私信です
id:magician-of-posthumanの人に質問です。
もしよろしければ教えてください。
リアクションと聞き読みに来ました。素晴らしい観察だと思います。反・反科学、私ならこれを「脱・脱魔術化」と呼んだでしょう。ですにゃー。
はてなブックマーク - ちょっと何言ってんのか・・・ - 2008年11月26日
について。
上のコメントの対象である『疑似科学批判者がしてはならないこと - 地下生活者の手遊び』という記事の趣旨について私は、
- 社会運営(というのが自由主義社会の特殊性についての言及かどうかはわかりませんが)には、公的原理が必要である*1。
- そして、自然科学と相対主義は、お互いに(反対方向に)作用し合いながら、公的原理として機能している。
- よって、科学者・相対主義者は科学・相対主義が私的原理化しないように注力すべきだし、
- 社会的な視点は、科学にも相対主義にも傾倒しない姿勢が望ましい。
ということだと理解しています。
そして、この理解によると、id:tikani_nemuru_Mさんが標榜する「反・反科学 かつ 反・反相対主義」という姿勢は、この2つの機能に対する中立だと思っています。つまり、反科学という相対主義の最右翼と反相対主義という科学の最右翼の双方に反することによって、中立的な視点を確保しようとする姿勢ではないのでしょうか。それが何故必要かといえば、上で書いたように科学と相対主義がお互いに反対方向に作用することで公的原理としてのバランスが保たれているからです。つまり私の認識によれば、この姿勢が意味するところは、既存秩序の維持なわけです。
一方でおっしゃるところの「脱・脱魔術化」については、宗教などの魔術と、その反動による合理と学知の追求という脱魔術化の2項対立、及びそれに固執することから自明的に発生する無限後退という魔術的なパラドクスを脱パラドクス化する姿勢であると捉えています。最終的根拠付けは存在しないという反ハーバマース的な姿勢ですよね。
この姿勢が意味するところは、いまや宗教が脱・脱魔術化を果たしえないなかにおいて、宗教の機能的等価物をデザインすることだと理解しております。
と、いうことで、「反・反科学」と「脱・脱魔術化」。言葉の響きは確かによく似ていますが、意味はまったく異なるようにしか私には思えないわけです。
にもかかわらず、冒頭で引用したコメントにおいては、『反・反科学、私ならこれを「脱・脱魔術化」と呼んだでしょう。』と記述されており、2つをお互いに代替可能な単語と位置づけるような認識が垣間見えます。そしてその認識は、私の認識と矛盾します。
質問としては、この矛盾はいったい(1)誰の*2(2)どういった誤解に基づくものだと思いますか?です。
よろしくおねがいします。
ちなみに、便宜主義的にメタファーとして活用しただけという説明であれば特には結構です。