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コミュニケーションと人格

はてな村の一員として、村のアイドル有村さん*1の観察には日夜余念のないワタクシであるが、このたび*2なんとなく有村さんのことを考えていた*3ところ、ふいに自分の昔のことを思い出して悲しくなったでござるよの巻。

ということで、この記事は有村さんという人物を出汁にした単なる自分語りであって、それ以上の意味は特にないことを予め言っておく*4

具体的な事例を引っ張るのは面倒なので止めておくが、有村さんという人物のある一面をいい加減にまとめると、不快感に対しての感度が高く、不快な言説を発する人物に対してはその言説を相手の人格に勝手に投影しての人格攻撃も辞さず、同時に自らの人格を衆目に晒し非難されることを回避しないにもかかわらず大して打たれ強いわけでもなく、しばしば傷だらけになりながら他者を攻撃し、最終的には力尽きてひとり荒野に伏すような人物である*5

こうした劇画チックな生き様(の必要性)に最初は違和感を感じたものの、私は次第にある種のカリスマ性すら感じていた。しかし、このたびふと気がついたのだが、有村さんは上述したように「不快な言説を発する人物に対してはその言説を相手の人格に落とし込んでの攻撃も辞さ」ないのではなく、そもそも誰かの言説とその人の人格を多面的に捉えることが単に苦手なだけなのではないだろうか。何故そんなことに思い至ったかといえば、そういうコミュニケーションの捉え方を極端に苦手とする人物をよく知っているからだ。ほかならぬ私自身である。少し前の、という注釈付きではあるが。


以前の私は、凡そすべてのコミュニケーションを人格の問題に還元していたように思う。例えば友人と話が合わないのは、人としての魅力が足りないせいとか、バイト先で叱られるのは自分がネクラだからとか、恋人ができないのは要は勇気がないからだとか、ともかく現実に起こる好ましくない事態について、それらを自分の人格以外に帰す方法を私は知らなかった。たぶんコンプレックスが強かったのだと思う。

さらに悪いことには、相手の意図や意向を慮るにしても、人格という切り口以外を知らないがために、結局自分と違う種類の人格を持った人物とは一切まともに係ることができず、結果としてそういう相手に対してどこか卑屈になってしまい、その卑屈さをさらに自分の人格に還元してしまうという負の連鎖を産んだ。他人を観察するにあたって、他者を自分の人格に投影することによってでしか観察することができないので、当然女性性などの自分にとって見当のつかない人格については、まったく理解もできないわけだ。


このことが改善されたのは、社会人になってからだ。他者とのコミュニケーションに際して、人格を前面に出すのではなく、「立場」を前面に出すという方法論を知った。営業職の新入社員なら誰でも経験するのが、いわゆる飛び込み営業だが、周知のとおり飛び込みで訪問するのだから相手の対応は冷たいことこのうえない。あの厳しい風当たりを人格で受け止めていたら人格がいくつあっても足りないだろう。そうして新入社員は、「これは仕事なのだ」という呪文を覚えるに至る。つまり仕事という「立場」を人格の前面に新たに設けることによって、好ましくない事態に関する因果関係を極めて表層的な問題に限定し、客観視することを覚えるのだ。

その後、私にとってその「仕事という立場」はさらに細分化されていった。例えばあるときは、「投資家としての立場」であったし、あるときは「売り手*6としての立場」であった。「投資家のアドバイザーとしての立場」のときもあったし、「単に業者に発注するだけの立場」のときもあった。

すると次第に、その「立場」の細分化は仕事上のものだけにとどまらず、私的な面においても同じことが行えることに気が付いた。「友人としての立場」と「恋人としての立場」、「夫としての立場」に「親としての立場」、「ちょっとした知人としての立場」もあるし「他人としての立場」もある。


そしていまや、私という人間について存在しているのは諸々の「立場」【だけ】であり、そもそも人格などというものは存在しないか、万が一存在しても何の意味のないものという認識を持つに至っている。

よく中高生に探される”ほんとうの自分”についても、そんなものがあるとすればそれはおそらく「ほんとうの自分という立場」である。それは諸々の立場の深層に位置する本質的ななにかではなく、並列的に存在するエンティティのひとつに過ぎないのではないか。

であれば、人格というものが万が一あるとしても、それは、諸々の「立場」を構成する本質的な役割を持った要素などではなくて、逆に諸々の「立場」を正当化するために後付で構成される極めて後天的なもののように思える。実存は本質に先立つというあれである。


こうしてはじめて、私はいくつかのコンプレックスをついに克服することができた。特にコミュニケーション相手の「立場」を推測することによって、ある程度確からしい形式で相手の意図や意向を慮ることができるようになったことが大きい。相手が本質的にどういう人間かという問いは私にはあまりにも難しすぎたが、相手がどういう「立場」にいるのかは、比較的容易に知ることができるからだ。

そしてさらに、私が相手について、「私と対峙する相手の立場」を想像し、かたちづくることで、相手はその「立場」に基づいて私とのコミュニケーションをはかることが可能になるから、実は相手にとってもそれが望ましいことであるケースは多いのだということもわかった。

複数の人間と、なにも同一のエンティティでもって、無理に接続する必要はないのだ。むしろその相手特有の接し方、つまりその人と接するための「立場」を自分の中に持つことこそが、親密であるということの意味なのではないだろうか。それは決して不誠実なことではない。

追記

今日、転職活動の一環として人材紹介会社の人に会うにつけ、自分が面接に不慣れである件などに話が至ったので、その派生として上記と寸分たがわぬような自己認識を披露したのであるが、先方はまったくチンプンカンプンという感じであった。

上記のような感覚は、やはり決して一般的なものではないらしい。

なんか、最近になってようやく自分が人と何が違うのか分かってきたような気がする。


もしかすると、私は障害者なのかもしれないとも思うが、だとしても少なくとも年収的には健常者どもの平均をおそらく倍以上は上回っているので、良いほうのマイノリティということになるが。

*1:有村さんという人を知らない人は特に気にしないで下さい。

*2:一応きっかけとなっているのは、『[http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20090204104611:title]』や『[http://b.hatena.ne.jp/entry/http://twitter.com/y_arim/status/1175643963:title]』。

*3:我ながら実に気色の悪い言い回しだが、単なる事実である。赤の他人に観察され、想われることがアイドルの宿命なのだ。

*4:とはいえ、何かの参考にでもなるのであれば、それはそれで実に幸いなことではあるが。

*5:こうした側面は、『[http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/fk_2000/20090122/p1:title]』などでも観察されている。

*6:M&Aの話。