯定し、その後の分析をちょっとこちらで代わりに引き受けてみようという話である。この2つの件に対する判断を隔てる境界となるような基準はなんなのか。
結論から言うと、なんのことはない、ただの自己責任論ではないだろうか。ただし高度に発達した自己責任論である


まず、上記2の件は結構誰が見てもひどい話なので、この宗教的判断を許容できないことはあまり分析の対象として適さないが、1の件における宗教的判断を許容できるというのはどういうことだろうか。

根本にあるのは、自分が好き好んで選択して入信した宗教の教義であれば、それによるデメリットがあってもやむなしという発想ではないか。転じて、命を賭してまでその教義に従う覚悟であれば、それを尊重するのがあるべき社会だというように発展する。これ単体で見れば、一般的に考えてもさほどおかしな話でないだろうし、事実成人した人間であれば宗教上の理由から医療を拒否する権利くらいは法的にも担保されているはずだ。

ところが話はこれだけでは収まらないのは当然で、というのは、今回の件において信者は親であり、治療が必要だったのはその息子(1歳)だったのだ。息子は別に信者ではないだろうから、普通に考えるとここに自己責任論が成り立たつ余地は微塵もないかのように思える。しかし私は自己責任論のすごいところはこの先だと考える。

おそらく、最大出力の自己責任論は、その子が治療を受けられないなどの悲劇の因果関係を、被害者の運命レベルまで遡って突き止めるのだ*2。つまり、高度に発達した究極の自己責任論者の脳内では、その子がその親の元に生まれてきたのは運命なのであって、その子の自己責任ということになる。きっと前世での行いが悪かったのだろう。これはあまりに極端だが多少穏当な例をあげれば、まだ自立も出来ない子が親の判断で迷惑を被るのは、自立できない子の自己責任という理路(?)もあり得る。文句があるならカネを稼げるようになってから言えというセリフを、2ちゃんねるあたりで見かけたことはないだろうか。なお、同じ理路で「自己責任」の部分を「仕方がない」に変えているパターンもあり、本人は多少穏当なことを言っている気になっているのだろうが、基本的には一緒である。


ところがこう考えると、今度は逆に上記2の件が許容されないことが不自然に思えてくる。親に暴行を受けて逃げ出さないのはこどもの自己責任という考え方も、上述の自己責任論にのっとればできそうなものだからである。この不自然さも自己責任論を考えるにあたってのひとつのポイントだと思う。おそらく、究極的な自己責任論の特徴は、悪者が見つかるまではどこまでも遡りひとたび悪者が見つかればひたすら責任を追及すること、換言すると、ひとたび悪者が見つかればそこで思考停止するという非常に単純な回路にあるのではないだろうか。要するにそれは、すべての事件について、悪意⇒被害、もしくは自己責任⇒被害という非常に単純な因果関係の図式を構築することにのみ、目的意識がおかれているということだ。悪意があれば加害者の自己責任だとも言える。

2の件について言えば、事件の関係者を見渡してどこに明確な悪意があるかはすぐわかる。レイプ犯たる義父だ。突発的ではなく継続的な犯行だというのだから、鬼畜もいいところだ。だからこの件の被害者の被害は、自己責任としては解釈されえないのだろう。他方、1の件について言えば、必要な治療を行わない両親には明らかに重大な過失があるが、別に悪意があるわけではないのだろう。割とピュアに、医療よりも教義を信じているということだと見受けた。こうなると被害と悪意の因果関係の図式が途端に構築できなくなる自己責任論者は、被害者の責任に思索を巡らしはじめることになる。そしてひとたび自己責任の追及がはじまれば、上述したようにいかようにしてでも自己責任の尻尾を掴むわけだ。そうしてこどもの被害は肯定され、または仕方のないものと見なされ、むしろ信者の選択を蔑ろにした社会の側に憎悪が向けられることになる。


なお、ここで、自己責任論と過失相殺に関する法的な議論は区別しておかなければならないだろう。前者が悪者探しである一方、後者のそれは加害者の人権の保護である。どっちが悪いかの視点ではなく、犯行の不可避性や必要性、妥当性を検討するのは加害者の人権を考慮するにあたっては当然の措置である。何でも杓子定規に法律を当てはめて、とにかく厳罰に処するということでは公権力が強大になりすぎるからだ。であれば、法廷で問われるのは加害者の人権でなくてはならないだろう。然るに、ひとたび悪者が見つかれば徹底的にそれを糾弾するのが自己責任論であれば、両者はしばしば対立こそすれ、一緒くたにしていいものではないと考える。

そして、この自己責任論という思考法の系譜は、複雑性に晒される不安を覆い隠すための単純性の希求だろう。当事者でもない限りなにがなんだかわからない事件、専門的で不可解にも思える司法判断、複雑に交錯する個人と社会と権力の関係。そしていつかなにかの事件が我が身に及ばないとも限らないという恐怖。こうした不安から来る負担を減免するために考案された、誰でも気軽にわかった気になれるツールこそが、自己責任論なのではないだろうか

*1:両親は教義に反する決断をしてはいないわけだから。

*2:id:tikani_nemuru_Mさんがこのことを書いていた記憶があるがどこだったか思い出せないので、とりいそぎIDトラバのみ。

美意識と合理性の間で

今日は、殺伐としたビジネスの場における憩いの時間である、ランチタイムでのとある出来事について考察を進めてみたい。

先日の話、私はランチタイムに会社から程近い洋食屋さんに行こうと心に決めていた。これはおそらく、週末のテレビ番組で流し見した”洋食屋さんのメンチカツ”が脳にインプリントされていた故だと思う。昼食をともにすることとなった会社の先輩諸氏に対する洋食屋さんの提案を成功裏に終え、かつランチのピーク時を避けるという作戦も見事にはまり、かなりスムーズに席につくことが叶った私は、揚々とメニューを眺めていた。

その洋食屋さんのランチタイムの目玉は、盛り合わせセットと名づけられたセットメニューである。これは、数あるメニューのなかから任意の2種類を選ぶことで、それらを組み合わせたカスタマイズされた定食を楽しむことができるというものだ。2つのメインディッシュを同時に楽しむことができるというお得感と、組み合わせの膨大さから来る飽きのこなさから高い人気を誇る、同店の看板メニューである。

組み合わせ対象となるメニューとしては、まさに私の目的であったメンチカツをはじめとし、エビフライやかにクリームコロッケ、カキフライ、ロースカツ、生姜焼き、ハヤシライス、カレーといった昔ながらの洋食屋さんの定番メニューが揃えられ、そのラインナップは実に豊富といえる。具体的な数字で表すと、総数で20以上はあったかと思う。

さて、かくして淡々とメンチカツの相方を探していた私であったが、ふとメニューの端に記載された次のような興味深い但し書きが目にとまった。

ハンバーグと和風ハンバーグの組み合わせはできません。
カレーライスとハヤシライスの組み合わせはできません。

どうだろう。

なにか、合理性の束縛を脱した、料理人の美意識のようなものを感じないだろうか。ハンバーグと和風ハンバーグは言わずと知れた”要は同じもの”であって、その組み合わせを禁じている様からは、それらを組み合わせたところでなにも新しいものは産まれ得ませんよという強い意思を感じる。そして、カレーとハヤシライスの組み合わせ禁止は、おそらくご飯のうえにかけて提供するスタイル*1の限界からくる盛り付け美学の崩壊への拒絶だろう。

そして、これらの組み合わせを「できません」とまで明確に言い切り、その啓蒙の強度を「ルール」にまで昇華させてしまうその態度。ハンバーグと和風ハンバーグというどこか愚かな組み合わせを注文する顧客の愚行権を、いともたやすく切って捨てるその潔さに、私は美学を感じたのだ。

そうした崇高にも思える美意識と、盛り合わせセット890円というお値打ち感の非対称性が、私にはどこか面白おかしく感じられた。


さっそく諸先輩方にもその非対称性からくる微妙な違和感を弁舌に紹介し、ひとしきり場を盛り上げたあと、いざ注文をというはこびになったわけだが、一連の出来事ですっかり気分を良くしていた私は、ついメンチカツと和風ハンバーグの盛り合わせを注文してしまった

これはまさに”してしまった”のだ。この注文は迂闊であった。そのことに気がついたのは、メンチカツを半分ほど平らげ、さて気分を換えてと和風ハンバーグにとりかかったそのときである。

そう、2つは基本的に同じ味だったのだ

私が気分転換にと口に入れた和風ハンバーグの食感並びに風味は、まさに先ほどまで食していたメンチカツから衣をとっただけという様相であった。言うまでもなく、このサプライズは私にとって大きな落胆とともに迎えられた。ハンバーグを頼むなら揚げ物はエビフライやカキフライにすべきだったし、メンチカツを頼むならもう一方はあまり油っこかったり、肉々しくない、それこそカレーやハヤシライスをチョイスすべきだったのだ。

自分の注文の迂闊さについて後悔の念に駆られた私は、結局件の但し書きは、料理人の美意識というよりもむしろ、顧客のうっかりミスを解消し、その満足度を高めるための細やかな気配りだったのだと思い至り、そうであればメンチカツとハンバーグの組み合わせについても一言喚起して欲しかったという見当違いの不平を抱えたまま、そそくさと店を後にした。


あの但し書きを不相応に崇高な美意識などとして笑いの対象にせずに、あれだけ膨大なメニューがあるのであれば相反する組み合わせが必ずあるという当然の事実に対してもっと真摯に向き合っていれば、あのような悲劇は防げたかもしれない。

私は店の親切心を拡大解釈して笑いものにしたことによってその親切心を見過ごし、過剰にひき肉を堪能するという余計なコストを払わされたわけだ。これは、無駄に広げた風呂敷はいつか自分でたたむことになるということを表す良い教訓ではないだろうか。


どうでもいいが、私の隣にいた大先輩は、なぜかカキフライのお供のキャベツをそっくり最後まで残し、「おれキャベツ苦手なんだよね」とか言いながら嫌々食べていた。ああ、嫌なことを後まわしにして後悔するタイプなんだな、と思った。

*1:別皿での提供ではない。