非モテによる闘争とスイーツ(笑)と自己矛盾

目次:非モテについて勉強してみた - よそ行きの妄想


非モテの分類 - よそ行きの妄想において、非モテの分類を行ったが、はじめに - よそ行きの妄想においても述べたとおり、基本的な研究対象は反発型である。これは純粋に筆者の興味の問題で、個人の心理としての「承認されない恐怖」を研究したいのではなく*1、恋愛主義の社会問題的側面と、よりよい社会の可能性に興味があるからに他ならない。そしてこの反発タイプこそは、自身が強制的に社会的弱者に貶められたことを認識したうえで、それを個人の悩みとせず、何かしらの社会問題として捉え、反発をしている可能性が高いと考えている。以下反発型について考察。

まずは、反発型−全否定主義について。
このタイプについて論ずるにあたって、多少回り道になるが、まずはスイーツ(笑)について考えてみたい。


スイーツ(笑)とはなにか。

スイーツ(笑)とは - はてなキーワード
特に、マスメディア(おもに女性誌)の女性向けの特集にならうことがおしゃれであると考え、特集を鵜呑みにして気取っている女性を揶揄する言葉。実際はメディアに踊らされているとしか言えない状態であることが多いのだが、当人にはその自覚はない。
そのような女性が洋菓子・デザートのことをスイーツと呼ぶことに由来する。いつ、誰が、どのような経緯で使い始めた言葉なのかはさだかではない。2007年に入ってコピペが完成し、流行したもよう。

お菓子のことではない。ある人物(おもに女性)又はその集団、もしくはそれらの行動様式を揶揄、侮蔑するスラングである。どのような行動様式化というと、『マスメディアにならうこと』のようだ。
ここでマスメディアとは、要は不特定多数に向けて発信される情報媒体のことであり、逆に言えば不特定多数に受け入れられ得る価値を啓蒙することを生業としている集団のことである。恋愛主義がどれほどに、またいかにして現代社会の大半を覆っているかについては一応いままで見てきたつもりであるから、ここではかなり大きな影響力としての恋愛主義社会の存在を前提とすると、マスメディアが恋愛主義的な価値観を発信することは必然であろう。
そして、マスメディアにならう人、というのはつまり、マスメディアが発信する価値観に迎合し、かつその価値観を自らの行動様式に反映させるような人のことである。
つまりスイーツ(笑)とは、恋愛主義社会の積極的参加者に他ならない。*2現に、スイーツの同義語として、愛され上手(笑)や、モテカワ(笑)、恋愛体質(笑)に、ふわモテカール(笑)と、恋愛主義的価値観が少なからず対象となっている。
要はスイーツ(笑)とは、恋愛主義をはじめとする(マスメディアがもてはやすような)社会的な価値観に積極的に迎合する人々であり、それらに対する侮蔑の概念である。


なぜスイーツ(笑)は侮蔑されるのか。それはまさにスイーツ(笑)が恋愛主義社会の積極的参加者であり、もっといえば恋愛主義社会の上層民だからではないか。
つまりスイーツ(笑)とは、恋愛主義社会における、社会的弱者たる非モテ(ここでは単にモテない人の意)によるルサンチマンに他ならないのではないか、ということである。
それはまさに、旧約聖書出エジプト記の時代において迫害を受けたユダヤ人が、自らを迫害する社会の上層民を悪と定義つける価値観を醸成し、キリスト教的道徳観たる隣人愛の原点をつくったように*3非モテにとってスイーツ(笑)を侮蔑するということは、その対極である自らを正当化することである。現代の(恋愛主義)社会的弱者たる非モテは、自らの価値観をアンチスイーツで構成することによって、自らを正義たらしめ、恋愛主義社会からの迫害に耐える精神的なよりどころを構築したのだ。


この非モテの論理とでも言うべき、アンチスイーツ的価値観は、インターネットを中心に、広範に拡大しているように感じる。

下のサイトは、「妻が過去にAVに出ていたことが判明したがどうするべきか」という問いに対する2ちゃんねらの反応をまとめたものである。
痛いニュース(ノ∀`) : 「妻が過去にAV出演していた…どうすべき?」…Yahoo!知恵袋 - ライブドアブログ
『AVでた女は家庭持っちゃダメだろ。』という意見はなかでも極端なものなのかもしれないが、恋愛の功利主義的な側面=売春に対する批判というか、もはやそういった価値観を持つ人の人格そのものを否定してしまっている。

スイーツ(笑)と似た概念だがビッチというのがある。要はヤリマンのことらしいのだが、アンチスイーツの原理主義的論者に至っては、処女かビッチかという認識以外持ち合わせない。
404 Error - FC2ブログ
こちらは、彼女に浮気された人の悲しい話であるが、聴衆において、「ビッチは氏ね」という極端に単純化された図式が散見される。

ワラノート さっき路上でビッチに平手打ちしてきた
こちらのサイトなどは、現代版水戸黄門さながら、まさに勧善懲悪といった様相である。ここにはビッチ=悪という絶対的な価値基準が見て取れる。*4


要は、スイーツを全否定するあまり、性や恋愛に対して過剰に潔癖なのである。
しかし、そもそも、例えば性に対する欲求というのは本能的なものであって、人間の本質的な部分である。それを否定するということは、本質的な自己矛盾をともなうものである。恋愛は、冒頭に述べたとおり、文化的な側面を多く持つが、根本に本能的な行動が位置づけられる。べき論としては、非モテは恋愛主義者の文化的な側面のみを否定することが望ましいように思われるが、自らの正当性を確立させるにはやはり相手の価値観は全否定されることが多く、このいびつさが非モテの自己矛盾をうむ。

結局、アンチスイーツの価値観は、まさにキリスト教的道徳観がそうであったように、人間が人間らしく生きるということを否定することに繋がり、往々にして自らの首を絞めるという結果に繋がるわけで、アンチスイーツ的非モテの価値観は、すべからく縮小する運命であるのではないだろうか。


一方で、アンチスイーツでありながら自己矛盾をきたしていない層が、反発型−原理主義である。これは表面的には「萌え」などの価値観に積極的に迎合する層であって、彼らの心情もまた乱れた性に対する拒絶=痛烈な恋愛功利主義批判を含むが、それは「萌え」の純愛的側面と恋愛功利主義の比較に基づいた批判である。*5
上述した全否定主義が、アンチスイーツという自らが批判する対象に立脚しなければならないという構造的な不安定さを有するのに対して、原理主義者はより安定的な足場からスイーツを批判しているという違いがある。



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*1:「承認されない恐怖」を論じて、変なマッチョにウィンプ呼ばわりされる恐怖。

*2:ただ、すべての恋愛主義者がスイーツ(笑)というわけでもない。

*3:隣人である自らを愛さない人たちは即ち悪であるという道徳観。

*4:別にこの物語にでてくる個体としての「ビッチ」を肯定したいわけではなく、総体としての「ビッチ」が絶対悪のように括られていることに疑問を投げかけている。

*5:萌えの純愛的側面については、[asin:4480062718:title]が詳しかったので、興味があれば読んでみてください。

森永卓郎ってどうなの

私が個人的に、ほんとにこの人は知識人なのだろうかという点で、日ごろ嫌疑の眼差しでもって観察している人が何人かいる。

そのうちの一人がタイトルの森永卓郎氏である。

あんまり詳しく知らないし、本とかも読んだことないのだが、この人ってどうなの。

ちょっとこれを見てほしい。
原油バブルは近いうちに必ず崩壊する / SAFETY JAPAN [森永 卓郎氏] / 日経BP社
タイトルのとおり、原油バブルは近いうちに崩壊するだろうという趣旨の彼のレポートというか記事というかである。


その論旨たるや惨憺たるものに思え、即ち、原油バブルが崩壊するのは「崩壊しなかったバブルは過去ないから」であって、

わたしは、近い将来、原油価格が劇的に暴落する事態が起きると考えている。なぜなら、石油価格を高騰させた最大の要因は投機だからだ。投機にもとづく価格上昇、すなわちバブルは必ずはじけるのである。

原油の値上がりをバブルだと断定する根拠は、「製造原価と比して著しく値上がりしているから」だそうだ。

原油の製造原価は、1バーレル=3ドルといわれている。昨年初めの価格である50ドルで売ったとしても、47ドルものもうけが出る。それが150ドル近くにまで暴騰したのだから、これはバブルとしか言いようがない。

そして、はっきり言ってこの2つのことしか書いてない。


これでいいのか?(反語)


そもそも、近代経済における価格決定のメカニズムとして、製造原価を持ち出す人を私はあまり知らない。基本は需給である。

例えばこの考察は非常に興味深い。
石油価格の上昇を考える−溜池通信
石油の有限性、及び政治性に着目し、需要曲線及び供給曲線がそれぞれ直線ではない可能性を示唆している。それぞれが曲線であれば接点も複数になりえるから、価格の均衡点も複数になり得るというひとつの可能性である。

こういった考察を示してこその経済アナリストなりエコノミストなりだと思うのだが。


また、「投機的な原油の値上がり」という考え方自体なんとも言えない香ばしさがある。これって単にドル(をはじめとする通貨の価値)の下落じゃないの?その証拠に金などのインフレ耐性の強い商品も原油と同程度に値上がりしており、金で測った場合の原油価値は別に大して変わってないわけで。投機マネーがどうのこうのっていうのもまあなくはないのだろうが、要は世界的なインフレなわけで。
石油の価格は実は上がっていない? - GIGAZINE
こんなこと常識だと思うんですけど。


大体はじけたものを事後的にバブルと名づけるわけであって、弾けたことのないバブルがないって言う理屈はトートロジーである。そんなことを大声で言われてはこっちが赤面してしまう。


そもそも、随分下落が進んだこの状況(もうすでにピークから2割以上下げてる)になってからこんなことを言い出す姿勢もなんだかあざといような気がする。もしや明日にでも、さも急落を言い当てたような顔をするのだろうか。


amazonで見てみると、
新版 年収300万円時代を生き抜く経済学 (知恵の森文庫)
など、低所得者向けのような本が代表的なようだ。
低所得者に迎合するあまり、そのワイドショー的感覚にあわせて極端に議論を単純化させすぎて、わけがわからなくなってしまったのだろうか。
果たしてこれが守るものができた人の弱さというやつなのか。


もしここをご本人様がご覧になっていたら(絶対ない)、是非一度ご反論を頂戴したいものである。いや素直な意味で。

ということで一縷の望みを持ってトラックバックを送ってみたい。

ニヒリズムの蔓延とマスの消失

目下自慰的に連載中の非モテシリーズはあれはあれで物語として是非完結させてみたいのですが、テーマをちょっと一回外だししておきたいと思いまして。

何が言いたいかって、要は現代社会の問題点というか特徴としての、ニヒリズムの蔓延とマスの消失なんです。これらは、互いが互いの原因でもあって結果でもあります。

まずニヒリズムの蔓延については、単にニーチェの受け売りなんですが、要はニーチェが「神は死んだ」って言ってから現在に至るまで、結局新しい神は生まれてないんです。

日本の若者は、仕事をしようにも団塊の世代がいつまでもだらだらと頑張っていて出番がないし、(過去20年、労働市場で起ったこと(まとめ) - Chikirinの日記)恋愛しようにも資本力が足りない(恋愛資本主義)、結婚して家庭をもつにも恋愛が必要だ、一方で旧来的な価値観である「和」の空気(「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3)))みたいな相対的な価値基準もグローバリゼーションの影響で消滅した(しそう?)、
ということで、自己を承認するための価値観が見出せないのでは。

結果、ニヒリズムが蔓延し、一部には暴徒と化す輩も出始めるわけです。生に対する絶望ですよ。


マスの消失ですが、よくマスメディアがなんだとかかんだとか私も言いますが、もうマスなんてないんですよ。それこそ世代によっても国家社会(≒マス)に対する距離感や考え方は全然違いますし、地域によっても全然違う。性別によっても違う。みんなで頑張って豊かさを実現しよーとか、恋愛って素敵でしょーとか言ってた時代は終わったんです。
言うなれば、マスメディアもまた、セイの法則思想としての近代経済学 (岩波新書))下のビジネスモデルなんですよ。現代のような市場が縮小していくような社会では、それこそ格差も発生しますし、実現すべき豊かさもないし、なんかつくろうにも需要がないし、ということで社会全体が価値観を共有するなんて土台無理な話です。


だからもう、マスメディアが共通項的な価値観や空気を演出して社会の一体感を醸成!とか無理なんです。そしてこれはニヒリズムを助長させるわけです。価値観なんて自分でつくりだせる人はいないんですよ。誰かに与えてもらわなきゃ自我が崩壊しちゃうんです。伝統的なキリスト教社会なんかでは、神が人間に価値観を与えていたわけで、上にも書いた「神が死んだ」っていうのはそれがなくなった、ってことです。IT屋のバカマッチョは、すぐ「けものみち」とか「自分を信じろ」とか言いますけど、社会からの承認も得られずに、そしてその目算もなく、自分を信じてけものみちに突っ込んだら死にます。気をつけてください。

ちょっと話がそれましたが、ニヒリズムの蔓延はさらに社会を分裂させます。ニヒリズムに陥った人は、体制に対して批判的になるからです。

まさに負のスパイラルですね。


そして、この流れを加速させてるのもインターネットだと思いますし、逆にニヒリズムに対する救いもインターネットだと思うんです。
インターネットの功績って、昨日見忘れちゃったテレビがYou Tubeにアップされててうれしいな、とか、有料コンテンツがnyで取り(盗り)放題、とかじゃなくて、コミュニケーションの手段が多様化したということだと思うんです。要は「たとえそれぞれが遠く離れていても、距離的な制約を無視して価値観を共有できる仕組み」になりえると思うんです。つまりこれは社会の細分化が進むということで、マスの消滅とまったく同義ですが、小さかろうが、リアルじゃなかろうが、2ちゃんだろうが、はてなだろうが、誰かと価値を共有できて、その価値が自己を承認してくれるものなんだったらニヒリズムへの対抗にはなるんじゃないでしょうか。力への意思とか実存の美学とかわけのわからないこと言ってないで、小さくてもなんでもいいから、社会をどんどんつくっていこうよ、と。

はてなで有名プログラマとか非モテとかがクネクネやってるのって、要はそういう社会のはしりなんじゃないの。村とか言われてるし。いいぞもっとやれ。

ってことなんです私が言いたいのは。


ちなみにここでいう社会っていうのは、現状においてはですけど、資本主義社会から承認されるってことが必要条件です。つまりある社会が認定する価値は、ある程度貨幣との代替性を持たなくてはいけないんです。だから例えば、単に「犬好き集まれー」とかじゃなくて、集まった犬好きは、犬に関する知識なりの価値で相対化されて、かつ「しつけ教室」なりなんなりその価値をお金に換えるような仕組みを設けないといけない。単に集まってしまっただけの犬好きはただのオフ会で、消費集団に過ぎないわけです。だからVIPとかもだめです。
資本主義が現代の最強権力だから、こればっかりはすぐには変えようがない。でもそんなの簡単ですよ。価値がちゃんとあって人がいれば。


でさ、もうそういうことなんだから、旧社会の安心コースである学歴主義とかもうやめちゃえよ。っていう。その先になんもないんだから(まだあるけどどんどんちっさくなってるんだから)。学校という制度は社会と結びついてるうちはまだその存在だけで意味があるけど、それがなくなって単なる制度になったらほんとに教育の質だけが頼りなわけで、いまの教育制度で質の向上とか無理でしょどう考えても。だって給料安いんだもん先生の。


それから親はもっと子供を大事にしろ。こんな世の中なんだから。親が子供を愛して、全力で承認してやらないでどうすんのよ。「何を考えてるかわからなくて怖い」とか言ってる場合じゃないよ。お前のほうがわかんねーよ。あんたらの時代とは違うんだから当然だよ。
それで、子供のいってることはちゃんと汲み取ってあげて、それで(家庭という社会から)もっと大きな社会に親が要請をだしていかないとだめですよ。それはやっぱり親の役目ですよ。モンペ化しろっていうわけでも、甘やかせっていうわけでもなくて、自立した子供を育てるためになにが価値なのか教えてあげて、子供が生きていく社会をつくることにもっと尽力しましょうよ(自戒)。


と、いうことでちょっと勝手に盛り上がってしまいましたが、みんな寂しいんだよっていうことでご勘弁を。


※追記

  1. なんだか懐かしくなって、私にニーチェを読ませるきっかけになった下のスレを覗きに行ったら、2番目のレスに上で書いたのと大体おんなじことが書いてあって死にたくなった。404 Error - FC2ブログ
  2. あと企業について書き忘れた。従来型の企業っていいうのは、資本主義社会において資本主義的な価値を創出するもの、だったと思います。ただこれからは変わらなくてはならない。顧客を社会化させるものでなければならない。価値の創出者から社会の構築者へ、です。価値ではなく価値観を顧客に提供して、顧客間のコミュニケーションを活発化させるプラットフォームを提供しなくてはならない。そして顧客をhappyにすることです。それが、より大きな社会に対して真に貢献することだと思いますし、もっとも価値のあることだと思っています。