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「日本企業」がこの先生きのこるには?

経済

経済のグローバル化が進むから、国際競争力を持たない「日本企業」はこの先生きのこれない、とはもうずいぶん前からよく言われるところである。

そんな折、楽天に続きユニクロが社内公用語の英語化を発表したことで、「日本企業」がこの先生きのこる道みたいなものに関する議論は一層白熱している感があるが、どうもピンと来ないのが、一方ではグローバル経済を想定しつつ、もう一方で「日本企業」なるものの将来に思いを馳せることのアンバランスさである。

思うに、経済がグローバル化するということは、乱暴に言えば経済活動に際して国境や地理的な障害を意識する必要がなくなることに他ならないから、もしそうした状況が自明的に訪れるとすれば、そのことはまさに「日本企業」などという括りがなんの意味も持たなくなることを直接的に意味するわけであって、「グローバル経済下における日本企業の行く末」という問い立ては基本的に無意味というか、「そういったものはなくなる」ということでしかないはずである。

大体、「日本企業」とは言うけれどそれは一体何なのというのもあって、ではユニクロが社内公用語の英語化を果たしたとしてそれは果たして「日本企業」と呼べるのだろうか?ソニーは代表者も外国人で株主も大部分が外国人だけれど「日本企業」なのか?はてなキーワードには、「日本企業」とは日本国内で登記されている企業であるみたいなバカなことが書いてあるけれど、では日本オラクル株式会社やゴールドマンサックス証券株式会社が「日本企業」かと言えば、首をかしげる人の方が多いだろう。

従来、社内の言語や代表者や役員の国籍並びに株主の属性などは、その企業が「日本企業」であるかどうかを判別する重要な要素であったはずであるが、いまやそういったものはあまり意味を為していない。経済がグローバル化して行けば、「日本企業」的な要素が薄れていくことはあまりにもアタリマエのことである。

消費者や労働者として「日本企業」という括りの有用性を考えても、ある企業が日本国内で従業員を雇用し、製品やサービスを提供している限りにおいて、それが「日本企業」だろうが「外国企業」だろうがなんの関係もないし、政府としても、「外国企業」だろうが何だろうが国内に事業所を構えて国内で事業を営んでいる限りは、原則として当該事業から生じる所得に対しては課税できるわけだから、大きな問題ではないだろう。

投資家としては、通常外国企業の日本法人は日本で上場したりしないから、「日本企業」がなくなって「外国企業」だらけになると一見投資機会の逸失になるようにも思えるが、よく考えると別に外国株投資をすればよいだけの話である。国内にカネをだぶつかせ、仕方なしにわけのわからないクソ会社で仕手まがいの日計り取引をしている暇があったら、外国の有望企業にジャパン・マネーを突っ込んでいく方が総体としてもよほど建設的である。


結局、「日本企業」なる括りが有効に存続している根拠は、我々自身のナショナリズム以外には考えられない。ガンバレニッポンである。

ただ私は決して、「日本企業」なる曖昧模糊な概念にしがみ付く軽薄なナショナリスト(笑)をDISりたいわけではない。私が言いたいのは、逆に、ナショナリズムというのはそう易々となくなったりするものではないだろうなということである。当然のことだが、程度の差こそあれ、日本人ならほとんどの人が日本という国に対して帰属意識を持っている。それがまったくなくなったらそれは日本という国がなくなることになるのだろうから、やはりきっとほとんどの人が帰属意識を持っているということなのだろう。それは今までもそうだったし、これからもそうだろう。

つまりどういうことかと言うと、ナショナリズムがなくならないのであれば、ナショナリズムに基づく「日本企業」という概念もまた、なくならないのだろうということだ。

そして、上述したように経済がグローバル化したら「日本企業」は必然的になくなるにもかかわらず、「日本企業」はなくならないということは、つまり、経済は完全にはグローバル化しないということに他ならない。


経済がグローバル化するから、「日本企業」の存続が危ぶまれるわけではないのだ。我々が望めば、または望むから、それは存続するのである。まさに楽天の三木谷氏が自らの望むところによって「日本企業」であることをやめたように。

経済や商慣習などが自律的にそのあり方を変異させ、我々の行動や思考を制限するのではなくて、我々が思考し行動した結果が経済や商慣習なんである。少なくともそうあるべきである。と思った。