死刑に賛成している人って、もしかして輪廻とか信じてない?

私はまだどちらかの立場を表明するほどには知識も経験も足りていないのだが、死刑存廃問題というのは、ネット上の揉める話題トップ5くらいに入っている気がする。

先日も、社会正義をふりかざす福島みずほ氏に2ちゃんねるの右寄り系の人たちが群がり、それをブクマではてなーが左寄りに糾弾するという典型的な事例が観測された。

痛いニュース(ノ∀`) : 社民・福島みずほ氏 「死刑は言語道断!社会正義に反する!」…4人死刑に強く抗議 - ライブドアブログ

ここを見ていて思ったのだが、賛成派の人の論拠もいくつかに分類できるようだ。ひとつは、被害者感情への配慮、並んで多いのが再犯可能性への危惧。将来の犯罪に対する抑止力とか、受刑者を生存させる金銭的なコストとか、あとはお馴染みのお前が言うな的な反論も多いが、その辺は語るにも足らないだろう。


まず、比較的よく見られる賛成の根拠としての、被害者感情への配慮。まあつまり被害者や関係者による報復などによる暴力の連鎖を食い止めるためにも、感情を修復する意味での厳罰は必要であるという論旨ではないか。

これはつまり、刑罰の効果として、受刑者の苦痛に着目しているということのように思える。要は被害者がスッキリすることが重要なのだと。そう考えるのであれば、死刑は、例えば耳削ぎや四肢切断、去勢や鞭打ちなどのいわゆる身体刑の延長線上に位置しているような気がする。で、おそらく執行の方法も残虐なものであればあるほど効果的ということになろう。火あぶりや貼り付け、公開処刑などだろうか。

個人的には、そういった刑罰はさすがにどうよと思うのだが、死刑賛成派の人はこれについてはどのようなお考えなのだろう。こうした残虐刑を想像すると、私なんぞはそこまでの権力を国家に与えることに逆に恐怖を覚えるわけだが。


で、思ったのは死刑を身体刑ではなくて、別のものの延長として捉える考え方があるのではないかということ。あまり多くの人が身体刑に対して肯定的だとは、ちょっと考えづらい。

被害者感情への配慮に次いで、死刑を支持する動機として多いように見えるのが、再犯の防止であるように見える。無期懲役であれば、仮釈放などで社会に戻ってきて、再び悪事を働く可能性を排除できないが、死刑にしてしまえば安心だという話だろう。

異常で凶悪な犯罪者を、健常者の社会からなるべく排除したい。安心できる社会で暮らしたい。これらは誰しもが望むことだろう。つまり、社会から犯罪者を排除するためのもっとも効率的な手段として死刑が求められているという考え方はできそうだ。

こう考えていて思いついたのだが、日本には古来から村八分や島流しという私刑があったように聞く。もしかして、死刑についても同様の捉え方をしている人は一定以上いるのではないだろうか。つまり村八分というのはムラの内と外という二元論に基づく排除であり、いわゆる禁錮刑や懲役刑というのは一般社会の内と外という二元論に基づく排除である。同様に、死刑を現世の内と外という二元論に基づく排除と考えることもできるのではないか。これらは一種の自由刑である。

逆に、死刑を身体刑の延長として捉え「ない」ためには、むしろ上記のような方法論等によって死刑を一種の自由刑として捉える必要があるのではないだろうか。


まあ当然のことではあるが、このような可能性を考慮した場合、死刑の存廃に対するスタンスは、各人の死生観に大きく依存する可能性が高い。特に死刑を身体刑ではなくて自由刑として捉えようとするのであれば、ある意味、死後の世界を現世と同一平面上に捉える宗教的理解が不可欠であると思える。あくまでいくつかの世界が並列的、かつ相互依存的に存在しているような世界観の下でなければ、現世の内と外という感覚は持ち得ないような気がする。

そう考えると、死刑を存置している国がアジアにやけに多いのも納得がいく気もする。仏教における輪廻という考え方は、平面的な世界の上に現世の内と外をかたちづくり、死を単なる終焉や究極的な暴力の結果と捉えることを阻害しているのではないのだろうか。