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正論原理主義発言の迂闊さについて考える

先日書いた記事、『うちのこどもと、「正論原理主義」 - よそ行きの妄想』(以下「元記事」という。)のつづきというか補足というかなんというか。

元記事を書いた後、『+ C amp 4 +』という記事を読んだ。非常に良い考察だと思うし、大きく頷きながら読ませていただいた。ただ、一点本論とはあまり関係ない部分で申し訳ないが、非常に気になった部分があったので紹介したい。村上春樹さんがエルサレム賞受賞を決められたとき、ネット上ではイスラエルの戦争行動に対する抗議の延長戦上として、村上春樹さんに賞の辞退を勧めるような言説が横行していたようで*1、その中のひとつであるレター(ブログ記事)の内容について、同記事で次のように述べられている。

P-navi info : 拝啓 村上春樹さま ――エルサレム賞の受賞について
私はこの記事が述べているイスラエルとパレスチナの状況(事実)について、その9割くらいは、非常に共感的に読んでいました。南アフリカのアンチアパルトヘイト運動について言及された部分についても、実際に運動に微力ながら携わった身としては、異論がないわけではありませんが、おおむねよしとしています。
ところが、村上氏に当てたレターのなかにおいて、たった一点だけ、私には到底受け入れられない主張がありました。
それは、

エルサレム賞スーザン・ソンタグが取った対応をあなたも取ることは可能です。

という主張とともに、

しかし、賞を辞退するのも、あなたが共犯者とならないですむひとつの方法です。

と述べているくだりでした。
つまり、これ以外の対応をとると、村上氏は共犯者になるのだというわけです。

+ C amp 4 +

同記事の著者は、この独善的な勧告を実に慇懃無礼だと指摘する。自らは匿名で、かつまるで政治的なイデオロギーに染まっていない中立的な立場であるかのような物言いで、他人にこのようなことを勧告するのは実に失礼だと。そして、こうした自身の態度や言説に対する無責任さ、それによって起こりかねない正論のひとり歩きこそが村上春樹さんが危惧する「正論原理主義の怖さ」なのではないかと続けられる。


上記指摘は、確かにごもっともである。この論旨自体には賛同するものの、もしかすると村上春樹さんは自らに向けられた無礼な正論をきっかけにして、件の「正論原理主義」という発言に至ったのかもしれないと考えると、そこに非常に強い違和感を覚えた。

私の考えるところによると、元記事に書いたとおり、「正論原理主義」の根本であろう”正論を求める様”は、人間の本質であり、ただの事実である。繰り返しになるが、我々は生来的に自らの正しさを実感できないからだ。行動の指針もなく、何をすればいいのかわからない不安に対抗するために、我々は正論を身につける必要がある。

つまり、「正論原理主義」という言葉自体がよっぽどただの正論なのであって、正論を言っている人を「原理主義」呼ばわりして揶揄したところで、その揶揄自体がただの正論であれば、そこらへんのアホはてなー*2よろしく不快感にかまけてブーメランを投げて自爆しただけという話になりかねない。

ネットの世界で日夜繰り広げられる「お笑い正論順位付け劇場大ブーメラン投げ大会」に腹を立てて勢いよく立ち上がったはいいものの、気が付いたらその勢いでステージにのぼり、自らもブーメラン投げに参加してしまったかのような間抜けさがそこにはある。


少し話がそれるが、もし、それらしい物言いで他人の言動に偉そうにクチを出してくる正論バカに文句をつけたかったら、とりあえずは正論かそうではないかというお笑い図式からとっとと脱する必要がある。正論であることをいくら上手に揶揄したところで、自身が放った揶揄が正論である限り、盛大に自爆することにしかならないからだ。そうしていくら正論を言い合ったところで議論は無限に後退していき、最終的にはそれを回避すべくウンコの投げ合いに帰結するだけだ。

そこはやはり揶揄を目的とするのであれば*3、まったく違う区別を援用して、そのインチキ正論を観察することが肝要だ。別の言い方をすると、論点ずらしとも言う。ちなみに、私が元記事において試みた”おとなとこどもの区別”はひとつの有効な手段だと考えている。つまり、くだらない正論でもって他人を排撃して止まない人については、おとなになれないかわいそうな人というレッテルを貼って終了するという方法だ。一部のキョクロニスト*4からすべての正論を幼稚と切り捨てる暴論だという極端な誤読が寄せられることになるが、その辺はそもそも最初に難癖をつけられたのは自分だというスタンスを保てば容易に乗り切れるはずだ。ちなみにその場合は、私あたりが、おとなとこどもの区別に固執する様こそがそもそも時代遅れであって、いまや旧時代的なおとなの概念は死滅しつつあるのだ、なぜなら現代は不確定性の時代だからだという、さらに斜め上のDISりエントリーをあげる。そしてその先がどうなるかは、まだわからない。


ということで完全に話がそれたが、正論こそは、我々がつくりだしたもののなかでもっとも我々を支配するものであり、正論とそれにすがる人の関係こそは、まさに「壁と卵」さながらである。

私が元記事で、村上春樹さんの「正論原理主義」という発言について「迂闊だと思う」という言い方をしたのは、「壁と卵」の話があったことから考えるに、本当はネットに溢れる、正論にすがらずしては生きて行けず、他人を排撃せずしては自らの正しさを実感できない悲しい「卵」たちの味方をしたいにもかかわらず、言葉に詰まってうっかり「原理主義」という表現を用いてしまったのだろうと思った故だが、もし自分の不快感に流され、正論に包摂されるものと排除されるものの関係に目を奪われてしまい、正論とそれにすがるものの関係を見落とした上での発言なのであれば、これはなんというかただのアホだと思う。

*1:私は当時それらを読んだことはなかったが。

*2:id:chnpkとかね。

*3:議論を目的とするのであれば、とにかく前提の共有に努めるべき。

*4:極論大好きっ子。