楽しく働くために必要なこと

最近いろいろ考えていて、労働者的に、信用できない会社で働いても楽しくないという考えに至ったので、以下に私の考えた信じられる会社と信じられない会社の判別方法を買いてみた。

実績

そもそも経済的な意味で、財務内容が悪い会社を信用することはできない。財務内容とはその会社の実績のことだ。負債はどれだけあるのか、自己資本はいくらか、利益は出ているのか、キャッシュフローは黒字か。当然のことだが万年赤字で債務超過に陥っている会社を信用すべきではない。

一点注意したいのは、単体で判断してもよろしくないということだ。例えばどんなに潰れそうな会社でも、親会社がトヨタならそう簡単に潰れることはないだろう。明確な資本関係のほかにも、属人的な関係なども含めて会社の(経営的な)背景事情を知る必要はある。

もし有力なバックグラウンドがあるのであれば、業績不振の折には増資によって資本注入がなされる場合もあるし、よりドラスティックには業績不振の原因たる経営陣も一掃され、会社が一新する可能性もある。

ちなみに、株式公開企業と言うバックグラウンドがあるが、この評価はいまや微妙である。資本市場での資金調達は到底困難な情勢であり、この先も不透明だからである。

将来性

たとえ今の財務内容がよかろうとも、目下の経営戦略が愚劣で、明日にでも競争力を失うことが明らかなのであれば、それは財務内容が悪いのと同じことだ。さっさと見限った方が得策かもしれない。

ところが、この将来性の判断は実に難しい。素人目にはおかしな戦略でも実は当を得たものであることは頻繁にあるし、イチ労働者が会社の経営戦略の全体を把握すること自体が困難であることも多い。さらには、経営学の限界を指し示すかのように、そもそも将来の判断を的確に行うことはプロでも不可能だ。何が起こるかは結局誰にもわからないのだ。

であるから、この判別については、自社の経営者(や上司や先輩)を尊敬できるか否かという視点に転化することをオススメしたい。君子豹変すとは言うが、明らかに言ってることとやってることが違ったり、根底のところで矛盾している経営者や、事業・経営に関して必要な知識が欠如しており、かつそれを認めないような経営者、過剰に利己的な経営者などは、経営者としては尊敬に値しないし、経営戦略を誤る可能性も高いだろう。

経営者とは、その組織を運営し、導く存在なわけだから、自己の利益よりも組織の利益を優先させる姿勢が、少なくとも組織の構成員の前では必要と思う。そして個別には利己的でしかありえない個人の集団に対して、各々の利益を組織の利益と一致させるるように働きかけ、そうするための仕組みづくりをしなくてはならないのではないか。

評価・判断基準

上述した経営者の姿勢とも密接に関連するが、会社の制度や経営者による評価・判断の基準が曖昧な場合や、ダブルスタンダード化している場合、それを信じることはできない。評価・判断の基準が曖昧な場合、過剰な報告・連絡・相談が要される。すべての判断は禁じられ、思考停止に陥ることになる。

よくあるのは、利潤に対しての基準の錯綜だ。株式会社は営利を追求しなくてはならないというテーゼはいまやある程度コンセンサスのとれた見識であるであろう一方で、拝金主義的な思想・行動様式を嫌うような価値観も根強い。ガンガン儲けろといったその同じ口で、儲かれば何をしてもいいわけではないと発言する人はしばしば見かけるものだ。結局、利潤を独自の視点で良いものと悪いものとに分別しようとする姿勢では、一貫性を保つことは難しい。

経営者としては、利潤を出す目的こそ、明確にしなくてはならないだろう。利益とは、目的ではなく、手段なのだ。つまり「我々は何らかの状況を実現するために、いついつまでにこういう状態に到達せねばならず、そのためには今年や今後5年間でこれだけの利益が必要だ」というアプローチこそが望まれる。そして実現されるべき状況というのが会社のミッションであり、到達すべき状態は会社のビジョンであり、今年や今後5年間の利益に関しての記述が経営戦略である。こうした思考のプロセスを経ずにして、評価・判断の基準を画一化することは困難だろう。

たとえば、会社のビジョンは「時価総額世界一」でもよろしい。ただそれがどういったミッションから自明的に導かれるのかについては検討を要する。それを忘れて闇雲に時価総額だけを追求しては、特に組織が拡大する局面において、組織内部で基準を共有することが叶わずに崩壊に至ったり、そこまでは行かなくても社内のコンセンサス取得のためのコストが極大化し、収益を圧迫するかもしれない。

ちなみに、頻繁に経営者が交代するような会社は、そのときどきの経営者が一貫性を有していたとしても、会社の制度としてはつぎはぎ的なものとなり、一貫性を欠く場合があることは想像に難くない。

会社からの信用

そして、やはり信用はお互いにし合う関係であることが望ましい。会社からの信用を感じることではじめて、会社を信用することができるというものだろう。

会社からの信用を得ている状態とはどのような状態だろうか。極端に言えば、すべての行動を監視され規制された状態において、我々は信用を感じることはできないだろう。ある作業について、その成果を検品されるだけであればまだしも、その過程について一から十まで口を出されてはたまったものではない。少なくとも、ある作業を命ぜられてそれを完遂するまでの間は、それが短ければ短いほど、それが単純な作業であればあるほどに、我々は自由であるべきであって、ここで過剰な疑念を向けられることは苦痛でしかないだろう。逆に、会社としてもこの程度の信用を与えずにして労働者における作業の熟練は得られず、効率化ははかれまい。これを、例えば顕在的能力に対する信用と呼ぼう。

ところで、これは単なる放任を求めるものではない。我々はしばしば、義務や責任を進んで負うことによって、新たな権利を手にする。即ち、出世や昇進である。これはつまり人の上に立つということであって、個人で仕事をしていてはなかなか出来ないことだ。そして、株式会社においては、会社法上、株主総会や取締役(会)による決定が義務付けられている事項(取締役の選任、増減資、決算など)を除いては、労働者として会社から委譲されることが可能である。責任を与えられることで我々は、より高次な立場から仕事を把握し、より大きな権限を持って会社の資産を活用し、結果として自由に振る舞うことが可能となる。責任もまた、信用である。これは潜在的能力に対する信用といえよう。

次のことが言える。本当にある会社から信用を得ているのであれば、その会社にいることによって、個人で活動する場合と比して、活動範囲や影響力は広がるはずだ。個人でいるよりもなお、経済活動的に自由でいられる会社。そういった会社でなくてはならないのではないか。

そして逆に言えば、いくら労働者を信用したところで、権限の対象たるものが皆無な会社は、労働者からの信用を得ることは難しいだろう。管理権限の対象たる被支配者たる人間(部下)であったり、有用な資産であったり、報奨としての資金であったりが、労働者に与えた信用を実感させるために必要だ。