自己責任論の恐怖

なんか面白い人がいたので。

最近以下の2つの痛いというか痛ましいニュースがあった。

  1. 痛いニュース(ノ∀`) : 息子への輸血を「宗教上の理由」で拒んだ両親に対し、即日審判で親権を停止 - ライブドアブログ
  2. 痛いニュース(ノ∀`) : 強姦された9歳少女が妊娠、中絶手術→カトリック大司教「中絶は強姦以上の大罪」と医師らを破門 - ライブドアブログ

このmichiakiという人は、上の件については宗教上の教義を重んじるべきだという感覚を持ったそうなのだが、下の件についてはその教義はあんまりだと思ったらしい。で、これら2つの件に関する自分の受け取り方の違いに対する自己分析(笑)が述べられていたのだが、これがさっぱりわからない。どうやら、上の件については法律vs教義、下の件については倫理vs教義という構図が見出せるという視点を捻出したうえで、自分には「倫理>教義>法律」という基準があるのだと結論付けているようだが、どちらの件も教義よりもこどもの命を守るべきという判断に基づいているのにどうしてそれが倫理だったり法律だったりするのかてんでわからないし、そもそも倫理と法律の隙間に教義が入るという発想も、私の感覚からすると突飛過ぎてとてもじゃないが納得できる代物ではない。

普通に考えて、良いとか悪いとかよりも弱者を保護するのが社会のひとつの存在意義なのだから、2の件における親権停止は当然である。また、『「血を穢されてしまった子供」と「大事な子供を異教徒のなすがままにされてしまった両親」が、いるのではないでしょうか』などと粗末な想像力を披露しているが、普通に考えれば、今般の親権停止という措置は、自分のこどもの命を守りたい一方で教義に違反する決断を下しあぐねて困っていた両親に、一時的な親権停止という法的な措置を活用することで、行き詰った状況にうまく辻褄をあわせた*1という、大岡裁判並みに絶妙な判断だった可能性もある。一般的に考えれば親は子を大事に思うから、この可能性の方が高いだろと普通に思う。


というように同氏による自己分析がイマイチの出来なので、私の絡み方としては、この人の直感的な受け取り方が異なったという点だけを既成事実として肯定し、その後の分析をちょっとこちらで代わりに引き受けてみようという話である。この2つの件に対する判断を隔てる境界となるような基準はなんなのか。
結論から言うと、なんのことはない、ただの自己責任論ではないだろうか。ただし高度に発達した自己責任論である


まず、上記2の件は結構誰が見てもひどい話なので、この宗教的判断を許容できないことはあまり分析の対象として適さないが、1の件における宗教的判断を許容できるというのはどういうことだろうか。

根本にあるのは、自分が好き好んで選択して入信した宗教の教義であれば、それによるデメリットがあってもやむなしという発想ではないか。転じて、命を賭してまでその教義に従う覚悟であれば、それを尊重するのがあるべき社会だというように発展する。これ単体で見れば、一般的に考えてもさほどおかしな話でないだろうし、事実成人した人間であれば宗教上の理由から医療を拒否する権利くらいは法的にも担保されているはずだ。

ところが話はこれだけでは収まらないのは当然で、というのは、今回の件において信者は親であり、治療が必要だったのはその息子(1歳)だったのだ。息子は別に信者ではないだろうから、普通に考えるとここに自己責任論が成り立たつ余地は微塵もないかのように思える。しかし私は自己責任論のすごいところはこの先だと考える。

おそらく、最大出力の自己責任論は、その子が治療を受けられないなどの悲劇の因果関係を、被害者の運命レベルまで遡って突き止めるのだ*2。つまり、高度に発達した究極の自己責任論者の脳内では、その子がその親の元に生まれてきたのは運命なのであって、その子の自己責任ということになる。きっと前世での行いが悪かったのだろう。これはあまりに極端だが多少穏当な例をあげれば、まだ自立も出来ない子が親の判断で迷惑を被るのは、自立できない子の自己責任という理路(?)もあり得る。文句があるならカネを稼げるようになってから言えというセリフを、2ちゃんねるあたりで見かけたことはないだろうか。なお、同じ理路で「自己責任」の部分を「仕方がない」に変えているパターンもあり、本人は多少穏当なことを言っている気になっているのだろうが、基本的には一緒である。


ところがこう考えると、今度は逆に上記2の件が許容されないことが不自然に思えてくる。親に暴行を受けて逃げ出さないのはこどもの自己責任という考え方も、上述の自己責任論にのっとればできそうなものだからである。この不自然さも自己責任論を考えるにあたってのひとつのポイントだと思う。おそらく、究極的な自己責任論の特徴は、悪者が見つかるまではどこまでも遡りひとたび悪者が見つかればひたすら責任を追及すること、換言すると、ひとたび悪者が見つかればそこで思考停止するという非常に単純な回路にあるのではないだろうか。要するにそれは、すべての事件について、悪意⇒被害、もしくは自己責任⇒被害という非常に単純な因果関係の図式を構築することにのみ、目的意識がおかれているということだ。悪意があれば加害者の自己責任だとも言える。

2の件について言えば、事件の関係者を見渡してどこに明確な悪意があるかはすぐわかる。レイプ犯たる義父だ。突発的ではなく継続的な犯行だというのだから、鬼畜もいいところだ。だからこの件の被害者の被害は、自己責任としては解釈されえないのだろう。他方、1の件について言えば、必要な治療を行わない両親には明らかに重大な過失があるが、別に悪意があるわけではないのだろう。割とピュアに、医療よりも教義を信じているということだと見受けた。こうなると被害と悪意の因果関係の図式が途端に構築できなくなる自己責任論者は、被害者の責任に思索を巡らしはじめることになる。そしてひとたび自己責任の追及がはじまれば、上述したようにいかようにしてでも自己責任の尻尾を掴むわけだ。そうしてこどもの被害は肯定され、または仕方のないものと見なされ、むしろ信者の選択を蔑ろにした社会の側に憎悪が向けられることになる。


なお、ここで、自己責任論と過失相殺に関する法的な議論は区別しておかなければならないだろう。前者が悪者探しである一方、後者のそれは加害者の人権の保護である。どっちが悪いかの視点ではなく、犯行の不可避性や必要性、妥当性を検討するのは加害者の人権を考慮するにあたっては当然の措置である。何でも杓子定規に法律を当てはめて、とにかく厳罰に処するということでは公権力が強大になりすぎるからだ。であれば、法廷で問われるのは加害者の人権でなくてはならないだろう。然るに、ひとたび悪者が見つかれば徹底的にそれを糾弾するのが自己責任論であれば、両者はしばしば対立こそすれ、一緒くたにしていいものではないと考える。

そして、この自己責任論という思考法の系譜は、複雑性に晒される不安を覆い隠すための単純性の希求だろう。当事者でもない限りなにがなんだかわからない事件、専門的で不可解にも思える司法判断、複雑に交錯する個人と社会と権力の関係。そしていつかなにかの事件が我が身に及ばないとも限らないという恐怖。こうした不安から来る負担を減免するために考案された、誰でも気軽にわかった気になれるツールこそが、自己責任論なのではないだろうか

*1:両親は教義に反する決断をしてはいないわけだから。

*2:id:tikani_nemuru_Mさんがこのことを書いていた記憶があるがどこだったか思い出せないので、とりいそぎIDトラバのみ。