21世紀の国富論

VC(ベンチャーキャピタル)に対する不満を書き連ねた先日の記事は、260人以上にブックマークされ、アクセス数も10,000を超えた。日本のVBベンチャービジネス)をめぐる環境に不安や不満を持っている人は、少なくないということなのだろう。

21世紀の国富論先日の内容は、私が実際にVCを何社かまわってみて受けた印象をもとにしているが、とはいえ私自身がVCに務めた経験があるわけでもないので、実際のベンチャー・キャピタリスト(中の人)はどういう認識なのかという点が気になり、読んでみたのが「21世紀の国富論」という本。

著者は、1952年、大阪生まれで、慶応義塾大学法学部、スタンフォード大学経営学大学院を経、同大学工学部大学院修了。現在は、デフタ・パートナーズ・グループ会長だそう。主に情報通信技術分野でベンチャー企業の育成と経営に携わり、1990年代にソフトウェア産業マイクロソフトと覇を競ったボーランドなど数十社を成功に導いた、シリコンバレーを代表するベンチャーキャピタリストのひとりらしい。

ベンチャーキャピタルは死んだ」らしい

曰く、「現在のベンチャーキャピタルは、長期間にわたってリスクが存在する場所に資金を出すことができなくなってしま」っており、「起業家が新技術の特許を示し、事業計画を語っても『製品が完成したら来てください』と断り、製品を完成させてから行くと、今度は『売れはじめたら来てください』と逃げるといった状況」だから、「ベンチャーキャピタルがただの金融業に成り果ててしまったといわれても仕方がない」ということらしい。

金融業に成り果てたことをもって「死んだ」などと表現されては金融業の立つ瀬がない気もするが、敢えてVCと金融業を区別する姿勢はわからないでもない。VCの投資対象であるVBの事業リスクは極めて高く、銀行や証券といったいわゆる金融事業者が取れるリスクの許容範囲をゆうに超えるからだ。

その割には、どこの証券も銀行もグループ内に一社はVCを持っていたりするわけだが、彼らは決してVBの事業リスクに対してコミットしているわけではない。彼らがやっているのは、非常にベーシックな分散投資である。100社投資して1社成功してくれれば、大体平均するとちょっと勝つくらいの結果を求めている。

要するに、金融型のVCというのは単に新興市場のインデックスにベットしているに過ぎない。対峙しているリスクは、事業リスクというよりむしろ、流動性リスクである。投資先が株式公開して、市場で売却できるようになることがすべてなのだ。であるから当然、株式公開に近いステージの企業に投資することが、より望ましいということになる。

伝統的なVCのインセンティブは、将来有望そうなアーリーステージの企業に投資して、その後の劇的な成長に賭け、一山あてる方向に向いていたのに対して、現状はずいぶん様変わりしてきている。結果として、創業期のVBに対して10年や20年を超えるような長期の資金提供を行うことができるVCは、ほとんどいなくなってしまった。

短期的利益の追求

とはいえ、もっとリスクをとれとVCをDISってみたところで何が解決するわけではないし、そもそもこうした傾向はVC業界に限ったものではない。金融市場の発達と、世界的な流動性過剰によって、投資マネーは基本的に短期目線になってきている。まるで、時間が加速しているように。

そうした傾向は、「時価総額経営」や「株主資本主義」といったスタンスを賞賛する風潮に端的に表れていると著者は指摘する。「株価」を過剰に意識するあまり、ROEなどの指標を向上させることが目的化してしまっており、株主への配当を増やすために内部留保を食いつぶし設備投資は抑制され、見せかけの利益を増加させるためだけのリストラが横行しているという問題が繰り返し提起される。

著者は、「アメリカの大企業を中心に、つぎつぎと過去最高益の業績をあげているといった現在の景気拡大は、見せかけのものにすぎ」ないと言う。同著は2007年に初版が発行されたようだから、おそらく金融危機以前の好景気を指しての発言だろう。そして、「小手先の金融政策と財政政策だけで景気をよくしようというのは、そもそも無理」であって、「根本的に必要なのは、新しい産業」と続ける。

本来、より良い社会を実現し、我々の生活を豊かにするような新しい産業や企業が興ることこそが究極的な目標なのであって、株価やそれにまつわる指標などの数値というのは、それを実現したり効果を測ったりするためのツールに過ぎないはずなのに、いつの間にかそれらの数値自体が目的化されたマネーゲームに成り下がってしまうということは、まあよくあるストーリーである。

経営指標のトレンド

割と面白かったのは、ROEなどの経営指標は単なる流行で、じきに廃れるだろうという話。ROEが重視されるようになった1990年代より前はROAが、そのまた前はEPSが重視されていたが、どれも一時的なものだったと指摘されている。

こうしたトレンドが何に基づいているかと言うと、その時々の基幹産業だという。今であればITやコンピューター産業である。こうした業界は、従来型の工業製品と比して原価がほとんどかからないから、利益率が極端に高いのが特徴である。例えばマカフィーの粗利率は、100%である。

つまり、ROEの流行は、産業の中心が従来型の工業製品から知的財産へと移行するにあたっての過剰適応なのだと述べられている。だから、今後また新しい産業が生まれれば、当然に新たな指標が着目されるだろうと。その程度の従属的なものに過ぎないと。

これはなかなか面白い話だと思うし、実際にそういうことのような気もする。所詮経営指標などというものに大した意味はなく、新しい産業を正当化するくらいの意味しかないのかもしれない。

総論賛成、各論反対

結局著者が主張しているのは、見せかけの数値に捉われず、新しい産業が興るための地盤(VCを含む)をみんなで整えようということで、それはそれで賛成できるというかむしろ当たり前だと思うのだけど、各論としては気になるところも少なくない。

それは例えば、ヘッジファンドを規制しろとか、時価会計はやめろとか、ストックオプションもなくしてしまえとか、アクティビストファンドは死ねとか、そういった主張である。こうした主張に違和感を感じるのは、そうは言っても流動性を否定してVCは成り立つまいと思うからだ。

著者も、「健全な株式市場がベンチャービジネスには不可欠」などといって、投資のイグジットとして株式市場での売却をにおわせている。で、あれば、もっとも大事なのは流動性である。流動性がなければ、株は売れないのだから。

だから、VCが流動性を批判するのは、タコが自分の足を食うようなものだ。

挙句には長期資金を提供する投資家だけの市場をつくれという主張が飛び出すが、ちょっとご都合主義に過ぎる。それではまるで、商品が売れないのは客が悪い、わが社のためにこういう客を用意しろと言っているようなもので、順序が逆だ。


VB自体やVBへの投資を前提としたVCが本当の意味でPatient Capitalを調達するにはどうすればよいか。これはなかなか難しい問題である。