日本のストリートビューはやっぱり気持ち悪いんじゃないかな

googleストリートビューについて、
樋口氏が日本人を代表して、気持ち悪いよと言ってみせて、
Google の中の人への手紙 [日本のストリートビューが気持ち悪いと思うワケ] - higuchi.com blog

そんなことないよという反論もちらほら。
日本のストリートビューが気持ち悪いと思わないワケと個人情報保護法との関係 - へぼへぼプログラマ日記

池田先生は斜め上。
「ストリートビュー」騒動をめぐる誤解 - 池田信夫 blog(旧館)

私は、とても失礼だし気持ち悪いと思っています。樋口氏に概ね同意です。
ただ、どうも樋口氏の主張に完全な納得感があるとも思えませんので、ちょっと思ったことを書いてみました。


1.私的空間を勝手に撮影してはだめだろ

日本の都市部の生活道路は生活空間の一部で、他人の生活空間を撮影するのは無礼です

というのが樋口氏のひとつめの基本ロジックですが、後半部分、即ち『他人の生活空間を撮影するのは無礼です』という部分については完全に同意します。
他人様の私的空間(や他人様自身)を勝手に撮影する行為が失礼千万な行為であるというのは、世界共通の認識だと私は思っています。
google様は人ではないから失礼にはあたらない、という反論は無理筋ながら想像できますが、なんぼgoogleという会社が高い倫理観と正義に包まれた高潔な会社であったとしても、googleのサービスを利用するのは所詮人です。最終的に行き着くところがただの人であるかぎり、やっぱりその行為は失礼だし、気持ち悪いです。
樋口氏のエントリでは、上のとおり、文章が「日本の」から始まっているため、「気持ち悪い」という思いの主体も「(世界から見て特殊な)日本人のみ」であるかのように読めますが、他人様の私的空間を勝手にじろじろ覗き込んだり、写真に撮ったりする行為が無礼なのは世界共通でしょう、というのが私の認識です。(但し、どこまでが私的空間なのか、については議論の余地はあると思います。)


2.私的空間の境界線

ところが日本の都市部生活者は逆で、家の前の生活道路、いわゆる路地のほうが感覚的には自分の生活空間の一部、庭先なのです。

1で引用した基本ロジックの前半部分を少し詳しく説明した部分ですが、これはちょっとおかしいです。実際、この点については、同記事のブクマコメントなどで、『公的な空間を勝手に私物化している方が悪い』などの反論にあっています。

別に、日本人が特別家の前の公的空間を私物化しているということが、日米の「気持ち悪さ」のギャップの要因ではないと思います。私はこのギャップについて、アメリカ人が日本における「塀」の役割を過小評価していることが問題なんだと考えます。

まず、アメリカの住宅なんかを見ると、公道から家までにある程度距離があることが一般的なようで、それだとそもそも公的空間からは、どう頑張ってもあまり私的空間は見えません。その場合、そもそも塀は不要です。

一方で、日本の特に都市部は極端に土地が狭いことが多く、住宅はひしめき合っていますので、みんな持っている土地を目いっぱい活用して住居を構えます。そのため、公的空間から見て、私的空間が非常に近くに存在しているという現象がおこりがちです。日本では塀がないと私的空間が丸見えになるわけで、だから塀があるんです。

ここで問題なのが、塀を設けてもなお私的空間のすべてを覆い隠すことはできない、ということです。例えば塀に近づいてちょっと背伸びすれば塀の中の私的空間が見えますし、そんなことをしなくても門の前で立ち止まって、門の隙間から中を覗けば十分に内側に広がる私的空間が垣間見えます。

例え話ですが、銭湯などの大勢で入る浴場を想像してください。一定以上の礼節をわきまえた人間なら、なんぼ自分のぽこちんに自信があろうと、それをひけらかすような真似はしません。タオルなどでざっくりと覆います。このざっくり感こそがポイントです。それこそじろじろ見たらしっかり見えてしまうほどのざっくり感なわけです。*1これがまた、あんまりがっちりとバスタオルかなんかをグルグル巻きにして隠すと、それはそれで神経質なおかしな人みたいなレッテルを貼られてしまいます。そこにあるのは、「決して綺麗なものじゃないんでみなさんの目になるべくふれないようにしますから、みなさんもあんまりじろじろ見るようなことはしないでくださいよ」という暗黙のルールなわけです。見られんのが嫌なら隠しとけという無粋な合理主義的価値観ではございません。気張らず、安心して入浴を楽しむための大人のマナーなわけです。

塀もこれと一緒で、見られたくないから屋根まで覆う、とかそういうのは無粋なんです。そんなことをしては日光があたらなくなるという実害もあります。だから、「ざっくりとですが塀をつくることで、汚いものを世間様に垂れ流すような真似は控えますから、みなさんもあんまりじろじろ覗き込まないでくださいよ」というのが、大人のマナーなんです。

まとめると、要は日本において「塀」というのは、私的空間を物理的に不可視化するだけでなく、ここから先は私的空間だから見ないでね、という精神的な線引き効果を兼ねるわけです。だから、塀によって「不可視化されていない部分」=「じろじろ見ても問題ない部分」じゃないんです。googleの中の人にはそれがわからんのです。

そういうことで、きちんとマナーを守って塀を設けている家について、精神的な境界線の向こう側をじろじろ覗き込むというのはマナー違反で、失礼で、そういうことをするやつは気持ち悪いんです。じろじろ覗き込まなくても、写真に撮ってしまえば、写ってしまうんです。どうしても。私的空間が。だから日本のストリートビューは気持ち悪いんです。


3.防犯とかそれ以前の問題

日本中の、いや、世界中の人が、ケーサツのお世話になるというリスクを負わずに、無防備な生活者の生活空間の様子を見ることができるということは、例えば侵入が簡単そうな構造の家屋を探したり、転売価値の高そうな自動車が公道に面した場所に駐車してある場所を探したりという犯罪のための下見を、誰もが通報されるリスクなしできるようになってしまった、ということです。

また件の樋口氏の同じエントリからですが、突然防犯上の欠点の問題になります。これはたぶん、「そもそも失礼なうえに、かつ防犯上の危険性もあるかもね」というニュアンスなのかもとは思いますが、あまりに唐突にでてくるので、案の定反論(というか上げ足取り)の的になっています。

上で出した銭湯の話をもう一度出しますが、例えばぽこちんを見られることで、直接的に、その人にとってなにか経済的な損失が発生する可能性があると仮定した場合。その場合、ざっくりとした隠し方をする人は無防備であって、それで発生した損害は自己責任といえるかもしれません。もしそういう世界がやってきたら、それこそみんな海パンを穿いて風呂に入るようになるでしょう。もっといえばそもそもそんな危険を背負ってまで銭湯とか温泉とかに行かなくなるでしょう。でもそれってなんかおかしいでしょ?安心して広い大きな風呂に入れるという貴重な文化を失ってますよね?

その安心っていうのは日本のソーシャル・キャピタルであって、経済的な価値のあるものだと思うんですよ。それがgoogleとかいう舶来品に一方的に破壊されて文句のひとつも言わないことが、果たして良いことといえるんですか?

だから、防犯とかそれ以前の問題なんですよ。ネットサービスはしばしば容易に国境を越えますが、越えた先にある文化を勝手に蹂躙していいわけがないんです。


4.反論に対する反論

たしかに「得体の知れない人」がうちのまわりでうろちょろしながらカメラで撮影していたら無礼というか気持ち悪いと思い通報するでしょう。しかしそれが気持ち悪いのは「得体が知れない」からであってたとえばそれが交通量測定のためですとか、町内mapを作るためですとかgoogle street viewを作るためですとかそういうことが分かっていれば何も気持ち悪いとは思わない。
引用元:日本のストリートビューが気持ち悪いと思わないワケと個人情報保護法との関係 - へぼへぼプログラマ日記

いやいやいや、そんなわけないでしょ。得体が知れるとか知れないとかじゃなくて、何に使うのかでしょ。なんぼ得体が国土交通省であっても、私的空間を撮影する目的が「一般に公開」だったら、「いやちょっと待て」になるでしょ?

反論するのもばかばかしいのですが、生活の進化というのはそういうものです。結局のところそれが法で認められている限りの世の進化には私たちが対応する必要があるのです。僕らは車が軒先までやってくるような生活スタイルじゃなかった!なんて騒いでいても仕方がないことなのです。

違うよ。全然違うよ。反論するのもばかばかしいのはこっちだよ。まったく逆で、法律が社会の変化をフォローするんだよ。なんで法律に生活をあわせにゃならんの。
まず最初にあるのはそこにいる人間の生活であって、その集合としての社会ですよね。社会にはルールができて、そのルールを社会の上部構造たる国会が汲み取って、又は要望に応える形で法律として明文化するんです。それが民主主義社会の国家運営じゃないんですか。

そういう意味で問題は、車が軒先までやってきて写真を撮ってはいけない、という法律が「まだ」できてない*2ことですが、それは単にそういうことをやる人がいるということ自体、問題として認識されていなかったという話であって、法律がないのならやっていいという話にはなりません。それを拒む社会的な慣習があるのであれば、それを尊重するのがコンプライアンスというものだと、郷原先生も言ってます。

本来、法令は何らかの社会的要請に基づいて定められているはずだ。法令を遵守することは基本的には社会の要請に応えることにつながるはずだ。
しかし、法令の多くがもともと外国から輸入されたもので、市民にとって身近なものではなかった日本の社会では、社会の実態と法令・規則との間に乖離が生じやすい。経済社会の環境が急激に変化している現在、その乖離は一層激しくなっている。こういう状況においては、単純な「法令遵守」では社会的要請に応えていくことができない。それに加えて、「遵守」という姿勢がもたらす「思考停止」という作用が、組織にとってさらにマイナスの作用をもたらす。
こういう日本の状況においては、コンプライアンスを「法令遵守」ではなく「社会の要請に応えること」ととらえなければならない。複雑化・多様化し、しかも、急激に変化する経済社会の環境の中で、社会的要請を的確にとらえ、それらにバランス良く応える組織の活動全体がコンプライアンスなのである。
引用元:インサイダー取引はなぜ悪いのか:日経ビジネスオンライン

と。

で法律的にはどうなのよ?というのをひとつ。前項の話と逆転してしまうのがアレなんだけれども、結論からいうとこれ厳密に適用すると個人情報保護法23条違反なんじゃないかな。

結論はどっちでもいいですが、上で書いたように、この問題は法律を持ち出すべきではありません。文化や慣習の問題です。法律の字面を追って、とりあえずのインテリアピールをするのはやめましょう。法律はその社会的な背景を読まない限り、(特に日本では)基本的に意味を成しませんので。


5.アンチストリートビューの訴えは権利のインフレか

ストリートビューでも、表札の名前や車のナンバーは(要求されれば)削除義務の対象になる。しかし自宅の風景や通行人の姿まで「プライバシー」に含めたら、今後あなたが街のスナップショットをとるときも、すべての通行人に許諾を得ないと撮影できなくなるだろう。
こういう権利のインフレは、著作権法にもみられるように、いったん起こると元に戻らないので、今のうちに歯止めをかけるべきだ。
引用元:「ストリートビュー」騒動をめぐる誤解 - 池田信夫 blog(旧館)

池田先生の言っていることは正しい。プライバシーを過剰に保護することは確かに他人の表現の自由を限定化することであって、そうやすやすと行われていいこととは私も思いません。
但し、じゃあgoogleは法律の許す限り、日本の路地裏を撮りあさっていいかというと、それはまったく別の問題でしょう。
上でも書いているように、それを規制する法律がたとえなくとも、他所の国でサービスを提供するのであれば、その国の文化や慣習にできるかぎり経緯を払い、尊重するというのが企業倫理というものでしょう。


6.結論的な
このサービスは絶対気持ち悪いと思います。このサービスが構造上、特に日本においては頻繁に、私的空間を撮影してしまう限り、まずこれは間違いないと思います。

ただ一方で、その気持ち悪さの代償として得られるメリット、即ち、このサービスの利便性であったり、経済的な合理性は考慮されねばなりません。現段階ではこのサービスは特別便利とも思えませんが、こうやってこつこつとストリートのビューを撮り貯めていくと、あるときあっと驚くような利便性が提供されるのかもしれません。私は今までのgoogleの実績や、このサービスのそもそもの衝撃度合いから察するに、そうなる可能性のほうがむしろ高いとさえ思います。

そういう意味で、このサービスが気持ち悪いというのは私としてのひとつの結論ですが、法で規制すべきとか、googleは出ていけとか、そういった議論に発展させるつもりは毛頭ありません。

私は、私たちの生活を便利に、快適に、そして楽しくしてくれるgoogleに感謝しておりますし、私はgoogleのファンでもあります。ただ、他所の国でサービスするにあたっては、その国の生活、文化、慣習に敬意を払わなければならないものだと思います。*3私は、googleがそれをしないことによって、不当に非難をあびるのを危ぶみます。不当な非難によって、今までのような積極的で、前向きで、面白いサービス提供が出来なくなってしまっては非常に残念だと思います。

*1:私は根っからの都会っこなので、地方のことは知らないのですが、地方ではみんなもろ出しだとはてブコメをいただきました。ざっくりでも隠すのは都市生活者の特徴で、地方のほうが解放的なのかもしれません。それはきっと土地が広いからでしょう。わざわざ隠さなくともそう見える(見られる)ものでないという潜在意識があるという意味で。

*2:はてブにコメントがあったので注記しますが、実際にそういう法律ができるかどうかという問題については、まずは「それを拒む社会的な慣習があること」と、「その慣習がマジョリティの感覚であること」が大前提ですが、一方で報道の自由なんかの兼ね合いもありますから、結局法律として明文化されるのは無理でしょうね。でもそもそも法律がなきゃなにしてもいいというわけじゃないと思うんです。

*3:本当はどこかで敬意を払っているのかもしれませんが、私の目には入ってません。