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宗教と科学と疑似科学とニセ科学について

科学とニセ科学の違いってそんなに重要か? - よそ行きの妄想(以下、単に「前回(エントリー)」という)について補足。
なお、並み居るコメント・トラバ等々への個別応答はまた別に行う方針(なのでオレの質問に応えろボケはまだやめてね)。

前回大分いい加減なことを書き散らかしてしまったので、なかなか説明も大変だが順を追って。

  • 宗教と科学

前回Wikipediaを引用したのは、その『科学に属する諸学問は科学であるが、科学そのものは科学的ではなく一種の思想であるとする意見もある。』という記述が目に留まったからであり、Wikipediaに書いてあるくらいだから科学を思想の一種と捉えることにそれほど大きな抵抗はないのだろうと思ったのだが、寄せられた反応を見ているとどうもそうでもないようなので、まずはここから話をはじめねばなるまい。

ちなみに、予め断っておきたいのは、私は科学と分類される諸学問の有用性に疑問を投げかけるようなことがしたいわけではないし、諸学問を指して宗教だと述べているわけでもない。あくまでそれらの総称であるところの「科学」という概念を指して、宗教的な要素があると述べている。


宗教と科学を同列に語ってくれるなというコメントをどこかで見たが、これら2つの機能は明らかに等しいだろう。いずれも人間の<世界>を記述する試みであり、人間の信仰に基づくという意味で。


人間以外の動物は、<環境>に適応するかたちでその身体的諸器官や行動形式において進化を遂げ、当該<環境>に従属するかたちで生を得ている。<環境>とはむしろ動物の身体の一部であって、生存のための必要条件に他ならない。そうした限定的な生存圏という意味での<環境>は人間には存在しない。人間の周囲に存在するのは単に<世界>である。

そして「不定の存在」たる我々人間は、生存のための本能が著しく欠落した動物である。そしてその欠落を文化や文明によって補うことでむしろ、比較的高度な発展を遂げることができた。しかしながらその欠落ゆえに、我々は自らの存在の意味や目的を自明的に導き得ない。そして意味や目的の喪失による不確実性に恐怖し、何をすべきかわからずに困惑する。これらを克服することこそが我々の根本的な欲望だ。*1

非<環境>であるところの不確実で未決定な<世界>の中にあって、我々は、<世界>を確定させる客観的な事実であったり、秩序を欲する。それが神や科学ではないか。


いま我々は、まったく科学的なプロセスを経ることなく、科学の結果を享受し、利用することが可能である。これこそがまさに科学が信仰の対象であり、<世界>の秩序であることを物語る。誰かにとって科学が科学的であるために必要な検証は省略され、科学は信じることによってのみ成立しているのだ。*2前回引用したWikipediaにも記載のあったとおり、『科学そのものは科学的ではな』いとも言える。*3 *4

ぽまの人の発言も援用すると、『「科学的な観察」を選択することによるリスクは、終わりの無い脱魔術化の追求という魔術的な束縛に駆られるということ』である。*5科学的な知識は高度に複雑化したが故に、その正確性を追求するにあたっては無限の時間と検証を要する。その無限の後退に終止符をうつものこそが魔術的な振る舞いであるところの科学信仰に他ならない。科学には、それを語るためには科学信仰と言う非科学的な振る舞いを選択せざるを得ないというパラドクスが付きまとう。

また、はからずしも先のエントリーにおける放言に対していくつかの異常な怒気が寄せられたことも、科学に対する信仰の存在を示すと考えてもよさそうだ。私の科学に対するぞんざいな扱いが科学信者にとっての<踏み絵>として機能した可能性である。*6


科学はその発展において、客観的な事実であり秩序としての神を殺した。しかしこの事実は科学が神よりも高次な概念であることを必ずしも示さない。この闘争の歴史こそが、科学と神の機能的等価を示すものだと私は考える。

さて、ここからが本題である「疑似科学批判に対する批判」的な言及となるが、第1のポイントは、疑似科学を含めた<科学のようなもの>を観察するにあたって科学的な区別を導入することは決して望ましくないのではないか、という疑念である。


科学を構成する諸学問は現在までに高度に複雑化しており、少なくとも私には科学の境界線というものはいまやまったくと言っていいほどわからない。文系であれば四大卒であっても大体似たような状況だろう。もっと言えば理系でも学部卒程度では大したことはわからないのではないかとも思っている。結局一般大衆からすれば、科学的な権威に頼らずに科学を語ることはいまや不可能に近い。そして、科学の専門家であってもその専門分野以外においては一般大衆と相違ないわけであるから、ここで言う<一般大衆>はかなり大部分の人を指す。

その一般大衆が科学を語ることを可能にしたのが、まさに疑似科学である。疑似科学は、それを批判することによって科学の境界線を明確にさせ、人々に科学を理解したような気にさせるという機能を果たす。明らかに科学的でない疑似科学が語られることによってはじめて、我々大衆は科学を把握することができる。科学を語るのに、疑似科学は必須なのだ。この場合において疑似科学はつまり科学の記述形式なのであって、であれば確かに我々は、科学と疑似科学を明確に区別して把握することはできるだろう。

だが注意して欲しいのは、疑似科学が科学の境界線として機能するのは、あくまでもそれが疑似科学であるという意図のもとに語られた場合のみだ。それが権威付けされておらずかつ利害関係の希薄な第三者によって語られた場合、科学の知識のない我々は、彼が語るものが科学なのか擬似科学なのかを判別することは不可能に近い。もちろん「水伝」程度の簡単なものであれば見破れるのかもしれない。可能であれば見破ればよい。だが、科学同様に複雑性を高めていく疑似科学について、完全にそれを判別し続けることはまた、不可能に近い。

であれば、我々が何かを選択をするにあたって、科学/疑似科学の区別を試みることは、必ずしも適切ではないということになる。何度も言うが、それを科学的に行うことはほぼ不可能だから、科学的な区別に固執するとすべての選択が不可能になるという惨事を招きかねない。我々は選択せずには自らの欲望を充足し得ないのだ。科学的な観察を試みたところで、そこから展開される無限の後退に対して、結局どこかの段階で信仰によって終止符をうたねばならない。

我々のあるべき振る舞いとしては、個別の情報について科学的な検証を行うことではなくて、むしろ科学的な無知に開き直ったうえで信用に値する人物や権威を道徳によるなり利害によるなりして見極め、そこから生じる情報を自身の利害に基づいて利用することを選択する以外にはありえないのではないか。

【例えば、医者が処方したクスリの有用性を判断するにおいて、科学的な区別を少しでも検証するだろうか。医者が単なる小麦粉の固まりを売りつけないことは、医者や薬剤師の利害を想像すれば容易にわかることだろう。確かに俄かには考え難いような詐欺的な医者も世の中にいないとは限らない。しかしそのリスクを疑うコストと科学的な検証を買って出るコストを比べればその差は歴然のはずだ。本当に確からしいクスリなのか、セカンドオピニオンやサードオピニオンを取得してもよろしい。いずれにせよ、どこかの段階で、誰かを信じる必要がある。】*7

そして、そうした態度を選択した場合において、科学と疑似科学の間の科学的な区分は、まったく重要性を持たない。これこそが、前回のタイトルに込めた意味であって、科学と疑似科学(と宗教)の区別に固執する意味が「わからん」と述べた趣旨である。

これは上の記事を書いた後に知ったことなので、謝罪したほうがいいのかもしれないが、どうやらニセ科学という単語は、「科学を装った疑似科学」というかなり範囲の狭い、まるで疑似科学批判者が安全にそれを批判するために創造されたような単語であるらしい。前回エントリーに対する反応としても「ニセ科学とは要は詐欺だ」という反応が最も多かったように思っている。これについて、ニセ科学批判は、その定義から自明的に導かれる「悪意」に対する批判と等しいと言えるわけなのだから、ニセ科学批判の批判は難しいことなのかもしれない。

しかしよく考えればすぐ分かることだが、この一見すると完全に見える「ニセ科学批判」は、「悪意」という道徳的区別を準用しているに過ぎない。ここでも脱魔術化による魔術的な負担を魔術的に免除しているわけだ。


この「ニセ科学」という概念の存在自体を、科学の危うさを示すものとして捉えることが可能だ。これが私の「疑似科学批判に対する批判」における2つ目のポイント、即ち科学に対する過剰な絶対視の傾向とその危険性である。

上のニセ科学という言葉の定義が示唆する危うさとは、つまり科学的基準と道徳的基準の混同である。ニセ科学という恰も科学的な用語が、実のところは悪意という道徳的な基準に過ぎないと言う構図は、まさにそれ自身がニセ科学的ですらある。このニセ科学というパラドクスは、ニセ科学の対立概念が科学であるかのような錯覚を引き起こすことで、人々に科学を善と捉えることを可能とさせる。

こうして生まれるのが科学信者であって、彼らは非科学的なものやそれを信じるものを批判し、<科学的に>啓蒙する行為のなかに善を見出す。当然、上で述べたように我々が出来ることといえば信じることくらいなので、<科学>を信じることも可能なわけだが、それを絶対視し、妄信することにはあまり賛成できない。それは、この<世界>において太古の昔から絶えることのない宗教戦争や、文明化の旗印のもとで公然と行われた植民地主義と大差ない行いだからだ。

また、あまりにも当然のことだが、科学的であれば正しいということはまったくない。それを見失ってはなるまい。

我々が存在する<世界>内には、その<世界>を記述する客観性が、宗教や科学や疑似科学ニセ科学に限らず、数限りなく存在する。資本主義などは、科学に並んで、その代表的な例だろう。そしてそのそれぞれは、自らの基準でもって、自己言及的に、他の客観性を含む<世界>の記述を試みる。

いまや我々人間は、客観的に記述される数多の<世界>の一部分なのであって、客観性が存在する限りにおいて、いかようにも存在しえる。こうした状況にあって、我々はいずれかの<世界>を、作為的か無作為的かによらず、選択し信仰しなくてはならないだろう。人間らしく生きるためにはそうせざるを得ない。

しかしながらこの必然性は、必然的に負担を生じせしめる。ある<世界>を選択することは、同時に他の<世界>から排除されることを意味するし、ある<世界>に立脚して他の<世界>を批判することは、自己言及的なパラドクス、即ちバカっていった奴がバカ状態に陥る。ブーメランで自爆すると言ってもいい。これらは不可避的に訪れる。

こうした負担から生じる疎外感や不定性による不安に対処するために我々にできることと言えば、脱構築を繰り返し、世界の秩序をさらに細分化させることくらいしかないだろう。つまり未来を信じると言うこと。

そのためには、科学と疑似科学とか、ウヨクとサヨクとか、資本主義と共産主義とか、伝統的な対立軸に収まって、綱引き*8に興じている暇はないのではないか。というのが私の主張である。


※ちなみに以下のエントリーでも大体同じようなことを言っているのでもしよろしければ。。
少年野球に見る信仰と戒律 - よそ行きの妄想
本能的欲求が資本主義的に回収される時代 - よそ行きの妄想
はてな(ウヨ)サヨ観察三部作を終えて - よそ行きの妄想


■追記(11/18)
補足気味に。併せて読んだほうが分かりやすいかな?
ソーシャルキャピタルを構築する経済的営みとしての擬似科学批判 - よそ行きの妄想

*1:[asin:4409030752:title]

*2:[http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081115/1226722771#c1226771777:title]

*3:[http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6:title]

*4:[http://d.hatena.ne.jp/wiseler/20081116/p1:title]

*5:[http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081116/1226794244:title]

*6:[http://d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20081116/p3:title]

*7:【】内追記(11/17)。

*8:[http://b.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/%E5%B7%A6%E5%8F%B3%E3%81%8A%E7%AC%91%E3%81%84%E7%B6%B1%E5%BC%95%E3%81%8D%E5%8A%87%E5%A0%B4/:title]