ブログに何を書くべきか

毎年のことながら、気づけば年末になっている。

なぜ別に気を失っていたわけでもなく、毎日普通に生活していたはずなのに、ふと気が付くと年末になっているものかと考えたが、たぶん、夏が長過ぎる所為だろう。

エルニーニョ現象だか地球温暖化だか、詳しい原因は存じ上げない。存じ上げないが、最近、妙に夏が長くなっている。

なにせ10月いっぱいくらいは、平気で気温30度のいわゆる真夏日ラインを超えてくる。10月はいまや夏だということだ。昔は9月までくらいではなかったろうか。そうして10月いっぱいまで夏が続くものだから、ようやく涼しくなったと思うのはつまり11月ということになる。「来月は12月か」などとのんびり構えていると、すぐにその12月がやってくる。すわ年末である。

ご存知かどうか知らないが、当ブログは毎年夏になると更新が途絶えることになっている。これも要するに暑いからである。

純然たる社畜である私は、何を隠そうこのブログの8割を通勤途中の銀座線車内で書いている(残り2割は風呂)。が、夏の銀座線というのは、とてもじゃないが何かをするのに適した環境ではないのだ。あの狭いトンネルに無理矢理詰め込まれた旧式の車体には、暑さに弱い現代人を満足させるための十分にパワフルな空調設備を背負い込むだけのゆとりが、明らかにない。乗客からのクレームに晒され続けた結果だろう。聞いてもないのに、空調の設定が車内アナウンスで再三周知される始末である。車内では単に座っているだけで、汗が噴出してくる。サウナか。

そうしてそこに、クールビズの大号令のもと解き放たれた白シャツの襟元からその縮れた体毛をチラつかせ、 脂滴る肉塊が大挙してなだれ込んでくるわけだ。奴らは、座席に少し空いた隙間でもあれば、その巨体を遠慮なくねじ込む。傍らに人無きが如し。暑いし、臭いし、痛いのである。世に過酷な環境は数あれど、あれほどのものを私は知らない。地獄と呼んで差し支えなかろう。

そう。単なる思い付きの妄言を、ただ気の向く儘に書きなぐっているだけと思われがちな当ブログであってさえも、一応書くためには思索を要するのである。地獄と見紛うほどに過酷な環境では、到底思索などできようもない。できてポケモンのレベル上げくらいなのだ。

こうした状況は10月いっぱい継続して、11月は惰性で休養。漸く更新を再開しようかと思うのが12月なのだ。「気づけば年末」で始まる記事が増えるのも頷けるというものだろう。


さて、このような年次の休養を利用して、今年は少し、ブログについて考えた。

ブログに何を書くべきか、である。

振り返れば、今年の当ブログは、少なくともアクセス数の面から言えば、年初から比較的堅調であった。

アダルトビデオ女優に関する取り留めもない雑感で正月を飾ると、スタバ利用に際してのマナーを問いかけると見せかけてアップル信者を罵倒した。西ではてながCFOを募集していると聞けば便乗して無責任にはてなかくあるべしと語り、東でソーシャルゲームがバブルだと聞けば門外漢の野次馬的立場から野放図に茶化してみせた。こう考えると碌なことを書いていないが、ページビューだけはそれなりに積み上げることができたのだ。残念ながらメルマガブームには乗り遅れてしまったが、メルマガ考察にこじつけて人気ブロガーを揶揄することは忘れなかった。

然し難しいもので、こうして記事を書けば書くほど、そしてそれが文章として成功すればするほど、益々何を書けばいいかわからなくなっていくような感じはあった。段々と字面と私との距離が離れていって、次第に足元が覚束なくなり、ついには何百メートルも上空から小さい紙切れか何かに書き込んでいるような感覚になる。今日に至る長期の休養も、キッカケこそ上述の通り暑さによるものであったが、それが長引いた理由の一つには、こうした心持によるところがあったかもしれない。

どうすれば地に足をつけたまま、ブログを継続していけるのか。

継続するためには、当然成功が不可欠である。

では一体どうすれば、読者の心に残るような成功した文字列を絶え間なく生み出し続けることができるのか。


この問題について、もっとも重要なことは、おそらく、「同じことを書く」ということだと今般思い至った。結論から言えば、である。

ともすれば我々は、毎回毎回、新しい発想や視点、若しくは斬新な言い回しなどを求めがちである。そうした新しい何かを生み出し続けることこそが、継続の意味するところであるとさえ考えがちではないか。水は一箇所に留まると腐るみたいな在りがちな喩えを持ち出してもいい。兎に角、変化の方に重きを置き、変化に乏しい様を停滞と見做して軽んじる傾向がある。やに思う。

今般私が思い至ったことはこれとは逆で、変化に晒されず、同じ状態にとどまること、若しくはそういう要素をつくりあげることこそが、ブログを成功させるための要諦ではないかということである。


このように思った背景はいくつかある。

先日、KindleのPaperwhiteを購入したが、肝心の書籍の方の品揃えが何とも言えない感じなので、藁をも掴む思いでジャンプコミックスの超人気シリーズ、「ジョジョ」の8部を読んでみたのだ。失礼だが。

ジョジョの連載開始は私が7歳の時で、かれこれ25年以上連載しているのに、衰えることを知らない面白さには心底驚かされた。

ただ、そのジョジョも、必ずしも毎回毎回、まったく新しいアイデアが次々に創造されることによって、ここまでの連載を重ねて来たというわけでもない。むしろ逆で、変わらぬジョジョらしさの存在こそがシリーズの人気を担保しているわけだ。

シリーズを通底するテーマは人間讃歌だそうで、なるほど言われてみればそんな気がしないでもないが、なにもそこまで一気に上流に遡ることもない。より表面的な部分だけでも、第3部以降継続しているスタンドという概念や、それを活用したスリリングなバトルは一切変わっていない。微動だにしていない。それを演出するホラー味溢れる重厚な筆致や、臨場感を高める独特の効果音も然りである。ギリシャ彫刻みたいな芸術的佇まいの登場人物たちも、よく見ると大体みんな同じ顔である。

スピード感溢れる描写故だろう、何となく奇抜な展開や表現の斬新さに目を奪われがちなのであるが、真に着目すべきは、実はほとんど同じ内容の繰り返しということの方なのだ。「らしさ」をしっかりと維持しつつ、飽きさせない。制約の力を最大限に利用しながら、読者にその存在を感じさせない。実はずっと同じことを書いているのに、どこか違って見える。

自分の鼻糞ブログと日本を代表する人気コミックシリーズを並べて語るようで大変恐れ多いが、地に足をつけた継続というのは、まさにああいうことを言うのだろうと思ったのだ。


また、それより以前には、爆笑問題太田光が、同世代の芸人数人を評して「(彼らは)まだテレビで面白いことを言おうとしている」と発言したという話を目にしたことがあった。

当時、芸人が面白いことを言わないでどうすると、通り一片に訝しがった私であったが、なんとなく本意が気になって、心に留めていたのである。

かく言う太田光は、「面白いこと」を言う代わりに、粗末なダジャレや、取るに足らないベタなボケを繰り返しながら、現在の地位を築いていった。それこそ四六時中「面白いこと」を言おうと熟慮していた彼のライバルたちよりも、純粋なネタの面白さという尺度では見劣りして然るべきである。にもかかわらず、彼は確かに成功してみせたのだ。何故か。

これは、視聴者が、芸人による単発の発言や動作、及び漫才、並びにコントといった、いわゆるネタのみを消費するのではなくて、寧ろ文脈を消費するからである。「この芸人はこういう人だ」というような、よりメタ的な要素を共有することによって、視聴者は、眼前で繰り広げられるその芸を、より一層愉快に消費することができるのだ。

芸人は当初、視聴者との間で共有すべきメタ要素を持ち得ない。あるのは単発のネタのみである。この段階において、芸人の全神経は、ネタの完成度に対してのみ向けられるべきだ。それこそ、先人たちが繰り広げてきたネタを入念に研究し、それを拡張させ、変化させていく必要がある。

然しながら、ある程度ネタが評価を得、テレビなど各種メディアで露出する機会を得ると、事態は変わってくる。ネタ自体よりも、その背景や人物像を含めた全体を視聴者と共有することになりはじめる。所謂「キャラが立つ」というやつのことで、メタへの移行である。

メタ要素は、芸人のネタを制約する機能を持つ。芸人は、例えば一度かたちづくられた自らのキャラからは、容易に逸脱することは許されない。すべての行動や発言はキャラというメタ要素の文脈で消費される。

その一方で、この制約があるから、芸人は視聴者と文脈を共有することができ、まったくゼロからの積み上げを再現することなく、芸人として芸を継続し得る。要するに、縛り上げられてこそ発揮できる力というものがあるということだ。如何にも変態的であるが。

然し。然しここに、あのほとんど何を喋ってるかも聞き取れないような老人タレントどもが、今だに食いっぱぐれないどころかテレビ界の帝王よろしく大手を降って闊歩できている理由がある。爺さん共のネタはことごとくベタだが、大御所なのに縛られているという文脈のなかで、いまなお映えるのである。


これは、実は人間が存在するということの意味を問う話でもある。

あの人がもしここにいたら。もし仮にこの場に参加していたらきっとこう言うだろうなと周囲が想像するそのイメージこそが、その人の存在なのだ。

イメージこそが存在であり、人体というものはある種、そのイメージをもっともうまく体現するための機能に過ぎない。モノマネと口寄せは紙一重とはよくいったもので、言わないかもしれないが、要は存在の強さなのである。

面白いとは何か。それは、存在の強さなのだ。


何の話だ。ブログの話だった。

ブログに何を書くべきか。

これはやはり、毎回同じことを書くということであるから、つまるところは、毎回武田邦彦上杉隆を嘘つき呼ばわりして、ミクシィの倒産を祈願したうえ、「そんじゃーね」で締めるということに他ならない。

そう。またこのオチである。皆さん、良いお年を。

終末期医療とか社会保障費とかの話

ポケモン育成に尽力するあまりちょっと時間が開いてしまったが、この間、自民党総裁選に出馬した某耄碌都知事のところの放蕩息子が、社会保障費削減の文脈で尊厳死の話題を持ち出したとのことで、ちょっとした騒ぎになっていた。

まあ、そりゃ騒ぎにもなるという話だ。

社会保障費の削減、ならば尊厳死」では、まるで尊厳死の御旗のもとに老人を殺戮すれば社会保障費などいくらでも削減できる、と言っているのとほとんど等しい。何か庶民感覚を一切待ち合わせない中世の貴族などがおもむろに発案しそうな単純さ。

社会保障費が払えないなら老人を減らせばいじゃない」。

「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」というのと、まったく同じ香りを放っているではないか。

あの家系、自らを貴族か何かと思っていてもまったく違和感ないのは確かではあるが、いまは中世ではなく現代。多少自粛して欲しいところではある。

今さら私が指摘することでもないが、人の命というのは、他人が勝手に奪っていいものではないことは言うまでもなく、社会からの要請によって手放さなければならない類のものでもない。結構、大前提の部類だろう。

人が、人としての尊厳を保つために、自ら潔く死を選択する権利はないのか。そのような議論はあって然るべきものとしても、先に述べた大前提を覆すようなことは断じてあってはならないわけで、そこにはまさに超えてはならない一線があるわけだが、あの文脈であの発言というのは、要するに一線の向こう側からにこやかに手をふられる感覚に近く、「えっお前その線…」という感じは否めない。

文字起こしされたもので問題の発言の前後も確認したところ、どうやら当のご本人も、誤解を招く恐れが強いという認識をしていたようではあったが、ではいったい何が、誤解を恐れる彼をして、あのように勇敢な発言に踏み切らせたのかは、依然として謎のままである。別にオフィシャルにしている政策でもないし、誤解される恐れが強いなら、誤解されないタイミング(というのがいつ来るのかは知らないが。)までそっと胸に秘めておけばいいではないか。

まったく。

ゾンビ化する病院

と、ひとしきり自らの良識ぶりをアピールしたところで本題に入る。

件の放蕩息子にあやかって誤解を恐れずに言えば、私は、世の中には、それこそ尊厳死の対象となり得るような寝たきり老人の命を盾にして社会からカネを巻き上げている悪いヤツらがいると思っていて、ソイツらから人質を奪い返すために尊厳死の議論は有用ではないか、とは思う。

ここで言う悪いヤツらというのは、端的に言うと一部の病院のことで、より具体的には、業績が極めて悪い、どう考えても人の面倒見てる場合じゃない病院のことを指す。

これは、少し以前に仕事上の絡みでいくつか経営が悪化した病院の内情というものを垣間見た経験から言うのだが、「病院の業績が悪い」というときのその「悪さ」というのは一般的な事業会社の比ではなく、それ故に腐敗の程度も深刻なのである。

病院の業績が極端に悪化した状態に陥り安い理由は極めて単純で、病院が滅多なことでは潰れないためだ。要するに、病院がなまじっか人の命をあずかっているものだから、債権者としてもそう簡単にはトリガーを引きづらい。自分が破産を申し立てたら、入院患者が全員死ぬかもしれない。そんな懸念を抱きながらトリガーを引ける人は、なかなかいない。

だから、病院は、一般の事業会社であればとっくに潰れているような状況に追い込まれてなお、 未払金を膨れ上がらせながら、さながらゾンビのように生き永らえる。そうして、一般の事業会社では到底辿りつけないような業績悪化の境地まで、容易にたどり着くのである。

ゾンビ病院の内情

ゾンビ化した病院の内部では、当然様々な好ましくない事態が起こる。

好転する兆しのない業績。みるみる減っていく現預金。いったいどうやって資金を手当てしているのかと、貸借対照表の右側を見る。すると、借入金勘定は増えていない。資本調達した形跡もない。むしろ債務超過だ。

増えているのは、未払金だ。ただひたすら積み上がっていく未払金。

私はこれを未払金勘定を活用した資金調達、即ち、未払ファイナンスと呼んでいる。単に払ってないだけだが。

この未払ファイナンスの実態について言えば、資金調達の相談を銀行以外に対して行わざるを得ないような病院の場合、8割は、税金も従業員の給与から天引きした社会保険料も支払えていないと考えて間違いないし、3割は給料の支払い日も翌月末くらいまで引き延ばしている。業者向けだと一番滞りやすいのが給食だろうか。リース料は、滞納すると最悪医療機器を回収されてしまうので、比較的滞納されづらい。しかし酷いところになると病院の建設資金すら未払いで済ましており、人間は一体どこまで無計画になれるのかと問いかけられている気分になる。

未払ファイナンスもついに限界に達すると、保険料の不正請求、病院債の不正発行に手形の乱発という最終ステージに突き進み、さすがにもう潰れるかと思うのだが、それでもやはり潰れない。民事再生手続きを申請すれば大概の債権者が泣いてくれるので、今度はDIPファイナンスとか言いながらのうのうとやっていくのだ。

まさに不死身。恐ろしい話である。

当たり前だが、このような資金的困窮が続く中にあっては、医師や看護師のモチベーションは地に落ち、職業的倫理観は枯れ果てる。なにせ、今日働いた分の給料が、来月無事に入ってくるかわからないのだ。キレイゴトを言っている場合ではないのはよくわかる。

患者に対する扱いは次第にゾンザイになり、果ては患者の財布に手をかけるのである。これは驚くべきことだが、身寄りのない老人で、かつ痴呆が進んでいたりすると、病院にすべてを委ねる他ないから、その預金通帳の残高を守るのは病院関係者の倫理観でしかない。救急車での運搬(長期入院は保険点数が下がるので、他の病院に移される)中にこっそりかすめ取ったりというのは結構ザラで、究極的に酷いケースでは本当に預金通帳と印鑑ごと丸パクリしていることもあると聞いた。

憎むべきは当然罪なのであって、人ではない。誰だって精神的、金銭的に追い詰められれば間違いの1つや2つ犯すことはある。しかし敢えて厳しいことを言わせてもらえば、困窮した病院の従業者には、患者を人として扱うだけの心の余裕がない場合が、少なからずあるのではないかということだ。さすがに財布に手をかけるという一線は踏みとどまったとしても、医療保険によって毎月数十万の現金を生み出す老人を、単なるカネのなる木として扱っているようなことはないだろうか。

淘汰の仕組み

本来、このような病院は、淘汰されて然るべきなのだと思う。

ダメな病院はさっさと潰れ、新しい病院が生まれた方がいい。ところが、既に述べたようになかなかそうはならない。誰も好んで病院を潰そうとは思わないからである。

ここで起こっていることは、つまるところモラルハザードだ。米国で発展したあの大きすぎて潰せない金融機関たちが、国民の税金でギャンブルに明け暮れているように、神聖すぎて潰せない病院は、国民の税金と健康保険料で左団扇なのだ。

もし世の中が十分に裕福であれば、このテのモラルハザードというのは、深刻な問題にはならないのかもしれない。経営の苦しさゆえに一部に歪みが生じてしまっているだけで、基本的に患者を生かすという大きな方向性についての動機付けは成功しているわけだから、世の中の富にゆとりがあるのであれば、問題のカイゼンにあたっては単に医療保険点数をあげ続ければいい。いくら放漫経営でも無尽蔵にカネがあれば、さすがに現場が疲弊しない程度にはうまく回るだろう。うむ。夢物語である。

現実的には、みなさんご存知の通り、年々減少を続ける我が国の税収はいまや風前の灯といった様相なのであり、年間支出額のおよそ半分は、未来からの借金というべきか過去に蓄えた資本の食いつぶしというべきか、要するに国債発行による収入でまかなっている。

予算は限られているのだ。

その限られた予算の中で、なんとかうまくやっていくには、現行の制度は心許な過ぎる。そう思うのである。

医療というものはいったい何なのか。

死に体の病院が保険料目当で片手間に施す延命措置は、果たして医療と呼べるのか。ある程度、人としての尊厳が維持されることが医療の前提であってもいいのではないだろうか。医療としての前提を満たすための十分なリソースを確保できない病院には、潔く市場からご退出いただいた方がいいのではないか。

当然、病院は反発するだろう。

患者を見殺しにしろというのか、と。

それこそまるで、人質に銃をつきつけるように。

でもそうじゃない。患者を助けるためにも、ダメな病院が淘汰されない仕組みは見直したほうがいいだろうと思うのだがどうだろうか。


と、何か誤解も恐れず大上段に構えてはみたものの、特に振り下ろすアテもないので、今日のところはこの辺にして、私はポケモン個体値厳選作業に戻ります。お疲れ様でした。

日本の領土問題についてと残暑お見舞い

それにしても毎日クソ暑すぎてブログを書く筆も進まないが、最近、韓国が妙に対日姿勢を強めている件は、少し気になっている。

いや、本当に「妙に」という感じで、そこに特段の戦略性は感じられず、ただ徒に、若気の至りみたいな雰囲気で粛々とエスカレートしていっているのである。

みなさんご存知のことと思うが、五輪サッカーの3位決定戦となった日韓戦、日本に圧勝した韓国代表の選手は、「独島は我が国領土」とハングル語でかかれた(らしい)プラカードを掲げ、満面に笑みを浮かべながら試合後のスタジアムを周遊した。

領土問題。結構微妙な政治ネタである。

そんなものを掲げながらにしてあの爽やかな笑顔は、敵ながら天晴という気もしなくもないが、単にあの手の主張が韓国国内ではもはや常識のように繰り返されているということなのかもかもしれない。褒めるのは保留にしておこう。

韓国の李明博大統領も、まさに上記日韓戦と同じ日である、日本政府の反対を押し切り、勝手に竹島(独島)に初上陸を果たすと、今度は返す刀で日本の天皇陛下に向かって韓国に謝罪に来いと抜かす始末。しかもその場合は心からの謝罪を求めるという聞いてもいない注釈付きだ。就任当初は「日韓関係は未来志向で」などと言っていたことを思うと驚くべき豹変ぶり。縦横無尽である。

ただ、これまでの傾向からしても、韓国の大統領というのは、国内での求心力が低下すると、必ずと言っていいほど対日姿勢を激化させてくるものだったりはする。一番手っ取り早い人気取りということなのだろう。気持ちはわからないでもない。

だから、そういう意味では李明博大統領の件も、単にご多分に漏れずという話でしかなく、むしろある種の風物詩なのであって、私としても、もうそんな時期かと、とりあえず感慨にでも浸ろうかという構えであったところ、意表をついて今度は香港の活動家が尖閣諸島に突撃してきたとの報である。おや。

さらに、韓国の歌手だかタレントだかは、独島まで遠泳で行くという謎の企画の最中にパニック障害だそうだ。意味がわからない。

そう言えばその前は、親玉プーチン余裕の再選によって目出度く首相に格下げとなったメドベージェフも北方領土に降り立ち、言いたい放題言って帰って行ったそうだ。

被害はなくとも腹は立つ

いま、近隣諸国から次々と我が国領土に訪れる望まれざる客人たち。

当惑を隠せない日本。

この状況を漫然と眺めていて、ふとピンポンダッシュに悩む一般家庭みたいだなと思ったわけだ。

その心は、と言うと、要するに大した被害はない割に、無性に腹が立つということである。

ピンポンダッシュ。インターホンが鳴ったので玄関を出てみても誰もいない。まあ確かに面倒くさいといえば面倒くさいので、それが被害と言えばそうなのだけど、モノを盗られるわけでもなければ、壊されるわけでもない。つまり、大した被害はない。

それでも無性に腹が立つのは、ピンポンダッシュをする側が、それを楽しんでいそうだという想像によるところだろう。こちらに大した被害がなければ、あちらにも大した利益などないはずなのに、じゃあなぜあちらがそんなことをするかと言えば、こちらの反応を楽しんで、嘲っているに違いないのだ。もっと言えば、あちら側の仲間内では、実行犯を称えたりしているに違いない。こういう推測が平静を失わせる。

件の問題に関しても、冷静に考えれば、韓国の大統領が竹島に上陸したところで、我々に何か被害があるわけではない。もともと実効支配はあちらにあったりする。

しかし、だからこそ腹立たしいのである。意味もなく上陸。挑発以外の何者でもない。絶対バカにしてるだろという話なのだ。

あれはやはり、一種のピンポンダッシュに他ならない。

何か、問題がグッと身近になった感じがする。

ピンポンダッシュへの対処

しかしピンポンダッシュ。その解決は意外と難しい。ピンポンダッシュを嗤うものはピンポンダッシュに泣くのである。

まず、中途半端に怒るのは逆効果と言わざるを得ない。なぜなら、やつらはスリルを求めているのだから。

ピンポンダッシュをする側からすれば、「おやめなさい」と冷静に諭されるよりも「コラーッ!」と来られたほうが俄然テンションが上がるし、「ゥウォノレラアアアァァァ!!!」と来られればなおさらだ。手に竹刀でも持とうものなら完璧だろうか。そうして晴れて地域の名物オヤジの誉に授かった不運な中年は、生涯を不毛なイタチごっこに費やすこととなる。

おそらく、「怒鳴る」というのは、相手を撃退するというよりはむしろ、自分がスッキリしたいがための行動なのだ。要するに、相手はスリルを感じ、自分は怒鳴ってスッキリする。なんていうことのないWin-Winである。お互いがお互いの需要を満たしつつ、イザコザは半永久的に続く。

日韓で高まる緊張感とは裏腹に、両国首脳の支持率は目下上昇中らしい。つまり、そういうことなのだ。

それはそれでいいし、実際問題として国際政治の舞台では、数多の問題がそのようにして止揚されているのだろうけど、もし問題の解決を望むのであれば、やはりこれは悪手であると言わざるを得ない。

敵を追い払うのであれば、もっとこう、スリルどころではない明確なリスクを感じさせる必要があるのだ。

そういう意味では、ピンポンダッシュを犯人の学校にチクるというのは、「先生に怒られるかもしれない」というリスクを顕在化させるという意味で、割と有効な手段となり得るが、件の領土について言えば、ちょっかいを出して来ているのはあの国の大統領なのであり、要すれば、ピンポンダッシュの犯人は校長先生でしたみたいな話なので、応用は難しい。学校には頼れない。

学校もグルだったとなると、警察に相談しようかという案がよぎるが、警察は基本、民事不介入である。ちょっとやそっとのもめ事程度ではその正義を行使しないという問題がある。まるで、本件問題に関して静観の態度を崩さない米国のように。

よって、警察沙汰を望むのであれば、必然的にイタズラの更なるエスカレート、被害の拡大を待たねばならないということになる。しかしそれはそれで、本末転倒ではないのか。

放っておけばただのピンポンダッシュで済んだかもしれないのに、敢えて放火を煽ることもない。犯人は無事、警察権力に屈したとしても、自分の家が焼けてしまっては元も子もない。言うまでもないことである。

そう。結局ただのピンポンダッシュにリスクを感じさせるといっても、 もともと大した利益が見込まれる行為でもないわけだから、 本質的に大したリスクはないのだ。とするとつまり、何らかの働きかけによってやめさせるというのは、意外とハードルが高いということになってくる。

反対に、押してダメなら引いてみろとばかりに、いっそ受け入れてみるという案もあるだろうか。

しかし、軒を貸して母屋を取られるという諺もある。

最初はただのピンポンダッシュと思っていたらいつの間にか住み着いて、終いには権利書を奪われるということもあるかもしれない。あまりつけあがらせるのもやはり、考えものなのである。

最終手段

押してもダメ。引いてもダメ。いまや問題は迷宮入りの様相だが、最終手段はあると思っている。

引越しだ。

出来の悪い小学校や中学校の通学路、それも学校のすぐそばさえ避ければ、ピンポンダッシュの被害になど遭いようもない。やつらも別に、たまたまそこに家があったからイタズラしているだけで、我々個人に恨みがあるわけではない。さすれば、引越し先まで付き纏われる道理はない。

イタズラ程度のことで引越しまでするというのは、情けないと思うかもしれない。しかし、思い切りが大事だ。ちょっとした不満でも、積もり積もれば、いつかあなたの血管を破裂させるかもしれない。だったらさっさと引っ越してしまったほうが、被害は小さくて済むのではないか。

相手をギャフンと言わせてやりたい気持ちはわかる。イタズラには屈しない強い自分が大好きなのもわかる。しかし、健康のためにも、余計なストレスや悩みの種は可能な限り抱えるべきではない。

結局、この手のイタズラというのは、ある程度は、目を付けられた不運を呪うしかないのだ。根本的な解決を望むのであれば、多少の犠牲は厭わず、思い切った決断を下すことが必要になる。


そうだ。日本も、思い切って大西洋あたりに引っ越せばよいのだ。

そう思い立ち、マイホームを狙う主婦の眼差しで、改めてグーグルマップを眺めていたら、意外と良さそうな物件があった。

アイスランドである。

アイスランドと言えば、イギリスの北西に位置する島国で、これといって特徴のない漁業国だったが、先の金融危機で一躍有名になった。リーマン破綻前、極端なカネあまりから生じた過剰流動性は世界の隅々にまで行き渡り、各地で変調を起こしていたが、アイスランドはその最たる例となったのだ。

そのカネあまりを背景に、自分たちでも短期資金であれば結構調達できるということに気がついたアイスランド人は、とにかく借金をしまくると、なるべく高い金額で、あらゆるアセットを買い漁った。例えば、イギリスの銀行や、サッカーのクラブチームなど。

そうしたアセットを仲間内でグルグル廻しながら、資産規模を膨れ上がらせ、経済成長を偽装、さらなる資金を呼び込むと、ゲレンデを転げる雪玉のように肥大化していき、アイスランドの株価は3年でほとんど10倍になり、GDPも4倍くらいに急成長、ついぞIMFの人だかに「アレは国というか巨大なヘッジファンド」と言わしめるに至る。国内では、それまで漁師だった人が突如として銀行家に生まれ変わる事案が相次いでいたという。

このような突発的で実態と乖離した経済成長がどのような行く末を辿るのかというのは、日本の歩んで来た道を例に出すまでもないだろう。バブル崩壊。経済の破綻。そして後に残る莫大な借金である。一人あたり33万ドルという途方もない借金だけが残ったアイスランドでは、国外移住の希望者が殺到したらしい。


まあ、住民の方には失礼だが、この国だったら、多少カネを積めばなんとかなるんじゃないのかと思ったのである。

日本よりちょっと狭いものの、東京の都心部みたいなテンションで詰め込めんで行けば、きっと何とかなる。そうだ。グリーンランドの一部も貸してもらって、農地にしよう。

気候的には、暖流が通っているから、高緯度の割にはそこまで寒さは厳しくないらしいが、とは言え、さすがに日本より寒いのは寒そうだ。

ただそれも、最近の日本は、それこそまともにブログを書く気も失せるほどに暑すぎるので、かえってちょうどいいだろう。


ということで、少し話が逸れたが、厳しい残暑が続く中、読者の皆様におかれましては、くれぐれもご自愛ください。

参考

絶好調時のアイスランドの破天荒ぶりに関する記載が愉快な同著は、サブプライム危機の内情を綴った名作「世紀の空売り」の続編。ブーメランというのはつまり、アメリカを震源地とする金融危機が欧州に飛び火し、また戻ってくるのではないかという話だろうか。上述したアイスランドに関するくだりも、同著を参考にさせていただいた。ただまあ、ひとことで言うなら、前作の方が面白かった。

ソーシャルゲームに返還請求ってさすがにそれはないでしょ

なにかその、ソーシャルゲームの「被害者」なる方々が、ソーシャルゲーム事業者各社に対して返還請求訴訟を起こすとか何とかという話が聞こえてきて、いくら何でもさすがにそれはないのではないかと思ったので。

話の出所はこのあたりではないかと推察。有名なやまもといちろうブログですね。

これは消費者庁や警察庁関係なく、そもそも懸賞、絵合わせで違法だったコンプリートガチャは、利用者から、使用金額の変換訴訟を起こされる可能性があります。
戸田泉せんせとか腕まくりしてたら笑いますが。
ただ、ざざっと試算しますと、総額で1,200億円以上、返還対象となるんじゃないかと思うので、絶対に取り返したいと思う方は携帯電話の支払い明細を握り締めて、事実上の違法認定となる改善通知が業界団体に送達された報道があり次第、その方面に詳しい弁護士方面に雪崩れ込んで相談していただければと思います。

ソーシャルゲームへの「コンプガチャ」規制関連のメモ: やまもといちろうBLOG(ブログ)

まあ、同ブログの後の記事なども合わせて読むと、要するにそんな動きがあるという噂を聞いたよという話に過ぎず、さらには先般のコンプガチャ規制とは独立した動きだと言うから、微妙に何のことかよくわからないというか、そんなことがあったら面白いねというネタと言う感じもするところではあるものの、一方で、なんとなく1,200億円という数字が一人歩きして、例によって例のごとく2ちゃんねるあたりではソーシャルゲーム憎しとの狼煙が上がっており、実際に株価がストップ安売り気配になっているのを見て、何と言うか、さすがに気の毒だと思ったわけだ。いや誰がというわけでもないのだけど。


で、いい大人が通常のガチャで使いすぎただけというのはもちろん論外で、未成年のウッカリ課金については裁判外で事業者が返金に応じているらしいので別枠として、あるとすればコンプガチャ違法判断に基づく不当利得返還請求だと思うものの、絵合せ懸賞の部分のみが黒で、その前段階としてのガチャ販売の部分が白な現状では、不当利得といっても大した額にならないか、ほとんどゼロというのが穏当な判断ではなかろうか、という話。

そう。確かに民法は不当利得の返還請求権を認めている(703条)。Wikipediaなんかにもある通り、後で契約が無効になった場合や法律上の根拠がないことが明らかになった場合などに、当該契約に基づいて発生した相手方の利益を取り戻せるという権利である。

このように聞くと、ならばコンプガチャの売上は、まさしくソーシャルゲーム事業者の不当利益であると思うのかもしれないけれど、コンプガチャが違法であるというその意味合いというのは、詳しくは昨日書いたエントリーを見ていただきたいと思うが、要するにガチャをやってカードを引き、特定のカードをコンプリートするとレアカードが貰えるよという仕組みの後半部分のみなのであって、前半のガチャでカードを買う部分は特に違法ではない。

文房具屋さんで鉛筆を12本、600円で買いました。例えばね。それで鉛筆にはそれぞれ異なるシールが付いてて、シールの絵柄が数種類揃うと消しゴムが貰えますと。ここで言う消しゴムの提供方法は絵合せ懸賞であり、違法だ。この懸賞は行われるべきではない。しかしながら、鉛筆の販売自体は、普通に合法なのである。

だから、懸賞が違法というだけでいきなり600円全額が返ってくるというのはどう考えてもおかしい。600円は、不当な利得でも何でもない。鉛筆の販売代金なのであって、支払われて然るべきものなのである。

もし鉛筆を使っていなければ、鉛筆を返品することで、取引自体を白紙に戻す(つまり、お互いに不当利得を返還する)という選択肢はあり得る。ソーシャルゲームにおいても、レアカード景品がないのならそもそもガチャをしなかったという理屈で、取引を白紙に戻せるのだろうか。もしそれが通るなら、「ハイハイ返しますよ喜んで」と返還に応じる消費者も多そうだが、それはそれで消費者に有利過ぎると感じないか。

鉛筆は消費しなければ商品が損耗しないが、ソーシャルゲームのカードは消費しても損耗しない。逆に言えば、損耗させずに消費することができる。消費したのであれば対価を払うべきだが、商品の損耗の度合いで消費の形跡を図ることができないのである。このあたりがややこしい部分だ。

カードの消費によってどのような便益が得られるのかいまいち定かではないものの、何のカードが当たるかわからないよということを承知の上でガチャを引いて、出てきたカードが自分のコレクションの一部となった時点、要するに事業者がデータベースに顧客のカード所有情報を登録した時点で、ある程度ユーザーによる消費行動は完了していると考えるのが自然ではないのだろうか。

そうであれば、返還は得られないということになる。ゼロ。今後コンプガチャのような懸賞は慎むようにという話には当然なろうが、過去のコンプガチャに係る売上の返還はなされない。理由は、事業者側が売上に対応する役務の提供を既に完了しているから。

逆に返還が多少なりとも認められる場合というのは、ユーザーの消費行動は、カードの購入時点では完了していないということが認められるときだろう。例えば、一律1年間で均等に消費することにするなどの対応があり得るが、その場合は事業者側の売上計上基準をも変える大々的な話になるだろう。ややこしい。実にややこしい話だ。


ということなので、コンプガチャ売上1,200億円というものが返還の対象になるというのが最悪のシナリオだとすると、私は、会社にとってもう少しという大分ポジティブな決着になるのではないかなという気はする。

とはいえ、たかだかあれだけの報道でこれだけ大騒ぎが起こるという現状の背景には、少なからず世論が、社会がソーシャルゲームに違和感を感じている部分はあるはずで、額面通りに決着するかというと、正直不明なところはある。

個人的には、ソーシャルゲーム各社ともに、国内で売り上げるだけ売り上げて投資は海外という図式の割に、海外投資の成果がなかなか見えてこないところに、マクロ的に見たときの存在意義の微妙さ、ある種のODAなのではないかという嫌疑というものがあるような気がするので、海外でしっかりと成功し出すと世論の傾きというものも少し変わってくるのではないかなという気はする。

消費者庁によるコンプガチャ規制はソーシャルゲーム終了のお知らせか

我が家のPS3をリニューアルしたこともあり、何気なくHuluを眺めていたらいつの間にかうっかり「24」を見始めてしまい、連休の半分が一瞬で失われたので「あーあ」とか思っていたところ、何やら興味深いニュースが急きょ舞い込んできたので、リハビリのつもりでブログを書いてみる。

お知らせ : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

当ブログでは再三申し上げている通り、私はソーシャルゲーム界隈に何らの利害もなく、プレイさえしていないので、それこそあの業界があってもなくても本当にどうでもいいのだけれど、まだ新しく未成熟な割にカネの動きだけはやたら派手という、近年の日本では珍しいあの業界についに当局のメスが入ったと聞いては、野次馬根性を大開放せざるを得ないわけである。

コンプガチャは違法か

ということで記事内容だ。記事によると、満を持して登場した消費者庁が、いわゆるコンプガチャについて、景品表示法違反との見解を近く公表する見通しとのことである。

コンプガチャはお分かりだろうか。ドリランドや何やという有名どころのカードバトルを模したソーシャルゲームでは、ゲームで利用するカードを入手する際に、300円を投じると何らかのカードが入手できるという現実のおもちゃ売り場におけるカードダスやガチャガチャのような、「ガチャ」と呼ばれる仕組みが用いられる。「コンプガチャ」は、ガチャによって特定のカードをすべて集めた(コンプリートした)際に、より希少なカードを獲得できるとする仕掛けのことだ。

このコンプガチャ景品表示法に違反するとのことなので、多少疑いの念を抱きつつも、さっそく景品表示法なるものを確認してみたのだが、これがまた本当にしっかり違反していて実に面白いのである。

同法における景品類の定義は、概ね以下の通りだ。

  1. 「顧客を誘引するための手段」として、
  2. 「事業者が自己の供給する商品又は役務の取引に付随」して
  3. 「相手方に提供する物品、金銭その他の経済上の利益」

ここまでは何の問題もない。確かにコンプガチャの仕掛けは、プレイヤーがガチャを行うことを「誘引するための手段」であり、それにより配布されるレアカードは「物品」ではないものの何らかの「経済上の利益」であることは疑いようがないから、コンプガチャにおけるレアカードが景品類に該当することは間違いない。しかしながら、この法律は景品類を一切禁じるものではない。当たり前だ。ヤマザキ春のパン祭りを引き合いに出すまでもなく、世に景品類は氾濫している。

同法は、「必要があると認めるときは、景品類の価額の最高額若しくは総額、種類若しくは提供の方法その他景品類の提供に関する事項を制限し、又は景品類の提供を禁止することができる」と言っている。このあたりが肝だ。要するに程度の問題ということであり、線引きが問題になる話ということだ。

このあたり、線引きの問題を確認するには、法律そのものではなくて告示にあたる必要がある。「懸賞による景品類の提供に関する事項の制限」において、景品類の制限について概ね次のとおり定められている。

  1. 懸賞により提供する景品類の最高額は、取引価額の二十倍(だたし最大10万円)を超えてはならない
  2. 懸賞により提供する景品類の総額が、取引の予定総額の2%を超えてはならない。
  3. 一定地域における事業者相当多数が共同して行う場合などは、例外的に、景品類の最高額を30万円を超えない額、景品類の総額を取引の予定総額の3%まで拡大することができる。
  4. 2以上の種類の文字、絵、符号等のうち、異なる種類の組合せを提示させる方法を用いた懸賞による景品類の提供は金額の多寡によらず一切禁止

上記を読めばわかるだろうが、コンプガチャは4に違反する。私は全然知らなかったが、絵合わせによる懸賞は一切禁止だったのである。

だから例えば、何度も引き合いに出して申し訳ないが、ヤマザキ春のパン祭りが、単にシールを集めて応募するという話ではなくて、複数種類あるシールをすべて揃えなければならず、かつそのシールの種類が商品購入時に選択できない場合は、同法の違反になるというわけだ。

コンプガチャは、誰がどう見ても、2以上のカードについての「コンプリート」という組み合わせを条件に、景品としてのレアカードを提供している。一切禁止なのに。何という真っ黒だろうか。GREEやDeNAに法務部門はないのか。どこかに解釈の問題が入り込む余地があるのなら教えてほしいくらいである。

ちなみに、同法に違反する行為があった場合、内閣総理大臣はその行為をしている事業者に対し差止めを命ずることができる。さっさとしてはいかがか。

ガチャ自体は違法か

ただ、一方で今回の景品表示法適用を過剰に大袈裟なものとしてとらえる向きも少なくないように感じているので、その点については少し釘を刺しておいてもいいのかもしれないとは思っている。つい先日、ソーシャルゲームを規制すべきか否かみたいなべき論を打ち出していたところ、このように議論の余地のない見解が公表されて少し恥ずかしいので、行き過ぎた解釈をディスることで自分内バランスを整えようという魂胆もある。お付合い願いたい。

私も当初、上記告示を確認した時に勘違いしそうになったのだけれど、今回の件は、上記告示における4への該当を示唆するものであり、1ではない。この違いは大変重要である。

1に該当するということになった場合、その判断はコンプガチャの景品たるレアカードが10万円以上の価値を有しているという解釈を含むものだからだ。

もし、一部のレアカード「だけ」が10万円以上の価値を持つという解釈が認められると、コンプガチャだけでなくてそもそもガチャ自体が景品表示法に違反する可能性が高くなってくる。当たれば10万円外れれば紙屑というのは、上記告示の運用基準に例示されるところの「すべての商品に景品類を添付するが、その価額に差等があり、購入の際には相手方がその価額を判別できないようにしておく方法」に他ならない。

この点、現状はどのような解釈がなされているかと言うと、レアカードだろうがノーマルカードだろうが本質的には同じもの(ある固有のゲームで使うカードであり、そのゲームで勝つか負けるかくらいの差しかない)であり、それらを一律300円で売っているという解釈である。300円払うと、カードが購入できる。カードが財産かサービスかは一旦置いておいて、実に単純な商取引である。

RMTが存在するのだから、一律300円という理屈はおかしいと主張する人もいるだろうが、基本的にああいうセカンダリーマーケットというのは、商品の価値の本質を規定するものではない。たまたまレアさ加減がウケて高額で取引されるに至った昔の切手などが、過去に遡って本質的な価値上昇を認められるかというと、そんなはずがない。切手は切手。販売した時は50円の価値しかなかった。それがすべてである。そもそもあんなカード、ゲームの流行が過ぎたら1円にもならないのだ。そんなもの財産ですらないというのが、一般的なものの見方なのだ。

ところがここで、一部のレアカードに10万円以上の価値を認めるとどうなるか。そうすると途端に、300円払ってガチャを回す権利を買うと、10万円相当の景品が当たるときもあるし、ゴミが当たるときもあるという解釈のされ方が成り立ち始めるのである。これは、少なくとも景品表示法に違反する。

こうなってくると、問題はかなり広範に拡散する。リアルなトレーディングカードモノなどは、最もわかりやすい延焼先だろう。これらはすべて、出てくるカードに本質的な違いはないというところを前提にしているからだ。

これらをもグレーゾーンに引き戻すとなると、例えば個別の「カード」の価値をどのように判別するのかといったかなりややこしい問題が頭をもたげ始める。市場価格といっても、個別のカードは短命かつ不安定すぎて全幅の信頼を置くには至らないし、カードの能力差に応じて個別に判断するとなると、壮絶なイタチゴッコが否が応でも想起される。

なので、今回コンプガチャに絵合わせ懸賞(上記告示の4)が適用されることとなったのはかなり大きなニュースだが、実は景品上限額(上記告示の1)が適用「されなかったこと」はさらに大きなニュースだと言ってもよいことだと思う。

今回のニュースは、風営法を擁する本丸警察庁様の出方はまだ不透明なものの、少なくとも消費者庁としては、ガチャという販売手法そのものについては原則として踏み込まない、若しくは踏み込めないという意思表示だと捉えてもいいのではなかろうか。

追記)ソーシャルゲーム事業者が取り得る対策について

いつも遵法精神で溢れかえる当ブログには、上記事案を受けてさっそくいくつかの脱法アイデアが寄せられているのでここで紹介しておきたい。

・絵合せの景品としてレアカードを300円で購入する権利を提供

現在、絵合せ懸賞の景品はレアカードである。このレアカードが果たして「景品」なのかについては若干の議論はある。原価もないし、原則として換金の手段もないことになっているのだから、確かにこれが「経済上の利益」かについては疑わしい部分もある。ただ、ソーシャルゲーム事業者は、まったく同じようなカードを300円で売っている。これは300円分の景品と見られてやむを得ないだろう。

ではこの景品を、「レアカード自体」ではなく「レアカードを買う権利」にしてはどうか。権利には理論的な価値があるが、300円のカードを300円で買う権利であれば理論的にゼロ円である。ゼロ円の価値のものをゼロ円で提供しても、普通景品とは言わない。完璧である。

・絵合せでなくて同一カードの重複を条件にする

「2以上の種類の文字、絵、符号等のうち、異なる種類の組合せを提示させる」から違法なのだ。であれば一種類にすればよいという非常にシンプルな法の潜脱である。

ただ、シンプルなだけに禁止は難しいように思える。あっちこっちの店で配られるスタンプカードや、何度も本当に申し訳ないがヤマザキ春のパン祭りと本質的に何も変わらないからだ。これでも禁止できるんすか消費者庁さんよ、という非常に挑発的な好手であると言える。

有名ブロガーメルマガと芸能人ディナーショーの共通点について

最近、とみに有料メルマガがブームである。

つい先日も、切込隊長で有名なやまもといちろうさんと金融日記の藤沢数希さんが、相次いでメルマガを創刊した。

その他にも、ネットである程度有名と言われるような人は大抵メルマガを発行している。

いまや、ネット界隈である程度名を上げた末に有料メルマガを始めるという一連の流れは、完全にパターン化されたと言っていいだろう。昔メルマガといえば、メルマとまぐまぐくらいしかなかったが、いつの間にかBlogosも始めているし、他にも新規参入は少なくないようだ。

メルマガに新規参入、何か今更だが。メルマガ、やっぱりブームなんだろう。

有効な課金手段としてのメルマガ

理由は分からないでもない。インターネットでの課金手段というものが限られているからだ。

古くパソコン通信の時代から、インターネットというものは、どうにもこうにも課金との相性がよろしくない。当初から課金を前提に設計されたiモードをはじめとするモバイルインターネットが課金天国として力強く発展したこととは実に対照的だ。

そういう中にあると、「ブログが人気です」「月間100万円PVです」というようなことに仮になったとしても、ともすれば単に「よかったね」というだけの話で終わってしまい、いざ課金と言うことになると「うーん」と頭を抱えてしまうということは多い。のだろう、たぶん。

グーグルのアドセンスに代表されるアフィリエイト広告というのは、現状においてブロクを収益化するうえでの最有力手段なのだろうが、これもイマイチパッとしない。実際問題として、いまご覧いただいている拙ブログ、多いときだと月間に10万近いアクセスがあるが、アフィリエイトの報酬というのは精々5,000円程度でしかない。仮にアクセス数が10倍の100万PVになっても、単純計算で5万円にしかならない。大規模になることによるプレミアムで2倍、さらに効果的な広告設置でさらに2倍になったとしても、20万円である。20万円、まあそこそこの金額ではあるが、月間に100万ものアクセスを集めるトップブロガーの収入と考えると、実に夢がない。うーん。

と、そういうときに頭をもたげる選択肢こそが、おそらくメルマガなんである。

思うに、第何次にあたるのかよく知らないが今のメルマガブームの走りは、堀江さんではなかったか。堀江さんのブログは、月額800円という料金設定で、10,000人を超える購読者を獲得した。つまり月800万円の収入であり、年収で言うと、ほぼ1億円。アフィリエイトによる雀の涙的な報酬と比べると、天と地ほどの差だ。 で、そうした懐事情を、堀江さんがまたわりと明け透けに公言するものだから、その発言ひとつひとつが、まるで海賊王の言葉が男たちを海へと駆り立てるかのように、ブロガーたちをメルマガへと駆り立た。

そう。大メルマガ時代の幕開けである。

みたいな。

まあ、概ねこのような理解である。

今メルマガが流行る不思議

ということで、メルマガを出す方の根本のところにある動機(=カネ)というのは想像に難くないわけであるが、よく分からないことが2つくらいある。

まず、なんで今更メールなのかということ。

これは、テクノロジーの話といえばテクノロジーの話だ。IT業界は日進月歩、次から次へと新しいテクノロジーやサービスが生まれている。先週もこのブログで書いたように、つい2年前に誕生したサービスに800億円もの評価がつき、10年前には影も形もなかったフェイスブックなんていうものが、明日にでも時価総額8兆円で株式を公開しようとしているわけだ。にもかかわらず、である。日本のネット界隈でいま一番アツいのはやっぱりメールマガジンですかね、ってなんかおかしくないだろうか。

別にアイフォンやアンドロイドのアプリでもいいし、キンドル電子書籍でもいいではないか。それこそフェースブックのアプリでもいい。なんでメルマガなのか。動的なコンテンツもなければインタラクティブな仕掛けもない。ただのテキストデータをメールサーバーを経由して送るというだけの原始的な仕組み。どうにもこうにも、ブームとしてはローテク過ぎると思うのである。これが最初の疑問。

それから、メルマガを購読する人が世の中にそんなに大勢いるという事実もよくわからない。だって、高くないか?メルマガ。

先にも上げた堀江さんのメルマガは、確か800円で月に4回発行だったと思うが、肝心の内容は、記憶してる限り、「こんなビジネスモデルが儲かるのではないか」的な講釈や、「勾留中はこんなことしてました」的な回顧録なんかがメインのコンテンツとされていたやに思う。

まあ、「あの堀江さんが注目する新ビジネス!」と煽られればまったく興味がないというわけでもないし、あのライブドア事件という特異な事件を、当事者として、しかも勾留中という特殊な環境下でどのように捉えたのかというのも、知りたくないわけではない。

しかしながら、価値とは相対的なのである。エコノミストでも日経ビジネスでもいいが、世に氾濫する数多のコンテンツの中で、堀江さんのメルマガだけが毎週毎週珠玉であられる蓋然性というのは、無いに等しい。そんな毎週書いてたら当然ネタって切れますよね、と言ってもいい。

にもかかわらず、である。

そこで定期購読を選択する合理性というのは、一体何なのか。

よくわからない。

ブログでは書けない話などとよく言うが、そんなものメルマガでも書けまい。

これら疑問というのは、何かメルマガの購読者を腐すとか、そういう文脈では断じてない。いちブロガーの端くれとして将来的な課金収入の可能性に思いを馳せるとき、読者に提供すべき価値がまったく想定できないという、ある種切実な問題なのである。

プライベート空間とファン心理

ということで、メルマガの何たるかに頭を悩ませ続けていたわけであるが、最近啓示が降りた。

タイトルのとおりである。

要するに、芸能人のディナーショーみたいなものではないのかと。

そう考えると、上記疑問が一気にクリアになる。何故今更メールなのか。これはおそらくプライベートな雰囲気と親密さの演出なのである。

堀江さんのメルマガでは、堀江さんが読者からの質問に答えるというQ&Aのコーナーが最も人気を博していて、毎週たくさんの質問が届き、堀江さん自身がそれに全部答えているようなことを、以前に当人のブログで読んだ。そのときは、結局他のコンテンツが大して面白くないということなのではないかと訝しがった記憶があるが、ファンイベントであれば交流がメインになることは、考えれば当たり前のことだった。ディナーショーにおいて、ステージから降りた芸能人が歌いながらテーブルの隙間を練り歩き、ファンと簡単な挨拶を交わすみたいな風景を夢か何かで見たことがあるが、メルマガのQ&Aコーナーというのは、まさにそういうことではないのか。

メールはローテクだと上では書いたが、メールというのは文化的側面が強いものだ。あれは、テクノロジーの進歩が創り出した新しい概念といった類のものではない。あの便箋のアイコン、カーボンコピーという呼称など随所にみられる紙メタファー、無駄に多い儀礼的なマナーなどから明らかなとおり、電子メールというのは、もともと存在していた手紙の文化を、オンライン上に無理矢理置き換えたものである。

だからだと思うが、メールというのはどうにも相手と向き合う感が強い。オープン⇔クローズという尺度で言うと、WEBが極めてオープンであるのに対してメールは実にクローズドだ。最近はWEBでもSNSなんていうクローズドなサービスが活況だが、それでもまだまだメールよりはオープンだろう。だから、普段ブログを読んでいる相手からメールが来るというのは、読者の視点からすると、結構急激に親密さが増すユニークな経験なのかもしれない。みのもんたの思いっきり生電話にも似てる。

次の疑問に移ろう。なぜメルマガは高いのか。これはおそらく、ファンが相手だからだ。

世間広しと言えども、「腹が減ったから」という理由で芸能人のディナーショーに行くやつはいない。みんなファンだから行くのである。当たり前だが。

次のような話を聞いたことがある。

光GENJI諸星和己は、光GENJIの解散から10年以上たった今でも1万人近いファンクラブ会員を組織しており、当該会員から生じる会費や、ファン向けのプライベートイベント(それこそディナーショーの類だと思う)、グッズ販売によって1億円以上の収入があるという話である。噂話のうえにうろ覚えなので、まったく信ぴょう性には欠けるわけだが、何となくさもありなんという感じがしないだろうか。

このさもありなんな感じだけを頼りに話を進めたいと思うが、要するにこのファン心理というやつは、キャッシュ・フローの源泉としては極めて安定しているのだ。ファンであることがアイデンティティの一部になってしまうと、もう金を払わずにはいられない。

蛇足になるが、このことは、アーセナルヤンキース、それにホークスといった人気スポーツ・チームのスタジアムが証券化され、数十年と言う年限の債券を発行していることからもわかる。

証券化される資産はキャッシュ・フローの安定感が肝だから、普通は例えばロンドンの地下鉄など、そういうインフラ系の案件が多くなるものだが、そうしたスタジアムなどが好んで証券化されるというのは、要するにファン心理というものも、インフラ並みに安定したキャッシュ・カウであると考えられているということに他ならない。

ということは、堀江さんのメルマガも、証券化したら30億くらい調達できるかもしれない。生命保険は必須だ。

メルマガ向き不向き

さて。このように考えると、同じ有名ブロガーでも、メルマガという戦略に向いている人とそうでない人がいるような気がしてくる。

堀江さんは、もちろん向いている。

キャラが立っていて、人気もあるからだ。不自然なまでに合理性を前面に押し出した彼の価値判断は、悩み多き子羊たちにはたまらないだろう。要するに持ちネタがプライベート空間で威力を発揮しやすいわけだ。

そういう意味では、逆にハックルさんや池田先生はあまり向いてないようにも思う。

ファンが多いことに違いはないが、彼らの魅力というのは、あまりプライベートな感じのスペースでは映えないと思うからだ。あの統合されているのか何なのかよくわからないキャラクター、筋が通っているのか通っていないのかよくわからない論理、計算されているのかどうなのかよくわからないファン心理。

ディナーショーというよりは、どちらかと言うと野外ライブみたいな見せ方が向いているんではないか。だから、マネタイズを考えるなら、ファンとのプライベートなやり取りを売りにすると言うよりは、野外ライブの会場でビールを売るみたいなやり方のほうが良さそうだ。なんの例えか知らないが。

あとは、冒頭でお名前を出させていただいた藤沢数希さん。こちらは、かなり器用な印象があるので、まあソツなくこなすだろうという気はするが、一方のやまもといちろうさんの方は、さほど向いてない予感もする。ちょっとハラハラするぐらいの毒舌が売りの彼のブログだが、同じ芸風をメルマガでやると、ただの陰口になってしまわないか。あまりマメにファンサービスをしていく風にも見えないし。ただ逆に真面目な感じでやっていくのかなという感じもする。

ファイナルベント翁も、意外とメルマガで商業化という野心を隠さないが、まああんまり向いてないのではないか。誤解を恐れずに言えば、イメージが暗すぎる。消費意欲を煽らない。まじめに社説の解説とかしそう。おそらく、自分というものを客観視し過ぎではないのだろうか。自分のキャラというものに対するコミットが感じられない。もっとこう、なんと言うか、息をするように自然に友達のような顔ができる人が向いてるんじゃなかろうか。人なつっこいというか。

で、私の中では、断トツ向いてそうなのがちきりんさんだったりする。

アンコールに応えて3回くらい、「そんじゃーね。」とかやるイメージというのだろうか。

あの方は、なんとなくファンサービス向きだと思う。そのちきりんさん、残念ながらメルマガについては発行の可能性すら否定している状況だ。きっとそれには訳があって、おそらくメルマガにリソースを割くよりもブログで広範に読者を集めたほうが彼女にとって便益が高いとかそういうことではないかと推察するが、案ずることはない。メルマガでは社会派の冠は脱ぎ捨てて、おちゃらけ人生相談と旅日記にすれば、ブログの方とコンテンツは被らないし、毎週ネタに悩む必要もない。ファンも喜ぶ。何も問題ない。

ということで、何の話かよくわからないが、ちきりんさんは是非メルマガをやったほうがいいというのが本日の結論である。何という大きなお世話だろうか。

アメリカ人の考えていることはよくわからんという話

幸せな未来は「ゲーム」が創る幸せな未来は「ゲーム」が創る」という本を読んでみた。

先日のエントリーでは、ソーシャルゲームに少し批判的なスタンスを取ってみた私だが、実はゲーム全般に話を広げれば、その将来について、割りと肯定的な見解を持っている。いや、ほんとうは肯定的というよりももう少し大袈裟に、むしろこれからの時代、大半の人々は基本的にゲームしかしないくらいの状況が実現してもおかしくないとさえ思っていたりする。

現実世界では、構造上、参加者全員が自己を実現する、というようなことがない。誰かが自己を実現するということは、同時に他の誰かが実現できなかったということを意味する。「優秀」とか「デキル社畜」といった誉れ高き称号は、誰か他にデキない奴がいるからこそ成り立つのであって、みんながみんな望ましい自己を実現できたら、それは誰もできていないということと同じになる。

私の理解では、こうした現実世界の本質的問題を止揚するテクノロジーこそが、バーチャルリアリティであり、ゲームなのだ。

私がソーシャルゲームについて根本的に合点がいってないのはまさにこうした点で、あれは現実世界をクソ仕様もそのままに、ただオンライン上に置き換えただけではないかと思っている。友達が多いほうが楽しめて。カネがあるやつが有利で。そうではなくて、ゲームというのはもっと、すべからく全員が楽しめるものではないか。現実世界における終わりなき競争に疲れ果てたような人たちも含め、全てのプレイヤーを優しく包摂してこそのゲームではないのだろうか。少なくともそうあろうとするべきではないのか。と、私は思ってる。

先進諸国において、失業はいまや解決不能な類の問題となり始めているが、失業の何が問題かというと、貧困に通じることも去ることながら、社会との関わりが絶たれることで、自己の存在を見失ってしまうことの影響は大きい。労働は、大多数の人にとって主要な自己実現の方法となっているからだ。もし、これをゲームが代替できれば、ゲームが万人にとって新しい自己実現のステージとなり得れば、それは社会のあり方を変えるだろう。

と、何となくそんなことを思っていたものだから、冒頭掲げた「幸せな未来は「ゲーム」が創る」というタイトルは、まさに我が意を得たりと膝を打つ感じだったわけだ。これはきっと、目を潤ませ時折大きく頷いたりしながら、終始高いテンションで読み進められそうだぞと、私はそう確信して、揚々とアマゾンで発注したのだ。

ところが、である。

その確信は完全に間違いで、むしろゲームに対する認識の多様性を見せつけられる結果となったのだった。日本とアメリカではずいぶんスタンスが違うのですね、的な。

よって、今日はその話。

現実を代替するというか、むしろ積極的に関わっているでござる

ということで、私が人々を幸せにするゲームとして思い描いていたのは、例えば、完全にAIなラブプラスだったり、他プレイヤーが全員ボットのモバゲーだったり、徹頭徹尾一人で楽しめる出会い系だったりという、何と言うかある種非コミュのユートピアみたいなものだったわけなのだが、この本に出てくるのは、むしろリア充の権化のような、それはそれは恐ろしいものばかりだった。そのギャップたるや。

なかでもとりわけ破壊力が高かったものを紹介しよう。「C2BK」は、サバイバルゲームに似ているが、異なる点は主に3つだ。街の中で開催される点、誰がゲームに参加していて誰が参加していないかがわからない点、そして最後に武器として銃の代わりに「ポジティブな挨拶」を用いる点 (ちなみに、挨拶にはいくつかパターンがあって、ジャンケンのような強弱関係が決められるらしい) だ。要するに、予め定められた挨拶を街中で無差別に繰り返し、たまたま挨拶した相手がゲーム参加者だったらポイントゲット。ヤッター!という話のようだ。

私はこの基本ルールを読んだ時点でダウン寸前だったが、ダメ押しとなった「ポジティブな挨拶」の具体例を紹介しよう。

  • 標的に「美しい[自分の地区や住まいの名前]にようこそ」と言う。
  • 標的に「今日のあなたはとてもすてき!」と言う。
  • 「とてもきれいな鳥がいますよ!」など、標的に何かすばらしいものを指し示す。
  • 標的の靴を褒める。
  • 標的に何か具体的な手助けを申し出る。
  • 標的が今現在行っていることに対してお礼を言う。
  • 標的に対する「相手がたじろぐほどの」感嘆の念を表す。
  • 標的にウインクし、微笑みかける。
  • 近くにある具体的なものについて標的が抱いている疑問に自発的に答える。

第10章 幸せハッキング 第2部 現実を作り変える p.276

自分も主食を小麦に切り替えたらこんなセリフを吐けるようになるのだろうか、というのが私の率直な感想である。というか、ウインクて。

まあ確かに、英語の直訳であるが故のセリフとしての不自然さというのもあるかもしれない。夏目漱石は「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという逸話が一時ツイッターで流行ったが、例えば上の挨拶も同様に意訳して「行楽日和ですなあ」とか「だいぶ春らしくなって来ましたなあ」とすれば、まあ言えないことはないかもしれない。

それでもなお非常に大きな問題として残るのは、自分がゲーム参加者だったとして、運悪く他プレイヤーに上記セリフを撃ち込まれたら一体どういうリアクションをすればいいのか、皆目検討がつかないという点だろう。

例えば銃で撃たれたときのリアクションというのは、両手を挙げてその場に倒れるなり、鮮血に染まった自身の手を見て何じゃこりゃと叫ぶなり、数多の事例をこれまでの人生で見聞しているが、ポジティブな挨拶で攻撃されるというのは全くニュージェネレーションなエクスペリエンスだから、経験の不足分を相当量のテンションで補わざるを得まい。試しに何度か自分を無理矢理自分を鼓舞しながらシミュレーションしてみたが、それでもやはり薄ら笑いを浮かべて「あ、、やられました…フヒヒ…」とか口ごもるのが精一杯であった。何かの罰ゲームだろうか。

こうした罰ゲームはARGと総称され、同著でざっと27個くらい紹介されていた。ARGというのは、Alternate reality game、つまり代替現実ゲームの略だそうだ。プレイヤーが家事を行うとポイントが加算されアバターがレベルアップしていくという家族で参加するタイプのゲーム、「チョアウォーズ」というのもあった。

コメントは控える。

著者にすれば、これらがまさに、ゲームが現実を作り変え現に人々の幸せをハッキングしている事例なのだということらしいのだが、私からすると、お母さんがなかなかオモチャを片付けられない子供に「じゃあどっちが早く片付けられるか競争ね」と促すといった子供だまし的動機付け手法との差異を見出すことは難しく、まさに「グリーだとかモバゲーだとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ、もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ」という感じであった。

世界と直接かかわりたがる人たち

そもそも、かの国では、PS3やXBOXといった家庭用ゲーム機用ソフト市場においても、FPS(First Person Shooting)という一人称視点でゲームが進むゲーセンのガンシューティングみたいなやつがもっともメジャーなジャンルだそうで、神の視点から自キャラを俯瞰するドラクエやFFに慣れ親しんだ我々からすれば、驚きを隠せない。

偏見に通じるだけなので、あまり安易に国民性の違いを語るべきではないと思いつつ、ここまで圧倒的な違いを見せつけられると、そっち方面に逃げ込みたくもなる。上記著作の著者は、やはりと言うべきかアメリカ人だ。やはり日本人とアメリカ人では、何か見えている世界に違いでもあるのではなかろうか。

我々日本人が好むゲームは、操作するキャラクターとプレイヤーである自分との間に神の視点のようなフレームを挟むものが主流だ。FF然り、ドラクエ然り。これはどういうことかと言えば、ゲーム世界と自分との間に、ひとつクッションを置きたがるということではあるまいか。そう考えると、確かに上述した小恥ずかしいサバイバルゲーム風のゲームも、専用の衣装で日常世界と隔絶したり、若しくは武器を物理的なアイテムに代えてコミュニケーションの直接性を減じるなどして、自分とゲームの世界の間にクッションを挟んでいけばプレイの敷居は下がっていくように思える。まあ、単なるサバイバルゲームに近づいていくだけだが。

その点、アメリカ人というのは、要するにどうもこの自分と世界の間に横たわるクッションを取り去り、直接世界と関わることを望んでいるように見える。そのように考えれば、両者の違いは他者や環境との関わり方における嗜好の違いとして整理することができ、 月が綺麗な話をクッションとすることもなく、直接に愛を語るさまも同じフレームで捉えることができる。

ただ、そうはいっても同じ人類、そんなに根本的な違いがあるはずもないと思うのもまた事実だ。勝手に違いを論っておいて何だが、根っこのところでは共有可能な部分があって欲しいのだ。

で、ひとつ思ったのが、世界と自分の間にクッションを挟みたい気持ちは不変だけれど挟む位置が違うのだという説である。我々日本人の感覚からすると精神というのは肉体に宿るものである一方、欧米の方の感覚と言うのはもうちょっとこう、なんていうか魂が分別保管されている感覚なのではないだろうか。要するに、魂と肉体が別々に知覚されているために、肉体が世界と自らとを仕切るクッションになっているのではあるまいか、という。我々が外部に求めるクッションを、彼らは内製化しているのではないかということだ。

ここまでの話の流れからして、以上の説が何の説得力も持たない単なる思い付きであることは明らかであるが、軽い検証の気持ちで試しに和英辞書で「宿る」を引いてみたところ、一応「reside」という英単語は出てくるものの、これはしかし、どちらかと言うと「宿る」というよりは「居住する」や「内在する」という意味の強い単語のようで、「reside on the body」で「(細菌などが)体に住む(生息する)」という使い方をするようだから、我々が思う「宿る」の語感とはずいぶん異なる。我々が「宿る」と言うときは、もう少し融和した、神秘的で一体感のあるイメージを抱いており、間違っても「細菌が体に宿る」とは言わないだろう。

もしかするとやはり、欧米には我々が言うような「宿る」に対応する概念は存在せず、然るに欧米的な感覚からすると、魂も肉体に宿っているものではなくて、細菌のように住まわせてるだけということなのかも知れない。もしそうであれば、身体は限りなくアバターに近いわけであって、旅の恥はかき捨てモードに入りやすいことも頷ける。

というわけで、急にスピリチュアルな感じの話になってしまったが、まとめると要するに、魂を信じ、挨拶を申せば、リア充になるわけなのであって、とりあえず壺買ってください、壺。

参考

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元。本願を信じ、念仏を申せば、仏になる。もし未読であれば一度くらいは読んでみてもいいかもしれない。キリスト教よりは、馴染み安い。

それってアービトラージなのかなっていう

本当は先週アップする予定だったものがすっかり遅くなってしまったけど、いつも小器用な文章と池田信夫先生仕込みのエクストリームな経済理論を操り、はてなのブックマーカーを爆釣りしている自称米系投資銀行勤務の天才クオンツトレーダー(そこまで言ってないか)の藤沢数希さんが、孫正義氏による自然エネルギー財団の設立について、いつにもまして気合の入った素敵なエントリーをあげておられるので、ぜひご注目いただきたい。

金融日記:孫正義の秘密のアービトラージ

曰く、「熱せられた石炭が熱放射によって煌々とオレンジ色に輝くように、孫正義の小さな体の中にある巨大なエネルギーは、隠し切れずに、その特徴的な前頭部からある種の赤外線を発していて、インターネット空間のツイッターを通して、僕の皮膚をも温めているかのようだった」そうで、確かにこのエントリー自体何か得たいの知れない熱気を帯びている気もする。まあそんな素敵な文章なのだけれど、枝葉末節の部分にいささか違和感があって本エントリーを書いているわけである。

藤沢氏が言うには、孫正義氏の狙いは「クロスボーダー電力アービトラージ」なのだそうである。通常は送電ロスによるコストを考えると電力のアービトラージは実現不可能であると断ったうえで、孫正義氏による奇跡のスキームを次のように説明している。

まずソフトバンク傘下の電力を大量に消費するデータセンターなどを韓国に移し、そこで大量の電気を韓国で買う。一方で、日本ではメガソーラー発電施設を建造し、極めて高い電気を地域独占の半官半民の電力会社に好きなだけ売る。これによって、日本海の国境を渡って韓国から日本に電気を運ぶことなく、実質的に韓国で買った電気を、極めて高い値段で日本国民に売りさばくことが可能になる。

金融日記:孫正義の秘密のアービトラージ

同エントリーでも簡単には説明されているが、アービトラージというのは要するに同一商品の価格差を利用して利鞘を稼ぐ取引のことである。

例えば、日本と欧州でリンゴの値段が全然違って、欧州ではリンゴが日本の1/10以下の金額で取引されていたとすると、欧州で買ってきたリンゴを日本で売れば鞘を抜くことができる。これが原始的なアービトラージだ。

ところが、上で紹介されている韓国で電力を買って日本では売るというスキームは、どうもこれとは勝手が違うように感じる。韓国で買って日本で売っているのだから「実質的に」鞘を抜くことができるのだと書いてあるが、あまり合点がいかない。

まず、韓国で買う量と日本で売る量がまったくバランスしない。ソフトバンクのデータセンターの電力消費量について正確なところはまったく存じ上げないが、あれだけの規模の会社のデータセンターであれば相応の規模だろう。一方で、国内における発電は自然エネルギーということだが、自然エネルギーによる発電というのはどうやら「技術的にも経済的にも」難しいもののようだから、あまり大規模な発電能力は期待できないのではないのか。いくら価格差が大きかろうが、買う量より売る量が少なかったら、あまり儲からないのではないか。

逆に、もし国内の自然エネルギーによる発電が、韓国で購入する電気量に近しいものであるなら、つまり自社のデータセンターの電力をまかない得るものであるなら、自社のデータセンターを自家発電にすればよいだけの話ではないか。それができないから、安い電力料金を求めて態々韓国まで出張るのである。

また、韓国で買った電力は、すべてサーバーの駆動のために消費されるのであって、日本の電力事業とは何の関係もない独立した取引だ。

これはつまり、リンゴの喩えで言うなれば、日本のリンゴ農家が欧州に行ったときにリンゴを買って食べた、いや日本ではリンゴを売ってるのだけどねという特に面白くもない小噺のような状況に近い。

確かに、態々欧州に行ってまでリンゴを食べる理由が、リンゴを食べずには生きていけないが国内で食べると高いから だとすると、必要な費用を削減するというかたちで「鞘を抜いて」いるのだから、アービトラージ的だと言えなくもない。ただその場合、欧州でリンゴを食べることによって鞘を抜く主体が日本でリンゴを売っている必要はまったくない。

要するに、孫正義氏が電力料金のアービトラージをするためには、日本で変な財団をつくって電力事業を行う必要はまったくない。単に電力料金の安い国でデータセンターを運営して、ローコストでオペレーションされるホスティングサービスなりデジタルコンテンツなりを日本に輸出すればそれでアービトラージは成立、めでたしめでたしだと思うわけである。

確かに独立した取引を組み合わせるタイプのアービトラージも金融業界にはあって、例えば三菱UFJの株を買う一方でみずほの株を売るという取引がそれだ。これらはそれぞれが独立した取引として成立しているが、アービトラージに分類される。この取引のカラクリは、2つの銘柄の間に統計的に相関性があることであり、つまり統計的に異常な水準まで価格がかい離した時に高いほうを売って安いほうを買う。要するにかい離率が統計的に正しい値に収束することに賭けるわけだ。よって、この場合はかい離が収束するからこそ収益が生まれるのであって、かい離が「永久に縮まらな」かったりしたら大失敗なのである。

■■

ということで、孫正義氏が自然エネルギー財団を設立する狙いは電力のアービトラージで儲けるためだというのには強い違和感がある。もし孫正義氏が自然エネルギー固定買取制度の実現などを通じて日本の電力料金を吊り上げて何か得をするとしたら、それは競合他社のコスト増ではなかろうか。NTTやKDDIが高い電気料金に苦しむ中、自社だけが安い電気料金を満喫できれば、素晴らしい優位性を確保できる。

ただこれも、NTTなどの競合がデータセンターを海外に移設しないという前提があってこそ成り立つ戦略である。現実的にはそのような不確かな前提のもとで自社が採用する戦略を決定することはあり得ないから、この仮説もイマイチ説得力に欠ける。

結局のところ、孫正義氏はロマンチックなだけではないかと思ってる。日本のみんなが困ってる。ワシが立ち上がらねばならんじゃろうが!みたいな。日本版ノブレスオブリージュというか。

最近の事案で言うと、松本復興相による恫喝事件(大袈裟?)からの連想で注目された「えせ同和行為」の方が余程アービトラージぽい事案である。

えせ同和行為(えせどうわこうい)は、同和、部落を名乗る個人あるいは団体が、企業団体に対し同和問題への取り組みなどを口実とした賛助・献金を要求したり、企業・行政機関等の業務に差別問題を当てつけて抗議を行い、示談金名下にゆすり・たかり等の不当要求をする行為である。
また、同和利権に絡み、公共事業等への不正な参画を目指す行為も同義として扱われることもある。これらの犯罪行為を行う団体は暴力団と密接に関わっていることが多いため、警察などの監視対象となっている。

えせ同和行為 - Wikipedia

要するに、同和や部落民の被る差別等の損害について、実体と世間によるイメージに乖離があるからこそ利権が生まれるのである。差別の損害がまったくないわけがないことは自明である。ところが世間がイメージするところよりは少ないから、世間からの賛助や献金が損害を穴埋めしてなお余ることとなり、その余りの部分がある種の利鞘であり利権なのである。

原発は「安全」なのか

福島の原発が緊急停止して以来フル稼働を続けている我らが池田信夫先生だが、その勢いはとどまるところを知らず、最近では原発を自動車と比較して安全だと強弁するのが先生のマイ・ブームのようだ。

自動車のリスクを「年間5000人」と書くのなら、同じ基準で原発のリスクを比較しないと不公平だろう。日本の原発事故の死者は、これまでゼロである。2名の死者が出た東海村事故は核燃料加工施設だが、それを入れても年間0.04人。少なくとも「原発のリスクは自動車をはるかに上回る」とはいえない。

池田信夫 blog : 自動車や石炭火力は原発より危険である - ライブドアブログ

過去のデータを援用して原発の「安全性」を訴えるその姿は、まるで住宅ローンのデフォルト率に関する過去の統計データを根拠に、サブプライム層向けの住宅ローンを証券化商品に加工したものを、理論上絶対安全と吹聴して世界中の投資家に売りまくった投資銀行家のようだ。

サブプライムローン問題においては、過去何十年に渡って安定していた住宅ローンのデフォルト率があるときを境に急増し、何百倍にも膨れ上がった。これは、端的にいえば証券化商品の販売が好調だったがために、信用力の低いサブプライム層に対しても貸し出しを増加させたためだが、過去の統計データが将来の結果も保証するわけではないという当たり前の教訓をもたらした。

今回の原発事故についても、未だ事態は収束しておらず、被害がどこまで深刻化するかわからないからみんな不安になっているわけで、統計上は安全であると主張したところであまり意味を持つとは思えない。

そもそも、今回と同規模の事故は過去にチェルノブイリとスリーマイルしかなく、統計データと呼ぶにはあまりにも心許ないという気もする。


過去の統計データなどによる推計からは考えられないような事象が起こることを、存在しないと思われていた黒い白鳥が発見されることで既存の常識が覆る現象に準えてブラック・スワンと呼ぶが、面白いのは、池田先生が上の記事を執筆される2週間ほど前に、「原発事故というブラック・スワン」という記事を執筆されている点である。

今回起こった福島の事故が本当に想定外の、理論上は起こり得ないようなものであればあるほど、過去のデータなど引き合いに出しても何の意味もないということにしかならない。これからまったく想定外の事態に発展して多数の死者が出るかもしれない。

私は原発について何ら専門的な知識を持たないので、福島でこれから起こり得る事態をある程度の論理的整合性をもって解説するようなマネはできないが、想定外の事故が起こったのであれば、今後想定外の被害が発生する可能性があるということはわかる。それは太陽系の惑星がすべて縦に並ぶような確率かもしれないが、そういうことが1週間続けて起こったりするというのが池田先生も大好きな「ブラック・スワン」の意味するところだ。

原発事故はブラック・スワンだと言うことと、原発は統計上安全だと言うことはまったく逆のことで、それを同時に主張するのは、まるで「まあデフォルトしますけどね」と言いながら証券化商品を売るようなものである。


私は別に原発に反対するつもりはまったくなく、むしろ安定した電力供給のためにできることがあれば協力したいくらいだが、原発のリスクを必要以上に矮小化するつもりは毛頭ない。

現状においても、原発から半径20キロ圏内の住民には避難指示が出され、30キロ圏内の住民には屋内退避指示が出されている。約40キロ離れた飯舘村の土壌からも、IAEAの避難基準の約2倍にあたる放射性物質のベクレル量が検出された。放射性物質による汚染の被害は数万年にも及ぶと言われ、こうした地域に住む人たちは、不安に苛まれながら避難所で生活し、生きているうちには自宅に戻れない可能性もある。特に農家の人々などは商売道具の田畑が汚染されてしまったわけだから、生活が成り立たないだろう。こうした被害は誰がどう見ても「自動車をはるかに上回る」もので、死者が何人出ているかという問題ではない。

死者が出ていないのは単に避難したからで、自動車事故と死者数で比べても何の意味もないことは明らかである。例えば本州の人全員が避難しなければならない事態に陥っても、死者が出なければ「安全」なのだろうか?

当たり前だけど、そういうことではないだろう。避難の結果死者ゼロで済んだからと言って、「安全」が事後的に決まるようなことがあるはずがない。常識的に考えれば、「危険」だからこそ避難した(させた)んである。

PVジャンキーの末路

先週末に東北地方と関東地方を襲った大地震は本邦観測史上最大級の規模とのことで、その凄まじい被害にはただただ息をのむばかりであり、このブログも更新を自粛しようかなどと少し考えたりもしたものの、別に私がブログの更新を控えたところで誰が助かるわけでもなく、おかしな自己満足に浸って自粛のスパイラルに嵌るよりも、いつも通りお気楽な妄想を垂れ流して世間様に苦笑されることこそが当ブログの使命かなどと思い、いつも通り更新することにした。

被災地の皆様には心よりお見舞い申し上げます。

さて、今回の大地震ような危機が発現し、国民がパニック状態に陥り、正確な情報が不足すると、「政府は真実を隠している!」などからはじまる壮大な演説をぶち、大衆を扇動しようとする輩が必ず出てくるが、これは本人の意図とは異なり無駄に大衆を混乱させるケースもある非常にリスキーな行為で、動機如何によっては下種であると断ぜざるを得ない。

池田無双

一部では既に盛大に批判されているようだが、今回、池田信夫先生が、NHK時代に原発の取材をしたことがあったからだかなんだか知らないが、福島の原発に関する不穏な報道が流れるや否やフル稼働を開始し、推測を織り交ぜた速報を精力的に世の中に発信されていたのが実に印象的であった。
以下では、特に印象に残ったツイートを引用し、個別に検証していきたい。


まずは以下の2つ。上のポストの方が時系列的に先に投下されていることに注意してほしい。

誤解をまねく表現がありました。「スリーマイル以上」というのは建屋が吹っ飛んだ点で、燃料棒などが(おそらく)まだ大気にさらされていない点では「スリーマイル未満」です。
2011-03-12 18:22:01

Twitter

原子炉建屋だったようですね。これで格納容器が裸になったので、スリーマイルより悪い。http://ow.ly/4d1rh (追記あり)
2011-03-12 20:47:39

Twitter

上のポストにおいて、「スリーマイル*1以上」という言い方に誤解を招く恐れがあることを認めておきながら、何故かその後も執拗に「スリーマイルより悪い」とする主張を繰り返す池田先生。

ご本人も指摘している通り、スリーマイル島では人的被害はゼロで済んだのだから、こういう場合、「スリーマイル以上」ではなく、「スリーマイル程度で済む」というような言い方をするのが常識的な言語感覚というものではないだろうか。いや、燃料棒*2が外気にさらされていないという点で、スリーマイルに対する大きなアドバンテージが残っているわけだから、「スリーマイル程度」という言い回しでも人によっては過激に感じる可能性は高い。ちなみに結果論ではあるが、最終的に事故としてはスリーマイル以下の水準ということで落ち着くのではないかというのが、本稿執筆時点における専門家間のコンセンサスのようだ。

結果論は置いておくとして、上記池田先生による発言当時、事実として建屋が吹っ飛んでいたわけだから「スリーマイル以上」という言い回しも不可能ではないのだろうが、こういう局面でわざわざそういう言い回しを持ってくるのは、傍目には注目を集めたいからやっているとしか思えない。

実際には、こうした煽り気味の口調は池田先生のお家芸とでも言うべきものであって、普段の池田先生のネタエントリーとまったく同じ雰囲気を漂わせているから、よく訓練されたはてなーであれば落ち着いて対処できるものであるが、発言当時の緊迫した雰囲気のなか、上記のような些か過激な発言が、池田先生の物言いに対する耐性のない人の目にまで触れてしまい、いらぬ混乱を招いたのではないかといういらぬ心配は捨てきれない。

次のように言うことが出来るだろう。この人は煽りが板につきすぎて、もはや煽らずには喋れないのだと。

我々はブックマーカーとして、アルファブロガーが自らが作り上げたキャラに飲まれるのを何度となく見てきた。これはまさにPV*3ジャンキーたる憐れなアルファブロガーの哀しい末路なのである。


次の発言の検証に移ろう。

「原子炉建屋かタービン建屋かわからない」という不自然な発表は、原子炉が「爆発」したと思われるとパニックになるのでごまかして時間を稼ぎ、ホウ素などの措置とワンセットで発表するためだろう。こんな大事なときに嘘をつくことが国民の信頼を失うことに気づかない役人の浅知恵。
2011-03-12 21:13:35

Twitter

普通の人は、原子炉建屋かタービン建屋かの区別に固執したりしないだろうから、特に不自然な発表だとは私は思わなかった。むしろ、役人を浅知恵とまで罵る姿勢こそ不自然で、更には「原子炉が『爆発』したと思われるとパニックになる」という、あたかも本当は原子炉が爆発したんだよとでも言いたげな言い回しも無駄に不安を煽るものとしか言いようがなく、本人にその意図がなく無意識にやっているとしたら、完全に病気としか言いようがない。

これについてもご本人が指摘するとおり、実際に爆発したのは原子炉自体ではなく建屋*4だったわけだが、世の関心はまさにこの点、即ち原子炉自体が破損したのか、外側の建屋が破損しただけかという点だったのであり、このタイミングで突然「原子炉建屋かタービン建屋か」に固執するのは、難癖をつけたいだけではないのかという疑念が拭い去れない。

大体、「原子炉が『爆発』したと思われるとパニックになる」のは、ジョセフ・ジョースターの言葉を借りれば「コーラを飲むとゲップが出るということと同じくらい確実」なことであるから、「原子炉が『爆発』したと思われる」ことをできるだけ避けるのは当然の措置なのであって、浅知恵などと揶揄される必然性がまったく不明である。

この発言についても、根底にあるのはやはりPVへの渇望だろう。役人をこき下ろして自らの権威付けを行えば読者が増えるという構図を無意識のうちに実行している可能性は否定できない。


さあ、極めつけは以下のツイートだ。

きのうは33万PV。aicezukiを上回る私のブログの最高記録。疲れたので、もう寝ます。
2011-03-13 00:08:40

Twitter

33万PV/日というのは確かに桁違いで、同じブロガーとして、つい自慢したくなる気持ちもわかる一方、こんなときに自慢しても読者の心証を損ねるだけで、百害あって一利ないことは誰の目にも明らかであるにもかかわらず、このようについ無意識にPVを自慢してしまっているのは、まさにジャンキーのジャンキーたる由縁だ。

「疲れた」などと、まるで市民のために戦い抜いたかのような言い草だが、実際はテレビを見ながら思いつきをつぶやいていただけで、うちの息子(5歳)と大差ない。

うちの息子もテレビから緊迫感が伝わったのか、いつもよりはやい時間にリビングで就寝してしまったが、要するにそれとまったく同じであり、人間年を取ると幼児に退行するという俗説をさりげなく裏付けているのは、本件で唯一と言っていい微笑ましいポイントだろう。

正真正銘のカス

そうはいっても池田先生は、普通の人よりも原発について詳しかったのは確かであって、そもそものところにあったのは恐らくその知識を活かそうという正義の動機であり、煽ってしまったのは、いつもの癖でついアクセルを踏み過ぎてしまっただけであることは、我々はてなーにとっては自明であるが、以下の人物は純粋な目立ちたがりだと断言してよいだろう。

Gucci Post- ブログ記者によるオンライン新聞 グッチーポスト -

もう明確に「第二のチェルノブイリ」などと断言しており、完全にアウト。発言の不用意さを指摘されると、政府関係者なども自分のブログを見ているから、あなた方のコメントは日本の役に立っているなどとわけのわからない詭弁を弄すあたり、もしかすると本人が一番パニックに陥っているのかもしれない。

ただ、こいつは、むかし植草教授が逮捕されたときに植草教授の友達だなどとホラを吹いて、あることないことでっち上げ、注目を集めた人物だそうで、さらにその前は、ライブドアショックのときもおかしな陰謀論のようなものを吹聴して回っていた急先鋒のような人物なので、こちらは正真正銘のカスであると断言していいように思える。

*1:[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%AB%E5%B3%B6%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80%E4%BA%8B%E6%95%85:title=スリーマイル島原子力発電所事故]。1979年3月28日、アメリカ合衆国東北部ペンシルベニア州スリーマイル島原子力発電所で発生した重大な原子力事故。

*2:[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%83%E6%96%99%E6%A3%92:title=核燃料をセラミックに焼き固められた燃料ペレットを燃料被覆管に封入して、端栓で気密にしたもの]

*3:ページヴュー。ウェブサイトの閲覧数。

*4:建屋の中に原子炉が入っており、さらにその中に炉心があり、燃料棒が入っているという整理。

茂木センセーはちょっと飛ばし過ぎじゃないのか

テレビでも引っ張りダコの偉い脳科学者であられる茂木健一郎センセーはtwitterでも大人気で、19万人を超えるフォロワーを擁する茂木センセーがひとこと呟けば、favstarは乱れ飛び、多段RTは大地の隅々まで響き渡る勢いである。

人気がおありなのは誠に結構なことであると思うが、どうにも口を挟みたくなるような多少過激な発言も散見される。しばしば小声で突っ込んでみたりもしてるのだが、今日はそれをまとめてみようと思う。

年齢制限は差別か

まずは企業の採用活動に対するこちらのtweetから。

学生は大学にとって顧客だが、企業にとっては使用人であるから、「同じこと」であるはずがない。大学と企業が、学生に対してそれぞれ異なるスタンスをとる最大の理由は、大学は学生から授業料をもらう立場であるのに対して、企業は学生を雇用し、賃金を払う立場にある点である。

これはおそらく、いわゆる年齢差別の話をしたいのだろうと思うが、この議論自体、「どうして気付かないのかねぇ」などと恰も当然のことであるかのように振る舞えるほどに強度のある議論ではない。なぜ企業が求める人材を年齢によって定義してはいけないのか、その答えは実に曖昧だ。

差別とは、「偏見や先入観をもとに、合理的な理由なく、他人に不利益を強要すること」を指すと言えるだろう。確かに、職に就けないと給与が貰えず生活が成り立たないから、就職を断られることはその人にとって不利益である。ただ、その際の企業側の決断が非合理かどうかと言う点には大いに議論の余地がある。企業が人の採用に際して考慮すべき合理性というのは、その人が、将来、使用人として、会社組織にどの程度貢献できるかに基づく。お互いに納得できる賃金を支払って、さらに大きな見返りがあるだろうと判断した時のみ、企業はその人を採用する。

お察しの通り、この判断は将来に関するものだから、本質的には占いと一緒である。統計的なデータなどからもっともらしい傾向を抽出して、それが普遍的な傾向なのだと思い込むことは出来るが、それが当たる保証はない。

年齢による採用判断が非合理だとして、では何が合理なのか。合理と非合理の線はどこで引くのか。これは解のある問題ではない。

年齢差別に関する議論は使用人にとっては心地が良いもので、庶民の耳目を集めるには都合がよかろうが、企業の判断を徒に縛ることが、本当に効率的で万人にとって良い結果を生むのかは、実に怪しいと私は思う。

一般的には、可能な限り規制を撤廃し市場を効率的であらしめることが、社会全体の厚生を最大化するための近道である。

連帯保証制度は純粋な悪か

センセーの義憤の矛先は連帯保証人制度にも向かう。

そもそも、民法から連帯保証に関連する条項を削除したところで、相対契約における連帯保証の定めを禁止することには一切つながらないから、微妙に何が言いたいのかよくわからないが、きっと連帯保証は悪習だという類の話だと想像する。

先般、貸金業法が改正され、借り入れだけでなく個人が保証できる金額も一定の額までに制限された。銀行による貸付は当該規制の対象ではないので、銀行から事業資金を借り入れている中小企業の経営者の多くは、引き続き多額の連帯保証債務を負わされてはいるが、方向性としてはこうした業界に対する規制は強化されていっている。

第十三条の二  貸金業者は、貸付けの契約*1を締結しようとする場合において、前条第一項の規定による調査により、当該貸付けの契約が個人過剰貸付契約*2その他顧客等の返済能力を超える貸付けの契約と認められるときは、当該貸付けの契約を締結してはならない。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S58/S58HO032.html

そういう意味で、茂木センセーのみならず連帯保証に批判的な意見というのは割と広範に見受けられるものなわけだが、こうした意見について私が常々思うのは、じゃあその分のリスクは誰が負担するのという話である。

なんとなく銀行が負えと主張する人が多そうだが、当然ながら銀行には自らが負うリスクを自らが判断する権利がある。もし本当に連帯保証が禁止されたら、銀行は提示する金利を高くするか、もしくはそもそも貸さないという判断をするだけである。

それにより、貧しい人が無理な借金を負わされることがなくなってメデタシメデタシとなればよいが、おそらくそうはならず、銀行は貧しい人たちにもっと金を貸すべきだという議論が起こる。絶対起こる。実際、アメリカにおけるサブプライム層への過剰貸付の問題はそうやって始まったのだ。

ビル・クリントン大統領によって住宅都市開発相の次官補に抜擢されたロバータ・アクテンバーグが、蓄えのない人々に銀行が融資をしない主な要因は人種差別だとトンデモな主張をし、サブプライム層に対しても無理矢理融資をさせたから、リスクを取りきれなくなった銀行が、証券化によってリスクをロンダリングし、世界中の投資家に売り抜けるという仕組みを開発したのだ。それが最終的にどういった結果につながったか、まだ記憶に新しいことと思う。

これはアメリカではこういうことがあったという話で、連帯保証人制度を禁止すると必ずこうなるという話ではないが、似たような事態に陥る可能性は決して無視できるものではない。こういった可能性を考えずに、ただ庶民の味方のふりをして連帯保証人制度廃止を唱えるのは、浅はかである。

茂木センセーは、こんなことも言っている。

連帯保証させられている企業経営者が真剣に肯くのは当然で、センセーは、自分に講演を依頼してくれた銀行の人たちが苦笑いしていたことの方をもっと真剣にとらえた方がいい。

マスコミに担がれながらその堕落を批判する

茂木センセーの怒りはとどまるところを知らず、ついには自らを持ち上げ、その権威の礎となったはずのテレビ局にも向かう。

その堕落したマスコミに担ぎ上げられているのが、他ならぬ茂木センセーご自身なのであって、マスコミを批判する茂木センセーはまるで自分の足を食うタコのようだ。その堕落したマスコミにもてはやされている自分とは一体何なのか、マスコミにどのような便益をもたらす存在なのか、一度立ち止まってゆっくりお考えになられてみてはどうなのだろうか。

上で例にあげたような、一面的な事実に基づいた浅はかで短絡的な主張を垂れ流して衆目を集め、迷える子羊たちを煽動する茂木センセーの姿は、ご自身が批判する堕落したマスコミの姿にそっくりだと私は思うが。

*1:「貸付けの契約」とは、貸付けに係る契約又は当該契約に係る保証契約をいう。

*2:「個人過剰貸付契約」とは、個人顧客を相手方とする貸付けに係る契約で、当該貸付けに係る契約を締結することにより、当該個人顧客に係る個人顧客合算額が当該個人顧客に係る基準額(その年間の給与及びこれに類する定期的な収入の金額として内閣府令で定めるものを合算した額に三分の一を乗じて得た額をいう。)を超えることとなるものをいう。

そろそろネット住民の反パチンコ論についてひとこと言っておくか

はてなでは定期的にパチンコに関する話題が注目を集め、大挙して押し寄せたブックマーカーたちが、口々に社会悪たるパチンコ業界に対する怨嗟の声を漏らすというのが恒例行事になっている感がある。

< ビンボーの 原因は パチンコ >
韓国でパチンコが禁止となったニュースを報道できない日本のマスコミ - なおすけの都市伝説と雑学
404 Blog Not Found:国辱 - 書評 - なぜ韓国は、パチンコを全廃できたのか

いつもは口汚く罵り合っているはてなーたちも、ことパチンコの話になると異様な連帯感をみせ、ネトウヨも(パチンコ産業を完全に排除したという)韓国に倣えと言い出し、はてサヨも権力による規制に賛成し、自己責任論者もパチンコ中毒者の肩を持つ。まさに圧巻なわけである。

パチンコ愛好家はただのバカか?

反対論者の論には、邪悪なパチンコ業界と、それにだまされ搾取されていることにすら気付かない弱者たちという非常に単純な構図が透けて見えるが、これは単純にパチンコ愛好家をバカにしているとしか言いようがない。

常識的に考えて、パチンコをする人にも何らかしらの動機があるに決まっている。彼らはパチンコによって何らかの欲求なり衝動なりが満たされると思うから、パチンコをするのだ。まったくもって当たり前の話過ぎて申し訳なさすら覚えるが、パチンコをする人とパチンコ屋の関係は、単純に需要と供給の関係なのであって、小作農と封建領主のような関係ではない。パチンコをする人のそもそものところにある動機も考えず、ただひたすらパッと見の印象で搾取だ陰謀だと噴き上がる様は、見るも無惨である。

パチンコはコミュニティサービスである

少し前*1、それなりの頻度でパチンコ屋に通っていた経験がある。回数を重ねるにつれ、徐々に常連客のような方々が話しかけてくださるようになった。私は生粋の人見知りなので交友はご遠慮させていただいたが、私の友人などは割と仲良くしていたようだった。

曰く、常連客にはいくつかの派閥があり、派閥内にはリーダー的な人もいるのだそうだ。そして、同じ派閥の中では、その日勝った人が派閥の仲間にコーヒーを振る舞うなど、頻繁にコミュニケーションの機会が持たれ、今日は誰が来ていて何回当たったとか、来てない人はどこそこに行っているとか、そういう話をのべつ幕なしにしているのだそうだ。要するに学校の教室と同じである。

専業主婦のように学校を卒業したあと仕事をしていない人や、仕事はしていたとしても例えばトラックの運転手のように他人と接する機会があまり多くない仕事に就いている人は、学校や会社のような特定のコミュニティに属して日々を過ごすという経験に乏しい。そしてそれはおそらくとても寂しいことだと思う。だから多くの人はパチンコに行くのではないか。パチンコのように結果が定量的に把握できるゲームは、コミュニティの軸として非常に優れていると思う。

パチンコをすると、脳内でエンドルフィンという物質が分泌され、これが中毒症状の要因になるのだという。こうした科学的な事実をもってしてパチンコを薬物に喩える向きもあろうが、エンドルフィンは基本的には自分が他人から良く思われていると感じた時に多く分泌されるものであり、このことはパチンコがコミュニティの軸にあたるものだということを裏付ける。つまり、パチンコで大当たりを引くというのは、小学校の運動会においてかけっこで一番になり、クラスの人気者になることと一緒だということだ。

パチンコは暴利か

実は以下の通り、パチンコ遊技機器が1分間に打ち出す球数は100球と決まっている。

(1) 性能に関する規格
 イ 遊技球の発射装置(以下この表、別表第6及び別表第7において「発射装置」という。)の性能に関する規格は、次のとおりとする。
  (イ) 遊技球を1個ずつ発射することができるものであること。
  (ロ) 1分間に100個を超える遊技球を発射することができるものでないこと
  (ハ) 遊技球の試射試験を10時間行つた場合において、(イ)及び(ロ)に掲げる性能が不変であるものであること。
  (ニ) 遊技球の試射試験を10時間行つた場合において、その間、遊技盤上の遊技球の位置を確認し、かつ、調整することができるものであること。

遊技機の認定及び型式の検定等に関する規則 条文 | 法なび法令検索

そしてパチンコの玉は1球につき大体が4円、還元率は概ね90%前後*2であることが一般的だそうだから、理論上1時間当たりの単価は2400円ということになる。決して安くはないが、特別高いとも思わない。キャバクラにでも行こうものなら、同じ時間で2倍も3倍もの料金がかかる。最近では、市場の減退を受けて新たな客層を開拓することに躍起になっているパチンコホールが、1円パチンコなるものも打ち出しており、これであれば単価は一気に4分の1になるから、1時間当たり600円である。このくらいになると、普通のゲームセンターとあまり変わりないのではないか。

パチンコ叩きの性根

パチンコ叩きの性根は、先般のエロ漫画規制に絡んで無駄に差別発言を連発していた某東京都知事とまったく同じである。要するに自分に理解できない価値を無価値だと断じているわけである。無価値なものを無価値ゆえに差別して排除するか、無価値なものを利権のために横行させているなどとしておかしな陰謀論の権力批判として辻褄をあわせるかだけの違いだ。

根本的な動機を理解しようという気はまったくない。パチンコを取り上げて、彼らはどうなる?幸せになるのだろうか?酒もタバコもやり過ぎは体に良くないが、節度を持って楽しめば人生に彩りを与えてくれるものだと思ってる。そういうものも含めて何でもかんでも浄化して、無菌室みたいにすることが本当にいいことだと思うだろうか?

ネット住民は極端なのだ。自分たちが大好きなエロ漫画が規制されるかもという事態となれば、表現の自由などと一見崇高な概念を持ち出してまで、権力の暴走を許すなともっともらしく口角泡を飛ばす一方で、パチンコ業界のようなパッと見で怪しい業界には我を忘れて牙をむき、勢い余って規制による廃絶を唱える。そうではなくて、なにごとも真ん中くらいが一番いいわけである。

*1:いつとは書かないw

*2:胴元の売上のうち、プレーヤーに払い戻される金額の割合のこと。ちなみに宝くじは45%、競馬は75%程度。

青少年健全育成条例と常識とインテリ系左翼気質

さて、東京都青少年の健全な育成に関する条例(以下「本条令」。)についてである。
先日、「こどもにエロ漫画を売りつけることで養われる国際競争力なる能力があるらしい」というエントリーを書いたところ、割と少なくない反応が寄せられた*1ので、今日はそれらの反応について思ったことを書いてみたい。

私に反応を寄こしたのはほとんどが本条例の反対派だ。まあひとくちに反対派といってもいろいろな人がいるわけだが、概ね以下のグループにわけられると私は思っている。

  1. 出版・流通業界の関係者で、本条例によって自らの経済的利益が害されるのではないかという恐れを抱いている人たち
  2. 規制対象になり得るコンテンツの消費者で、本条例によって自らの欲求が満たすことができなくなることを危惧している人たち
  3. 学術的な背景に基づいて、表現の自由(ごく稀にリバタリアニズム)についての"べき論"を展開している人たち
  4. 上記3グループいずれかのフォロワー、オウム又は猿真似


上記のうち4番の人たちの何も考えてなさや2番の人たちの必死さも本件事案を楽しむためのポイントに違いないが、やはり断然面白いのは3番の人たちである。

彼らの面白いところは、もし本条例の撤廃を求めるのであれば、本条例に反対する派閥を組織するための政治的活動をこそ起こさねばならないはずなのに、規制に対してニュートラルか若干ポジティブくらいの一般人を見るにつけ、何故かそれを見下してしまうところである。

折角なのでいくつか紹介させていただこう。なお、こういう良質なインテリ系左翼気質が多いのがはてなの特徴で、Blogosの方の客層とは全然異なっていることを強調しておきたい。以下のお歴々はいずれもはてなブックマークからの引用である。

まぁアサハカなりとは思うが普通の人がこの問題について割ける思考リソースなんてこの程度でこの辺が普通の感覚という意味ではよくわかる。自分の価値観を覗き込むような人じゃないとこの話の危険性は理解できんよな

はてなブックマーク - hal9009のブックマーク - 2010年12月12日

悪い意味で『常識的』な『一般人』の感想。そしてその「正しい知識」は「大人になれば自然に覚える」と続き、覚えないまま『失敗』をした者を白眼視して『社会』から追い払う。

はてなブックマーク - 振り返れども人はなく、我の前には誰もなし - 2010年12月13日

「妊娠や性病に対する正しい知識もなく、単にエロ漫画の影響で興味本位に性行為に及ぶ小中学生が増えたら、それは事態として「不健全」である。」まあ、そういうものでしょうね、市井の人の認識は。

はてなブックマーク - egpehcbd のブックマーク - 2010年12月13日

本当に危険性があるのなら普通の人にこそそれを理解させるべきなのであって、アサハカなりとか見下している場合じゃあないし、常識的であることを悪い意味でなどと嘯いてアウトローを気取っている場合でもなければ、自分が市井の人とは違うマイノリティであることを匂わせてニヒリズムに浸っている場合でもない。

別に私は彼らに世直しをしろと迫るつもりは毛頭ないが、まあ所詮常識的な市井の一般人ならこの程度の感覚か、とか言われてもさすがにどうしたらいいのか皆目見当もつかないことこの上ない。


察するに、上記のようなインテリな方々は、潔癖主義なノイジーマイノリティを楯に権力が暴走してありとあらゆる表現が「有害」の認定を受ける虞や、そうでなくとも少数派の趣味嗜好を持つ人々に対する迫害に直結する虞などを危惧していらっしゃるのではないかなあ、、などとは勝手に想像するものの、やはりどう考えてもそれは今の段階では危惧に過ぎないわけで、「条例の適用にあたつては、その本来の目的を逸脱して、これを濫用し、都民の権利を不当に侵害しないように留意しなければならない」旨をキチンと謳った条例に反対するにはイマイチ根拠が乏しいと「常識的には」思わざるを得ない。こう書くと決まって規制派こそ規制する根拠を示せと言う人が出てくるわけだけど、過激なエロ漫画をこどもに売るなというのはあまりに常識的な話だし、かつ、本条例自体も昭和39年から一応無事に運営されている条例なようだから、やはり反対する人たちの方が根拠を示すのが筋だと思うわけである。

もし本当に危惧したような運営上の問題が顕在化した際には、それは条例違反なわけだから、その時は声を大にして運営の見直しを唱えればよろしいのではないのだろうか民主主義なわけだし、と思うのだがどうだろうか。常識的過ぎますか。

追記

「市井の人の認識はこんなもの」というのは別に批判的なニュアンスで書いたわけではありません。反対派の思考は私も含めて麻痺(この条例でフィクション全滅!子供読ませてもいいじゃんとか)してるよねということ。

はてなブックマーク - egpehcbd のブックマーク - 2010年12月14日

えーっ、すいませんわかりませんでした。。

*1:[http://news.livedoor.com/article/detail/5202700/:title=Blogosの方]に寄せられたコメントも含め。

こどもにエロ漫画を売りつけることで養われる国際競争力なる能力があるらしい

東京都青少年健全育成条例の改正について、条例や改正案の原文すらろくに読まずなんとなく雰囲気だけで表現規制反対だなんだと騒ぎ立てる輩が多いので、いつか何か言ってやろうと機会をうかがっていたところ、ここにきて大御所、池田信夫先生が登場し、ついに機は熟した感がある。⇒池田信夫 blog : 「青少年」という幻想 - ライブドアブログ
なお、本条例に関する私の基本的なスタンスは、こちらを参照していただきたいが、別に普通の規制じゃないのという感じだ。


さて、池田信夫先生である。

そもそもこの条例の求める「健全な青少年」とは何なのか。大人が「有害な表現」を指定して子供の目にふれないようにするという発想の根底には、子供は未成熟な存在で、「不健全」な情報を与えるとその発育が阻害されるという発想があるのだろう。

池田信夫 blog : 「青少年」という幻想 - ライブドアブログ

今般の条例改正に反対する人たちは一定以上の確率で、この「健全とは何か」というそもそも論を持ち出すが、極端な話、幼稚園児や小学生がエロ漫画を読んでいたら不健全極まりないことは明らかである。

「健全とは何か」などと仰々しい問の立て方をするからよくないのであって、少し具体的に考えてみればわかると思うが、性に対して正しい知識を持つ前から安易に性的なコンテンツにふれると、そのこどもや周囲が不幸になる可能性があるということだ。妊娠や性病に対する正しい知識もなく、単にエロ漫画の影響で興味本位に性行為に及ぶ小中学生が増えたら、それは事態として「不健全」である。

なにも性だけではない。暴力だって酒だってタバコだってそうだ。使い方次第によっては、使用者やその周囲の人を傷つける恐れがあるものについては、使用上のリスクについて、十分な知識を与えてから使用させなくてはならない。それが大人としての義務というものである。


池田信夫先生は上記引用部に続けて、以下のように述べる。

しかし最近の脳科学の成果が示すように、このように子供を「保護」する発想は間違っている。
脳細胞の数は生まれたとき最大で、その後は減ってゆく。神経回路の結合も子供のとき最大で、脳は自由に活動している。大人になる過程は、既成概念や社会規範に合わせてシナプスの結合を「刈り込む」ことである。だからエロ漫画によって子供の脳が「不健全に育成」されることはありえない。性的な刺激に反応する回路はもともと脳の中にあり、漫画によって発生するものではないからだ。それを禁止する動機がもっとも強いのは、自分の中の欲望を抑圧しているPTAの専業主婦だろう。

池田信夫 blog : 「青少年」という幻想 - ライブドアブログ

もう面白くて笑いを堪えるのに精一杯なわけだが、一体誰がエロ漫画で脳細胞の数が減る心配をしたというのか。大先生の脳は、ちょっと自由に活動し過ぎではなかろうか。

PTAはそんな科学的な現象に漠然と不安を感じたりはしない。PTAが危惧するのは、軽率に性交渉に及んで女の子を妊娠させるようなことがあったら大変だとか、うっかり酒やタバコに嵌って中毒になっては大変だとか、そういう具体的な可能性である。

なお、専業主婦は自らの欲望を抑圧しているという、トラディショナルなアダルト・ビデオのような価値観をさらりと持ち出すあたり、池田信夫先生の青春時代にも不安を覚えずにいられない事態となっている。


我々の不安をよそに、オチに向かって突き進む池田信夫blog。抱腹絶倒の大オチは以下のとおり。

エロ漫画の主な読者は「青少年」ではなく、描いているのも大人である。日本のオタク系コンテンツが世界的な競争力をもっているのは、それが西洋的な啓蒙主義によって抑圧されている「子供的な想像力」を解放しているからだ。その程度のこともわからないで自由な表現を公権力で刈り取ろうとする石原氏を見ていると、つくづく年は取りたくないものだと思う。

池田信夫 blog : 「青少年」という幻想 - ライブドアブログ

出た。国際競争力(笑)

そもそも前回も書いたが、誰も表現を「刈り取ろう」などということは言っていない。条例において規制の対象となっているのは漫画家などの表現者ではなく本屋などの事業者であって、規制の内容は有害なコンテンツを「青少年に販売し、頒布し、若しくは貸し付け、又は観覧させないように努め」ろというものだ。

表現自体をするななど誰も言っていない。どんなに有害なものであろうと自由に表現すればよろしい。ただ単にそういう如何わしい表現物を、それを消費したり使用したりするための十分な知識を持たないこどもたちに安易に売りつけるなという話である。

幼気なこどもたちにエロ漫画を売りつけることで養われる国際競争力など不要である。