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サブプライム問題にみる合理性信仰と思考停止

今となってはもう過去の話になりつつあるけれど、世界的な金融危機の引き金となった米国のサブプライムローン問題をちょっと振り返ってみる。

知らない人はいないと思うが、通常の住宅ローンの審査には通らないような信用度の低い人向けのローン債権に、先端の金融技術を駆使してリスク加工を施したものが、高格付けを取得した上で世界中の投資家に販売されていたところ、米住宅価格の下落につれて脆くもデフォルト(債務不履行)事例が相次ぎ、終いには世界中の金融機関の自己資本に壊滅的な打撃を与えたという例の件である。

格付バブル

サブプライム問題とは、一言でいえば格付けバブルであったと言える。投資家が、格付機関による格付けに対して過剰な信頼を寄せた結果として生じたバブルということだ。

本来であれば投資の対象になどなるはずもないサブプライム層向けのローン債権を証券化した商品が高い格付けを取得できた理由は、例えば倒産隔離や優先劣後構造などいろいろあるが、最も重要なのが分散効果だ。

分散効果とは、簡単に言えば、多数を集めることで結果を予想しやすくすることである。例えば1年後に98%の確率で100万円になり、2%の確率で0円になるような資産があったとしよう。単体ではリスクが高すぎる投資対象である。では、同じものを100個集めてくるとどうなるだろうか。1年後に資産が0円になる可能性は2%の1000乗だから、ほぼゼロになる。そして、99%以上の確率で1年後の価格は9億7千万円から9億9千万円の間に収まることになる。

これと同じ理屈で、1件のみではデフォルト率が高すぎて投資対象にはなりえないサブプライムローン債権等を多数集め、商品として組成したものがCDOなどと呼ばれる証券化商品である。

リスクの種別と性質

お気づきだろうか。上の理屈には極めて重大な欠陥がある。それは、資産間の相関をまったく無視しているところだ。

確かに個々の債権のデフォルト率は過去の統計に基づいて算出され、それらを分散させることによる効果もシミュレーション・モデルを利用すれば定量的に把握することができる。しかし、計算されたリスクは将来にわたって一定とは限らない。何らかの影響によって、過去にはなかった動きをする可能性を考慮せねばならない。そのためには、統計の対象にした期間における重要な前提条件を抽出し、当該前提条件が変化する可能性を将来にわたって検討する必要がある。前提条件というのは、例えば地価だ。要は地価が上がっている限りは家を売りさえすればデフォルトは免れるが、地価が下がればそうはいかなくなる。債権を1000個に分散させていようが10000個に分散させていようが、地価の下落につれて全部の債権がデフォルトするようであれば、何の意味もない。集めてくる債権というのは、お互いにまったく相関のないもの、つまり共有する前提条件が存在しないものでなければ、本来分散効果は働かないものなのである。

要するに、貧乏人を何人集めようが、単に大勢の貧乏人にしかならないのだ。

リスクを分析するという場合、概ねふたつの方向性がある。ひとつがリスクの種別に関する分析で、もうひとつはリスクの性質に関する分析である。リスクの種別というのはつまり、そのリスクが事業リスクなのか、マーケットリスクなのか、統計的リスクなのかということ。他方、リスクの性質というのは、そのリスクが将来にわたってどのように変動するか。静的か動的かということ。

より重要なのはリスクの性質の方なのであるが、格付機関に判別がつくのは、実はリスクの種別でしかない。リスクの性質に関する分析は定性的でしかあり得ず、モデル化できないからだ。モデル化ができないと、個別の案件ごとにいちいち担当者が頭を悩ませることになり、結果にムラが出てしまう。

実際には統計的なリスクだからと言って将来にわたって安定しているとは限らないし、逆に事業リスクやマーケットリスクだからと言って一概に変動が大きいとも言い切れない。だから、この2つを混同すると、ときに大きな間違いをおこすことがあり、実際に起きた大きな間違いのひとつがサブプライム問題であったというわけである。

合理性信仰と思考停止

さて、世界中で投資のプロとでも言うべき人たちがリスクの種別と性質をすっかり混同し、格付機関に対して過度な信頼を寄せ、サブプライム証券化商品に多額の投資を行ってしまったという事実は、ある意味興味深いものである。ちょっと考えれば、貧乏人は地価が下落すれば全員デフォルトするのだから、何人寄せ集めようが何の意味もないというくらいのことはわかりそうなものなのに。

これはつまり、我々には感覚よりも論理や数値に合理性を見出すような傾向があるということである。

既に述べたように将来にわたってのリスクを算出するモデルというものは存在せず、その判断は人間が頭を使って行うほかないのだが、モンテカルロだの、ブラックショールズだのという小難しいシミュレーション・モデルに基づく定量的な分析を見せられるとそれが合理的に思えてしまい、反対に定性的な分析は感覚的に思えてしまうということがよくある。特に集団での意思決定に際してそういう傾向が強く出ると思う。

未来を予見するための合理的なやり方があると思い込み、定性的な議論や分析を疎かにするというパターンは意外と随所で見られる。

近代における人間社会発展の歴史と言うのは、言うなれば「脱魔術化」の歴史であったわけだから、定量的な分析や科学的な検証に合理を見出すことは当然と言えば当然なのだろうが、合理的な根拠を辿っていっても無限に後退するばかりでキリがないといのもまた、事実である。よって、我々は必然的に脱魔術化の無限後退から脱する必要性に迫られることになる。それを単なる思考停止によって成し遂げるのか、それとも経験や勘を動員して言わば「再魔術化」を果たすのかで差が出てくる。

合理的であることに拘り、脱魔術化を気取っているような人は、思考停止に陥りやすいタイプだと思う。