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人格とか不快感、プリミティブな感情、人間的自然なんかにこだわっでも何も良いことないと思うけど

先日書いた『コミュニケーションと人格 - よそ行きの妄想』という記事に、興味深いコメントが届いた。

適応せずに生きられるのか

私が書いたのは要は、対人のコミュニケーションにおいて、人格の前面に「立場」をおいたほうがなんかたぶん楽だよという話。ついでに、私くらいになるとそもそも人格なんて不要で、あるのは諸々の「立場」だけと。

そして、いただいたコメントは以下。

id:flurry [これはかわいそう] 『ぶわははは>『人格というものは存在せず、個々の立場や役割があるだけ』 しかも、id:chnpkさんは「ツラい飛び込み営業」でそれを会得したそうな。いやそれ「駅前で大声で歌わせる」系の新人研修と同じ効果ですから!』*1

はてなブックマーク - コミュニケーションと人格 - よそ行きの妄想

人格があることが人間として良い事で、それをなくしてまで物質的な充足を得ようとする人はかわいそうな人だ、というメッセージを勝手に読み取った。そしてそのメッセージの背後には、人格や人間の本質のようなものに対する普遍的な賛美が透けて見える。私はそれが何であれ、何かを普遍化する姿勢にこそむしろ不幸を感じるので、今日はその話でも書こうと思う。

確かに私は特定の擬似環境をきっかけにして、変化に対して適応した感はある。しかしながら一体誰が、適応せずに生きられるというのだろうか

人間的自然

既にこのブログでは何度か述べているが、人間に生物的な不変の特徴を見出すとしたら、それは未熟さだろう。

数多いる動物のなかで人間だけが、生来の目的意識も生きる術すらも大して持たずにに生まれてきて、その後成長したところで確定的な成熟形態に至るわけでもない。だからこそ我々は、人生に迷いを覚え、将来には不安を感じ、その生涯を学習に費やす。我々における飾らぬ本質とはつまり、未熟であることによる恐れや不安に他ならないのだろう。

内面化された抑圧を取り去って、権力に抗って、原始的な感情に忠実に生きるよう心がけたところで、表出するのは結局そうした恐れや不安くらいのものだ。

擬似環境

こうした人間的自然の顕現を抑制し、我々を生かすしくみこそが、文化であるといえる。

他の動物が、その種が生息する地域の環境に生態的な特徴を特化させることによって、生存を容易にしているように、我々人間は、自らの恐れや不安を覆い隠す文化や慣習を自らの周囲に構築し、それを擬似環境とみなして、擬似環境に対して適応してきた

社会の全体性喪失と機能システムへの分化

ところが、我々にとっての擬似環境は固定的ではあり得ない。

万人にとって自然に適応可能な環境の概念などは存在し得ない、つまりいかなる擬似環境も完全ではないから、それは常に変化することになる。伝統的な地域コミュニティによる安心・安全は崩壊し、それは国道と言うインフラの上に発展した大規模フランチャイズチェーンによるコモディティ化された「食の安心」や、警備会社によるホームセキュリティ・サービスやオートロックのマンションなどのゲーテッドコミュニティによる「安全という商品」によって代替されていっている。そして帰属先を失った我々の精神は、共感できるコミュニティを探してインターネット上を彷徨っているという有様である。

全体性を掌る神や倫理という概念は、少なくともこの日本には、もうない。あるのは、諸々の機能に特化したオートポイエティックなシステムだけである。アダムとイヴが知恵の実を食べて人類が楽園を追放されたように、我々は神や倫理などの魔術的な束縛を否定し、又はそれを利用しようとしたことで、変化の社会に放り出されたわけである。

中の人などいない

私のことをかわいそうと思うほどの擬似環境に適応することに対する拒否感は、そうすることによる第三者の利益が気に入らないからだろうが、旧時代的な帝国などと違い、現代の機能システムには中の人などいない。普通の上場会社を思い浮かべていただくだけで結構だが、いわゆる左翼活動家が労働者の敵として祭り上げる「資本家」に該当する人物などはいまやどこにもいない。株式は取引所に上場することによって、証券会社に口座さえ開設すれば誰でも簡単に購入ができるようになっており、結果として無数の個人株主や、個人資産家の資産を管理する運用会社が株主として名を連ねているのが普通だ。「資本家」というのは単なる概念であり、特定の個人や利害をさす単語ではなくなっている。

企業というひとつのシステムを見ても、その中心は人ではない。資本家という概念であったり、取締役という立場であったり、その他の役職である。あらゆるシステムが人間性を排除しながら作動しているというのは、普通に日々仕事している人であればいまや自明だろう。

確かに人間性を表象する意識システムは、ときとして企業システムに干渉を及ぼすことはあるが、それはあくまで例外的かつ一時的なものであり、基本的には企業のシステムはそうした干渉を排除し、企業システムとそれ以外のシステムや周辺環境などとを区別する方向に作動している。抽象的に書くとすぐにヒステリーを起こす輩がいるので具体的に書くと、収賄などの個人的な利得や便益、若しくは親類や友人などとの交友関係に基づく、企業としての経済合理性を欠いた取引先選定などの行動はしばしば散見されるものの、そういう人はいずれクビになるという話である。

社会がそうなのだから、人間だってそうだ

そうした社会を生きるにあたって、我々に求められるのは「自己に回帰する」姿勢ではなく、変化する環境に応じて「柔軟に対応する」姿勢である。全体性の喪失から、不変の自己に回帰したいという弱者の思惑はわからなくもないが、そんなところに回帰したところで単に不安になるのが関の山だろう。

企業が求める労働者の資質は、フォーディズムに見られたような単なる身体的に顕現した能力(つまり倒れたペットボトルを起こす力)から、ますます変化に対して柔軟な、人間の潜在的な能力(つまり人間を含むシステムをマネジメントする力)に移っている。

我々はいまや、あらゆる場面に応じて、あらゆるシステムの一部としての作動を求められ、それができなければ単に排除されるというだけの存在である。人間性やヒューマニズムはあらゆる局面において、排除されるものであるが、しかしながら排除されてはじめて、明確な居場所が出来るとも言えるだろう。家族でもいいし、オンライン・コミュニティも結構だが、我々は我々の精神の居場所を探し、その中にあってはじめて、”本当の自分”として振舞うのだろう。放り出されたアイデンティティと、その帰着である。しかし一旦投げ出されたアイデンティティは、もうもとの場所には戻れない。我々のアイデンティティは常に浮遊し、一時的な拠り所を探している。

適応した人間のつくりかた

『いやそれ「駅前で大声で歌わせる」系の新人研修と同じ効果ですから!』という指摘は確かに言い得て妙であるが、これはつまり、私のような適応事例を量産するための汎用的戦略に他ならないのだろう。

とはいえ相手は人間である。つまりあの不確実性の塊である。いかなる汎用的戦略が「合っている」のかは誰にもわからないし、もっと言えば誰にとっても有効な方法論はおそらくないだろう。ところが、こうした認識に成功との因果関係を見出した、言わば私のような人間は、間違いなく社員を「教育」することで、同種の認識を植え付けようと試みるだろう。そして、その「教育」に際しては既存の価値観やヒューマニティの瓦解こそが重要と考え、ご指摘の駅前で歌を歌うような非人道的な新人研修に行き着いたり、こないだ話題になった不愉快な題材によるグループディスカッションに行き着くのだろう。

おそらく、そうした方法論が成功することは滅多にない。すべての事例において成功してしまっては、成功した人が成功しなかった人との差異を確保することができないからだ。しかしながら私に限って言えば、上記のような認識を持ちえたことや、変化に対して適応したことで何の不都合はないし、そもそも以前よりも生きやすくなっていることは明確なのだ。

つまり、つくりかたには問題もあるかもしれない。合っているかどうかも実に疑わしい。しかし現にそうなることに一体何の問題があるか


私に言わせれば、『コミュニケーションと人格 - よそ行きの妄想』で紹介した有村さんのように、変化に適応せず、人格に固執するあまり、社会や他者との関わり方に常に悶え、苦しんでいるような人のほうが、よほど「かわいそう」に見えるのだがどうか。

そもそもかわいそうなどと見下している暇があるのであれば、まともなオルタナティブのひとつでもご教示いただきたいものだが。


*1:そしてこれにあのid:hokusyu氏が星をつけている。そしてその後同じタグでブックマークしていただいた。