「内輪ネタ」という鉄板への回避

芸人よ、お前もか。 - Chikirinの日記
こちらのエントリを拝見させていただいて、軽く感動した。
視点の鋭さも去ることながら、的確な突っ込みは実に当を得ている。

アッコ組に入るのは、「アッコの子分になることが、芸能界での露出を最大化するために最適な方法である」というレベルの人だけだ。なんで主役が張れるキムタクがあんたの取り巻きになる必要があるわけさ。なんか誤解がないかい?

いや同意しすぎて涙ぐんだ。

というわけで、私としては元エントリの主張、即ち「ガキの使いとかアッコのなんとかでやってるのって要は芸能界のヒエラルキーをあえて魅せて笑いを誘う悪趣味さがあるよねー」ということに対して反論はまったくない。完全服従の用意がある。

ただ、あえてもうひとつの可能性を提示したいと思って、エントリを書いてみた。

それがタイトルにした、「内輪ネタ」という鉄板である。


ただの推測だが、この「内輪ネタ」という手法を本格的にテレビに持ち込んだのはとんねるずだったのではないかと思う。生だらとかで唐突にマネージャーなんかの名前を出して、そのパーソナリティをいじり、笑いをとっていたのは記憶に新しい。*1番組の大道具さんなんかを集めて「野猿」としてデビューさせたりしたこともあったと思う。

これは、いわゆる一見さんを想定した場合、まったく効果がない。意味がわからないからだ。しかし、毎回見ているうちに、徐々になにを言っているのかわかるようになってくるところにポイントがある。そうなるとネタ自体の出来うんぬんよりもまず、それがわかるという事実だけで一体感の中に組み入れられてしまい、うっかり笑ってしまうようになる。

また、ダチョウ倶楽部はその「内輪ネタ」をトリオの中に完全に内包させることによって成功した事例だ。上島が切れた後に「くるりんぱ」と言って帽子を被り直すことは普通に考えてなにも面白くないが、それをやると思って見ていて本当にやられると安心感に似た笑いが生まれてしまう。

「お約束」という流れの根底にあるのが、この「内輪ネタ」メソッドだと思う。


この芸風は、言わずもがな、継続して人目に触れることが大前提であって、ぽっと出の芸人が単発で披露しても空振りすることは目に見えている。

つまり参入障壁が高い。

逆に言うと、ある程度成功した芸人は、自らの露出を背景としていくつかの「内輪ネタ」を構築することが、この流行り廃りの激しい芸能界において自らの価値を持続させる最良の手法となりえるのではないか。


そう考えると、まっちゃんがガキの使いでやっているのは、確かに笑いについてハイレベルな一部の人に向けたブラックジョークの側面もあるのだろうが、一方では単に保身の結果として「内輪ネタ」にはしっただけとも言えなくもない。


最後にわたくし個人的な主観について触れると、アッコのなんとかはほんとに嫌気がさすが*2、ガキの使いはまあ面白く見れる。というかDVDを買ったこともある。だからそれらは完全に「内輪ネタ」として並立に扱われるべきではないということは、感覚的には十分理解していることを申し添えたい。

*1:この試みがボブ市川というキャラクターを生んだと理解している。

*2:嫌気がさしすぎてみたことがない