「ニセ科学」と「ニセ科学批判」と「ニセ科学批判批判」について

基本的に去年の話題だが、なんとなく思いついたことを。

ニセ科学」について

ニセ科学」批判・批判は難しい。

ニセ科学」批判・批判者が陥りやすい失敗のひとつが、科学と非科学の境界線は常にグレーでありかつ素人がクチを出せるほど単純な問題ではないし、かといって明確な非科学を批判したところで、何の意味もないというロジックがある。この批判がまるで効果を発揮しない理由は、「ニセ科学」という言葉の定義にある。「ニセ科学」の定義をまとめサイトから引用しよう。

科学ではないのに科学を装っているもの。つまり「科学ではない」と「科学を装っている」の両方を満たすものをニセ科学と呼ぶ。単に「科学ではない」というだけのものは「ニセ科学」の条件を満たさない

ニセ科学批判まとめ %作成中 - ニセ科学とは

つまり、「ニセ科学」という言葉を定義するにあたっては、科学か否かという区別のみではなく、科学を装っているか否かという第二の軸が持ち出されることになる。昨日『id:magician-of-posthumanの人観察日記とニセモノに向けられる不快感 - よそ行きの妄想』にて論じたとおり、どうやら我々には「ニセモノ」に対して不快感を持つ傾向があり、この十分に原始的な不快感はしっかりと道徳にも落とし込まれている。ニセ科学」とは科学と道徳によって区別される範囲である

この道徳と言う第二の軸こそが、科学的には真っ黒なものをわざわざ批判するという行為に意味を与え、科学的にグレーなものを批判することを可能にする。この道徳の軸を見落として「ニセ科学」批判の批判をしても箸にも棒にもかからないということは覚えておいたほうがよさそうだ。id:finalventさんも「稚拙な科学教条主義*1というレトリックを用いて「ニセ科学」を批判したものの返り討ちにあってしまったのは、この第二の軸を考慮しなかったためであると言えよう。

ニセ科学」を批判するということ

上で見たような道徳的な軸が存在するために「ニセ科学」批判の批判は難しい。しかし批判の批判が難しいということは、逆に言えば、ニセ科学」の批判自体は誰にでも容易に可能だということだ。批判に際しての科学的な根拠付けに際しては、確かに専門的な科学の知識が不可欠だが、この科学的な根拠付けについては先行した批判者の言説を単にコピペするだけでも、道徳というもうひとつの軸があるばかりに、その<単なるコピペの「ニセ科学」批判>ですら意味を持つ。これは科学という軸だけで考えたときにはありえないことだ。他人の論文を頭からケツまでコピペしただけの論文を提出しても学者としては何にもならない。これは明白だ。

この状況は、最新のデジタル機器などが実現する状況にそっくりだ。即ち、我々はいまや、音声通信の仕組みを何一つ理解せずとも、携帯電話のボタンを押すだけでそれを実現することができる。携帯電話の仕組みを理解する必要はなく、そのインターフェースと機能を了解するだけでいいのだ。これはつまり、ドイツの現代思想家ノルベルト・ボルツに倣えば『構造的複雑性を覆い隠す機能的単純性』*2である。単純化されたユーザーインターフェースが、その複雑な構造を隠し、我々の無知を癒すのだ。

いま我々が携帯電話や最新の通信機器を<使いこなす>ことで、ハイテクな気分を味わうことが可能であるように、我々は科学についてまったく無知であり無理解のまま、「ニセ科学批判」という枠組みのもとで、科学的な気分を満喫することが可能なのである。この我々の無知を隠し、無理解であることの惨めな気持ちを癒す仕組みをニセ科学批判」の技術のレトリックと呼ぼう。

ニセ科学」批判の動機

何故「ニセ科学」を批判するのかということについては、「ニセ科学」のまとめサイトには以下のように記述がある。

人それぞれ
…と言うとまるで冗談のようだが、これは重要なポイントである。現実のニセ科学批判には実に様々な動機がある。従って、ニセ科学批判を行う人々をまとめて「一派」のように看做すことは全くの間違いである(大多数のニセ科学擁護者は、もうこの時点で既に大きく間違えている)。ニセ科学批判はイデオロギーでもないし宗教でもない。

ニセ科学批判まとめ %作成中 - 何故ニセ科学を批判するのか

つまり「ニセ科学」の定義はあるがニセ科学批判」の定義はないということだ。であれば、「ニセ科学」批判の批判をしようと思ったら、「ニセ科学」批判・批判者は自ら「ニセ科学批判」の定義をしなくてはならない。「ニセ科学」を批判する大勢の人々のメタ的な共通項を探し出し、定義づける必要がある。この必要性こそが「ニセ科学」批判の批判が難しいことのもうひとつの理由だろう。ニセ科学批判」はその目的において相対主義なのだ。

ニセ科学批判」と「ニセ科学批判のユーザー」

ところで、ここまでの考察ですでに、ニセ科学批判のユーザー>と<ニセ科学批判者>とを区別することは可能に思われる。ニセ科学批判のユーザーとは即ち、上述した「科学についてまったく無知であり無理解のまま、「ニセ科学批判」という枠組みのもとで、科学的な気分を満喫する」人々のことだ。一方で「ニセ科学」批判者とは、「ニセ科学批判」の枠組みを設けた人々、素人でも「ニセ科学」を批判することができるようなまさにその枠組みをこしらえた人々である。

ニセ科学批判のユーザー」に限った話であれば、その動機を想像することはたやすい。ニセ科学批判」の尻馬に乗っかることで、知的な気分を味わうことが出来るからだ。

ニセ科学批判」のユーザーは、「ニセ科学批判」を消費する。資本主義における消費は、労働者という被支配者層における決して満たされない支配欲を、貨幣の支払いによる財やサービスの獲得という形式で、お手軽に実現する。財やサービスの獲得はお手軽な支配であり、貨幣の活用は経済システムからの疎外感から人間を解放する。はてなブックマークのボンクラどもがネガコメの対象にリンクを提供しながらスターをもらってニヤついているのも一緒だ。同様に、「ニセ科学批判」のユーザーは、簡単なインターネット検索で入手した「ニセ科学批判」の枠組みに乗じて啓蒙活動に参加することで、つかの間の優越意識と科学による支配を脱したかのような錯覚を得る。これらはまったく同じだ。つまりニセ科学批判」の消費のレトリックと言える。

オルテガは「大衆」をこう定義する。
「大衆とは、自分が『みんなと同じ』だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。」
この言葉遣いは一見するとニーチェの「畜群論」によく似ている。しかし、両者のあいだには、決定的な違いがあると私は思う。
オルテガは「自分以外のいかなる権威にもみずから訴えかける習慣をもたず」、「ありのままで満足している」ことを「大衆」の条件とした。オルテガ的「大衆」は、自分が「知的に完全である」と思い上がり、「自分の外にあるものの必要性を感じない」ままに深い満足のうちに自己閉塞している。これはニーチェが彼の「貴族」を描写した言葉とほとんど変わらない。つまり、ニーチェにおいて「貴族」の特権であった「勝ち誇った自己肯定」が社会全体に蔓延した状態、それが、オルテガの「大衆社会」なのである。

内田樹の研究室 2006: 階層化=大衆社会の到来

現代社会の複雑化が進む中、我々にとって何かを理解することは容易ではない。だからこそ、我々は無知なまま利用することができる単純性を求める。これはすべてにおいていえる傾向だと思う。『はてなブックマーク - 肉を たべたいというのは、動物を ころしてでも たべたいということだ。 - hituziのブログじゃがー』にて、「そういう複雑な背景を誤魔化し、不可視化するのが専門技術。求められているのは単純さであって、複雑性に対する理解を強要しようとしても無駄。」とコメントしたのも、これと同じ背景である。そしてその先にある社会こそが、上に引用した大衆化社会ではないだろうか。

以降追記(1/20)

ニセ科学批判批判」の動機

ここまでの話を一旦まとめると、つまりニセ科学批判者」と「ニセ科学批判のユーザー」との間には支配の関係があるということだ。繰り返しになるが、このふたつの相互の関係は、資本家と労働者の関係と等しい。両者は一見すると目的を共有し、団結しているかのように見えるが、資本家は労働者を支配することに既に成功しているのだ。一方で労働者は、支配の下で小さな幸せを見出さなくてはならない。それが消費だと述べた。「ニセ科学批判批判」をする人たちが不快感を覚える源泉はおそらくここにある。

ニセ科学批判者」や「ニセ科学のユーザー」に異を唱える人が持つある程度共通した見解は、いったいその「ニセ科学批判」に何の意味があるのか、という点である*3。そしてその指摘は、ある程度当を得たものであるように思える。即ち、「ニセ科学」を批判する人々が公言するような目的に対して、その諸活動が多大な効果をあげているとは必ずしも言い難いのではないか。【少なくとも私にはそう見える。私が考えるところでは、「ニセ科学批判」が目的とすべき方向性はふたつあるように思う。ひとつは、ニセ科学」の信頼を失墜させること。もうひとつがニセ科学」に騙される可能性のある人のリテラシーを向上させること。以下それぞれの目的について、私が感じる違和感を説明する。】*4

まず、『id:magician-of-posthumanの人観察日記とニセモノに向けられる不快感 - よそ行きの妄想』に書いたように、不快感にかこつけて、自分の得意分野の話を垂れ流すだけでは、大した効果は期待できないのだ。あるニセモノについて、その権威や信頼を失墜させたいのであれば、まずはそのニセモノの権威や信頼がなにに基づいているのかを考えないことには、いかなる批判も時間の無駄に終わる。例えば、派遣村の人がサヨク活動家か否かなどということはどうでもよいのだ。なぜなら、彼らはマクロ的に見ればあまりにも明確である不況という背景に基づくことで、注目を集めることに成功しているのだから。にも係らず活動家個人の政治信条などを訳知り顔で指摘したところで、「だからどうしたの?」と言われるのが関の山だ。若しくは、風呂のカビをいくら掃除しようが、そもそもの換気を改善しないことには、カビはまたいくらでも生えてくる。必要なのはその事象の原因を特定することだ。例えば何かしらニセ科学的なものを根絶するためには、科学的な根拠の欠如を指摘するだけでは往々にして不十分である。

【『ニセ科学批判はニセ科学の根絶を目指している? - 思索の海』によれば、「ニセ科学批判」の目的は、できるだけ多くの人が「ニセ科学」に騙されないだけのリテラシーを有する社会を実現することだという。しかし、そうしたいわゆる「一般人」のリテラシーを向上せしめることに活動の目的を置くのであれば、その「一般人」にとってのインセンティブを設計することこそが求められる。現にそのインセンティブが崩壊した結果として、学校教育において勉強することを放棄し、科学に対するリテラシーが低い状態に陥っているわけなのだから。彼らにはリテラシーを獲得する機会がなかったわけではない。その機会を放棄したのだ。であれば、いまさら新たな機会をいくら設けようが、無駄である。同じようにその機会を放棄するだろう。つまり、リテラシーを高めるために学ぶインセンティブが「一般人」にあるのであれば、そもそも「ニセ科学批判」という活動は必要ない(学校教育で足りる)ということになるし、インセンティブがないのであればいくらなにかを教えようとしたところで無駄なのではないか。】*5


【見てきたように、「ニセ科学批判」の効果に疑問を持つこと自体には、一定の合理性があるように思う。そして、】効果を度外視してなお、「ニセ科学批判」という活動に没入するのであれば、そこにはなにか別の動機があるのではないかと勘ぐりたくなるのも自然なことだろう。その別の動機が、「ニセ科学批判批判」の立場からは、「ニセ科学批判者」においては大衆を支配することであり、「ニセ科学批判のユーザー」においては「勝ち誇った自己肯定」の感覚を得ることであるように見えるというわけだ。

であれば「ニセ科学批判批判」の動機についてはつまり、次のように言うことができるだろう。本来の動機や目的を隠蔽した、ニセ・ニセ科学批判に向けらる不快感であると。要は、自分ニセ科学批判とか偉そうなこと言ってるけどそれ科学者ぶりたいだけちゃうんか、ということである。

ニセ科学批判批判」のムジュン

賢明なはてなー諸氏であればすぐにお気づきのことと思うが、上述した「ニセ科学批判批判」の動機はただの「ブーメラン」である。単純化して言えば、ニセ科学批判批判」は、「ニセ科学批判」について、それが大衆の自己肯定欲につけこむ支配の図式を構成するだけでその批判自体には何の効果もないとする批判を、何の効果もない手法でやっているということになる。であればその批判は自己にこそ向けられるべきだ。公言される目的とはもしかすると違うかもしれないが、「ニセ科学批判」が何らかの効果を生んでいることは、上のように否定的に見たとしてもなお明らかなのだ。その効果について考えもせずに批判を気取ったところで、何の成果も得ることはできない。

この矛盾を脱するためには、結局のところ、大衆が自己肯定の欲求を満たせるだけの、「ニセ科学批判」に代わる枠組みを開発し、それを与えるしかないように思う。怪我人の松葉杖を取り上げてただ喜んでいるようでは、あまりにも性質が悪いというものだ。

*参照した記事

*1:『[http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20081117/1226930161#c1227259572:title]』より引用。

*2:『[asin:4130100904:title]』より引用。

*3:『[http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20090119#p1:title]』のコメント欄などを参照。

*4:【】内追記。

*5:【】内追記。