はじめに

目次:非モテについて勉強してみた - よそ行きの妄想


本論の目的は現代における非モテの社会的位置づけを研究することと、それによりいくつかの現代社会の抱える病理を明らかにすることである。

研究の対象である非モテの定義については、まずは以下を参照されたい。

非モテとは - はてなキーワード
非モテとは一般的には、異性からモテないこと。また、モテない状況にいる人のことを指す。

もともと「モテ」という言葉から生まれてはいるため、誤解されやすいが、現在の用法としては「非モテ」の対義語として「モテ」が配置されている訳ではないことに注意。「モテ」は第三者による評価だが、「非モテ」は自意識の問題といえる。

「モテる」とは複数の異性から恋愛対象として求められることを指しているが、「非モテ」における「モテ」の意味することは、もっと原始的な、他者(異性だけではなく)から求められるという意味に変化している。他者による承認が得られないという悩みなのだ。

中でも、恋愛経験がないために、一人でもいいから異性に好かれたいという恋愛による承認を求める人が「非モテ」を自称することが多い。「非モテは複数の人にモテたいんでしょ。そんなモテる人なんてごく少数で、一人の人に愛されればいい」というような発言は、非モテという言葉を見かけた時によく見かけるが、これは誤解である。

その一方で、「モテるための努力を回避する」という恋愛至上(資本)主義へ批判的態度およびその人のことを指す場合もある。

後者の非モテはさらに挫折型←→非挫折型、恋愛至上主義そのものからの退却←→恋愛(モテ)資本主義からの退却と大きく4つの型に分類できると思われる。

(『電波男』(本田透著)は「挫折型・非−恋愛資本主義」であり、『負け犬の遠吠え』(酒井順子著)は「挫折型・非−恋愛至上主義」、近年の若年世代のライト萌えオタク層は「非挫折型・非−恋愛資本主義」となる)

以上の通り、非モテの定義自体は非常に多岐にわたるが、ここではあまり個人の劣等感や悩みを研究したいわけでもないので、上でいうところの後者、即ち『「モテるための努力を回避する」という恋愛至上(資本)主義へ批判的態度およびその人』を研究の対象としていきたい。以後本論においては特に注釈がない場合の非モテは上記の意味を持つのでよろしく。

バブル崩壊後の日本社会はニヒリズムが蔓延する社会であった。そのなかで、唯一若者が情熱を比較的傾注させたのが恋愛であった。非モテとはそれに対するアンチテーゼであるようだ。

一方で、非モテはときに「社会からの承認が得られない」という広範な悩みであって、日本社会の病理でもある。引きこもりの社会問題化や非モテによる凶行などを目にするに付け、そう思う。しかしながら、非モテを異常者として括り、社会から阻害することでは何も解決しないのではないか。私は、そこに必要なのは非モテとそれを生み出した社会に対する研究であって、その先にこそ、より望ましい社会があるのだろうと信じて止まないのである。

こんな崇高な理念を掲げて、非モテについて勉強してみた。

なお、勉強してみたといっても、まあ1週間足らずの話なので、是非それを念頭に軽い気持ちで読んでほしい。


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戦後の終わり

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非モテはその定義により、恋愛至上主義または恋愛資本主義(総称して恋愛主義という)への批判から誕生しているから、まずは恋愛主義についての研究をせねばなるまい。

恋愛主義はいついかにして生まれたのか。恋愛主義の勃興を論ずるにあたっては、まず前恋愛主義時代についての考察を要する。

以下のデータは若者の性体験率を示すものであるが、バブル崩壊後の1993年以後急激な変化を遂げていることを明示している。
現代において性行為とは、恋愛のひとつの結果であることを考えると、バブルの崩壊期にかけて、恋愛に関する何らかのイデオロギーの変化があった可能性が高い。

ジェネレーションZとは? バブル崩壊後に育った平成世代 - トレンド - 日経トレンディネット
また、女子の性体験率は17歳で32.2%。うち、一人の相手とだけ経験があるのは13.5%、複数の相手と経験があるのは23.1%である。東京都が行った調査(2005年)でも高1が14.6%、高2が26.4%、高3が44.3%であり、ほぼ携帯調査と同じである。そして同調査によれば、女子の性体験率は、バブル崩壊後の1993年以降急増している。

ではバブルの崩壊は、日本社会のイデオロギーに対して、どういった影響を及ぼした事件だったのか。上と同じ記事からの引用になるが、下の考察は、バブル崩壊に関する考察として一般的なものだと思う。

ジェネレーションZとは? バブル崩壊後に育った平成世代 - トレンド - 日経トレンディネット
Z世代が生まれた1980年代半ばから90年代にかけての時代は、戦後の日本が求めてきた近代主義、合理主義的な価値観が揺らぎ始めた時代だと言える。あるいは、近代主義、合理主義的な知識人、文化人の勢力が退潮した時代だとも言えるし、さらにいえば、「近代家族」と呼ばれる家族制度が溶解し始めた時代だったとも言えるだろう。家族制度の溶解は、典型的には離婚率の増加が示していることはいうまでもない。
また、終身雇用、年功序列という日本的経営に対しても疑問が拡大してきた時代であり、転職者数が増え雇用の流動化が本格化した時代であると言える。ひとことで言えば、日本の戦後の体制の揺らぎが起こってきた時代であると言える。この揺らぎがバブル崩壊によって決定的になった。親の会社が倒産したとか、親がリストラされたといったことを経験している者が少なくないはずだ。自分の親が大丈夫でも、同級生などにはそういう人がいたはずである。信じられる者は家族でも夫婦でも会社でもないという時代が始まった。それが彼らの運命論的傾向を強めたのであろう。

つまり、戦後という時代においては、日本国民は敗戦からの復興という価値観をある程度共有し、また社会制度はその価値観を有する人に対しては「安心」を提供するというかたちで、それを後押ししていた。しかしバブル崩壊とともに戦後は終わったのだ。

バブル経済は社会学的見地からして、国民全体を支配した一種の価値観にほかならず、バブルの崩壊がもたらしたのはまさに社会的価値観の空洞化である。さらに、バブルの崩壊にともなう終身雇用制度や土地神話の崩壊などの経済的な変化も国民がその価値観を喪失することを大いに助長したと考えられる。

しかし一方で、社会とは、というか社会の構成員たる個々人は、何らかの共有すべき価値観を必要とするものである。このことを感覚論的に言い得ているのは以下の文章である。私たちは「生きる」ために「いきいきする」ことが必要なのだ。

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私たちは人間として生きている以上、何かで「いきいき」しなければいけない。テレビを見たり、本を読んだり、ゲームをしたり。でなければ退屈で死んでしまうだろう。
ただ、私たちにはもうすでに征服するべきフロンティアも打倒されるべき帝国も憧れのアメリカン・ウェイ・オブ・ライフもない。そして、私たちの前の世代をあんなにも「いきいき」させていた仕事すら、私たちを「いきいき」とさせてくれない。まさに前の世代が「仕事」に縋りつきつづけるが故に。

そしてこのことは、自我の安定の観点からも言及できよう。即ち人間は自己の存在を第三者によって承認されない場合においては、自我を安定させることができない。そして自己の承認を”たまたま隣にいた誰か”ではなく、社会が担うメカニズムこそが現代的な社会である。これは個人の生存にかかわる集団が、国家社会規模までに大きくなり、極端に分業が進んだことの裏返しである。社会とはそれを構成する個人に対して価値を与えるのである。

よって、社会が共有すべき価値観を失った状態とは、その機能を果たしえない状態に他ならず、まさにこの地球上において真空状態が許されないように、空洞化した価値観は何らかの新しい価値観によって代替される必要があるのである。


その価値観がまさに恋愛主義であったというのが筆者の見地である。

以下では、なぜ恋愛が社会を覆うまでの価値観たり得たかについて順を追って確認していきたい。


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近代的恋愛感の確立

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恋愛 - Wikipediaにもあるとおり、『恋愛はそもそも閉鎖された二者間関係に特有の現象であり、検証可能性に乏しい部分がある』。

ここではまず、恋愛を構成する要素を見てみたい。

一般的に「恋愛」という場合その意味合いは、相手に対する衝動的な感情、それに基づく行為、及びそれらからもたらされる経験まで、広範に及ぶ。

これらの恋愛を構成する要素が本能的なものなのか知的なものなのかに分類することは、恋愛を理解するにあたっての第一歩としては意義あるものに思われる。

まず、恋愛の感情面について、人は誰しも性行為を求める性的欲求や自己承認などの欲求を持っている。*1恋愛感情自体は、その本質を本能的なものに有していると断言してしまっても過言ではないように思われる。

行為面においても、恋愛は一般に性行為を含むものであり、性行為自体は紛れもなく本能行動であろう。しかしながら性行為と近代的な恋愛がその意味を同じくしないことはまた自明である。即ち、風俗店などにおいて金銭等の対価を支払って行う性行為は、社会通念上、明確に恋愛とは分けて考えられており、そのことは性行為と恋愛の間に何らかしらのイデオロギーが介在していることを示す。そういう意味では恋愛は本能的な行動を含むものの、一方では何らかのイデオロギーに基づいたものであるといえる。


また、恋愛の行動様式は複雑で、文化的である。ここで文化については、以下のものを参照したい。

文化 (動物) - Wikipedia
行動学的に考えた場合、文化とは、以下のようなものである。動物が後天的に身につける行動であるが、その内容は他の個体から伝えられる事で身につけるものである。ただし、その伝達には遺伝子が関与せず、個体間の情報伝達による。その伝達方法も文化的行動に依存している。そのような伝達の結果、ある集団を構成する個体の多くが、一定の状況下で、ある程度同じ行動をするようになる。

現代において恋愛には様式があり、それはハウツー本やテレビドラマなどを通じて伝達されている。*2これは非常に文化的な特徴といえる。

例えばこれを見てほしい。
このままひとりだったら怖いなぁとか、ちゃんと恋愛できる人に出会えるのか不安に... - Yahoo!知恵袋
「ちゃんと恋愛」ってなんだよ、ていう。

おそらく質問者は、社会的に是とされる恋愛様式を空気として感じ取っており、その様式に沿った恋愛をすることができるか、又はそれに適した相手を見つけることが出来るのかという命題に気をもんでいるように見受けられる。まさにこれは、いたいけな少女が気をもむほどに、社会的に是とされる恋愛様式が(明示的か暗示的かの別を問わずに)確立されていることを示す好例だと言えよう。こうした様式に沿った行動は知能行動といえ、冒頭に紹介した単純性行為と恋愛をわけるイデオロギーなども一括し、恋愛の文化的側面とよぶ。


また、恋愛を本質的に理解するにあたっては、恋愛の歴史を理解することも重要である。Yahoo!¥¸¥ª¥·¥Æ¥£¡¼¥ºの内容は非常に興味深い洞察が多いので、いくつか引用しながら見ていきたい。

大澤はロマン主義的愛を、①愛を表現する行為が内面の主観的=主体的な表現と見做され、愛の対象も他者の主観化された世界の全体となり、愛は主体に帰属させられる選択として強く自覚され、またその対象も相手の外面的な特徴ではなく、内面的な主観性=主体性(他者独自の世界観・価値観)そのものとなる、②真の愛は結婚の永続的な結合へと収束するはずのものとして観念され、結婚はただ愛のみを根拠にして正当化されるに至る[大澤 1996:90]という二つの条件によって定義している。

まずは定義からだが、上で引用したロマン主義的愛こそは近代的恋愛の究極的なもののように思えるが、これはそもそも江戸時代などにはなかった概念だという。そもそも当時は英語のLOVEに対応する単語がなく、恋愛という単語を新たにつくってまでそれにあてたというのだから間違いはないのだろう。*3このことについては下の例示も興味深い。

例えば『女学雑誌』第303号に発表した『厭世詩家と女性(上)』の冒頭でこう語っている。
「戀愛は人生の秘鑰なり、戀愛ありて後人生あり戀愛を抽き去りたらむには人生何の色味かあらむ[北村 1965:30]。」 
その内容は単純な恋愛賛美ではないが、冒頭の一句は当時の知識人にかなりの衝撃を与えたという。木下尚江は「まさに大砲をぶちこまれたようなものであつた。このように真剣に恋愛に打ち込んだ言葉はわが国最初のものと想ふ。それまでは男女の恋愛、男女の間のことはなにか汚いものの用に思はれてゐた[色川1994:217]」と述べており、また、島崎藤村は透谷の論評を読み、電気にでも触れるかのような深い幽かな身震い[色川1994:217]を感じたという。

つまり、そもそも「恋愛」という概念は輸入品であるということだ。

ではなぜその「輸入品」が日本の価値観として普及したか。これは旧来型の「家」制度の崩壊と相関があるという。

山田は機能主義的な観点からみた場合、社会には恋愛と婚姻制度の対立を無化するようなメカニズムが備わっていることを指摘している[山田 1994:123-127]。両者の対立とは、突発的に生起する感情である恋愛が、労働・経済的単位を作るという社会的機能を有した婚姻制度を崩壊させる危険性を持つという意味だ。安定的な婚姻関係に対立する「不義の恋」が法規制の対象であったことはみてきたとおりである。
この対立を無化するメカニズムとは

①恋愛と結婚の分離戦略、
②恋愛の抑制戦略、
③恋愛と結婚の結合戦略

であり、①の分離戦略は恋愛する相手と結婚する相手を無関係なものとして区分して制度化するものであり、その典型として江戸時代の花魁遊び(遊廓)がある。②の抑制戦略は恋愛体験自体にマイナスの価値を付与するもので「不義の恋」を取り締まる幕府法制度は、これに該当するだろう。③の結合戦略は「恋愛=結婚したい気持ち」と定義する戦略であり、社会規範を通じて恋愛生成の規則を作り上げ婚姻の要請と恋愛の欲求を結びつける制度を作ること[山田 1994:126-127]である。この見取り図に従えば、近世から近代にかけての恋愛の変容は①+②の戦略から③の戦略への移行であると、ごく大雑把にだが、記述できるだろう。

つまり、国家が管理する対象が「家」である限り、恋愛はむしろ国家そのものたる「封建秩序」を崩壊させかねない危険因子であり当然に抑制の対象となるが、ひとたび管理の対象が個人に移った場合にはその抑制は必然性を失うのである。これによって、恋愛は結婚と結合せしめられるとともに、抑制の対象からは徐々に緩和されていったのである。

これは、結婚と恋愛の関係を、目的と手段の関係に落とし込むことに他ならず、こうした経緯を踏まえた場合、恋愛の文化的側面は、すくなくとも当初は、結婚によって担保されていたものであるといえよう。つまり、結婚と恋愛の結合が恋愛の文化的側面をつくりだし、そうすることによってはじめて、日本においては近代的な恋愛という概念が誕生したといえるのではないか。

かくして恋愛は本質論的な本能的欲求に基づく感情という位置づけから、より文化的な行動様式へと昇華し、以降徐々に時間をかけて、現代に見られる文化的側面を確立していったのだと考えられる。

以下では恋愛が(自らを生み出した結婚よりもさらに)社会に対してその影響力を大きくしていく過程を検証したい。



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*1:トマスの「四つの願望説」によれば、人間は誰しも、(1)新しい経験の欲求:好奇心や冒険心を満たすこと。(2)安定/安全の欲求:危険や死を避けるために集団との結合を求める。(3)応答の欲求:恋愛や家族愛など個人的で親密な関係で認められることを求める。(4)認知/承認の欲求:名声や地位など世間から認められることを求める。 を有する。

*2:東京ラブストーリーやタッチなどの古典があり、それが細分化されるかたちで展開されている

*3:恋、情、色などの単語はあった。

近代的個の確立と功利化

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恋愛主義の普及を考えるにあたっては、それを推進した社会的な背景に加えて、なぜそれを社会が受け入れたのかという視点を要するだろう。

戦後の終わり - よそ行きの妄想でも述べたが、一般にある価値観を共有する社会は、それを構成する個人に対して価値を与える。逆に言うと、ある価値観を共有する社会に所属する個人は、その共有された価値観でもって自身を測り、自身の価値を絶対化することが可能となる。そうすることによって、社会を構成する個人はそれぞれが、それぞれの価値を把握することとなり、その価値の定量化によって序列付けがなされる。こうして社会にはヒエラルキーができ、また、そのヒエラルキーこそが社会である。

また、自らの価値を絶対化された個は、その価値をもって別の価値との交換を望むようになる。”別の価値”とは、例えば資本である。

具体的に見てみよう、恋愛主義の普及によって人々は自己の愛され力とでもいうものを徐々にではあるが、絶対的に規定することが可能となった。そして、相対的に多くの愛され力を有するいわゆる強者たちは、自らの愛され力を他者の愛され力と交換するだけではなく、結婚による経済的なメリットに着目し、自らの愛され力を駆使して経済力を有する相手と結婚するというひとつの成功パターンを生み出した。

つまり、絶対的に規定された愛され力が貨幣との交換をも可能にしたのである。

恋愛という価値観はそれを信仰する人に序列をつけると同時に、より大きな社会である資本主義社会との(ほぼ)1対1の対応を実現させたのである。


少し話がそれるが、そもそもの資本主義の繁栄に際して、「近代的な個の確立」こそがコアな部分であるとする見方がある。即ち「近代的な個」とは、個人が自らの絶対的な価値を把握した状態であり、個人は価値を与えられ、それを把握することによってはじめて、個人が主体として、市場において価値の交換を要求することが可能となるとするもので、「近代的な個」の確立が資本主義経済の発展には不可欠のものではないかといのがう論旨である。

資本主義という奇蹟 - 池田信夫 blog(旧館)
こうしたいろいろな条件の中で、何が不可欠な資本主義のコアかというと、私は神の前で孤独な個人というキリスト教的な自己意識だと思う。人間が絶対的に孤独で、普遍的なルール(神)を共有する任意の他人と対等につきあうという社会はきわめて特殊で、ハイエクも晩年に気づいたように「自生的」に出てくるものではない。それは単なる宗教的概念ではなく、慣習法にもとづく契約や財産権などの制度とも不可分だった。

ここで、『神の前で孤独な個人』⇒「近代的な個」であるが、これはつまり、キリスト教的な神が個人を直接に規定しており、たまたま近所にいる第三者のような他人と比べずとも、神の意思を聴くことによって自らの価値をはかれるという仕組みである。この仕組み自体は以下で紹介されている、日本の社会観と比較することが、一層理解を深めると想う。

「オオヤケ」的階層化のYahooと「Public」でフラットなGoogle - アンカテ
日本人はもともと社会と直接接続する回路を持っていない。自分はまず「家」の一員であり、家を代表する家長が会社という「オオヤケ」に接続している。でもその家長も会社の中では、単なる「ワタクシ」の一員としてふるまう。会社が公的な存在であるのは、社長が会社を代表して、例えば業界という「オオヤケ」に接続しているからだ。

伝統的な日本社会というのは、社会の大きな価値観ではなく、社会の構成員同士の相対性が互いを規定するのだ。このことの良い悪いを論じるつもりは毛頭ないが、日本の伝統的社会においては、「近代的な個」を確立することは困難であるということは確かであろう。
特に女性においては。

ここで、本題に戻るが、恋愛主義はおそらく、女性が近代的な個を確立するための最初のチャンスだったのではないか。女性がついに近代的な個を勝ち得るに際して、どうしても必要な社会的な変革だったのだ。


そしてこの愛され力による勝ちパターンを模索する傾向は、過剰資本が日本に散乱した時代、即ちバブル期に一気に急拡大した。なぜならば、恋愛及び結婚が市場経済に組み入れられることによってそこには巨大なマーケットが誕生したからである。経済界はこの恋愛と結婚がもたらす莫大な利権を保持し、またさらに巨大なものにすべく、恋愛をもてはやし、恋愛マーケットへの参加を呼びかけたのだ。

恋愛至上主義社会論 | 考えるための書評集
恋愛信仰はここで徹底的に商業化され、「恋愛資本主義」として「マスコミ・ファシズム」が起こることになった。「恋愛しろ」「セックスしろ」「彼氏・彼女がいなのは恥である・人間ではない」「恋愛しないものは人間にあらず」「童貞・処女であることは恥である」といった強迫めいた雰囲気が社会をおおったのである。恋愛資本主義は強迫と強制をともない、若者の不安を煽情することによって、巨大な「ファシズム・マーケット」として成熟した

のである。

また、女性だけでなく、男性においても、冒頭に論じたバブルの崩壊とともに発生した価値観のエアーポケットのような価値観の喪失があり、そのスペースに恋愛主義はすっぽりとおさまってしまったのである。


こうして恋愛は、政府の規制緩和により文化的な側面を拡大し、女性の自立という時流もあいまって、価値観として認知され、産業界の後押しによって広範に普及した。
しかしこの急速な恋愛主義の普及は、その功利的な側面に少なからず立脚しているということから、同時に、恋愛が、女性が結婚によって経済的なメリットを実現するための手段に成り下がること、即ちひとこでいうと、売春化することを意味した。


おまけ

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恋愛至上主義へ

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近代的個の確立と功利化 - よそ行きの妄想で述べたとおり、恋愛主義はある意味では功利化されることによって普及した。

しかしながら、極端に功利化された恋愛主義(恋愛資本主義)は、”三高ブーム”(高学歴、高収入、高身長)などを生み出し、ひとつの完成形にいたる一方で、行き過ぎた功利性やその背後にある利己性に対しては批判が巻き起こった。恋愛はそもそもロマン主義的な理想をもって生み出され、価値観として普及した概念であったためである。

恋愛至上主義社会論 | 考えるための書評集
90年代に「純愛ブーム」が起こったとき、一方では「三高ブーム(高収入・高学歴・高身長)」が起こった。恋愛結婚への経済功利主義に対する不信という流れで見てみると、これはシャブのように切れる効き目を何度も打ち直さなければならかったということが見えてくる。カネにとち狂っているのに、一方ではこれは「純愛」だと何度も主張しなければ自らを納得できなかったのだろう。恋愛結婚と功利結婚はここで必死に抗争していたのである。

これはつまり功利主義的な世相に対する、ロマン主義の復権を求める抗争である。

抗争の結果、上述した功利的な恋愛観は結婚と結び付けられ、結婚という概念がその高潔さを失う一方で、功利的な要素を取り除かれた恋愛という概念は非常に純粋な感情として再定義されたのだと思う。そうすることによって現代社会に見られる(純愛としての)恋愛信仰は完全に成立した。

恋愛信仰の成立によって、恋愛の商業化はさらに加速することになる。表面的な経済性(それ自体における紙幣との兌換性)は薄れたものの、恋愛はさまざまな楽曲や映像などのコンテンツを営利化させることに成功した。恋愛主義は恋愛的なものに対して次々と価値を与えていったのである。そうしたコンテンツはさらに一層恋愛主義を社会に浸透させることとなった。


なお、結婚のマーケットが縮小したのもこの時期である。下のとおり、恋愛の経験が結婚のそれを代替してしまったことによるものや、結婚が恋愛の結果のひとつに成り下がることによる恋愛下手の結婚困難化などもあげられるが、そもそも結婚のイメージが功利的になり、理想主義者がそれを嗜好しなくなったことも大きな影響を与えていると考えられる。

山田昌弘『結婚の社会学――未婚化・晩婚化はつづくのか』
「男女交際」のあり方の変化が、結婚難をもたらすロジックを考察している。1970年頃から始まった男女交際の活発化の代表的な原因として、以下の4つをあげている。
1 女性の社会進出
2 青年の意識の変化
3 青少年の経済的余裕の発生
4 匿名性確保の手段の発達
さらに、男女交際の活発化が結婚難をもたらした理由を3つあげている。
1 恋愛と結婚の分離
2 もてる人ともてない人の階層分化
3 もっといい人がいるかもしれないシンドローム
「恋愛と結婚の分離」については、テレビドラマで描かれている恋愛の変化からも分析している。男女交際が増えると、選択肢が増える。選択肢がおおくなったがゆえに、もてる人ともてない人の階層分化という形で、結婚相手としても考えてもらえない層が出現することが結婚難の一つの原因である。

このことは、結婚のリアル化と恋愛の幻想化が同時進行したともいえる。


この段階で恋愛は、自らを価値として定義していた結婚を凌駕したのである。恋愛は結婚より出でて結婚よりも純潔なものとなったのだ。恋愛にとって結婚は目標ではなくひとつの結果になった。

いずれにせよ、汚れた価値観を取り除かれ純粋化された恋愛という価値観は徐々に絶対視されるようになり、恋愛の名目のもとであればおおよそ何をしてもよいという風潮を生んだ(恋愛自由主義、恋愛至上主義)。


すごくわかりやすい図式

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”モテない”という現象から”非モテ”という価値観へ

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かくして恋愛主義は社会広範を支配するに至ったが、これにより、これまで恋愛に対して積極的でなかった層でさえも、強制的に社会のヒエラルキーに組み入れられ、その社会におけるポジションを与えられた。彼らはしばしばオタクや秋葉系などとカテゴライズされ、恋愛主義社会における社会的弱者としての地位を強制されたのである。ここに現代恋愛主義社会が誕生する。

恋愛主義社会以前において、モテないということは単なる現象であった。これに対し非モテとはモテに非ずという価値観である。恋愛至上主義社会の最下層民が、自らも知らない間に恋愛主義社会に強制的に組み入れられていることを認識したことにより、非モテという概念が誕生する。

ポイントは「非モテ」という呼称は基本的に「自ら」または「自らが所属しているカテゴリ」または「自らを非モテであると認識している人」に対して使用されるという点で、オタクや秋葉系などの(差別)用語とは異なる。恋愛主義社会に能動的に参加しいてる層をモテと称し、自らはモテではないという宣言をしたともいえる。


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非モテの分類

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非モテMAP ver.003
ここに秀逸な分類があるが、いままでの研究を踏まえていまいちど再定義してみたい。

社会的弱者としての地位を強制され、またそれを自覚した人たちのとる行動としては、大きく3つにわけられる。その抑圧に対して1.迎合するか、2.反発するか、3.拒絶するか、である。

迎合する場合は、より上層のヒエラルキーを目指し努力するものと下層のヒエラルキーを自ら定義し、他人を貶めることによって相対的な自己の地位を高めようとするものにさらに細かく分けられる。

おそらくこの現象はいかなる社会においても見られる。努力によって自己の地位を向上せしめようとする行為は非常に健全であるし、他者を攻撃することで、相対的優位に立とうとする心理は、まさに学校社会におけるいじめの問題と構造を同じくする。
ただし、努力をしたにもかかわらず挫折をした場合は、その挫折の度合いにもよるが、より強く反発または虚無化することもまた申し添える必要があるだろう。


反発する場合は、反発の対象によって、恋愛功利主義などの恋愛主義の一部分への反発(≒恋愛原理主義)と恋愛主義全体への反発にわけられる。

萌える男 (ちくま新書)における「萌える男」は、反発型−恋愛功利主義への反発派に該当する。
つまり彼らが反発の対象としているものは、恋愛そのものではなく、功利化された恋愛という一部分であり、恋愛そのものに対する幻想は、著しくピュアである。だからこそ、リアルではなくバーチャルの、3次元では2次元の「キャラクター」を恋愛の対象とせざるを得ないという特徴がある。彼らは社会に対して反発こそしているものの、それはいうなれば流派の違いといったレベルの話であって、向いているベクトル自体は概ね同じであり、むしろベクトルの力は社会一般の平均よりも強いとさえいえるだろう。そういう意味で私はこの層については「恋愛原理主義」と呼びたい。そしてこの層はまさに「電車男」としてキャラクタライズされ、非モテを恋愛主義社会に再度取り入れるためのプロパガンダとなった。


拒絶する場合は、異なる価値観を持って自己を確立するものと価値観を拒絶することで虚無へと向かうもの(≒引きこもり)にわけられる。

異なる価値観については、代表的なものが「仕事」である。仕事とは社会における分業であり、それそのものが社会から承認をうける手段となる点で、恋愛の代替的である。但し、努力して恋愛における勝利を勝ち得ることが叶わなかったような層にとっては、社会的分業のハードルはなお高く、恋愛と仕事はセーフティーネットとしてお互いに補完するような関係にはなく、往々にしてどちらかを得られる人は他方も得、得られない人はどちらも得られないケースが多い。

さらに、恋愛主義は今日において若年層をも広範に支配しており、特に中高生の恋愛感応度は高く、恋愛主義と社会とを完全に同一視することもままある。これによって、非モテ非モテを認識する以前の幼少期において、挫折の経験を味わうことも少なくなく、ニヒリズムの蔓延に拍車をかけている。


まとめると。

  • 迎合型−向上主義
  • 迎合型−いじめ主義
  • 反発型−全否定主義
  • 反発型−原理主義
  • 拒絶型−自立主義
  • 拒絶型−虚無主義


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