究極の不平等という平等の可能性

平等について - 過ぎ去ろうとしない過去を読んで。

id:hokusyuさんによれば、

ちなみにぼくは機会平等だけじゃぜんぜんだめで、結果平等じゃなきゃいけないと思ってます。左翼なので。
機会が平等でも結果として収入に100倍くらい差がでるのは全然だめ。
平等について - 過ぎ去ろうとしない過去

だそうだ。左翼なら何言ってもいいのか!と思ってうっかり脊髄反射しそうになったところ、hokusyuさんにブコメで『あと、書くなら紹介記事全部読んでからにしてね。』と釘を刺されてしまった。正直危なかった。


ということで紹介記事を全部読んだわけだが、これが不思議なことに同意できるものばかりだった。もしかしたら現状認識の段階では、大体似たような問題意識を共有できるのかもしれない。

まずは私の認識を述べる。

資本主義とは、突き詰めると際限なく資本=信用を膨張させることを自己目的とするシステムである。そしてこのシステムの原動力は、人間の「欲望」だ。「欲求」ではない。生命の維持だけを目的とした「欲求」のみを原動力とした場合においては、資本の拡大は人口の拡大と比例することになる。資本が、それを上回って拡大してこその資本主義なのであって、つまり資本主義が成立するためには、それを構成する人間が自身の必要性を超えた範囲での労働、及び資本の蓄積を行う必要があるということだ。この「自身の必要性を超えた範囲での労働、または資本の蓄積」を生み出すのが、「欲求」を超えた「欲望」だということになる。

よって、資本主義の拡大は、構造的に欲望の肥大化を要する。資本主義はその膨張とともに、我々人間の潜在的な需要を喚起し、次々と新しい欲望を創造してきたのだ。例えばたった100年前に、電話を持ち歩きたいという需要があっただろうか。おカネを払って恋愛を体験する人がいただろうか。今日現在我々が持つ欲望(それがコミュニケーションや恋愛であれ!)は、まったくもってプリミティブなものではなく、資本主義が繁栄した結果として生まれ、同時に資本主義のさらなる発展の原動力となるべく、創造されたものだ。ちなみにこのことは、欲望の性質に資本主義繁栄の結果としての側面があるのであれば、その繁栄のまさに最初の第一歩目は一体何によってもたらされたのかという当然の疑問を招くことになるが、偶然の産物としか言えない面もあるし関係ない話が長くなるので触れない。*1

さて、ここで問題は、欲望を定義するにあたっては、欲望の充足と非充足を区別せねばならないということだ。即ち、誰かの欲望を充足させるには、他の誰かがその欲望について非充足でなければならない。支配欲を満たすには被支配者がいなければならないし、消費的な欲望を満たすには他者よりも多くの消費をする必要がある。これらの区別こそが、人間を持つものと持たざるものに区別する差異を設けるのだ。

近年問題視される格差問題とは、つまりはこの欲望の非充足の問題なのであって、本質的には消費力としての賃金の過多のみを対象としない。この問題が近年になって急拡大したかのように論じられることが多いのは、単に消費という定量化しやすい欲望が普及したことと、情報通信技術が発達したことに伴ってより多くの欲望を充足させる上位者が可視化されたことの結果に過ぎないだろう。そもそも消費などというのは、被支配者層である労働者階級にあてがわれた目くらましのようなものだ。被支配者である労働者は、決して満たされることのない自身の支配欲を消費という擬似的な支配によって穴埋めするのだ。だから、欲望を満たすに十分な消費量などというのはそもそも存在しないし、万が一消費的な欲望が十分に満たされてしまったら、それは単に消費という目くらましが機能しなくなったという話であって、より本質的な欲望の非充足が問題になるだけだ。*2

であれば、hokusyuさんが批判する、ダンコーガイ氏の提唱するベーシック・インカムは、人間を「より高次な欲望」へと駆り立てる資本主義の強化装置に他ならないと私は思うし、「選択の自由」を与えることによる抑圧の強化にさえ繋がるというhokusyuさんの指摘も、実に当を得たものだろう。

結局、資本主義という枠内でものごとを考える限り欲望の肥大化は至上命題なのであって、あらゆる人に欲望を押し付けてでも、それを求めさせることが必要となる。押し付けられてなお求めない人は、社会からの排除を味わうことになるが、資本主義とはそういった層を含めてのシステムなのだ。


少し長くなったが以上が簡単な私の現状認識で、hokusyuさんの現状認識がこれと同じだろうとは言わないが、少なくとも私はこの認識を持ちながらhokusyuさんの主張を異議なく受け止めることができた。

そんなhokusyuさんを批判するにあたっては、「じゃあ一人あたりいくらばら撒けばいいんですかw」とか「財源はどうするんですかw」とか「賃金を一律にしたら経済が停滞するんじゃないですかwww」などという表面的かつ月並みなものでは力不足だろう。話はより本質的なものだ。現状のシステムは万人を救うものではありえないということだ。

しかしながら、不十分なシステムとはいえども世の中の秩序たる資本主義について、それを足下から崩壊せしめるような言説に対して、我々は肯定的であるべきではない。無秩序こそが、暴力を点在させ、もっとも我々の利益を蝕むものだ。資本主義は、その汚点のみをとりさってなお健全に作動を続けるほど万能なシステムではないことは上に述べたとおりだ。それこそ、ベーシック・インカムのような中途半端な貧民救済策であれば資本主義との両立が可能なのかもしれないが、それは救済策として中途半端だからこそである。

hokusyuさんの主張はよくわかる。人は本来区別されるべきものではないはずだし、低位の序列に甘んじて気持ちのいい人がいるはずもないのだから、序列自体存在しないことが理想的だ。そしてそれらの問題は、ベーシック・インカムのような中途半端な機会の平等で解決されるような問題ではまったくない。しかし、例えばもしそうした理想を実現するような、資本主義を上回る理想的な社会システムが考案されたとしても、その移行における革命が犠牲者をうむようであれば、それはまったく理想的でないということも事実だろう。普遍的な理想を掲げるがあまり、民族浄化という大量殺戮に走ったり、文明化という暴力的支配に至った例は歴史から数多く見出すことができる。人を殺すのはいつだって思想なのだ。


前置きが長くなったが、私が批判したいのはそういった理想主義的な思想である。現実を批判的に分析して問題点を把握することは重要なことで、そのためには理想を持ち出すことも必要だ。ただだからといってその解決策を講じるにあたって、現状のシステム維持に無頓着に、臭いところにだけ無理やりふたをするような可笑しな方法論を唱えたり、そもそもまったく別次元の理想論を持ち出しては、議論として夢物語の枠を出ないのではないか。不毛だと思うのだ。(もし、単に問題点を把握する作業に腐心しているだけなのであれば、当然私の批判は空振りに終わるがまあそれはそれで。)

当然この不毛だという論点は相対的なものだ。そして、私の思う比較的不毛でない議論とは、現状の問題を把握した上で、現状の延長線上に存在する可能性から理想を見出そうとするものである。

あまり抽象論を重ねても仕方かがないので、以下には具体的な理想としての可能性を例示したい。

それは、欲望が極限まで細分化されることで欲望の非充足が不可視化される可能性である。既に上で述べたとおり、私が認識する現状の問題点は欲望の非充足であって、さらにはそれが構造上決して満たされないことだ。すでに認識されている以上捨て去ることも難しいだろう。決して満たされず、捨て去ることもできないのであれば、それを不可視化して誤魔化すしかないだろう。

その方法論が、欲望を細分化することだ。欲望の細分化が実現する状況はこうだ。例えば、消費的な欲望など、ある程度一般的な欲望が満たせない人には、ほぼ個別にカスタマイズされたようなマイナーな欲望があてがわれる。当然それぞれの欲望は非充足者を生むが、並列的な欲望が無限に存在している限りにおいて、序列は生じ得ない。すべての人はあらゆる欲望について非充足となることによって、逆説的に非充足の問題から開放されることになる。これは、統一的な尺度をまったく設けないという意味で究極の不平等だが、それによって人は無関心という平等を手にするのだ。

ところがこの議論には盲点がある。それは欲望の充足を高めあう他者の存在がないことには、資本主義の原動力と述べた欲望の肥大化が停止してしまう。つまり、同じ欲望の充足を求める複数人による共同体が組織されないことには、この可能性は実現不可能な理想論に堕してしまうわけだ。

インターネットは、この問題を解決し得る。インターネットによるコミュニケーションは、超空間的な共同体の組成を可能にするからだ。わかるだろうか。インターネットは、たまたまそばにいる人との間でコンセンサスを取りやすい欲望の充足を求める必要性から我々を解放する。こうも言える。インターネットは親密圏を構築するにあたっての空間的制約を取り除くと。ちなみに、もしこうした方向性が今後実現すれば、格差問題の顕在化が情報通信技術の発達によってもたらされたものであることとの連続性も確保できる。

世界各地に超空間的に点在する親密圏と、ますます肥大化する欲望を背景に、資本主義は月5万円のベーシック・インカム程度はすぐに実現するだろう。社会から疎外される人も無限にゼロに近づいていくはずだ。


■追記1
どうでもいいがちなみに、私は自分のことをどっちかというと右翼、プチウヨク的な、だと思ってる。


■追記2
502 Proxy Errorという増田記事が流行っているのを今さっき見つけたが、意外と上で書いた理想的な可能性の話と近い。というかこの増田さんが観察し分析する社会の先に上のような理想がある気がする。


■追記3
私の立場について若干補足すると、私は資本主義社会の根本的な弊害を認識しつつ、またはだからこそ、社会がそれを是正する方向に「既に動いていること」を確信している。社会は常に変化して然るべきだからだ。
そして、その動きのなかで自分が何ができるか、どういった利害が生じ得るかに関心がある。おそらくこの立場がそもそもhokusyuさんとはまったく違うのだと思う。
私が類推する彼の立場は、「現在」と「(部分としての)ユートピアとしての未来」の二項対立軸の中において、現行の権力を批判的に観察することだろう。そしてこれに終始する人のことを後のエントリーで「ただのサヨク」と名づけた。

*1:興味があればとりあえずはウェーバーでも。

*2:http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081008/1223424892