読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる


子育てについての揉め事を観察しての雑感

社会

2週間くらい前の話だったか、いつも楽しく拝見している「消毒しましょ!」というウンコブログを中心に、出産や育児の話を中心に大層盛り上がっており、当初から完全フォローしていた私としては何か書いておかねばなるまいとずっと思っていたものの、なかなか時間がなく先送りにしていたのだが、「「子育ては義務」を巡っての揉め事を見て - Ohnoblog 2」という実によくまとまったエントリーが提供されたので(と言ってもそれも1週間前の話だが)、こっそり便乗させていただくことにした。

罵倒されたら逆上するというだけの簡単なお仕事について

粗筋は簡単で、「消毒しましょ!」を書いているAntiSepticの人が、出産と育児を混同した他人のブログについて、いつも通り口汚い罵倒芸*1を披露していたところ、同氏の発言のうちに「お決まりの無責任で無自覚な男性像」を見出した女性が逆上したという感じ。あるある。

気になるところだけ抽出。

いずれにしても、AntiSepticさんのコメントの中にある基本的な考え方とは、「子供をもつ/もたないという選択は自由である。しかし子供を作ったら養育するのは親の義務である。そのくらい、子供を作るとは重大な責任を負うことであり、その自覚を問われることでなくてはならない」という、一般的な共通認識として了解されているようなことになろう。

「子育ては義務」を巡っての揉め事を見て - Ohnoblog 2

これについては私もそう思った。AntiSepticの人がこうした見解をメインの論点に据えているわけでは決してないが、同氏の発言からは上記のような考えが確かに読み取れると思う。

で、気になったのだが、そもそも上のような見解ってそんなに自信を持って他人を罵倒できるほど、穏当かつ一般的な認識なんだろうか、という。

規範とサポートの非対称

まず、「良き市民としていずれは結婚して家庭をもて、子を生み育てろ」というような社会的な規範があるかないかといえば、これは間違いなくある。そうした声が小さくなっているかどうかということはともかくとして、存在はしている。そして、もしそうした社会規範が存在し、社会が個人に対して子を生むことを求めるのであれば、もし現実に個人が子を産んだ場合には社会として最低限のサポートはするというのが筋というものだろう。とにかく産め、あとは知らんじゃ話にならない。

私の認識ではという話になるが、
 (1)現代においては出産及びその後の育児に対するセーフティネットとしての社会的なサポートは低下している一方で、
 (2)旧態以前とした社会規範を内面化した保守ジジイが先鋭化し、子を持たない選択をした個人に対して無駄に圧力をかける
傾向にあると感じている。以下で順に説明。

まず社会的なサポートの低下については、イエ制度の崩壊や、地域コミュニティとしての農村的ムラ社会の崩壊、その代替としての終身雇用型企業組織の勃興そして崩壊などと無縁ではない。従前社会のセーフティネットとして機能していたそうした諸機能が衰退しているのであるから、社会のサポートが低下していると捉えることについて、そう異論があるとも思っていない。

次に社会が弱体化して十分なサポートが行えなくなること自体の問題性は一旦棚上げするとして、とにかく、もうサポートは難しいですよとなった場合は、とりあえず従前あった社会規範、即ち出産・育児を求める圧力のようなものを低下せしめることによってバランスが取られてしかるべきであると感じる。しかしそう上手くは行かないのは、従前の社会規範をすっかり内面化してしまった人々がいる故だろう。彼らは出産及び育児を何にも増して原始的かつ根本的な市民の義務であるかのように錯覚し、こともあろうか<無責任な最近の若者>に文句をつけ、規範のみを押し付ける。時代遅れの政治家による数々の失言は、その好例である。彼らはきっと権力として発言しているわけではない。一個人としてそうした規範を内面化しているのだ。

このことは、次のように捉えることもできるだろう。現状は、社会の構造が大きく変化しているタイミングであるが故に、社会的な規範と社会的なサポート体制・セーフティネットとの間に大きな非対称が存在しているのだと。

さすれば、出産は個人の自由だとすることは社会的な規範の存在を無視したものであるし、そのように断じるには些か早計であるように思う。また、出産は自由だという前提に依拠して「好きで産んだのだから自己責任」という論をかざし、社会を頼る個人を十把一絡げに切り捨てることはあまりに乱暴であるように私は思う。

社会の強化と国家の正常化

こうした現状においてなされるべきと感じることは、各個人がそうした構造にもっと敏感になるとともに、既に過去の遺物と化した社会規範に対して明確なNOを突きつけ続けることでしかありえないように思う。そう思う理由は3つあって、
 (1)低下した社会のサポートについて、その保障を権力(国家)に求めるような行為は純粋に権力の家庭への介入を招くし、
 (2)社会規範による抑圧を法によって規制することなどは、単純な言論弾圧であるからもってのほかであるし、
 (3)一方で無用な社会規範を放置することは、構造的な差別につながりかねない
からである。

社会のサポートと社会規範の圧力とのアンバランスが問題になっているのだから、サポートを押し上げるか圧力を下げるかしかないが、いずれにしてもそれを国家に要求することは、社会としてのリスクが大きい。権力の肥大化につながるからだ。かといって放置するわけにもいかない。であれば、我々個人が意識を高め、結果として社会が強化され、結果として国家の行動も正常化するということを期するしかないのだと思う。

であればこそ、多少論点が食い違っていようが、どれだけ論証としてお粗末であろうが、上述したような構造に対する言及については積極的に賛同したいとは思う。まして、甘えるなと切り捨てるような真似などは出来ようもない。

*1:論点自体は実にどうでもいいものだった。