近代的個の確立と功利化

目次:非モテについて勉強してみた - よそ行きの妄想


恋愛主義の普及を考えるにあたっては、それを推進した社会的な背景に加えて、なぜそれを社会が受け入れたのかという視点を要するだろう。

戦後の終わり - よそ行きの妄想でも述べたが、一般にある価値観を共有する社会は、それを構成する個人に対して価値を与える。逆に言うと、ある価値観を共有する社会に所属する個人は、その共有された価値観でもって自身を測り、自身の価値を絶対化することが可能となる。そうすることによって、社会を構成する個人はそれぞれが、それぞれの価値を把握することとなり、その価値の定量化によって序列付けがなされる。こうして社会にはヒエラルキーができ、また、そのヒエラルキーこそが社会である。

また、自らの価値を絶対化された個は、その価値をもって別の価値との交換を望むようになる。”別の価値”とは、例えば資本である。

具体的に見てみよう、恋愛主義の普及によって人々は自己の愛され力とでもいうものを徐々にではあるが、絶対的に規定することが可能となった。そして、相対的に多くの愛され力を有するいわゆる強者たちは、自らの愛され力を他者の愛され力と交換するだけではなく、結婚による経済的なメリットに着目し、自らの愛され力を駆使して経済力を有する相手と結婚するというひとつの成功パターンを生み出した。

つまり、絶対的に規定された愛され力が貨幣との交換をも可能にしたのである。

恋愛という価値観はそれを信仰する人に序列をつけると同時に、より大きな社会である資本主義社会との(ほぼ)1対1の対応を実現させたのである。


少し話がそれるが、そもそもの資本主義の繁栄に際して、「近代的な個の確立」こそがコアな部分であるとする見方がある。即ち「近代的な個」とは、個人が自らの絶対的な価値を把握した状態であり、個人は価値を与えられ、それを把握することによってはじめて、個人が主体として、市場において価値の交換を要求することが可能となるとするもので、「近代的な個」の確立が資本主義経済の発展には不可欠のものではないかといのがう論旨である。

資本主義という奇蹟 - 池田信夫 blog(旧館)
こうしたいろいろな条件の中で、何が不可欠な資本主義のコアかというと、私は神の前で孤独な個人というキリスト教的な自己意識だと思う。人間が絶対的に孤独で、普遍的なルール(神)を共有する任意の他人と対等につきあうという社会はきわめて特殊で、ハイエクも晩年に気づいたように「自生的」に出てくるものではない。それは単なる宗教的概念ではなく、慣習法にもとづく契約や財産権などの制度とも不可分だった。

ここで、『神の前で孤独な個人』⇒「近代的な個」であるが、これはつまり、キリスト教的な神が個人を直接に規定しており、たまたま近所にいる第三者のような他人と比べずとも、神の意思を聴くことによって自らの価値をはかれるという仕組みである。この仕組み自体は以下で紹介されている、日本の社会観と比較することが、一層理解を深めると想う。

「オオヤケ」的階層化のYahooと「Public」でフラットなGoogle - アンカテ
日本人はもともと社会と直接接続する回路を持っていない。自分はまず「家」の一員であり、家を代表する家長が会社という「オオヤケ」に接続している。でもその家長も会社の中では、単なる「ワタクシ」の一員としてふるまう。会社が公的な存在であるのは、社長が会社を代表して、例えば業界という「オオヤケ」に接続しているからだ。

伝統的な日本社会というのは、社会の大きな価値観ではなく、社会の構成員同士の相対性が互いを規定するのだ。このことの良い悪いを論じるつもりは毛頭ないが、日本の伝統的社会においては、「近代的な個」を確立することは困難であるということは確かであろう。
特に女性においては。

ここで、本題に戻るが、恋愛主義はおそらく、女性が近代的な個を確立するための最初のチャンスだったのではないか。女性がついに近代的な個を勝ち得るに際して、どうしても必要な社会的な変革だったのだ。


そしてこの愛され力による勝ちパターンを模索する傾向は、過剰資本が日本に散乱した時代、即ちバブル期に一気に急拡大した。なぜならば、恋愛及び結婚が市場経済に組み入れられることによってそこには巨大なマーケットが誕生したからである。経済界はこの恋愛と結婚がもたらす莫大な利権を保持し、またさらに巨大なものにすべく、恋愛をもてはやし、恋愛マーケットへの参加を呼びかけたのだ。

恋愛至上主義社会論 | 考えるための書評集
恋愛信仰はここで徹底的に商業化され、「恋愛資本主義」として「マスコミ・ファシズム」が起こることになった。「恋愛しろ」「セックスしろ」「彼氏・彼女がいなのは恥である・人間ではない」「恋愛しないものは人間にあらず」「童貞・処女であることは恥である」といった強迫めいた雰囲気が社会をおおったのである。恋愛資本主義は強迫と強制をともない、若者の不安を煽情することによって、巨大な「ファシズム・マーケット」として成熟した

のである。

また、女性だけでなく、男性においても、冒頭に論じたバブルの崩壊とともに発生した価値観のエアーポケットのような価値観の喪失があり、そのスペースに恋愛主義はすっぽりとおさまってしまったのである。


こうして恋愛は、政府の規制緩和により文化的な側面を拡大し、女性の自立という時流もあいまって、価値観として認知され、産業界の後押しによって広範に普及した。
しかしこの急速な恋愛主義の普及は、その功利的な側面に少なからず立脚しているということから、同時に、恋愛が、女性が結婚によって経済的なメリットを実現するための手段に成り下がること、即ちひとこでいうと、売春化することを意味した。


おまけ

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