予想なしにははじまらない

ふと思ったこと。

「未来を予想したところで、どうせその通りにはならない。」
「ネットの浅知恵で導かれる結論など何の意味もない。」
「そもそもユートピアのようなものはない。」
いずれもごもっともだ。

卑しくも証券会社に勤める身であればこそ、将来のマーケットを予想することがどれだけ難しいか、不可能なことであるかは、重々承知している。

ブラックショールズだかシミーズだか知らないが、リスクを定量化してオプションの理論価値を計算するような試みは数あれど、大概は気休め程度の効果にとどまる。それっぽい理論から導かれるそれっぽいリスク算定が本当に妥当なものなのであれば、LTCMは破綻などしていないという話だ。

ある程度のコンセンサスのもとに動く金融マーケットでさえ、こうなのだ。社会の未来を見通す力が誰にも備わることがないという事実は、頷けるものだ。


それでも私が、トレンドを分析し、未来の記述を試みることをやめないのは、予想なしにははじまらないからだ。

トレーディングを経験して思うのは、何も考えずにマーケットにエントリーするのは、とても恐ろしくてできないということだ。その考えが如何に「休むに似たり」であろうと、考えれば考えるほど、自信を持ってエントリーすることができる。

しかし予想があっているかどうかなどは、どうでもいい。どうせあたるはずなどないし、そもそも大事なのは、はじめることなのだ。

はじまってしまえば、あとは如何にうまく着地するかを考えるだけでいい。そしてうまく着地さえできれば、当初の予想があたっているかどうかなど、どうでもいい。はじめてしまいこそすれば、選択肢の無限性は徐々に縮減し、ベストな判断という魅惑的な可能性も現実味を帯びてくる。はじめる前は、選択肢は無限なのであり、ベストな選択肢などというものはそもそも存在しないだろう。


この無限の選択肢、どうなるかわからない不確実性、これらはいつも不安のタネだ。ときに人の行動を抑制する。

しかしそれらに効果的に対処するには、もしあなたが大金持ちでないなら、なにかをはじめるしかない*1。はじまりの方向付けが、その次の軌道を制限し、その制限があるから、前よりも容易に選択をすることができる。そしてその選択はまた次の軌道を制限する。

いつもなにかをしていなくては不安だという心理は、そういうことだ。確かに、人生は既にはじまっているといえるけれども、不安なときこそ、もっといろいろなことをはじめるべきなのだ。

そして、再びなにかをはじめる苦労を味わうことを避けるためには、はじめたことをなるべく続けるべきだ。

私が、結婚して子供ができてよかったと思うことのひとつは、扶養の義務が私を立ち止まらせないところだ。選択肢が多いことや、立ち止まってゆっくり考える時間は、決していいことばかりではない。むしろ人を不安にさせる最大のものだろう。

なにかをはじめるには自信が必要で、それを続けるには義務や制約(誓約)が必要だ。

これらを使いこなすのが、上手く生きるコツではないだろうか。

*1:もし大金持ちなら、そのお金をなるべく使わないことだ。