夢は時間を裏切らない

・槙原敬之vs松本零士氏が法廷で対決
もうほんとにどうでもいいんだけど、何故か気になってしまうニュース。それが槙原vs松本盗作問題。


原敬之はよくあの顔で歌手になろうと思ったなとか、覚醒剤できまってるんじゃないのかとか、お互い大人げないとか、「こんなことで裁判までするなんて」という感想に触れて、日本の司法はやっぱり社会の外にあるものなんだと実感したりとか、まあ、いろいろ気になる点は多いわけだが、一番気になるのは問題になっている歌詞の意味がさっぱりわからないことだ。さっぱりわからないのは気持ちが悪いので、少し考えてみた。

時間は夢を裏切らない。
これはまだ直感でなんとなくわからないでもない。夢は、真にそれが望まれている場合において、時間によって制約をうけるべきものではない、ということだろう。多少無理やりにはなるが、時間(を支配する神)は夢(を持ち、それに向かって懸命に努力している人)を裏切らない、ということかと。要は夢は叶うということだ。


夢は時間を裏切らない。
これがよくわからない。大体からして、「時間を裏切る」とは果たしてどういうことなのだろう。夢というのはそれを見る人の主観だから、それを裏切ったり裏切らなかったりできるけど、時間にはそもそも主体がない。それを裏切るというのはいかでか。例えば、あなたは目の前のPCを裏切ることはできるか。それをするにはまずPCがあなたに対して期待/予想していることを知らなければならない。さて、夢は、時間からなにを期待されているのか。


「裏切る」、という言葉は、「背く」と同義だろうか。まあ同義だとすると、ここで「背く」の対義語は「従う」だから、「裏切らない」≒「従う」となる。そうすると件のセンテンスは、「夢は時間に従う」と換言できることになるが、いよいよもって意味がわからない。意味がわからないというか、響きに夢がない。従うということは、制約をうけるということだろう。なんでわざわざ、夢が時間の制約をうける歌を、ケミストリーは歌わなければならなかったのか。


槙原は、このフレーズは仏教の因果応報に着想を得ていると語る。因果応報というのはつまり原因と結果である。で、槙原が書いた歌詞では「夢は時間を裏切らない」⇒「時間は夢を裏切らない」という順番になっている。これは前者が原因であり、後者は結果であると考えていいのではないか。


この基本ロジックと、上の換言法を併用すると、「夢が時間に従えば(原因)、結果として時間は夢を制約しない(夢は叶う)」という主張が表れる。ここまでいじくれば、意味がわかるような気もする。しかし、あまり夢いっぱいという感じのフレーズではない。夢(を見る人)が、まず時間の制約を受け入れることで、そうすることではじめて、夢がかなう様をうたっているように思える。確かに仏教を感じさせるリアリズムを内在している。


他方、松本零士のほうはどうか。彼の詩は、正確には、「時間は夢を裏切らない。夢も時間を裏切ってはならない。」である。これは原因と結果ではない。文末が「ならない」とあり、結果を表す表現としては実に似つかわしくないからだ。つまりこの2つの文章は並立か、後者の文が前者を補足するような立場にあると推測できる。


つまり、夢は叶うのである。松本零士はまずそう断言する。但し、夢も時間を裏切ってはならない、つまり、夢(を見る人)も時間に従うようにしなければならないとし、夢(を見る人)に対して努力を促す格好になっている。ように見える。もっと言えば、夢は時間を裏切るという主張が根底にあればこそ、このような促しを行うことに通じるのではないか。


まとめとしては、多少無理はあるが、このように考えてみると、両者の詩は確かに言い回しこそ酷似しているものの、そこに込めた想いというのは随分乖離しているようにも思えなくもない。松本零士の主張が、『夢は叶う、がんばれ』であることに対して槙原のそれは、『現実を受け入れない限り、夢は叶わない』ということのように思える。

法的にも、関連性の外で偶然に考え出されたものかどうかが争点になりそうだし、願わくば、このあたりが裁判でも争点になって、言葉の意味が明らかになることを期待したい。いやしかしほんとどうでもいいな。