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Facebookって要するに何なのという件について

ビジネス

先週、SNS世界最大手のFacebookが写真共有サイトのInstagramを買収との報があると、世の中にはだいぶ衝撃が走っていたようだった。

かくいう私はこのInstagramという会社のサービスを、何となく聞いたことはあったものの使ったことはなく、あまり詳しくは知らなかったので、当初はへえという感想しかなかったのだけれど、後になって詳細を見てみると、なるほど衝撃の内容だったわけである。

というのは、このInstagramという会社、実は創業から僅か2年しか経過しておらず、従業員は13名、売上高はゼロ円なのだそうだが、その会社がなんと10億ドルで買収されたというのである。10億円ではない。いや、10億円でもすごいのだが。さらにすごい、10億ドル。日本円にすると実に800億円くらいである。

売上ゼロの会社で良ければ私がいくらでもつくりますよという感じだが、同社の運営するサービスには5000万人近いユーザーがいるというから、一応納得しておこうか。まあそれでも1ユーザーあたりに20ドル以上払ってる計算だから、割安感的なものは一切ないが。

さらに言えば、Facebookは自身の上場も間近に控えており、これがまたなんと時価総額で1000億ドルとか言うから、もう何が何だかわからない。これがどのくらい凄いかというと、日本企業で言うと、トヨタに次ぐ大きさなのである。日本に3千以上ある上場会社は、たった1社を除いてFacebookよりも価値が低いのだ。一体今まで何をしてきたのか。

まあFacebookの方は、件のInstagramとは違い、ちゃんと売上高を計上していて、利益も10億ドルほど出しているそうだから、わからなくもない評価額といえばそうなのだけど、にしてもその巨大さは私の度肝を抜くには十分だ。代表者で創業者のザッカーバーグは若干27歳にして推定資産175億ドルの大富豪だそうだ。

サバンナ高橋みたいな顔をして、なかなか侮れない男である。


それにしても、だ。こうした話というのは、ちょっと射幸心を煽り過ぎではないかと思うのは私だけだろうか。

上述したようなベンチャーで一攫千金みたいな話がまことしやかに語られると、尊大なるものづくりを担う大メーカーで、額に汗して真面目に働くことがバカバカしく感じられ、「すたあとあっぷ」なる破廉恥な営みにうつつを抜かす不届者が増え、ともすればテレビ局に喧嘩を売った挙句国政選挙に立候補したり逮捕されたりして人生を棒に振ってしまう若者が増えかねないから、こういう設立間もない会社が上場したり買収されたりするときのバリュエーションに際しては、マルチプルに一定の制限を設けるべきであると、私は消費者庁に厳重に抗議したいと思う。嘘だが。


話がそれた。まあ何にしても飛ぶ鳥を落とす勢いとしか言いようがないFacebookなわけであるが、それで結局あれは何なのという疑問は多いのではないかと想像している。

おそらく私より上の世代、30代も後半くらいになると、大半の人はFacebookを使ったこともないだろうし、当然理解は追い付いていまい。そうした人にあっては、よくわからないなりに自身の人生経験に照らし、「まあ光通信時価総額8兆円まで行ったし」ということで、つまるところ「光通信みたいもん」として無理矢理整理をつけている可能性は否定できない。ともすれば、「サバンナ高橋が副業で大当たり」くらいまでこじらせている可能性さえある。憂慮すべき事態だ。いや勝手に想像して勝手に憂慮してれば世話ないのだが、今日は少しこのFacebookについて考えてみたいと思っている次第だ。

Facebookの何たるかというのは、ちょっとわかりづらいと思う。似たような感じで数年前に颯爽と登場したGoogleが、「検索」によって欲しい情報にすぐアクセスできるというわかりやすい価値を提供しているのに対して、Facebookでなにができるのか、又は何が実現するのかというのは、すぐにはイメージしづらい。

例によって例のごとく、ITジャーナリストを名乗る欧米マンセーズは合言葉「世界を変える」を操り、Facebookが人々のプライバシーの概念を変えるとか変えたとか、いつもの調子で沸き立っており、いわゆるひとつの持ちネタの披露に余念がないわけだが、冷静に考えて、プライバシーの概念なるものを変えたから一体何だというのかよく分からない。というか、誰がそんなモノ変えて欲しいと頼んだのだ。実に意味不明である。世界は変えりゃあいいというものではない。望ましい方向に変えなくては意味がないのである。

確かにFacebookは、人がプライバシーを他人と共有することの敷居を限りなく押し下げた。今何してる?という共通の問いかけに呼応するかたちで繰り返される単純なテキスト投稿に加えて、写真共有機能や携帯端末のGPSと連動した位置情報機能などを利用し、ユーザーは余すところなく現在の自分の状況を開示している。

そうして今日も今日とてFacebookでは、
「これ食べました」「いいね!」
「子供かわいいです」「いいね!」
「自己啓発セミナーです」「いいね!」
「実話ですが人種差別をこじらせた厄介な客をスチュアーデスが快刀乱麻です」「いいね!」
と、もう何でもいいのかと言いたくなる空虚なやり取りが繰り返されているわけだ。

さて、あれに一体何の意味があるのか。


Facebookがプライバシー公開の敷居を下げたとして、ユーザーがその仕組みに乗じて本当にプライバシーを公開するかというのは、プライバシーを公開することによって何か便益を得ることができる場合に限られるはずだ。

それは何だろうか。

これについて私は、結局自己同一性の強化ということではなかろうかと思っている。キャラクターの獲得と言ってもいい。

キャラクターなるものがどのようにして出来るかといえば、それはコミュニケーションでしかない。他人からどう見られるかが積もり積もってキャラクターを構成するわけだ。ナンシー関は、松岡修造について次のように言っている。

「テレビの中の自分の面白さ」を語った修造の言葉を総合すると、「笑われているのではなく笑わせているのだ」ということになる。しかし、修造のおもしろさはやはり「笑われる」ところにある。たとえば、芸能人にテニスを教えるというバラエティーの企画。修造は、唐突にピンク・レディーの「UFO」を踊らせ、その振りがテニスのストロークにつながると言う。この部分は、まさに修造が「自分に何が求められているか」を熟考したうえでの「サービス」である。しかし、こうしたサービスの部分がおもしろいのではない。おもしろいのは、そのときに修造がはいているピシッとプレスのきいた真っ白い短パンなのである。こいつ短パン何枚持ってんだ。たとえば、の話であるが。
-ザ・ベリー・ベスト・オブ「ナンシー関の小耳にはさもう」100 p.374

長々と引用したわりにはあんまり関係なかったかもしれないが、要するにキャラクターというのは、自分でつくることはできないということだ。そして、他者がそれをすることもできない。ただその人に対する言及・行動の積み重ねによってのみ、かたちづく"られる"のだ。

これは、まるで潜水艦のソナーのようだ。

ソナーというのは、潜水艦が、例えば敵の潜水艦など、何か水中の物体を探知したり位置を把握したりするために出す超音波みたいなやつのことで、対象物からの反射を計測することによって対象物までの距離や方位を測ることができる。Facebookでのコミュニケーションもこれと同じで、内容に意味があるというよりは、発することや反射すること自体に意味がある。行き交うコミュニケーションのなか、それが通過せず反射する場所、そこに人物がいてキャラクターがあるのである。例えば私は、ご覧の通りブログを書いている。1エントリーあたり、多いときは数百という反応があるが、それらの反応こそがWEB上における私という存在というものをかたちづくっている。なんの反応もなければ、私は少なくともWEB上には存在し得ないだろう。


最近、Facebookは「いい人」ばかりで気持ちが悪いという事案が、たびたび話題にのぼる。

お心当たりがないという人は、以下のエントリーなどを、ご参照いただきたい。

違う自分を演じている〜「Facebook上での友達のふるまいに違和感」34.4% -INTERNET Watch
ひとはなぜフェイスブックで「いいひと」を演じてしまうのか問題 - night and sundial

なぜ「いい人」ばかりなのか。

Facebookではフィードバックに使うコミュニケーション手段が、ほぼ「いいね!」だけしかないわけで、そういう中にあって、すべての人が「いい人」キャラに収斂していくのはある意味必然である。

これが例えば、はてなではお馴染みの「これはひどい!」とか「死ねばいいのに!」とかいう悪意のフィードバックが増えれば、結果的に露悪的な振る舞いも増え、現実社会同様に随分多様化していくことだろう。


それで、結局あれは何なのという当初の疑問である。

Facebookで公開される個々人のプライバシー情報というのは、一昔前であれば、路地裏の井戸端、会社帰りの居酒屋、若しくは自宅のリビングルームと言うところで止まっていた情報である。Facebookは、これらをオンライン上にリプレースした。そうすることによって我々は、空間も時間も超えてプライベートなコミュニケーションに興じることができるようになり、自分の存在をより強固に感じることができることとなったのである。

だから、Facebookの価値というのは、どれだけのコミュニケーションをつくりだしたか、によって測ることができると言える。

そして、そうであれば必ず、彼らが悪意のフィードバックをも自らのシステムに組み込む日というのは、遠からずやって来るだろう。多様なキャラクターをつくれた方が、ユーザーの便益は高いからだ。

そのときはおそらく、その道一筋10年弱、生み出した悪意の数やいかほどかという我らがはてなの買収も現実味を持つことになるのではないか。

なので、はてなは、そうなる前に予め私に株をください。

それからFacebookは、買収を検討する際に"はてなブックマークに満ちる悪意に果敢に挑み、そのマネージメントにはじめて成功したキーパーソン"を自称する頭の禿げた男をアドバイザーとして雇わないように。

以上です(なにが)。

参考

まあなのであんまり関係ないのだけど、面白いので。