近代的恋愛感の確立

目次:非モテについて勉強してみた - よそ行きの妄想


恋愛 - Wikipediaにもあるとおり、『恋愛はそもそも閉鎖された二者間関係に特有の現象であり、検証可能性に乏しい部分がある』。

ここではまず、恋愛を構成する要素を見てみたい。

一般的に「恋愛」という場合その意味合いは、相手に対する衝動的な感情、それに基づく行為、及びそれらからもたらされる経験まで、広範に及ぶ。

これらの恋愛を構成する要素が本能的なものなのか知的なものなのかに分類することは、恋愛を理解するにあたっての第一歩としては意義あるものに思われる。

まず、恋愛の感情面について、人は誰しも性行為を求める性的欲求や自己承認などの欲求を持っている。*1恋愛感情自体は、その本質を本能的なものに有していると断言してしまっても過言ではないように思われる。

行為面においても、恋愛は一般に性行為を含むものであり、性行為自体は紛れもなく本能行動であろう。しかしながら性行為と近代的な恋愛がその意味を同じくしないことはまた自明である。即ち、風俗店などにおいて金銭等の対価を支払って行う性行為は、社会通念上、明確に恋愛とは分けて考えられており、そのことは性行為と恋愛の間に何らかしらのイデオロギーが介在していることを示す。そういう意味では恋愛は本能的な行動を含むものの、一方では何らかのイデオロギーに基づいたものであるといえる。


また、恋愛の行動様式は複雑で、文化的である。ここで文化については、以下のものを参照したい。

文化 (動物) - Wikipedia
行動学的に考えた場合、文化とは、以下のようなものである。動物が後天的に身につける行動であるが、その内容は他の個体から伝えられる事で身につけるものである。ただし、その伝達には遺伝子が関与せず、個体間の情報伝達による。その伝達方法も文化的行動に依存している。そのような伝達の結果、ある集団を構成する個体の多くが、一定の状況下で、ある程度同じ行動をするようになる。

現代において恋愛には様式があり、それはハウツー本やテレビドラマなどを通じて伝達されている。*2これは非常に文化的な特徴といえる。

例えばこれを見てほしい。
このままひとりだったら怖いなぁとか、ちゃんと恋愛できる人に出会えるのか不安に... - Yahoo!知恵袋
「ちゃんと恋愛」ってなんだよ、ていう。

おそらく質問者は、社会的に是とされる恋愛様式を空気として感じ取っており、その様式に沿った恋愛をすることができるか、又はそれに適した相手を見つけることが出来るのかという命題に気をもんでいるように見受けられる。まさにこれは、いたいけな少女が気をもむほどに、社会的に是とされる恋愛様式が(明示的か暗示的かの別を問わずに)確立されていることを示す好例だと言えよう。こうした様式に沿った行動は知能行動といえ、冒頭に紹介した単純性行為と恋愛をわけるイデオロギーなども一括し、恋愛の文化的側面とよぶ。


また、恋愛を本質的に理解するにあたっては、恋愛の歴史を理解することも重要である。Yahoo!¥¸¥ª¥·¥Æ¥£¡¼¥ºの内容は非常に興味深い洞察が多いので、いくつか引用しながら見ていきたい。

大澤はロマン主義的愛を、①愛を表現する行為が内面の主観的=主体的な表現と見做され、愛の対象も他者の主観化された世界の全体となり、愛は主体に帰属させられる選択として強く自覚され、またその対象も相手の外面的な特徴ではなく、内面的な主観性=主体性(他者独自の世界観・価値観)そのものとなる、②真の愛は結婚の永続的な結合へと収束するはずのものとして観念され、結婚はただ愛のみを根拠にして正当化されるに至る[大澤 1996:90]という二つの条件によって定義している。

まずは定義からだが、上で引用したロマン主義的愛こそは近代的恋愛の究極的なもののように思えるが、これはそもそも江戸時代などにはなかった概念だという。そもそも当時は英語のLOVEに対応する単語がなく、恋愛という単語を新たにつくってまでそれにあてたというのだから間違いはないのだろう。*3このことについては下の例示も興味深い。

例えば『女学雑誌』第303号に発表した『厭世詩家と女性(上)』の冒頭でこう語っている。
「戀愛は人生の秘鑰なり、戀愛ありて後人生あり戀愛を抽き去りたらむには人生何の色味かあらむ[北村 1965:30]。」 
その内容は単純な恋愛賛美ではないが、冒頭の一句は当時の知識人にかなりの衝撃を与えたという。木下尚江は「まさに大砲をぶちこまれたようなものであつた。このように真剣に恋愛に打ち込んだ言葉はわが国最初のものと想ふ。それまでは男女の恋愛、男女の間のことはなにか汚いものの用に思はれてゐた[色川1994:217]」と述べており、また、島崎藤村は透谷の論評を読み、電気にでも触れるかのような深い幽かな身震い[色川1994:217]を感じたという。

つまり、そもそも「恋愛」という概念は輸入品であるということだ。

ではなぜその「輸入品」が日本の価値観として普及したか。これは旧来型の「家」制度の崩壊と相関があるという。

山田は機能主義的な観点からみた場合、社会には恋愛と婚姻制度の対立を無化するようなメカニズムが備わっていることを指摘している[山田 1994:123-127]。両者の対立とは、突発的に生起する感情である恋愛が、労働・経済的単位を作るという社会的機能を有した婚姻制度を崩壊させる危険性を持つという意味だ。安定的な婚姻関係に対立する「不義の恋」が法規制の対象であったことはみてきたとおりである。
この対立を無化するメカニズムとは

①恋愛と結婚の分離戦略、
②恋愛の抑制戦略、
③恋愛と結婚の結合戦略

であり、①の分離戦略は恋愛する相手と結婚する相手を無関係なものとして区分して制度化するものであり、その典型として江戸時代の花魁遊び(遊廓)がある。②の抑制戦略は恋愛体験自体にマイナスの価値を付与するもので「不義の恋」を取り締まる幕府法制度は、これに該当するだろう。③の結合戦略は「恋愛=結婚したい気持ち」と定義する戦略であり、社会規範を通じて恋愛生成の規則を作り上げ婚姻の要請と恋愛の欲求を結びつける制度を作ること[山田 1994:126-127]である。この見取り図に従えば、近世から近代にかけての恋愛の変容は①+②の戦略から③の戦略への移行であると、ごく大雑把にだが、記述できるだろう。

つまり、国家が管理する対象が「家」である限り、恋愛はむしろ国家そのものたる「封建秩序」を崩壊させかねない危険因子であり当然に抑制の対象となるが、ひとたび管理の対象が個人に移った場合にはその抑制は必然性を失うのである。これによって、恋愛は結婚と結合せしめられるとともに、抑制の対象からは徐々に緩和されていったのである。

これは、結婚と恋愛の関係を、目的と手段の関係に落とし込むことに他ならず、こうした経緯を踏まえた場合、恋愛の文化的側面は、すくなくとも当初は、結婚によって担保されていたものであるといえよう。つまり、結婚と恋愛の結合が恋愛の文化的側面をつくりだし、そうすることによってはじめて、日本においては近代的な恋愛という概念が誕生したといえるのではないか。

かくして恋愛は本質論的な本能的欲求に基づく感情という位置づけから、より文化的な行動様式へと昇華し、以降徐々に時間をかけて、現代に見られる文化的側面を確立していったのだと考えられる。

以下では恋愛が(自らを生み出した結婚よりもさらに)社会に対してその影響力を大きくしていく過程を検証したい。



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*1:トマスの「四つの願望説」によれば、人間は誰しも、(1)新しい経験の欲求:好奇心や冒険心を満たすこと。(2)安定/安全の欲求:危険や死を避けるために集団との結合を求める。(3)応答の欲求:恋愛や家族愛など個人的で親密な関係で認められることを求める。(4)認知/承認の欲求:名声や地位など世間から認められることを求める。 を有する。

*2:東京ラブストーリーやタッチなどの古典があり、それが細分化されるかたちで展開されている

*3:恋、情、色などの単語はあった。