id:magician-of-posthumanの人観察日記とニセモノに向けられる不快感

さて、本当は先週書くはずだったが、たちの悪い風邪を引いたり、ちょっと呑みすぎたり、思ったより長くなったりで今日になってしまったが、『はっはっはっは』に対する反応を書く。

ポの人による批判

題名からして明らかだが、上の記事は私に対する批判である。id:magician-of-posthumanの人(長いので、以下、「ポの人」という)に言わせれば、私は『接続可能性と実行可能性を度外視し、学術的コミュニケーションの水路付けをあらぬ方向に逸らし、学術的な会話を成立不可能にすることも恐れない』のだそうだ。実はこれについて、私は特に反論するつもりはない。自分が無学なことは、自分がいちばんよく知っているからだ。無学であればこそ、「学術的な会話を成立不可能にすること」など恐れようがないし、そもそも私に学術的な会話ができるとも露ほども思わない。そしてこれは、「無知の知」といったような格好つけた話では一切なく、単に勉強をしてきていないというだけの話だ。また、どこぞのアルファブロガー(笑)のように、「勉強」の自分定義をお披露目するつもりもない。私は一応大学は卒業しているが、卒業のための必要最低限にしか大学には行ってない。ゼミにも所属していないので、研究と呼べるような活動の経験も皆無である。また、人様に誇れるほどの読書をしているわけでもない。ここ1年くらいに限れば20冊くらいは読んだので、リーマンにしては上出来だと自分では思うが、まあその程度だ。一昨年以前に教科書以外の学術書を読んだ経験はない。そういう非常に単純な意味で私は無学である。これは疑いようもないし、以前にも認めている*1

ではいったい何を書くつもりかと言えば、私が興味を持つのは別のポイントであり、即ち、ポの人はいったい何故私を批判するのか。その理由である。何故、ポの人はその明らかに無学な人間について、わざわざ無学だと批判するのか。さらには、私のことを「こいつ」などと書くあたり、いささか感情的になっているようにさえ見える。これは何故か。

批判の対象(というかきっかけ)となっている私のコメントは、以下のものだ。

「本の受け売りだ」というメタファーの意味するところは、まさに「学術的なコミュニケーションだ」ということではないかな。言語が違うから反論のしようがないってことでは。要は無学を吐露してるだけだが。

はてなブックマーク - id:ululunをボコボコにしてみる。「人生は不条理である」発言の押し付けと、「本の受け売りじゃクリエイティブじゃないんだよ!自分で考えた独創的なアイディアこそが重要なんだ!」の馬

このコメントがもし、ポの人に向けられた批判なのであれば、ポの人がそれに反論するかっこうで私を批判してくるのは実に自然であり、合点がいく。ところが、このコメントはまったくそういうわけではない。ここに記載のある「本の受け売りだ」というのは、id:ululunという人がポの人の言説について表現した記述だ。これに腹を立てた(のかどうかは知らないが)ポの人が「本の受け売り」は『筆者の第一階の観察と読者の第二階の観察とが一致しない』*2以上、不可能であるなどとして、反論をした。この反論内容は私として特段違和感がないというか、むしろ同意できるものだ。そしてその反論記事にあてられた私のコメントが上記というわけだ。これは批判でもなんでもない。ただ、ポの人が「本の受け売り」という表現をひたすらにネガティブなものとして捉えているように見えたので、そうでもない可能性を考えてみただけだ。学術的なコミュニケーションであれば、「本の受け売り」が多くなるのはあまりに必然だ。先行研究の引用なしに、なにかを学術的に記述することができると思うほうがどうかしてるだろう。そしてその先行研究の引用が、門外漢から見ると「本の受け売り」に見える可能性は十分にあるように思う。であればこの「本の受け売り」という表現から、さほどネガティブな要素ばかりを感じ取る必要はないような気がしたので上のように書いてみた。

であるから、上で引用したコメントに対するポの人の反応は結構意外だった。なにせ、『議論の入り口にすら達していない恣意の戯れが何を言う。』*3である。「のび太のクセに生意気だ」並みのインパクだ。前置きが少し長くなってしまったが、何故私を批判するのか、なにがそんなに気に障ったのか、考えてみる価値はあると思った。

ポの人観察日記

ところで、ポの人については、実は私は以前から強い興味を持っており、彼のはてなブックマークはお気に入り登録しているし、彼の日記はRSSリーダーに登録して端から端まで目を通している。であるから、このたびの考察にあたっても、過去の発言なども振り返りつつ検証してみたい。

誤読・誤解

ポの人は実に理路整然とした文章を書く、ブログ界には稀有な人材であることは間違いないが、意外と誤読や誤解は少なくないように思う。いくつか例をあげよう。

私は以前に、ポの人の誤解と思しき記述を見つけたので、ストレートに誤解ですかと問い合わせたことがある。『私信です - よそ行きの妄想』という記事だ。誤解と思しき記述の内容については、興味があればリンクでも辿っていただくとして、ここで重要なのはこの記事には何の返事もなかったということだ。他人のTWITTERでのつぶやきも見逃さずきっちりDISり返すような人なのだから、おそらくこの質問に気がついていないということはあり得ない。考えられるのは、私の質問に回答することが、彼にとって都合が悪かったという可能性だ。単純に誤解を指摘されて気まずかったという可能性もなくはないが、わざと誤解して自分の主張なりを広めるために利用したという可能性もある。意図的かどうかはここではおいておくとして、誤解があることはまあ間違いないと言ってもいいのではないか。

ポの人が書いた記事で『はっはっはっは』というものがある。これも私に対する批判記事だ。同記事内にてポの人は、私について『ただ批判への応答として、「知ったかぶりは不可避」を追記しているのである』と述べるが、これは誤解である。簡単に経緯を説明すると、ポの人がポストモダンを語る暇人は『それが単なるパラドクス化の一形式に過ぎないということには気付いているのだろうか』*4と書いていたので、これに私が『気付いたら松葉杖にならんという例の話ではないんかな』*5とコメントした。このコメントは以前にこれもポの人が『"弱者"は、それが松葉杖であることに気づいた途端に、利用しなくなる』*6と書いていたことを知っていたので、ポストモダンを「松葉杖」として利用しそれを語る弱者が、「それが単なるパラドクス化の一形式に過ぎないということ」に気がついているわけはないんでないの、と単純に思い、書いたものだ。これに対してポの人から『ただの知ったかぶりで吹いた』*7というあおり気味のコメントが来たので、今度は『知ったかぶりは不可避では』*8と返したのだ。ここで、何が誤解かと言うと、私は「ただの知ったかぶりで吹いた」というあおり気味のコメントを、私への批判として認識していない。理由もある。ポの人は平素、無知な弱者に「なんちゃって理解」をすることや「思考停止」すること、「開き直ること」などを推奨している。そして私は紛れもなく無知な弱者である。であれば上の例は、私と言う無知な弱者がポの人による「松葉杖」というメタファーによって、ポストモダニストについての「なんちゃって理解」を成功させたということになる。にもかかわらず、その無知な弱者に対して「知ったかぶり」であることを批判してくるとはまさか思わなかったのだ。だからこそ私は「知ったかぶりは不可避だ」ではなく、「知ったかぶりは不可避では」と応答した。これは批判への応答などではなく、批判のようなものに対するただの疑問だ。だから私は「知ったかぶりは不可避」と知ったかぶることを考察の終点にしたつもりはない。彼が「知ったかぶり」を批判するその理由をただ知りたかっただけなのだ。

また、『はっはっはっは』という記事では、finalventさんのはてなブックマーク論が取り上げられていた。上の2つと違い、誤解の対象が自分ではないので自信の程は劣るが、これも誤解だろう。私は以前に、fainalventさんのはてなブックマーク観に触れて、『はてブのなにが気持ち悪いのかさっぱりわかりませんという人が多いので説明してやる - よそ行きの妄想』という記事を書いたことがある。氏のはてブ観を要約すると、はてブには掲示板のような効用というか雰囲気があるように感じる一方で、運営はまったく掲示板的ではないから、このギャップを埋めるために、はてブパーマリンクのページをなくしてしまい、名実共に脱掲示板化してはどうかというようなことを言っていた。これに対してekkenさんという人が、そのギャップがあって何がいけないことがあるのかということをいろいろ質問していたというのが、当時私が見た論争である。ポの人が言う『「ブックマークコメントのネガティブ度は上昇、過度に陰口化する」のは大いにかまわないという想定の元で、「言及対象になっている相手には言及内容が分かりにくい状況」にしろ』*9という主張はfinalventさんの主眼ではなく、単に「もろ掲示板」のようなインターフェースはさすがになんとかしろよという程度のことだったと理解している。それによって、「ブックマークコメントのネガティブ度は上昇」したりすることは多少あるかもしれないが、まあ許容範囲内だろうと。なぜならば、「もろ掲示板」のようなインターフェースを継続することにより、ブックマークページに何かしら雰囲気のようなものが生じ、それが党派性に帰結すると言う恐れがあり、それに対する対応を優先すべしと考えたからだろう。であるから、ポの人の言うように、finalventさんが『とにもかくにもはてなブックマークを悪役に仕立て上げるために試行錯誤しているのだが、全く何もオルタナティブを提出できないがために、抽象的な危険性だけを指摘するに留まっている』*10ということはない。これは誤解だろう。

であるから、冒頭にて紹介した件についても、何らかの誤解に基づいている可能性は当然ある。ところがたとえ誤解であったとしても、その誤解が意図的なものかどうかまではわからない。彼は普段から、作為的に誤解をすることについてもまた肯定している*11人物である。であれば私は次のように問う必要があるだろう。ポの人は何のために誤解をしたのかと。

自分の土俵

ポの人はしょっちゅう他人を批判している。それはもう、あちらこちらで。ただし批判の内容も拡散的かと言うとそれはまったくそんなことはない。ルーマンのシステム理論やボルツのコミュニケーション理論、ゲーレンの人間学、ニーチェフーコーなどの哲学など多岐にわたるものの、ひとことで言えば学問の領域に限られる。例えば実体験に基づいて「要は勇気がないんでしょ」などと言ったり、増田のコイバナに久しぶりに激怒したり、世界的な景気後退を受けてリフレ政策の必要性に言及したりしているところは見たことがない。

冒頭に紹介した記事において、ポの人は私について、「議論の入り口にすら達していない」と評する。だが、議論の入り口とはいったい何処にあるのか。日常生活において、なにかを議論するにあたって入り口もクソもない。それは気がつけば始まっているものだ。議論に明確に入り口があるのは、その議論に参加するものの間で当然共有されるべきコンセンサスが構築されている場合だろう。例えばビジネスのミーティングであれば、「収益」や「顧客」という共通の目標が共有できない限り、その議論は無駄に終わる。学術的な論文において、真理をまったく度外視した目的を設定することは、無意味だろう。古風な言い方をすれば、議論の入り口が「あるかないか」の区別は、システムと生活世界の区別ということになるだろう。しかし、ノルベルト・ボルツ*12によれば『システム理論が区別するのは、システムと生活世界ではなく、システムと環境である。システム理論によれば、生活世界は、現代社会においては機能的に分化し、法とか学術とか経済とか芸術とか親交とかいったもろもろの部分システムに分解している*13のだ。このことからわかることは、むしろ議論の入り口は無数にあるということだ。つまり日常生活において議論には共有・到達すべき入り口がないわけではなく、無数にありすぎて特に意識できないというだけのことだろう。我々は議論の入り口が異なればお互いに理解しあうことはできないだろうが、理解したような気になることならできる。それが日常の会話ではないか。

今回ポの人が言った「議論の入り口」は、おそらく学術システムにおけるそれだろう。学術システムとはつまり「真理」を媒体にしたコミュニケーションによって形式化されるシステムだ。真理のコミュニケーションが連鎖するなかで、学術システムは自己と環境の差異を確保する自己塑成システムである以上、その先端は常に境界線上にあらざるを得ない。であれば、先端の議論への入り口は、まさに先行した研究からの接続以外にはありえない。それが満たされない言説は、無論、学術的な議論の入り口に到達することなどできないということになる。

ところで、学術的な議論によって批判が可能なのは、学術的な価値についてのみである。いくら長々と私への批判を連ねたところで、それが学術的な批判に限られるのであれば、「所詮私は学問は門外漢なので」という簡単な開き直りで回避することができる。この方法も、ポの人が教えてくれたのだ*14。例えば私がある大学教授などに、「あなたが明日から私の仕事の部下になっても間違いなくクソの役にも立たない」などと言ったとしよう。この批判はおそらく正しい。しかし何の意味があるだろうか。「いや、私は大学教授ですから」とでも返されて、私の方がかえって赤っ恥をかくことになるだろう。

矛盾・パラドクス

ポの人も人の子なので、ときにはパラドクスに陥ることもあるようだ。

以前の記事では、『ニーチェを正確に理解しているならば、「おまえのニーチェの読解は間違っている」「俺はニーチェを正確に理解している」と主張することは(中略)あり得ないのですが、あり得ないと主張している私自身は「おまえのニーチェの読解は間違っている」「俺はニーチェを正確に理解している」と言ってしまっ』*15たと述べられている。これはご本人が認めているケース。

そして、『はっはっはっは』などと言う割には、私が楽しく「なんちゃって理解」していると「知ったかぶり吹いたw」と煽って来るし、『何かにつけてメタファーは不可避だ』*16と言う割には、私がメタファーと言う単語を使うだけで、『こいつは(中略)悲惨。』*17と攻撃してくる。これは矛盾しているわけではないのだろうか。

ポの人は、いつも実にロジカルだし、オートロジカルな論理であることの必要性についてもしばしば言及している。上で紹介したニーチェの記事を見ても、自身がパラドクシカルに振舞うことを歓迎している様子はない。にもかかわらず、上であげたような言説がもし矛盾なのであれば、若干感情的に、私を批判すること自体を優先させている可能性もあるのではないだろうか。

ニセモノに向けられる不快感

突然だが、キングコング西野氏の発言を引用する。

インターネットの世界で言えばいわゆる『2ちゃんねる』というサイトの中でも、人を否定する事で
自分の存在を確かめている奴がその最たる例。
とてもカッコ悪いし、わかりやすく言えばアホだと思う。
そうなってはいけない。
そこで思う評論のルールとして、マナーとして。
最低でも反論を受け付けるステージを設けるという事。表に立つという事。
それがTV出演だったり、逆に評論される立場になる作品制作だったり。
そのステージを設けていないうちに評論してしまうと、つまりそれは『2ちゃんねる』のそれと
同じ生き方になっていると思うんだ。

http://www.fxneet.com/news/post-139.php

この発言の何がバカバカしいかと言えば、西野氏は2ちゃんねると言う掲示板に書き込んでいる無数の名無しさんを見て、その無限にも思える数量の膨大さからか、2ちゃんねらーを何か影響力を持った権威と勘違いしてしまっているところだ。しかしなんのことはない、そこにいるのはただの視聴者だ。もし相手がお笑い評論家という権威であれば、確かに自分の批評に責任を持つべきだし、自分の力量をはるかに超えた無理難題というか難癖で批評をすべきではない。ところが「2ちゃんねらー」は権威でもなんでもないただの視聴者の集合なのだ。視聴者は、「お笑い」システムの「議論の入り口」を共有しない。あくまで外部からの観察者だ
2ちゃんねらーをカッコ悪いアホだと言った西野氏はいったい何がしたかったのか。彼はニセモノの権威(という理解自体が間違ってはいるが)を失墜させようとしたのではないか。そのために「TV出演だったり、逆に評論される立場になる作品制作だったり」という「表に立つ」という自分の得意分野の基準を持ち出して、彼らの無力さを公言した
冒頭のポの人による私に対する批判もこれと同様だ。即ち、私はただの読者だ。上述したとおり、別にブログ論壇の立場からポの人の言説を批判とか、そういうことをした意図はまったくない。ただ感想を書き留めただけなのであって、「議論の入り口」に到達していないことは、言われれば多少カチンとはくるものの、よく考えれば考えるほど、当たり前のことだ。逆に何故わざわざそんなことを指摘するのかという疑問が湧くというものである。


うちの嫁は栄養士なので、栄養関連のTIPSには若干うるさい。母親友達(いわゆるママトモ)複数人で雑談をしていて、いかにも怪しい食育論を振りかざす人には強い不快感を覚えるらしい。しかしポイントは、1対1で話しているときにそういうトンデモが飛び出したときは、普通に自分の知識を披露するだけで特に腹を立てることはないという。つまり不快感の原因は、ニセの情報が存在していること自体ではなくて、相応の努力を経ずして注目を集め、権威を構築している様にこそあるのだと考えられる。つまりこれを逆に言うと、自分の努力や能力が正当に評価されないことに対する不満であると言えるのではないか。結果的に彼女は、そのママトモの輪からは抜けたようだ。「議論の入り口」を共有できなかったのだろう。


母性本能という道徳 - よそ行きの妄想』では、クワイと名乗る人物が、私に対してやけに教条的に絡んできた。確かに私はいい加減なことを書いたが、見ず知らずの他人に『よく調べろ』とか『よく考えろ』とか説教をされる筋合いはない。この人物が言うには、『滅茶苦茶な運転しているドライバーに「あなた、運転大丈夫?」って聞い』*18ている感覚なのだそうだ。確かにこの喩えは一見するともっともで、車で走っていてやけにフラフラしている車を見つけたら、ちょっと待てと、ほんとに運転できるんかと聞きたくなるかもしれない。その勢いで自分にぶつけられたり事故に巻き込まれたりしたら困るからだ。しかし問題はそこは本当に「公道」かということだ。公道であれば、道路交通法などの諸規則は当然に共有されていて然るべきだ。つまり「議論の入り口」が明確に存在する。「議論の入り口」を共有せずに「公道」にでられては迷惑だし、危険だ。しかしここが「公道」ではなく「ゴーカート場」であれば、話はまったく変わってくる。ゴーカート場であれば、最低限他人の権利を害するようなことさえしなければ、他人に運転のテクニックについてあれこれ言われるのは不自然だ。「ゴーカート場」におけるコンセンサスは、「公道」におけるそれよりもはるかに構築が難しい。そもそもゴーカートは、大したスピードが出ないように、つまり適当な乗り方をしても対して危険じゃないように設計されているのだ。ゴーカート場に集まった子供たちに、聞かれてもいないドライビングテクニックをひたすら押し売りしている大人を見たらどう思うだろうか。自己顕示欲という動機を思い浮かべるのではないだろうか。私のブログも一緒で、いかに適当なことを書いたとしてもそれを真に受ける人というのは基本的にはいない。ただの個人ブログだ。


ニセモノに対して不快感が向けられる例をいくつか確認したが、私はこれについていいとか悪いとかそういうことを言うつもりはまったくない。人間なら名声や自身に対する評価を欲するものだろうし、自分の欲するものをズルして手に入れている人物を見れば腹も立つだろう。ズルを暴いてやろう、引きずり下ろしてやろうと思うことは自然なことだ。

しかし我々は冷静であるべきだ。不快感にかこつけて、自分の得意分野の話を垂れ流すだけでは、大した効果は期待できないだろう。その相手の信頼や権威を支えているものはなにかを、まず考えなくてはならない。たとえば弁護士でも、法律知識よりもむしろ声の大きさや政治力でのし上がっている人物もいる。そういう人物を相手にするにあたっては、いくら細かな法律知識の必要性を訴え、その欠如を指摘しても、決定打にはならないだろう。派遣村の人がサヨク活動家か否かなどということはどうでもよろしい。なぜなら、彼らはマクロ的に見ればあまりにも明確である不況という背景に基づくことで、注目を集めることに成功しているのだから。その個人の政治信条などを指摘したところで、「だからどうしたの?」と言われるのが関の山なのだ。「ニセ科学」批判についても然り。その「ニセ科学」的なものの権威や信頼は、果たして「ニセ科学」的な裏づけのみに成り立っているのだろうか。もしそうでないのであれば、科学的な根拠がないことをいくら熱心に説明したところで、「だからどうしたの?」という話になりかねないのだ。私のブログも、[TopHatenar] chnpk さんの順位によれば、大変ありがたいことに百名余の読者様がいるが、おそらく彼らが私に求めているのは学術的ななにかではないし、私もそんなものに拘るつもりは毛頭ない。ただ日々感じたことをよりよい修辞でもって書き綴っておきたいだけなのである。

当たり前のことだが、不快感の対象である相手の「議論の入り口」は自分が勝手に決めるものではない。相手を批判するためには、相手の「議論の入り口」を冷静に見極めて、まずをれを共有する必要があるのではないか。それを怠って自分の得意な「議論の入り口」から相手の議論に攻め入っても、大した成果をあげることはできまい。要は、相手を理解せずして効果をあげられる便利な批判の常套句のようなものは、ない。不快感に捉われ、感情的になることで、我々は当初の目的を見失い、実現の可能性を犠牲にすることになる。自分の目的は何なのか、常に考える必要がありそうだ。無論、自戒を込めて。

*1:『[http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081011/1223710887:title]』を参照。

*2:『[http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090107/1231288998:title]』より引用。

*3:『[http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090107/1231332208:title]』より引用。

*4:『[http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081204/1228387609:title]』より引用

*5:『[http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081204/1228387609:title]』

*6:『[http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081122/1227351679:title]』より引用。

*7:『[http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081204/1228387609:title]』より引用。

*8:『[http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081204/1228387609:title]』より引用。

*9:『[http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081202/1228169347:title]』より引用。

*10:『[http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081202/1228169347:title]』より引用。

*11:『[http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081108/1226100872:title]』を参照。

*12:ポの人がよく参照しているので、気になってついに本を買ってしまった。

*13:『[asin:4130100904:title]』より引用。

*14:『[http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081011/1223685322:title]』を参照。

*15:『http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081011/1223690449:title』より引用。

*16:『[http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20081011/1223685322:title]』より引用。

*17:『[http://d.hatena.ne.jp/magician-of-posthuman/20090107/1231332208:title]』より引用。

*18:『[http://d.hatena.ne.jp/chnpk/20081230/1230602297#c1231473167:title]』より引用。