道徳

2歳の息子を保育園におくっていったときのはなし。
ものすごいぐずった。行きたくないと。久しぶりの登園なのでぐずったのだろう。絶対行きたくないと、泣き叫んだ。私は、行かないとダメだと言った。


結局は、切なる説得(ガチャガチャ買ってあげるよ、でKO)の甲斐もあり無事登園を果たしたわけだが、ひとり帰り道で考えた。なんで行かなきゃいけないのか。自分も、ついこの間まで子供だったから行きたくない気持ちはなんとなくだがよおーくわかる。それを無理してでも行けというのは、一体なにが私にそこまでさせるのかと。


あれはダメだこれはダメだと、私が子供に言うのは教育のためである(少なくともそのつもりである)。では何を教えているのか。保育園に行くことを善とする価値観があってこそ上記教育方針につながると思われるから、つまるところ、そういった「保育園に行くことを善とする」ような価値観を伝えたいがための、教育ではないか。


ではその価値観とはなにか、どういったものを善とする価値観なのか。快をもって善となすのであれば、「保育園には無理していかなくてもよい」という教育方針になろう。


ところで、信仰のある人は、その教えによる価値観を有し、信仰の無い人は享楽主義に偏りがちであるように思われる。一般に価値観が享楽主義的な人は、ダメ人間などとして敬遠されがちである。ここからわかるのは伝統的な価値観は享楽主義を否定しているという事実であろう。伝統的な価値観とは、おそらく聖徳太子の17条憲法(だっけ?)などに遡る、宗教的道徳心に端を発するものだと予想してみる。一方で明日の価値観として享楽主義が認められ得るかという命題も存在する。


ここで、現代の状況を分析すると、道徳心の基礎となっていた宗教心は薄れ、道徳心が形骸化している状況であると、いえる。だろうたぶん。逆に言えば享楽主義的な価値観を正面きって批判するだけの論理的基盤が欠如している。他の言い方をすると、価値観が多様化しており、それが許容されている。
なぜ人を殺してはいけないのか、などの命題が注目を集めるのは、人々が善悪の判断基準を見失っているからに他ならないのではないか。他人に迷惑をかけてはいけない、という価値観をことさらに強調する親は他者との関係性以外の価値観を人生に見出せずにいるのではないか。


とまあ、ここまでは確か以前にも考えた話しだったような気もするわけだが、ここで冒頭の自らの教育方針(価値観)を考察する。私は一体何を思って、ああいった教育をしたのか、というかしているのか。


おそらくその価値観は、資本主義の勝者となることに他ならない。資本主義の神に好まれる行動をもって道徳とする。これである。資本主義の神とは言うまでもない、貨幣である。貨幣は目的ではない。結果である。神に気に入られることを目的としても、神はそれを見抜くものである。何れの宗教においても、精神的な信仰が評価の対象となる。
保育園に行ったほうがいいのは、継続することに価値があるからだ。また、最後までやりとおすことは、信頼を得るうえでは非常に重要だ。信頼を得ることは大きな価値である。下世話な言い方をすると、信頼はカネになる。ということ。


私は、人の幸福のためには信仰は必要であると考える。そしてさらに、論理的かつ数値的に説明し得る資本主義的な道徳観は社会一般的な価値観として容認される素地があると考える。そこで、以下のとおり具体的にいくつかの例を挙げ、本稿の結びとする。

  • 時間は金である。他人よりも多くの時間を貨幣の獲得にあてれば、その分多くの貨幣を獲得できる。時間を失うことは機会の損失である。
  • 信頼は金である。誰かからの信頼を得ることができれば、それは必ず貨幣の獲得を助ける。
  • 知識は金である。他人よりも多くの知識を得ることができれば、それを販売し、対価を得ることができる。
  • 金は結果であり、自由であり、愛である。多くの金を得たものは、自由を得、また与えることができる。