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父親とはなにか−フランス父親事情を読んで

生活

フランス父親事情

フランス父親事情


「父親とは、子供の母親の夫である」フランスではナポレオン法典の時代から、伝統的に父親をこのように定義づけるらしい。この定義はこれだけでかなり語るところの多いもののように思えた。


即ち、父親とは、その本質において、生物学的な定義によらず、専ら社会的な契約関係によって定義付けられるものだということ。やはり自分の体験からも、子供の生まれてくる過程や、そしてその後の授乳などの子育ての局面を見るにつけ感じるのは、母子の間柄における、その名実ともなった一体感に比べてしまうと、父子の関係というのはまるで他人のようだということである。学問的な知識は、その子供が私の体内で生成された精子をもとにしており、また私の遺伝子を承継していることを私に告げるが、そのことを実感する方法というのはあまりに少ないように思える。
また、本書は父親という立場は、いつの時代においても能動的な行動の結果による生じるものであるとして、妊娠を通じてある意味受動的に母親となる女性との対比を示している。男性を父親たらしめるものは、結婚という契約であったり、認知という行動であったりするということだ。
これも本書に書いてあるとおりだが、父親とは、要は家庭に入り込んだ他者の側面が強いようだ。


一方で、その他者性こそが家庭の中における父親の役割ではないか、というのがどうも現代の父親学らしい。今も昔も変わらずに父親によせられる社会の要請というのは、立派な成人を育てることである。親のいない子供が多い社会は荒れる。そしてその方法論としての父性というのは時代と共に変容しているというのが実態のようだ。それは古くは教育であり、懲罰であった。しかしこれらが社会(学校や司法、警察)によって代替されるようになると、父親はその存在感を弱めた。父権は親権へとその名を変え、女性によってコントロールされ始めた。
その中で見直されてはじめている、父性の役割というのが、上述した他者性だそうだ。エディプスコンプレックスという概念(子供が母親を確保しようという強い感情を抱き、父親に対して強い対抗心を抱く心理状態の事)があるるが、こうした過程こそが自我の成長に非常に重要な影響を及ぼすとするものだ。
即ち、父性とは、一体となった母子を分かち、同時に、一人の人間としての子供をかたちづくること、それが父親の役割だと本書は示すのである。


以上が本書の内容であって、これを読むと、以下にもあるように、確かに父性というものが日に日に社会に代替されていき、そのポジションを失っていくさまが脳裏をよぎるわけである。上述した家庭における他者という折角の役回りについても、社会による代替が不可能とは思えない。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51062685.html
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51064683.html
生物学的な根拠の乏しい「父親」という存在は、そういう意味では確かに頼りなくも思える。


ただ、私としてはここに3つ疑問を投げかけたい。
ひとつは、特に日本において、本当に社会は父性を代替するほどに成熟しているのか、ということ。まず、社会のルールは司法によって子供たちに伝えられているだろうか。答えはNOだ。日本の司法というのは社会の外にあり、社会に適合できない/できなくなった人を処分するために存在している。社会に法が偏在しているアメリカ型社会とは根本から異なる。その意味で司法は純粋に非日常であって、当然子供たちの目には触れることすらないだろう。司法は、日本の伝統的な社会にあっては、一般に社会のルールに劣後すrのだ。では、学校教育は?勉強だけでなく社会のルールを教えてくれているのだろうか。これも自身を持ってYESとは言えない。(特に公立の学校の)教師たちは権限(指導の方法の選択においての)を奪われている。そのなかで責任を持った教育をすることが出来る人が多くいるようにはとても思えない。そもそも教師という職がその待遇面で優位性を持つものでない限り、教育の質は各個人の内的な倫理観のみに依拠することになるが、それを信じるためには、すべての個人との面談を要する。これはSocial Capitalの高い、日本であってすら、である。むしろ司法なり学校なりという、比較的大きな社会に対して要請を伝えていくのが小さな社会としての家庭の役割ではないのか。
そしてもうひとつは、母親の子育てについてもまた、文化的な側面があるのではないかということである。これは以前にも考えたことがある内容であるが、要は自然界においては母親が子を殺すという行為は特に珍しいものではないということだ。そこにはどうやら、非常に合理的な「また生めばよい」という理屈が存在しているように思われる。より優秀な遺伝子を持つオスがいたら、(子が制約条件となる場合は)既存の子を殺してでも、そのオスの子を産みたいと思うのは、生物としては当然ありえるのではないだろうか。特に親が若くまだ生命力が高いうちは、自分の命(代替不可能)と子供の命(代替可能)を比べて自分の命を優先することもあるのではないだろうか。しかし(まともな)人間の母親はそんなことはしない。これは文化のなせるわざではないのか。
そして最後に、そもそも人類の文化は未だに生物学的な根拠を自身に求めるほどに脆弱なのか、ということ。例えば、目の前に裸の女性がいたとする。百人の男性に聞いたら百人がそれを抱くと答えるか?人類の文化は凡そその本能に打ち勝つべく、思想なりなんなりといった形態をとって進化を続けてきたのではないのか。それがいまさら子育てだけは、生物学的な根拠がないからよう参加できません、ではそれこそ子供の言い訳に等しいだろう。そこに存在していないのは生物学的ななにかなどではなく、単に男も子育てに参加すべきという文化ではないのか。


ということで、私が考えるひとつの結論は、現代の子育てにおいては男女の差はあまりなく、等しく文化的な営みだということ。そして家庭という最小の社会は、その社会にとっての未来(子供)の発展を目的として、より大きな社会の強化に望む必要があるということ。いまのところこのふたつである。