成長戦略はなぜ不在か

 第2成長記

日本には、成長戦略がないとよく言われます

現在の日本が長期にわたって低迷していることの根本的な原因も、成長戦略の不在から来るものだと言われたりしています。

成長戦略というのは一般的に、政府が特定の産業を発展させる目的で規制の緩和や投資の助成などを行い、国をあげてその産業の競争力を高めていくことを指します。

例えばアメリカのクリントン政権が、「アメリカ経済の中心を重化学工業からIT・金融に重点を移し、第二次世界大戦後としては2番目に長い好景気をもたらし、インフレなき経済成長を達成し」たりというのは、まさに成長戦略です。

日本にも、昔は成長戦略が存在していました。田中角栄日本列島改造論や、池田勇人所得倍増計画などは有名です。



また、最近も成長戦略がないないと言われているだけで、ついこの間まで総理大臣を務めていた麻生太郎などは「麻生内閣総理大臣講演 「新たな成長に向けて」」という話を普通にしていたりします。森喜朗もイット革命を声高に謳っていました。

ただ現在の政権与党たる民主党菅直人副総理・国家戦略担当相は、まだ「深く考慮中」のようですが。

まあ、常識的なところで言えば、現在の日本において現実味を持ちそうな成長戦略と言えば、CO2の排出を抑えたクリーンエネルギーやエコ家電の開発及び製造、高齢化に対応する介護福祉分野の充実、東アジアにおける経済圏の確立などの地域戦略程度のものと相場が決まっており、上で紹介した麻生氏の講演も概ねそういった内容ですし、菅氏もきっと遠からず似たような内容を思いつかれることでしょう。



要するに、日本に成長戦略がないと言われるのはつまり、本当にまったくアイデアすらないというわけではなく、広く国民に浸透し、賛同が得られている成長戦略がないということなのです。

成長戦略というのは、みんなが叶うと思うから叶うというようなところがあって、戦略を共有できた段階で半分くらい成功していると言えます。逆に言えば戦略自体がいくら明確で適切であろうとも、共有できなければほとんど意味のないものです。

成長戦略がある程度前提条件として共有できているということは、全体最適が比較的無理なく実現できるということを意味します。みんなが同じ方向を見ていれば、個々人の権利や主張に過剰に耳を傾けることなく、大きな全体感のもとでさくさくと話を進めていくことができるのです。組織を構成する個々人が、組織の成長のために自己を犠牲にすることすら厭わない状態というのが、成長戦略を共有するうえでの究極的な目標で、成長戦略の効果効能なわけです。



一度よく考えてみる必要があると思います。

我々は普段、「成長戦略がない」という言い方で、あたかも政治家が無能であるかのように不平・不満を言いますが、そもそも我々には何らかの成長戦略に主体的に賛同し、かつ自らがその成長戦略のコマになることを許容する準備があるのでしょうか。

我々はそれなりに利己的な生き物ですから、本質的に、全体最適に組み込まれることをあまり歓迎しません。はてなでもよく出てくる、全体最適に関する極論が、トリアージです。「人材・資源の制約の著しい災害医療において、最善の救命効果を得るために、多数の傷病者を重症度と緊急性によって分別し、治療の優先度を決定する」という。つまり、一人でも多くの患者が助かるために、自分は見殺しにされる必要があるという局面についての話です。そんなこと、ナチュラルに受け入れられるはずがありませんよね。

我々が進んで全体最適に組み込まれるときというのは、全体最適の結果と個人の利益が普通に合致しているときか、そうでなければ騙されたときです。

全体最適が個人の利益と合致するというのはつまり、トリアージの例で言えば、優先的に治療される方の人たちの言い分です。騙されるのは治療を後回しにされる方の人たちで、自己犠牲の精神がいかに美しいか、客観的な視点を持つことがいかに重要かといった詭弁で洗脳されることになります。

成長戦略で直接的に利益を得る人というのは、実は極々一部の人です。成長産業に従事する起業家などです。その他の人は、長い目で見れば経済全体のパイが拡がることでボトムラインが上昇するでしょうから、その恩恵を受けることもできるのでしょうが、短期的には何も変わらないばかりか、一部の人が富むので相対的な貧困感は増すばかりです。

小泉・竹中改革で規制緩和を推し進めた際、世論は格差が拡大したと騒ぎ立てました。ホリエモンがカネで買えないものはないと豪語した*1際、世論は拝金主義は悪徳だとして非難しました。世論は全体最適で後回しにされる側の視点だということです。



ひとつの考え方ですが、我々はいまや、自己犠牲の尊さで誤魔化されない程度に智恵を付けたのだと言えるのではないでしょうか。身を粉にして働けばいつか必ず報われるとか、日本版アメリカンドリームなるものなどが単なる神話に過ぎないことを、ついに悟ったのではないでしょうか。

こうした世論は、結果として経済が停滞する遠因になっているかもしれませんが、決して非難されるべきものとは思いません。我々は、全体最適という不自然な枠組みではなく、自己最適というより自然な枠組みにおいて、社会との接点を見出そうとしています。現代の若者は、成熟を求めず、幼児性を肯定します。草食系男子などという流行語は好例です。人間とは未熟なものだという認識はかなり一般的なものになっているのではないでしょうか。

こうした流れはおそらく自然でかつ不可逆的なものなのであって、旧時代的な価値観に基づいて、「最近の若者は軟弱で自己中心的だ」などと罵って解決するような話ではないと思います。



我々が考えるべきは本当に成長戦略なのでしょうか。

我々がやっているのは、もしかすると必死で騙されまいとしながら、騙せない人の能力不足を批判するという何の意味もない単なるマッチポンプかもしれません。実は、経済成長がなくても持続が可能な新しい社会の仕組みやかたちを考えた方が早いのではないでしょうか。

現代においては、ただ親の資産からの金利・配当収入で食いつなぐニートや、GDPには何の影響もないキャピタルゲインだけで食いつなぐデイトレーダーなどがある種の社会問題として語られていますが、むしろ、日本という国が世界において目指すべきポジションがニートやデイトレーダーなのかもしれません。

さすがに1億人もニートがいたらやっていけないでしょうが、幸いなことに日本の人口は減り始めています。今後日本に絶望して海外に出て行く人などが増えると、人口の減少はさらに加速するかもしれません。人口が十分に減りさえすれば、ニート国家の樹立はそう困難でもないのではないでしょうか。

*1:本当はそんなこと言っていないそうですが、そういうイメージで売り出されていたので、便宜上言ったことにします。