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幸福よりも大事なこと

ヒト

ちょっと独り言的な内容だけど、

つい先日、「組織をつぶす上司「すさみの3原則」:日経ビジネスオンライン」という記事が話題になった。

読んでない人のために適当に3行程度でまとめると、「大阪市内の公立中学校教師として陸上競技部の指導と生活指導に手腕を発揮し、松虫中学校では7年間に13回、陸上日本一の選手を輩出した」実績を基に、企業研修の分野でも成功を収めた原田氏という方が、組織構築及び変革の勘所を惜しげもなく語ったものであり、その内容としては要するに組織のメンバーに目的意識を持たせ、目標を設定させ、計画を立てさせ、評価の体制をつくっていくということらしい。最終的にはそうした意識・体制を企業文化にまで昇華させ、持続可能性を確保することがとりあえずのゴールということのようだ。全然3行じゃなかった。

概要としては先日こちらでも紹介した「やる気に関する驚きの科学」に通じるものもあり、概ね納得できる内容と思う。目的を持て、と徹底的に言われれば、何だかんだ言ってもなんとなく目的を持ってしまうものだと思うし、無理やり考えた目的意識でも繰り返し自分で書いたり言ってたりすれば、なんとなく本気になってしまうものだという点も理解する。そしてなんだかんだ目的意識を持つことに成功してしまえば、主体的な行動ができるようになり、組織も活き活きしてくるだろうし、結果として個人も働いていて楽しくなるような予感もする。他人の指示通りに行う単調な仕事ほどつまらないものはない。

さて、不思議なのは、ここまで賛同できる内容にかかわらず、では私がその教えを乞いたいかと言えば明確にNOだし、万が一私の会社がこうしたプログラムの採用を検討でもしようものなら、全力で拒否すると思う。この感覚、私だけだろうか。

繰り返すが、私は、元記事を読んだ限りではあるが、原田氏の取り組みを一定以上に評価したいと思うし、ある程度以上の成果が上がることについても納得している。さらに、結果として自分の仕事も楽しくなるのではないかなという予感までしている。だのになぜか私は原田氏の指導を受けたいとは思わない。これはなぜか?


私が似たような感覚を覚えるものに宗教がある。私は人間が不幸を感じるひとつの大きな要因として、不確実性による不安があると思っている。我々人間にはその他動物のような強い本能はなく、本質的に不定である。つまり、この世に生を受け、さあこれからというところでなにをしたらいいのかわからない。なにが正しいかがわからない。

宗教とはそうした不安を縮減するための営みだろう。神は真理を我々に教えてくれる。いったいどうすれば我々は生を全うしたということになるのかという問いに明確な答えをくれる。

だから私は常々、明確な信仰を持っている人をうらやましく思ったりしている。科学が十分に発展した現代において、本気で神の存在を信じ続けることはなかなか困難なことかもしれない。ただ、形式であれ、しっかりした信仰を持つことは少なからず効果を持つような気もする。上記の目的意識と一緒だ。なんだかんだ言って、である。

そういう意味で私はいわゆる宗教に対してそれなりにポジティブであり、それによって自分が幸せになる可能性を少なからず信じている。にもかかわらず、現実の私は何の信仰も持っていない。全くない。これはいったいなぜか?


もっと身近な例もある。私は今でこそほとんど好き嫌いなく*1何でも食べるが、幼いころは野菜全般が苦手な子供だった。野菜が苦手だった当時、何度か嫌いな野菜に対して強い食欲を覚えたことがある。なぜかおいそうに見えたのだ。今思えば、今ではおいしく食べられているわけだから、あのとき食べてもおいしく食べられたのだろうと思うし、その当時もなんとなくおいしく食べれそうな予感があった。とにかくおいしそうに見えたのだ。

しかし私は食べなかった。当時の気持ちはなんとなく今でも覚えていて、なんとなくおいしそうだけど自分はあれが嫌いだからという理由で食べるのを控えた。おいしそうだと思ったのにだ。なぜなのだろうか?


仕事をしていると、やる気が出ないときというのは誰にでもあると思う。私も当然ある。しょっちゅうある。毎日だ。言い過ぎた。そんなときは、よく言われることだと思うが、小さなタスクを順に片付けていくと次第にやる気が出てくるというのが、経験則としてある。dankogaiもそう言ってる

やる気が出ず仕事が遅れると困るのは大抵自分だ。将来の自分にしわ寄せが行くだけだ。だからやる気がない状態というのは実に百害あって一利なく、私としては常に上述したようなTIPSを駆使して、やる気を高い状態で保つことが合理的である。

ところが私は往々として、上の行動をまったくとらない。どうすればやる気が出るかはわかっているのに、それをやらない自分は、まるで自分のやる気のなさを満喫しているようにすら思える。やる気がなくて何のいいことがあるのかはまったくわからないのにだ。なぜ?


冒頭で独り言的と書いたのは、まさにこれらの答えがまったくわからないからであり、このエントリーは何のオチもなく終わるが、我々にはいわゆる幸福よりももっと大事に考えているものがあるような気はしている。

単に現状の維持か?それとも他人との差異、即ち自分らしさのようなものの確保とか?

追記

id:Midas それは何か←不幸に決まってんだろw人間は幸福より不幸を大事にする動物。それは不幸だけが確かさを与えるから。人間は欲しくもない物を欲しがる。でなければ価値という概念は生まれない。欲望とは須らく失敗の欲望

あいかわらず何を言ってるのかよくわからない(特に後半)が、もし将来についての話ならば、幸福も不幸も同様に不確かであるから、あるとしたらきっと現状についての話だろう。

現状が幸福であるとした場合それを失う恐怖があるが、不幸であればそういう恐怖はない。むしろ希望すらある。

そういう意味で、いまここにある不幸(なにかが欠けた状態)というのは、それなりに居心地のいいものと考えることができる。失うことを恐れるのではなくて、足りないものを欲することができるのだから。

まあ、上で人間の本質として不定をあげており、もしそうであれば定まってしまえば、即ち満ち足りてしまえば人間ではないわけで、幸福を満ち足りた状態と捉えれば、幸福になることに対して一定以上の抵抗を感じることは当たり前と言えば当たり前なのだろうか。

次のように言うことができるだろうか。人は、幸福でありたいと願う。ただそのためには不幸でなければならない。

*1:しいたけは苦手