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正しい読解なんてなくていい

それを個性とはよばない - 北烏山だより』を読んで、軽い違和感を覚えたので。

本件エントリーを要すると、

中学で国語を教えていたころ、時折、保護者から言われた。
「うちの子は個性的なので、先生の読みとはちがっていて、テストで○がもらえなくて」
そのたびに、それは個性とはよばないのです、誤読しているのです、と思った。

という問題提起からはじまり、

「みんなちがって、みんないい。」
まったくそのとおりで、そのことじたい、異論はない。
けれどもそれは、文学なら文学の、社会生活なら社会生活の、一定の「お約束」をクリアしたうえでの話だ。

と繋げ、

「お約束」の部分を押さえずして、何が「教育」だ。
自らの思想や道徳観を押し付けることとの違いをふまえずして、何が「教育者」だ。

としている。


この「お約束」というのは、あくまで国語なら国語という学問の世界の中だけの話ではないのだろうか。そして「学問の世界のお約束」は個性の是非とは全然別の話ではないのか。

確かに、この先生に相談したという保護者も『先生の読みとはちがっていて』という先生個人を槍玉に挙げるような発言をしていることから大いなる勘違いを感じるものの、それに対する反応としてでさえ、読解の正誤という「学問の世界のお約束」を個性を発揮することの前提に置くのは随分見当違いな気がする。

例えば、「うちの子の個性は学問のルールに順応できない可能性を感じる。学問に疎いだけで将来を棒に振るようなことは避けたいのだがどうしたらよいか。」という相談があったとする。これに対しても、「それは個性とはよばないのです」と言うのだろうか。こういう場合はむしろ、人それぞれ個性があるのだから、得意な分野を伸ばせばよいなどと言うべきではないか。

エントリー主は上述の通り「みんなちがって、みんないい。」世界を肯定しているが、その世界は「お約束」をクリアしたうえでのものだと言う。果たしてそうだろうか。「みんなちがって、みんないい。」世界と「お約束」の世界は延長線上ではなくて並立であるべきではないのか。極端な話、知的障害などを患っていて「お約束」をクリアできない人は「みんなちがって、みんないい。」世界には到達できないのだろうか。だとしたらどうなってしまうの。「とにかにダメ。」みたいな世界に行くのか。

要するに、私が感じた違和感は、この2つの世界を重構造のようにして論じることで、学問的な「お約束」を過剰に一般化しようとしているのではないかということだ。エントリー主にそういった意図はおそらくないとは思うのだが、このテクストを純粋に眺める限りにおいては、そういった傾向を少なからず感じてしまう。


思うに、学問とはそもそもが没個性的な価値基準を「学ぶ」ことに他ならない。みんながみんな好き勝手な基準や定義を持ち合ってやいのやいのと、それこそはてなのアルファブロガー(笑)のようにキャッフキャッフしてたら、まともなコミュニケーションにならないから、ある程度のコンセンサスを基準として設けて、それを共有するというのは合理的だ。このコンセンサスの合理性を追求し、導かれた合理的な命題からさらに新しい合理的な命題を導くようにコンセンサスを拡大させ、そしてそれらを周知することが学問だと認識している。

ただ、ではそれらの合理的命題を、合理的だからといって押し付け、盲目的に信じることを強要することまでもが合理的であるとはとても思えない。世の中はまったく不確実で、絶対的なものなどなにもない。その中にあって合理という尺度を持つことはまあいいことなのだろうが、それを伝える方法として、合理的な内容に絶対性を持たせるような態度は、それ自体が合理的ではない。教育の合理性については、疑う余地が十分にあるのじゃないだろうか。