努力の成果に向けられる不快感

なんか勉強系の話題が流行っているようだ。

何かにつけて、後出しの自分定義によって我田引水をはかるみっともないアルファブロガー(笑)の話はおいておいて、以下に引用するエントリーは少し興味深い。

たとえば体育や音楽でずば抜けた能力をもつ場合、その子は胸を張っていられる。
でも、「お勉強」の教科に秀でている場合、その子はそれを無邪気に誇りに思うことはできないばかりか、後ろめたいことのようにすら思うことを強制させられる。
この非対称性は、なんなのだろう?
どうにも不思議だ。
なぜ、かけっこが速くてもいじめられないのに、勉強ができるといじめられるのだろう?

ぽりあんてな

確かに、小学校や中学校において、「お勉強」の成績がいいことについての評価が、走る速さなどの身体的な能力に対するそれと比べて、相対的に低いということについて、私にも思い当たる節はある。私は意外といじめられたことはまったくないのだが、成績がよいという事実だけで、突然「お前は勉強ができるだけで、頭がいいわけではない」という罵倒めいた謎の言葉をかけられたことはあるし、そもそも「がり勉」という、成績のよい人を揶揄する単語があるのに対して、足が早い人やサッカーが上手い人に対して向けられる同種の言葉が存在しない*1こと自体、不自然といえるだろう。


何故こんな差が生じるものかと少し考えてみたところ、数年前にあった「倖田來未による羊水が腐る発言」騒動のことをふと思い出した。もともと2ちゃんねるを中心に、倖田來未は何故だか大層な嫌われ者だった*2ように思うが、あの発言をきっかけに倖田來未バッシングが一気に噴出し、CM降板やTV出演自粛といった事態に至ったと記憶している。

そんな中、私が2ちゃんをROMっていたところ、次のような発言が目にとまった。正確には覚えていないが、『お前らってほんと努力とか後天的な要素だけで成功した人に冷たいよな』といったようなものだった。なるほどな、と思った。

確かに倖田來未は、もともとの顔のつくりが超絶に美しいからとか、天使のような歌声だとか、そういう類の成功の仕方をしていない。直接のきっかけかどうかは知らないが、大幅なダイエット(努力)に成功した時期とヒットし始めた時期もかぶっているし、「エロかっこいい」などの、売れるきっかけになったキャッチコピーも「歌」とは関係ない。ただ露出を増やしただけだ。彼女には努力の結果や戦略的なマーケティングの成果というイメージが付きまとうのだ。


「お勉強」の成績の話もこれと似ている。私の認識では、学校の成績などというものは、意欲をもって取り組みさえすれば、それこそ先天的な能力などによって相当に差がつくほどに高度なものではない*3。与えられた課題をこなし、コツコツと反復して訓練さえ積めば、誰でもそれなりの成果を上げることができるように設計されているようにすら思える。

然るに、おそらくがり勉」とは、努力さえすれば誰でもできるようなことをしたくらいでいい気になるなという釘刺しであり、運動能力の高いに人に向けられるそれは、凡人には到達不可能な能力に対する憧れだろう。

「コロンブスの卵」という慣用句がある。はっきり言ってただ西方に向けて船を進めるという行為だけであれば、何か特別な能力が必要であるわけでもなく、一般的な航海知識の基礎だけを身につければよろしい。あとは運だ。ところが、この慣用句が示すのは、目の前にある卵を立てるためにはそれを割ってしまうことすら厭わないという目的に対する信念の重要性である。地球が丸いのであれば、西に行けばインドに着くという仮説を検証するために、実際に航海に乗り出すその姿勢こそが彼の評価につながったのだという訓戒なのだ。「お勉強」についても、それができることよりも、それをできるようになるための努力や意欲こそが、評価の源泉なのではないか。


次のように言えるだろう。努力の成果に向けられる賛辞と言うのは、その努力を怠った人から見れば自身に対する批判であると。少し前に、結婚におめでとうという社会は自分たちを抑圧しているという難癖デモ*4があったが、あれと似た構造だろう。要するに誰かの努力や意欲、選択の結果などに賛辞を送ることは、それを選択しなかったその他の人々を否定するような構造を持ち得る。一方で、先天的な能力に向けられる賛辞というのは、他者に対する批判を内包しない。それこそ、運が悪いことの責任はとれないからだ。この暗示的な批判の構造に対する不快感の表明こそが、後天的な能力に対する揶揄や、先天的な能力に対する賛美として顕現しているのではないか。

学校の勉強なんてなんの意味もないと嘯く人は実に多いが、日本の社会制度を見るに、意味がないなどということはまったくない。学歴というのはおそらく、もっとも長い期間にわたって活用される、もっとも一般的な評価軸だ。うえのように考えるのであれば、批判が制度に向かう限りにおいてそれはそれで結構なこと*5だが、個人に向けられるべきものでは断じてないだろう。


以降は余談にはなるが、相応の努力や意欲によって獲得されるそうした相応の評価について、学校で得た知識を活用する機会は乏しいとか、本当に必要なのはなにを勉強するかを考える力だとかなんだとかという、もっともらしいけれどだたしまったく別次元のそれこそ意味のない評価軸を新たに持ち出すことによってこれを批判し、束の間の優越感を得ようとする様は、少しみっともない。理由はおいておいても、その努力を選択しなかったのは自分なのだから。

そんなつまらない努力なぞしなくても、自分はもっと手っ取り早く、もっと高い評価を得ることが出来るという自信のある方は、他人の足など引っ張ってないでどうぞ勝手にやればよろしいと思うよ。


■追記
ブコメに反応。

id:letterdust スポーツにしろ音楽にしろ容姿にしろ、飛び抜けた子はみんな「調子乗ってる」と叩かれた京都のド田舎わが郷里はある意味、最先端だったのかしら。

はてなブックマーク - 努力の成果に向けられる不快感 - よそ行きの妄想

たしかに、中学生くらいにもなれば、すべてが政治性を帯びてくるというようなことはあったかもしれない。つまり、才能と努力の二項図式を、政治的な党派性という新たな区別でもって脱する的な何か。

*1:「筋肉バカ」などの語は想像できるが、これは運動能力に長けていて、かつ学術に疎かったり思慮に欠けることを揶揄する語であると認識している。「がり勉」のように学術に長けていること「だけ」を論ったものではない。

*2:ちなみに私は好きでも嫌いでもない。

*3:話を単純にするために、申し訳ないが、ここでは先天的な知的障害などを持つ方を度外視している。

*4:[http://b.hatena.ne.jp/entry/10419737/%E7%97%9B%E3%81%84%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9(%EF%BE%89%E2%88%80%60):%E3%80%8C%E7%B5%90%E5%A9%9A%E3%81%8C%E3%80%8E%E3%81%8A%E3%82%81%E3%81%A7%E3%81%A8%E3%81%86%E3%80%8F%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AF%E3%80%81%E9%9D%9E%E5%A9%9A%E3%81%AE%E4%BA%BA%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A5%E3%82%89%E3%81%84%E3%80%8D%E3%80%8C%E5%A9%9A%E5%A7%BB%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%AF%E5%B7%AE%E5%88%A5%E3%80%8D%E2%80%A6%E4%BA%AC%E9%83%BD%E3%81%A7%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%82%89%E3%81%8C%E3%80%8C%E5%8F%8D%E5%A9%9A%E3%80%8D%E6%8E%B2%E3%81%92%E3%83%87%E3%83%A2%E8%A1%8C%E9%80%B2:title]

*5:むしろ個人的には、ただ型にはまることを押し付ける旧来型の教育は時代遅れだと思っている。