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健康志向と原発問題(2011年を振り返って)

この時期になると毎年言っている気がするが、気付けば今年ももう残すところあと僅かだ。昨年、紅白歌合戦の出場歌手を見ながらAKBについてのエントリーを書いてからもう1年が経つというのだから、実に早いものである。このブログも、前回更新したのが7月だそうで、要するに半年近く放置していたことになる。とりあえず、死亡説が流れる前に何か書いておこうと思い、書きはじめた次第。

震災の影響で

2011年は、とりあえず「震災の影響で」と言っておけばまあ8割くらいの問題でお茶を濁せる程度に、震災の印象が強烈な1年だった。今年の漢字は「絆」だそうで、流行語大賞にも同じ単語がノミネートされていた。震災を契機に人々の絆が強まったという総括なのか、絆を深めて復興にあたろうという訓戒なのか知らないが、ネット界隈ではむしろ、脊髄反射によるデマ拡散と、エネルギー政策論争の箕を着た原発是非を巡る即席ニワカ専門家同士のプリミティブな糞の投げあいにいつも通り終始した感があり、絆の重要性というかむしろ双方向コミュニケーションに纏わるコストのようなものが改めて露呈していたような気もする。あまり聞き覚えのない大学の教授同士が、インターネットメディアを活用して罵り合いを繰り広げた末、年末に開催された某ブロガーの式典でも壇上で互いにけん制しあうパフォーマンスを見せ、式典参加者の失笑を買っていたのは記憶に新しい。あれも絆だろうか。

私はと言えば、原発の怪しい挙動が報じられ初めてからしばらくのうちはさすがに不安が拭えず、なんとなく喉に骨が刺さった様な気分で生活していたものの、程なくして「まあ実際問題、避難勧告が出たら避難するという消極的な対応以外はあまり現実的ではないよね」という結論に達することである種のラインを引いてしまったので、それこそ4月以降は原発関連の報道にもほとんど興味を持てなかったし、ここのブログなどでニワカ仕込のエセ知識を開陳することもなかった。

よって、原発が私の行動に対して何らかの影響を与えるなどということはあり得ないことだと思っていたが、冷静に1年を振り返ってみると、矢張り意外に影響は大きかったのかもしれないなと感じていたりもするのだった。

健康志向への転換と減量の成功

理由についての考察は後回しにするとして、とにかく今年、私の興味は専ら「健康」に向かった。4月に煙草をやめ、6月にジョギングを初めたかと思えば、9月からは水泳もはじめた。

煙草については、実はもともとかなりライトなスモーカーで、平日は平均すると1日に3〜5本程度、休日にいたっては一切吸っておらず、ヘビースモーカーの諸氏に言わせればそもそも喫煙者ですらないというレベルだったので、さしたる労苦もなく禁煙には成功した。

我ながら感心しているのはむしろジョギングや水泳の方で、6月の開始以降、特に挫けることもなく継続できているばかりか、むしろ徐々に距離を伸ばし、今では日に10km程度走ることもザラになってきたし、水泳でも休みなく1.5kmくらいは泳げるようになった。あるときは皇居にも赴き、歩行者に迷惑なことで有名な皇居ランナーに混じって外周をまわり、そのまま走って帰宅(20km)したりもした。

これがどれ程度画期的なことかをご理解いただくためには、それ以前における私の生態をご紹介せねばなるまい。

私の運動遍歴は、中学二年の時にサッカー部の幽霊部員に昇華したところで止まり、以降は運動と言えばエスカレーター上を歩くことくらいという不摂生を絵に描いて額に飾ったような生活を続けてきた。それでも大学生くらいまでは、そもそもあまり積極的には食事を摂っていなかったし、若さゆえの基礎代謝にも助けられ痩せ形で通していたが、社会人になりストレスを暴飲暴食で紛らわせることを覚えたあたりから腹回りが肥大化しはじめ、体重も増加の一途をたどった。

体重はたしか今年の春くらいがピークで、85kgに達した。身長が180cmあるので、必ずしも深刻な水準ではないといえばそうなのだけれど、上述の通り運動らしい運動を一切しない生活があまりにも長く、筋肉量が推定で生まれたての子供くらいのレベルだったので、体は数字以上に病んでいたと思う。あまり読まないようにしていたが、健康診断をするとイチイチ悪玉コレステロールがどうとか内臓脂肪がどうとかというウンチクの書かれた紙を送り付けられたりしていたし、やたら肩こりが酷かったのも、食後に眠くてどうしようもなくなるのも、二日酔いが三日目くらいまで残るという語義矛盾の発生も、思えば運動不足と太りすぎの結果だったのだろう。

問題を更に深刻にしていたのは、こうした生活及びその結果としての不健康並びに肥満体が、完全に私のアイデンティティの一部となっていたという事実だ。

不健康や肥満体をフィーチャーした自虐ネタはいわゆるひとつのテッパンで、そういう意味では便利と言えば便利に活用していたわけだ。長年の不摂生の果てにようやく手に入れた武器くらいに、おかしな倒錯をしていたような気もする。いずれにしても、おそらく大抵の人は、私が締まらない体でノソノソと動くからこそ私を私として認識できているのだろうと思っていたわけで、それを手放すということは、少し大袈裟に言うと自己の同一性が脅かされる危機でもあった。はじめてのジョギングは普段より1時間ほど早起きして家の周りを2kmほど走るというものだったが、何となくムズムズと恥ずかしくなって、ついうっかりツイッターで告白してしまった。何故かfinalventさんや(元)切込隊長さんという大物古参を含む6〜7人くらいからリツイートされたが、以下は当時の私の率直な気持ちだ。

そうして、半年前に85kg前後であった体重は、今は78kg前後で推移している。1か月に1kgのペースで順調に減量できていると言えるだろう。肩こりもほとんどなくなった。

ちなみに、体重の推移はAndroidアプリを活用して記録していたため、ある程度減少が見て取れるようになった段階でグラフ化してブログに掲載し、皆様にお披露目しようと目論んでいたのだが、先月、酔って帰宅した翌朝にケータイが見当たらないので捜索したところ風呂の底に沈んだ状態で発見されるという実に悲痛な事件が起こり、全てのデータを失ってしまったので、残念ながらお披露目は叶わぬこととなった。なお、何故かくも痛ましい事件が起こってしまったか、その過程や原因については一切記憶に残っておらず、事件はこのまま迷宮入りという様相である。

物質的な豊かさ追求の見直し

少し話を戻そう。

何故私は自己の同一性が崩壊するリスクを負ってまでジョギングや水泳に勤しんだのか。病気のリスクを恐れてではない。そういう後ろ向きの動機は長続きしない。実はもっとずっと単純で、単に美しい体型、とりわけ割れた腹筋に憧れたからだった。

美しい体型に憧れたこと自体の理由は曖昧だが、ある種、物質的な豊かさの追求からの離反、身体への回帰なのではないかと今は考えている。

思えば。社会人になり、より高額の報酬を求める過程で腹まわりに蓄えた脂肪は、肉体労働からの決別と贅沢で栄養価の高い食事に恵まれたことの結果であり、言うなれば豊かさの象徴であった。

痩せているという状態はつまり、病気でなければ、食事量を抑えているということに他ならないわけで、消費こそ美徳という高度経済成長期的倫理観に照らせば、必ずしも望ましいものではない。実際、太っている人のほうがいくらか羽振りよく見えたりするものだ。

そして、この物質的豊かさ追求の螺旋を突き進むコトの是非こそが、先の大震災及び原発問題が世に問うているイシューなのではなかろうかと個人的には感じているところだ。さすれば私が物質的な豊かさから距離を置き、身体に内在する価値に回帰したことも、あながち世相と全く関係がないとは言い切れないこととなる。

「反原発は信仰」というコピーは誰が言い出したか知らないが当を得ていて、市民が原発を見直そうというとき、主要な関心事は発送電に係わるコスト構造や安定性といった具体論ではなく、人はどう生きるべきかというような、より抽象的な議論である。数字を使った個別具体的な検討などは公務員あたりにやってもらえば良い話で、国家の主権者たる我々国民が打ち出すべきは、より原理的な方向性なのである。

いま、反原発を唱える人の思想的背景は、きっと、我々人間は一体いつまで物質的な豊かさを追い求め続けるのか、ヒトの欲望は無限という前提のうえにのみ成り立ち得る強欲で品のない資本主義というシステムにいつまで踊らされ続けるのか、そろそろ引き返してもいいのではないか、という疑念であると思っている。

思えば、近年日本で生まれるヒット商品のうちには、これまでの拡大・発展・進化の路線から外れたようなものが多い。ソーシャルゲームなんかはその典型で、そのプアでシャビーなユーザーインターフェースは、高性能の演算処理能力と画像処理技術を前提としたコンソールゲームとは一線を画すどころかまるで別物だ。AKBの華の無さも、アイドルとしては異端にみえる。

エネルギーというのはそれこそまさに豊かさの象徴だった。我々は家電製品や自動車など様々な技術の結晶を通じて大量のエネルギーを消費し、それにより豊かさを実感してきた。そうであれば、発電などエネルギーの精製に伴うリスクやコストなどの諸問題は、腹回りの脂肪のようなものだと言えるだろう。豊かさを象徴する一方で、我々の生命を脅かしもする。これとどう付き合っていくかというのは、まあ個々人が考えればよいと思うが、一度思い切ってそぎ落とし、別のもっと本質的な価値を求めるというのも一案だとは思ったりもするのだった。