「おとな」になれない大人と、守るべき「こども」について

子どもを守らないものは大人とはいわない(追記アリ - 地下生活者の手遊び』というエントリーを読んで、このエントリー自体は素晴らしい内容だと思うし、「なるほどいいこと言うなあ」とただただ感心するばかりだったのだが、さて自分はおとな*1なのだろうかと考え始めたところ、まずは「おとな」の定義が気になりだし、ついでにあれこれと考えてみたのでそれをメモしておくことにした。

「おとな」の曖昧さ

まず今の私について言えば、嫁1人子2人を養う立場なのであって、さすがに「おとな」と言ってもいいように思う。少なくとも「こども」ではないだろう。いや、「こども」では困るという感じか。ただ、結婚や育児といったどちらかと言うと個人の選択によるものをもって判断がなされるということには、いささか違和感がある。それに、結婚は解消することもできるがその場合はどうなってしまうのか。

また、私が「おとな」だとしても、いつから「おとな」になったのだろうか。成人したときだろうか。就職したときだろうか。結婚してこどもを授かったときだろうか。いずれのきっかけも「おとな」化するにはあり得ないタイミングではないと思うが、成人しただけのタイミングで自分を「おとな」と思えたかというと甚だ怪しい。なにかこのあたりが曖昧なような気がする。

「おとな」の定義

最近iPhoneを購入した勢いで2,500円もする「大辞林」をインストールし、まさに使いたい盛り絶頂の私は、「おとな」とはなんぞやを早速我がiPhoneに尋ねてみた。

・十分に成長して、一人前になった人。成人。
・考え方や態度が一人前であること。青少年が老成していること。
元服をすませた人。

明らかに「一人前」がポイントなので、こちらも引いてみた。

・成人と同じ資格・能力があること。
・所属する社会で、正規の構成員であると認められること。

ただ、誠に残念ながらWikipediaの方が断然詳しかった

近代社会では、既に子供ではなく、まだ大人でもない、若者とか、青年とか呼ばれる年齢層が発生した。肉体的には成熟しているにも拘らず、

  • 在学中である。
  • 正規の就職をしていない。
  • 未婚である。

といった者である。

彼らは、まだ一人前とは見做されない。高度経済成長以前には、一部のエリート層の子弟の特権であったが、高度経済成長以後は、大衆にも拡大した。

高度経済成長の時代には、15歳から25歳までの間が、子供から一人前への過渡期とされた。実際、当時の資料では、20代後半になっても一人前ではない者がいるとの統計はない。

1980年代後半以降統計上に出現したフリーアルバイター・1990年代後半以降のニート・および引きこもりは、40代になっても一人前とは呼ばれる状況にはない。

一人前 - Wikipedia

社会的規範と「おとな」

上記で参照した定義から言えることは、まずは、肉体的な「おとな」化と精神的な「おとな」化のタイミングが乖離していっているという現象は、かなり広範に観測されるもののようだということだ。その傾向は現代に近づくほど強く、ニートや引きこもりの状況を鑑みるに、最近では結局「おとな」にならない人というのもいそうだ。

そして、冒頭で私が自らの婚姻関係及び育児の状況などを考慮して、さすがに自分は「おとな」だろうという言い方をしたのはあながち的外れではなく、「未婚であること」をもって「おとなではない」とする考え方は、Wikipediaに書かれる程度には無理筋ではないということも言える。

さらに、これは論をまたないことのように思う*2が、「おとな」はどちらかと言えば良いニュアンスの言葉である。

さて、私の認識では今日び結婚してようがしてまいが個人の自由だと思うのだが、「おとな」という言葉はどうやら結婚を奨励しており、そのため「おとな」になれない人というのが生じているのではないかというふうに捉えた。つまり、「おとな」であるべしという風潮がある一方で、必ずしも「おとな」になることを良しとしない層が少なからず存在していることになる。

少し話は変わるが「健常者」という言葉がある。私が非常に嫌いな言葉のひとつだが、この言葉の醜いところは、まさに「健常者」様自身が「異常者」を定義づけ、その裏を返すかたちで自らを「健常者」と名乗って悦に入っているような、多数派の暴力が見て取れるところである。

もしかすると「おとな」という言葉も、本質的にはこれと似たようなニュアンスがあるのではないか。突き詰めて言えば、「おとな」とは単に社会的規範を内面化することに成功した人を指すのでないだろうか。

「おとな」の定義から考える守るべき「こども」

考えてみれば、そもそも人間には生来の目的意識も精神的なゴールもないので、その成熟を社会的規範との兼ね合いに求めるのは極めて自然のことのようにも思える。

であれば、冒頭で紹介したエントリーにおける「おとなは子どもを守るべき」という主張は、つまり「こどもを守るという社会的規範は存在して然るべき」ということだろう。これ自体は言い換えてみたところでやはりごもっともと思う一方で、こういった時世であればこそ、社会的規範を見失ったり、知りつつも共有できない「おとな」が多いこともまた、ある種仕方のないことではないかと感じる。思うに、益々複雑化する社会における仕事について、上の定義にあるような十分な資格やら能力やらを持ち得ないのは誰にとっても自然なことだし、価値観の多様化が奨励され、全体性の喪失が謳われるなかで、なにか大きな社会の構成員とやらとして認められることに価値を見出せない人がいることも奇異なことではない。

加えて、そういう「おとな」になりきれない人に、「これが社会的規範なんだ、『おとな』はこうあるべきなんだ」と説いたところで、なかなか伝わらないだろうなあとも。社会的規範様も、ひたすら強度を高めるのではなくて、何かしら柔軟な姿勢が必要なのかもしれない。例えば、守るべき「こども」を、単に年齢的な定義で考えるのではなくて、精神的な定義から「おとな」になれない人たちも含めるなどの工夫はあってもいいかもしれない。そうすることで「おとな」になりたくない症候群がもしかすると多発するのかもしれないが、それはもう仕方のないことのような気もする。

ことの発端になった学費未払*3問題に当てはめて言えば、規範を持ちつつ支払えなかった人はもちろんのこと、本当に守るべきは「こどもの学費を払うべき」という当然の規範すら持ち合わせることのできなかった、親たる「こども」の方なのかもしれないとか思ったりした。

*1:書いてる最中に漢字の「大人」がゲシュタルト崩壊したので、ひらがな表記に改めた。

*2:一応「おとな」の対義語である「こども」を調べると、ネガティブな言い回しの例がいくつもでてくる。

*3:または不払。