読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる


使えるかもしれない個性

『使えない個性は、要らない個性。』 - シロクマの屑籠』を読んで。

反論というほどのことでもないが、どうもこちらの元記事は因果関係がおかしいと思うし、通時的な視点も欠くと思う。それに、使えない個性は要らない個性という切り捨ても些か乱暴に過ぎると思う。

個性重視は社会の風潮の結果か

元記事では、社会の風潮として「個性」が賞賛された結果として、『個性を礼賛し、個性を追求し、“自分らしさ”へと突き進んだ青少年の大半は、個性を賞賛されることもないまま、自分は個性的だという不良債権と化した自意識を胸に、平凡な日常をのたうち回っている』と述べられるが、ではその社会の風潮が「個性」を賞賛する前は、そういう青少年はいなかったと言えるのだろうか

ネットで有名な「中二病」患者が、あてもなく「自分探し」の旅を始めるのはいまや黒歴史としてネタ化されるほどに周知の事実だし、私が知る限り、1978年には『モラトリアム人間の時代 (中公文庫 M 167)』という本も出版され、大人になるための猶予期間が長期化しているという社会問題が取り上げられていた。

人生に意味を求めるのは人間なら自然なことだと思うし、その意味を内面に見出そうとするとき、それがときに「個性」と呼ばれることも別にいまさら指摘することでもないような気がする。大抵の大人は、その意味を外部に見出す。国家なり地域なり勤め先なりは人それぞれだろうが、そうしたより確からしい外的な対象に帰属意識を持つことで、人間生来の不確実性とのバランスを保つということだろう。そしてそのバランスが構築されるまでの期間がモラトリアムなどと呼ばれていた記憶がある。

問題があるとすれば、このモラトリアム期間が長引いていることだろうが、この問題は国家なり地域なり勤め先なりという既存の帰属先がその確実性を失うなかで、東浩紀氏が「全体性の喪失」と呼ぶような状況が顕在化した結果なのであって、ジャニタレのヒットソングなどに因果関係をこじつける必然性はあまりないような気がする。

ナンバーワンよりオンリーワン」はつまり空気を読んだ煽りであって、その煽りを真に受けて、自分のモラトリアムを正当化してほっこりした人は何人かいるかもわからないが、それが問題の原因とまでは言えないと思う。

近代労働は没個性的か

また、上記の元記事は『実際に与えられる仕事の殆どは、およそ没個性的なものだ』と続くが、これも私が知る限り、現代の世の中の仕事の殆どが没個性的なものということはないと思う。

上記記事の著者も、極めて例外的な例として『起業家・アーティスト・研究者などには、それなりに個性が求められる』ことを言及するが、私の認識では「個性」を求められる仕事は益々増えている。

ただ、この「個性」という単語は実に曲者で、特段の定義なしに使うには面倒な単語だと思う。単に「他人と違う」ことをもって個性と表現するのであれば、能力、スキル、考え方、意識などもろもろひっくるめて個性と言えるわけで、私はどちらかと言うとこの広い意味で個性を捉えている。

で、近代の仕事の特徴として考えられるのは、もっぱらこの個性が、特に専門的な知識や人間の潜在的な能力が注目を浴びる局面が増えているということだろう。「(健康な人間であれば)誰にでもできる仕事」が減っているという事実は、誰にでも思い当たる節はあるのではないだろうか。単純作業は次々と機会やシステムに取って代わられており、そうした機会やシステムのエンジニアが、単純作業労働者に代わって求められている。

あらゆる職業は高度に複雑化して、労働者に高度な専門知識を要求するし、もっとも価値があるとされるのはまったく予測不可能な不確実性に直面したときにいかに対応するかという、完全な潜在能力である。ドラッカーぽく言えば、知識集約的な産業においては、すべての労働者はマネージャーとしての資質を求められるのだ。

現代が通時的に見てそういう特徴を持った時代であればこそ、私は「いま求められるのは個性である」というテーゼに大きな違和感はない

『使えない個性は要らない個性』か

以上で述べた「いま求められる個性」は元記事で述べられるところの「使える個性」のことなのだろうが、「使える個性」が脚光を浴びるからこそ、「使えない個性」もまた脚光を浴びるのだといえる。当たり前のことだが、「使える個性」が定義されない限り、2つは区別され得ないのだから。

であれば、歴史的に見れば、現代ほど「使えない個性」が脚光を浴びた時代はないと言えるのではないか。「オタク文化」でも「ギャル文化」でも「モテ」でも「愛され」でも何でもいいが、そうした非主流の文化が脚光を浴び、商業化され、コモディティ化されている流れをご存知ないだろうか。

少し前であれば「使えない個性」の代表であったであろう「オタク文化に詳しい」などの肩書きが、俄かに脚光を浴びている状況を見て、「使えない個性」を「要らない個性」と切り捨てることができるか。「オタク評論家」が乱立する状況を見て、ニッチ個性はナンバーワン以外意味がないと言えるか。

思うに、今後益々こうしたニッチな「使えない個性」の「使える個性」化が進むだろう。「使えない個性」をうちに秘め悶々と日常生活に勤しんでいた人たちも、SNSなどのサービスを利用してインターネット上で集えばお手軽に「文化圏」を構築できるのだから。

上の話に戻れば、我々の意識はもはや全体性に帰属することは難しいのだから、趣味でもスキルでもなんでもいいがそうした外的な評価のうえに成り立つ「個性」が注目されるのは当然のことである。そしていまは「使えない個性」でも、ひとたび注目を浴びれば「要らない」などということにはなるまい

「使えるかもしれない個性」と「使えないだろう個性」

ただし、他者と違いさえすればそれは個性であり、もうなんでもかんでもいいのだということを言っているわけでもない。いまは「使えない個性」だけど「使える個性」に変わるかもしれない「使えるかもしれない個性」と、まあなにがあっても「使えないだろう個性」の区別は存在すると思う。

「使えない個性」が「使える個性」に昇華するには他者からの評価が必要なのであって、そのためにはやはり既存の個性(≒使える個性)からの支流のような形式が望ましいのだろう。既存の個性をよく知りもせず単に否定しただけのようないわゆる「アンチ」は、他者との違いをアピールするには好都合だろうが、「なにかでない」だけで「なにか」ではないと思う。さもなくば圧倒的な数の賛同者や支持者などによる権威付けが必要のように思うが、それは余程のカリスマ性でもない限りなかなか難しいだろう。しかもカリスマ性は既存の個性だ。

基本的には、生得のもので、既に価値化されている個性(顔立ちの美しさとか)以外のものは、「使えないだろう個性」と考えていいような気はする*1。逆にそれ以外、つまり後天的なもので、何らかの土台の基に積み上げられた個性であれば、「使える」ようになる可能性はあると思う。当然「使えない」かもしれないが、それは試してみないとわからないという話だろう。

競争のない社会などない

元記事は、その結論部分で次のように述べる。『そんな、普通の花屋で売られる花では満足できず、どうしてもオンリーワンになりたいというのなら、何百もの競争相手を蹴落として、ナンバーワンの座を射止めるしかない』と。

まるで普通の花屋には競争がないかのような書きぶりだが、上述したとおり、誰にでもできる仕事というのは確実に減少する傾向にある。良い悪いは別にして、現に望むと望まざるとに係らず我々は何らかの競争に勝ち残る必要がある。そうでなくては、派遣切りや格差などが問題になりようがないだろう。そこに適合さえすれば競争から免除されるような確実なテンプレートが存在したのは過去の話だ。経済が右肩上がりで、何をしても資産価格の上昇が辻褄を合わせてくれたバブル期の神話である。

競争をなくしてしまえば平等だというご立派な理想についてはご立派過ぎてここでは語らないが、現実的な対処としてあり得るのは、競争の選択肢をもっと増やすということではないか。何かの競争に敗れたとしてもそれが致命的ではなく、また別の競争で勝ち残れる社会。各人が参加するさまざまな競争の平等性が意識され、自分が望まない尺度で他人から勝手に測られることのない社会。*2そうした社会に希望を感じるのであれば、「使えない個性」を「要らない」と切り捨てている場合ではないと思う。

私の認識では、インターネットに響きわたるのは怨嗟の声だけではない。新しい社会を創造する希望の声である

*1:ちなみに、「使えないだろう個性」についても固執しないほうがいいかもとは思うが、要らないとは言わない。

*2:関係ないがついでに言えば、競争に敗れたとしてもセーフティーネットが完備されて最低限の欲求は保障される社会。