他人は思い通りにはならない

勝手にこしらえた自分ルールを押し付けても、他人というものはなんの理由もなくそれに従ったりはしない。

デール・カーネギーは、他人を動かすために我々ができることは、十分な動機を与え、自ら動きたくなるような気を起こさせる以外にはないと言った。そのとおりである。

こんなことは今どきアタリマエといってよく、得意げに吹聴したところでうんざりされるのが関の山といった類いの話ではなかろうか。


ところが、そんなアタリマエのことも忘れ、多くの人が他人の行動について、何故言うとおりにならないのかと憤ってしまう局面がある。

子育ての局面である。

「はやく寝なさい」、「お風呂に入りなさい」、「静かにしなさい」、そして「どうして言うことを聞かないの」。

冒頭に記したような前提に立てば、こうした言わば「命令」をしたところで、なんの効果もないということを我々はすでに知っているはずである。

その証拠に、我々は大のオトナを相手に、こうした安易な命令口調は用いない。普通は、相手がそうすることの必要性に気がつくまで待つか、そうでなければ必要性を与える必要があるということに気がつくだろう。そのほうが合理的だから。


子供が相手だと途端に勝手が変わってくるのは、正義は自分にあるとの過信故ではないか。

正義は自らのうちにあるという過信は、言うとおりにならないことによるフラストレーションを、「過った行いを正すべきだ」という正義感に変換する。

この過った正義感が、合理的な判断を曇らせ、他人を動かすという目的の達成を阻害する。

そしてさらに悪いことは、「過った行い」を続ける相手には天罰が下るべきだと思い込んでしまうことだろう。こうした思い込みは人を暴力へと駆り立てる。暴力によって相手を屈服させ、そして言うのだ。「ほら見たことか」と。


これを「しつけ」と呼ぶひとがいるが、こんなものは「しつけ」でもなんでもないと思う。ただのエゴだ。相手に対してフラストレーションを感じている自分を、偽の「正義感」や「責任感」、もしくは「使命感」によって糊塗しているに過ぎない。

もし本当に相手のことを思うのであれば、その相手に行動をおこさせるために、あらゆる動機付けをこそ行うべきである。それは起こさせたい行動が正しいものであればあるほど、そうである。

相手のためになるのは動機の清廉さではなく、行動を起こすことなわけであるから。