野良猫餌やり論争を勝手に想像してみた

公園などでよく見かける野良猫に餌を与えるな的な看板。一方で後を絶たない餌を与える人物。この裏側には壮大な論争があるのではないかと思い、勝手に想像してみた。予め断っておくが、100%フィクションである。

  • 本流
    • 野良猫に餌を与えるよ派
      • A :かわいそうな猫に手を差し伸べるのは人として当然。
      • B :もとはといえば人間のエゴが起こした悲劇なのであって、人間に責任がある。
      • C :野良猫じゃない、地域猫だ。そして我々は、ボランティアである。
    • 野良猫に餌を与えるな派
      • a :糞被害など、衛生面の問題が多い。責任をとれ。
      • b :餌を与えることで、かえって悲劇は量産されるのだよ。
      • c :(この自己満足の偽善者どもめ!)
  • 支流
    • 実際には与えないけど与えることを支持するよ派
      • C':猫に餌を与え続けられないのだとしたら、それは社会が間違っているのだ。
    • おれも昔は大変だったよ派
      • c':猫より犬を飼え!


基本的に、話はA→a→B→b→C→cの順で進む。

A :かわいそうな猫に手を差し伸べるのは人として当然。

まず、「与えるよ派」は、深く考えずに餌を与えていたはずだ。何故なら、猫が好きだからだ。だってかわいいもの。困ったときはお互い様、情けは人のためならずと、昔ながらの先人の知恵、思考停止ワード(ことわざとも言う。)も、餌やりを後押しする。お腹を空かした猫を見てみぬフリなど、誰ができようか。

a :糞被害など、衛生面の問題が多い。責任をとれ。

対する「与えるな派」は、そもそも猫が好きではない。友人の飼い猫など、かわいさだけを抽出して享受できるシチュエーションであれば、「かわいいねー」などと余裕を覗かせるが、糞尿やゴミ荒らしなど実害に対峙したら最後、一瞬で憎悪をつのらせるのだ。どうも最近猫が増えた気がする。ガレージの糞は以前は週に一度程度の掃除で間に合っていたのに、いまではほとんど毎日だ。そういえば(いけ好かない)隣の婆さんが野良猫を集めて餌をやっていた。それで増えてるに違いない。ふざけるな!かわいがるだけで糞尿の始末だけこっちに押し付けやがって!かわいがるならその猫の行動に責任をとれ!若しくは逆に、猫が好きで、好きで、好きで、実際に飼っている人。そして宅内にトイレを設け、ちゃんと責任を持って管理している人も、自己と比較した場合の「与えるよ派」の無責任さにズルさとそれに起因する不快感をおぼえることだろう。

B :もとはといえば人間のエゴが起こした悲劇なのであって、人間に責任がある。

一見するともっともなこの「与えるな派」の主張に対して、「与えるよ派」は、責任という判断基準は維持したうえで、ひとつメタ的な視点を提示する。猫に餌を与える、与えないという切り分けには何の意味もないと。そう、これは「人間と猫」全体に係る悲しい物語なのだ。野良猫という悲劇のポジションを生み出したのは誰か、その胸に手を当てて聞いてみないさいと「与えるよ派」は優しく諭す。そうです。野良猫とはまさに人間のエゴが生み出した悲劇なのです。すべて我々人間には、等しくこの悲しい物語を語り継ぐ責任があるのです。

b :餌を与えることで、かえって悲劇は量産されるのだよ。

人間誰しも心にやましいところはあるもので、論点のすり替えだとは分かっていても、こうした高潔な倫理感を示されると、自信を持って石を投げることは難しい。例えば、既に生み出された悲劇は埋没コストなのだから、将来の意思決定がそれに縛られるべきではなく、合理的に考えれば即刻すべての野良猫を処分すべきなのだ、とマッチョな自説を説いたところで賛同を得ることは難しかろう。むしろそうした過激な方針は「与えるな派」の内部分裂を引き起こし、戦局にも不利となる可能性が高い。であれば、「与えるな派」のとるべき戦略的方針はひとつだ。「与えるよ派」の支持する倫理観を逆手にとって、将来新たに生み出される悲劇に対する不安を煽るのだ!いま餌を与えることで将来悲しい末路を辿る猫が増えるとしたら!!それでも貴様らは「いま」餌を与えるのか!!!と。

C :野良猫じゃない、地域猫だ。そして我々は、ボランティアである。

人間なら誰しも不安に抗うことは難しい。不安に真っ向から対峙するためには、将来のそれを現在に落とし込み、具体的な対応を行うことが肝要である。野良猫を将来にわたって増やさないためには、不妊手術(避妊・去勢)等の対応は必須である。これはある程度の労力(野良猫の捕獲など)とコストのかかる行為であって、とても個人で対応できる範囲を超えているように思えた。とるべき具体的な対応がわかっていながらそれを放棄したとあっては、「与えるよ派」の信頼にかかわる。草の根的に活動していた「与えるよ派」の人々は、この不妊手術への非対応を根拠に次々と論破されていくのだった。勝負は決したかに見えた。しかしそこで登場したのが、何とかNPO法人とか言う動物愛護団体だったのだ。彼らは、「野良猫」と「地域猫」という新たな区別を導入。「地域猫」に対しては、不妊手術などの必要な処置をとることを明言した。そうして、団体の参加者やそれに賛同する個人などは公然と餌やりを再開したのだ。昔から野良猫を集めて餌をやっていた(いけ好かない)隣の婆さんも、もはや単なる一般人ではない。立派なボランティアの一員になったのだ。

c :(この自己満足の偽善者どもめ!)

必要な対応を行うことを明言されては、表立って批判することは難しい。確かに対応の不備は目に付くし、それを指摘することはできるが、ご助言ありがとうございますと感謝されてしまうのが関の山だ。昔のあのアツいバトルは戻ってこない。(猫ちゃんかわいそうとか言って、結局不妊手術をするのであれば、殺すのと大差ないだろ。子孫は残せなくてもせめて生きている間はつらい思いを紛らわせてやりたいってお前、そう言うのをただの自己満足って言うんだよこの偽善者どもめが!猫ちゃんにはつらいとかそう言う感情はありませんから!!残念!!!)とも思うものの、間違っても口には出せない。人格を疑われてしまうし、そもそも不快感の矛先が、猫による被害から偽善者どもにすげ代わっているのである。これではお話にならない。もやもやした気持ちを残しつつ、「与えるな派」は、ガレージに残されたウンコを(わざわざ)探し、団体にクレームの電話を入れるしかないのだ。

C':猫に餌を与え続けられないのだとしたら、それは社会が間違っているのだ。

ところで、bの段階で不安が提示された際に、「与えるよ派」の多くは上で見たとおり動物愛護的な政治性に回収されていくのだが、一部の人は「与えるよ派」の分派:C'となって、更にメタ的に視点を移動させることで、この不安と対峙する。即ち、人間に<人間が生み出した悲劇たる野良猫>に餌をやり続ける責任があること自体は自明なのだから、もし将来猫が増えたとして、その増えた猫に餌を与え続けることができないのであれば、それは社会の方がおかしいのだ、と。野良猫の糞尿を迷惑と考えること自体が、人としておかしいのかもしれない。若しくは野良猫の糞尿などを解決する財源がないのであれば、財源の配分がおかしいのかもしれない。ただ、何がおかしいかなど、どうでもいい。とにかく何かがおかしいのだ。ちなみに、この分派のほうの特徴は、自分の周りにはたまたまそういうかわいそうな野良猫がいないので、実際に餌を与えることはあまりないというところだ。

c':猫より犬を飼え!

この「与えるよ派」の分派:C'は、実際に餌を与えるわけではないという意味で、誰にとっても実害はないので、現実社会ではあまり出る幕がないのだが、戦場をネットなどに移すと、cでたまった鬱憤のはけ口などとして大いに活躍する。具体的には、「実際にガレージに毎日ウンコされる身にもなってみろこのスカポンタン」という、実はボランティアの活動によっていまや週に一回ウンコされるかどうかになった「与えるな派」による憂さ晴らしの放言に対して、「そもそも猫の糞を迷惑がること自体、人間の責任に対する自覚を欠いている証拠だ」などとして燃料を投下する。昔のバトルの興奮が蘇った「与えるな派」はすっかり病みつきになってしまうのだった。そこで登場するのが、ネット界の大御所「アルファブロガー」だ。彼らには、それがどんな問題であれ盛り上がりさえすれば事後的に口をはさむ習性がある。自分も昔はガレージに糞をされて大変だったと。そんなとき自分がどうしたのか。前から欲しかった犬を飼ったのだ。するとどうだろう。朝の散歩が習慣になって、生活が変わった。適度な運動で体調もいいし、いいアイデアも浮かぶようになった。近所の公園に散歩する仲間が出来、それは仕事上の人脈にもつながった。あ、そうだ、できる男は犬を飼っているのだ!確かに犬は高いかもしれないが、人から子犬をもらうのでもいい。要は勇気が(略

そして、このときばかりは「与えるよ派」と「与えるな派」が異口同音に言う。「おれ○○派なんだけど、なんだこれ・・。」