持たない、稼がない、稼がせない

月日が経つのははやいもので、気付けば前回ブログを更新してから2週間以上経っているし、2011年も半分終わろうとしているし、21世紀もすでに11年目なわけだが、幼い時に夢見た明るい未来とは違って現実が随分陰鬱かつ暗澹としているので、陰鬱ついでに今日は少し陰鬱な予言をしてみたいと思う。

椅子取りゲームの時代

その昔、マルサスは著書「人口論」のなかで、人口は急激に増加を続けるから供給が追いくことはなく、人類は常に飢餓に直面し続けるという陰鬱な予言をした。マルサスの死後、主に技術革新による生産性の向上によって供給量は需要量の増加を上回って増え続け、現代に至るまで貧困は暫時解決に向かっているから、要するにこの予言は見事に外れたわけだが、今日においては全く逆の理由から似たような陰鬱な予言をすることができる気がしている。即ち、生産性は向上し続け経済の産出量は増大するから、人類は常に失業に直面し続ける、という。

生産性が向上すると、同じ量をつくるのにも労働力が余るというのは当然のことだが、新しい産業が芽生えれば余剰な労働力を吸収しながら、さらに経済を発展させることができる。一次産業から二次産業、二次産業から三次産業、最近では情報通信やソフトウェア関連の産業が四次産業と呼ばれるらしいが、生産性が向上するにつれて産業が高次化してきた。ただ、高次の産業ほど一人あたりの生産性が高く、それ故必要とされる労働力が少ない傾向があるように感じるのである。

例えば、Google情報通信産業を代表する世界的な大企業だけれど、従業員はたった2万人程度しかいないという。世界中の数億人のユーザーを虜にするWeb検索やWebメールなどの革新的なサービスが、たった2万人によって提供されているのだ。amazonにはGoogleよりも若干多くの労働者が就業しているが、それでも3万人程度である。ちなみに我が国が誇るスーパーコングロマリット日立グループの連結従業員数は30万人超だが、時価総額ではGoogleの1/10しかない。

よって、世界的にみても労働需要(採用枠)は減り続けるのではないかと感じているところであるが、日本国内に限ればその傾向は更に顕著である。四次産業などと呼ばれる産業の代表的な企業はほとんど米国に集中していて日本国内ではほとんど育っていないし、二次産業でもアジアの安い労働力に職を奪われている。いま国内で積極的に労働力を確保している産業というと介護くらいだが、介護という仕事は何かを生み出しているというか、社会的なコストなのであって、その薄給ぶりたるや目を覆うばかりである。

供給量が需要量を超えたそのときから、生産性の向上は失業の原因であり続ける。世界に先駆けて成長がとまってしまった我が国日本では、ワークシェアが高度に発達した結果、米国よりも失業率は低くおさえられているが、そんな日本でもついに失業率の高まりが問題化してきた。来春の新卒内定率は、前年よりなんと12.6ポイントも低い35.2%だそうだ。そして今後もグロオバルな資本競争の結果、生産性は向上し続けるだろうから、失業率の悪化という傾向はこの先もずっと続くのではないだろうかと思うわけだ。

これはつまり、完全に椅子取りゲームだ。21世紀は椅子取りゲームの時代なのである。

新しい道徳

さて、新しい時代に必要となるものは新しい道徳である。今日は新しい道徳に関するいくつかのアイデアをここで披露してみたいと思う。

それはまず、持たないことだ。

椅子取りゲームの時代では、持つことは悪しきことである。持つことには流動性のリスクがつきものだ。家でも車でもいいが、一旦持ってしまうと、すぐには換金できない。明日には仕事を失うかもしれないというのに、流動性のリスクは命とりである。シェアリングやクラウド型のサービスを最大限に活用して、持たない生活を心がける必要がある。家はシェアハウス、車はカーシェア、書籍や映像、音楽などのコンテンツについてはクラウド型のレンタルサービスを活用すれば、生活を圧迫する固定費はずいぶん削減することができる。

更に言えば、仕事においても正社員というポジションに慣れてしまうとそれを失ったときに路頭に迷ってしまうので、ノマドのようなワークスタイルの方が実は環境の変化には強い。家族も旧世代的には魅力的なオプションだが、新時代では重荷でしかない。バーチャルリアリティソーシャルネットワークの活用によって、代替するべきである。最終的には自らの身体からも抜け出し、サイバー空間を漂うようにして生きるということが新時代における理想的なライフスタイルである。

次に、稼がないこと。

持つことをやめればそこまで稼ぐ必要がなくなるということもあるが、そもそも椅子取りゲームの時代にあって、他人よりも多くを稼ぐということは、他人を出し抜き、蹴落とし、騙し搾取することに他ならないのであって、極めて非道徳的である。我々はいくら貧しくなったとしてもそうした悪行に手を染めてはならない。ボロを着てても心は錦というやつである。

基本はやはりワークシェアだ。メールは非常に便利なコミュニケーションのツールだが、便利さに胡坐をかいて無駄に生産性を向上させてはならない。メールの利用に際しては、個人情報保護などの屁理屈をこじつけて、二重三重の宛先チェックやプロクシサーバーを活用したセキュリティ体制の構築を義務付けよう。そうすればまた雇用を生み出すことができるではないか。当然、そうして生み出された雇用は何を生み出すものでもないから、言うなれば一脚の椅子に複数人で腰かけるような行為に他ならないが、椅子が減っていくのだからしようがない。仲良く分け合うしかないのである。

当然、他人にも稼がせてはならない。

もし、自分だけ稼ごうなどという非道徳な輩がいたら、我々は全力でその足を引っ張る必要がある。これは嫉みではない。新しい道徳であり、社会正義だ。新時代においては、ものを所有することよりもむしろ、ものを創り出すことのほうが希少な権利となるのだ。他人の権利を踏みにじるような行いは、糾弾されて然るべきである。

新規事業やイノベエションの類についても、同じことだ。既に述べた通り、産業の高次化による発展が必然的に失業を生むのであるから、産業の高次化自体が悪なのだと断ぜざるを得ない。そういう時代遅れの戯言にうつつを抜かすアントレプレナアたちには、我々は無言の圧力をもって「空気読め」と言わなければならない。特に目立った派手な起業家がいたら、社会正義によって司法を突き動かし、牢屋に送ってしえばよい。社会正義の前には些末な法律論など実に無力である。そうすれば、前時代的な<優秀な起業家>たちは恐れをなして発展途上国などに逃げていくに違いない。

豊かさの新機軸

持たない、稼がない、稼がせないという生活を続けていると、物質的な豊かさを実感する機会は次第に減っていき、終にはまったくなくなるので、なかには心まで貧しくなっていく人も出てくるかもしれない。そんなとき、新しい豊かさの尺度として重要な意味を持つのは、おそらく「身体」だろう。人類は宇宙に出てはじめて地球が青く美しいことを発見したわけだが、これと同じように、我々はサイバー空間に進出することで、身体の意味を発見するのである。

情報通信技術がますます発達すると、我々が「ここにいる」ことの価値は薄れていき、「連絡が取れる」ことによって代替されていく。私が物理的にどこに存在しようが、Facebookの「友人」たちは、サイバー空間上に存在する私を身近に感じることができる。このことは私の身体にはもはや何の重要性もないことを意味するわけだが、重要性が失われたからこそ、身体は新しい意味の舞台になり得るのである。

SF小説などではしばしば、脳だけが異様に発達して身体は退化し、身体の諸機能をテクノロジーによって補完している人類の未来像が描かれるが、これはたぶん身体の重要性の低下にとらわれ過ぎている。おそらく実際にはまったく逆のことが起こるだろう。未来の人類は、きっとまったく重要性の失われた身体を、まるで箱庭でもいじるように丁寧にケアし、健康で屈強な肉体に人生の豊かさを見出しているに違いない。

というわけで、豊かさを求めて今週から朝のジョギングをはじめてみましたという話に繋がる。

ゼビオの店員さんによれば踵のクッションが強い方が初心者にはいいそうで、上のAdidas Boston 2を購入した。日本の靴にしては少し幅が狭いので、足の幅が広い人はいつもより少し大きめのサイズを選んだ方がよいだろう。陰鬱さに苛まれているみなさんも是非早起きしてジョギングをしてみよう。

6/9追記

靴、まだ1足も売れてないよ!