秋葉原無差別殺傷事件に関してのお悔やみと教育による再発防止

あまりにもショッキングな事件である。

http://www11.atwiki.jp/akb_080608/pages/20.html
ここまでの狂気をここまでの臨場感をもって伝えられると、まず、恐怖を禁じえない。
また、あまりにも一方的な狂気の犠牲となった被害者のご遺族の方々にはこころよりお悔やみ申し上げる。
そして、被害者の方々のご冥福をお祈り申し上げる。


我々の生命は有限であり、いつ訪れるかわからない終焉を待つにあたっては、それを幸福のうちに受け入れる準備を、我々は常にしていなければならない。


個人の主体にとっての生命の意味とは、その当然の帰結である死という捉えがたい恐怖を、認識し、克服することであろう。だが、死とはなにか。我々は主体としての死を把握することはできない。我々が把握することができるのは客体としてのそれでしかない。親しい知人を失ったときの喪失感、絶望感など、これらは客体としての死であり、この感覚を自らに当てはめることで主体としての死を想像することはできる。しかしそれは、要するに世の中のすべての生命の死を想像しているに過ぎず、自らの死を想うには少々大げさな方法であろう。


よって、私は自分の心情を、冒頭に記した3つの感想として、その順序に従って整理する。即ち、私がもっともショックを受けたのは、その惨事がわが身に降りかかることの危険性に対する拒絶反応である。想像できる範囲における主体の死とは、上述の通り自己との関係のすべてが一瞬のうちに無に帰すことであり、じつに恐ろしいことだ。そしてこの恐怖は、自己のもっとも親しい間柄の関係、特別に代替の可能性が乏しい関係、自己の存在を定義付けるような関係について、それを奪われることと同様であると気づかされる。人は、主体としての死を把握できない限りにおいて、愛する人との死別と、自己の死を区別できないのではないだろうか。
従って次に、実際に自己との関係を唐突に奪われた方々、即ち被害者の遺族の方々にお悔やみを申し上げたい感情が起こる。彼らは、まさに生きながらにして、もっとも残酷な方法で死を経験することになる。今回のような類の事件の大きな特徴は、要は故人の冥福について確信できないことにあるだろう。即ち、天災や(愛国心の結果としての)戦争など、神や運命や国家などの超越的な存在ではなく、たったひとつの狂気によって、人間の生命が支配されることに起因する不条理がある。極めて強い不条理でもって、死を突きつけられたご遺族の方にはお悔やみを申し上げるほかにない。
そして、被害者の方々のご冥福を祈るのは、主体としての死が幸福のうちに迎えられたことを祈ることにより、ご遺族の方々における客体としての死のショックをやわらげるものだ。実際に被害者の方々がどのような状況なのか、私には知る由もないのである。望まない死であったことは明らかだが、それでも彼らが死を克服し、受け入れたであろうことを願ってやまない。



他方、今回のような事件を受けて、対策案の提言にひた走る各位もまた、少なくない。それはそれで結構なこと、というかやらなくてはならないことだとは思うが、例えば以下のようなものがめにとまったわけである。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/ea/25/
上のリンク先において、松村テクノロジーの松村社長は再発防止に向けて以下のように提言する。
・武器の入手困難化。
・防犯カメラの増設。
・若者の身体を鍛えること。
・殺人の厳罰化。
・子供に愛を注ぐこと。


私が言いたいのは、そもそも若者の身体を鍛えるって、どうやってやるんだよ・・などということではなく、上のようにただ単に規制を強化し罰則を強化するというのは、もともと規制の枠外の狂気に対する対応策として考えていたはずなのであって、当を得たものには思われない。そもそも、社会の進歩を考えたときに、国家による管理が肥大化するという方向性について、その考え方自体に賛成できかねる。


何をおいても教育だと私は思う。自己の生命の有限性、他者の生命の有限性、そして他者との関係に基づく自己の認識というのは、どれもすごく大事なことだと思うが、ちゃんとみんな教わっているのだろうか。そのあたりを歩いている大勢のヒトは、単なる生物ではなく、自身と同じように生命を有し、人生を経験している存在だということに気が付いているのだろうか。そして人間みな、他者との関係においてしか自己を認識できないという苦悩を産まれながらに抱えていることを理解しているのだろうか。


思うに、今回のような事件というのは、自己の生命(人生)を認識する手立てを失った中での凶行だったのではないか。資本主義から搾取され、社会から認められず、自己の生命(人生)を認識できなかったがために、生物的に他者に優越に立つ(他者を物理的に滅ぼす)ことによってそれを満たそうと考えたのではないのか。


しかし、そんな悩みはみな同じである。誰だって社会の要請に必死にこたえることで、ようやく自己の存在を確認している。宗教に頼る人もいるし、家族との関係に頼る人もいるが、どれも言うほど心強い頼りではなかろう。そういう事実を、単に知識としてであれ、知っているか知らないかではだいぶ違うのではないか。


他者を物理的に劣位に貶めることによって得られるのは、自己の認識ではなく、社会からの抹殺である。生物学的にこそ、死刑執行までの間は生きながらえるかもしれないが、人生(生命)は終焉を迎えるのである。


ゆとり教育とか言ってる場合じゃない。まずは医学や生物学を勉強すべき。


なお、こちらにはさすがに笑ってしまった。オススメ。
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2008/06/post_9361.html#more
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1136670.html