エスカレーター止まる派はまだ有効な戦略を打ち出せていない

エスカレーターを利用するとき、立ち止まって利用する人(「止まる派」と呼ぼう)と、エスカレーターが動いている上をさらに歩くという人(「歩く派」と呼ぼう)がいるのである。エスカレーター自体が動いているのだから、その上を歩くということに必然性はないわけだが、エレベーターの中を歩くきまわるのとはまたわけが違うのも事実。階段が動いている上を更に進むことになるから、結果は足し算となる。即ち、目的地により素早く到達することができる。 

 古くから我が国には、止まる派・歩く派の双方が存在しており、エスカレーター上では、止まる派が進行方向に向かって左側に固まり、空いた右側を歩く派が闊歩するというかたちでもって共存が図られてきた。しかしいま、この関係が揺らいでいるのである。

 

最初に断っておくと、私は止まる派の人間だ。しかしながら、本稿は、止まる派の主張を強化するために書かれるものではなく、ましてや歩く派を弾劾する目的でもない。今一度冷静に戦況を眺めんとするものである。

 

さて、長く続いた均衡を打ち破ったのは、止まる派であった。その主張を概観すると、即ち、歩くのは危険であるという論旨が主となる。安全性を人質とした彼らは、リスクに怯える役人のような駅員を空気でもって支配し、エスカレーターは止まって利用することが文明人の姿であると呼びかけるポスターを至るところに展開させた。エスカレーター上は狭いし、混雑するから、立ち止まって乗らないと危ないよと、こう呼びかける。

ただ、危険だろうか。いや、危険の有無を論うべきではないだろう。エスカレーター上で歩いたが故に転倒したという事例は、おそらく存在する。探せば。なので、危険がないとはいえない。ただ、何だってそうだ。問題は、その危険性の見返りとして何を得ているかだ。

ご承知の通り、クルマは危険である。自転車も然り。走れば、転ぶかもしれない。要するに、人間が早く移動しようと思えば、危険はつきものなのだ。エスカレーターも例外ではない。つまり危険だという事実をもって、直ちに歩くべきではないと導くことはできない。「危険な割になんの効果もない」といったように、効果の話をしなければならない。効果はどうだろうか。誰がどう考えたって、歩いた方が早い。つまり、相応の効果はあるのである。

 

止まる派の中には、合理に訴えかけようとする諸兄もいる。即ち、往々にして止まる派が利用すべき左側だけが混雑していて、歩く派の領地はスカスカであるから、右側も止まる派に開放することが合理であるとする主張である。しかしこういった主張に対しては、非常に残念ながら、だったらお前も歩けと言わざるを得ない。混雑の解消が合理なのであれば、全員が歩き、さっさとエスカレーターの利用を終えることこそが合理である。合理に徹してエスカレーター上を突き進む集団の足を引っ張り縮小均衡を目指してはいけない。

 

他方、私などが思うのは、お前ら偉そうに急いでるけどなんかそんなに大事な用事でもあるのかよということである。早く移動するためにはリスクはつきものだというのは先に述べたとおりだが、では早く移動することに妥当性がない場合はどうなるだろうか。その場合は当然、リスクを取ること自体が無駄という判断になる。無駄なリスク負担は、社会悪だ。であれば、早く移動することに関して相応の理由を示すべき。そう考えることは自然である。

例を出そう。あなたはトイレを待っていたとする。男子トイレだ。イベント開催のため混雑しており、数分待って次があなたの順番。そこにある男があらわれる。男は「すみませんが先に入れてください」という。入れてあげるだろうか?では「これから大事な商談があるのだけどどうしても腹痛になってしまってこのままだと商談中に破裂してしまうから、どうかなんとか先に入れていただけないか」と言われたら?何が言いたい例えなのかよくわからないが、理由付けは大事だということだ。

しかしながら、である。しつこいが。しかしながら、歩く派の人々は、本当に急いでいるから歩くのかという点については一考の価値がある。

言ってみれば、われわれ止まる派の歴史認識は次のようなものだ。

もともとエスカレーターには止まる派だけが存在し、平和に暮らしていた。あるときそこに歩く派の集団が押しかけて次のように宣言する。「われわれは急いでいる。道をあけろ」と。平和を愛する止まる派は必死に抵抗するも、激しい戦いの末エスカレーターの右半分を歩く派に奪われてしまう。いまわれわれは不遇の時を経て今一度エスカレーター上に平和を取りもろすべく立ち上がるものである。ニッポンを!とりもろす!と。

ただ実のところを言えばそうした史実を裏付ける根拠はなく、これらの認識は止まる派による捏造であると言わざるを得ない。

エスカレーター上に止まる派だけが存在していた歴史はない。エスカレーター上に原始的存在していたのはカオスであって、平和ではない。止まる人もいれば歩く人もいただろう。何か理由があったわけではない。もともと生まれたときからそうしていたから、引き続きそうしているのだ。あるとき知恵の実を食した若い男女が突然に合理に目覚め人類歩くべしと提唱したわけではない。

 

少し整理をしよう。歩く派も止まる派も何か理由があってそのような行動を取っているわけではない。エスカレーターのアーキテクチャは、いずれの利用法をも許容する。これまでの歴史というのは、単に混沌としたエスカレーター上が整理されてきた歴史に過ぎない。各々が無秩序に歩いたり止まったりしてぶつかり合っていたものを左右に分けることで整理をしてきた。その中で、例えば止まる派の一部が歩く派に転向したとか、逆に歩いていた人が止まるようになったとかそういう行き来があるわけではない。従って、現状における止まる派の攻勢は、長い戦いの一部として語られるべきものではない。歩く派の領地を狙う歴史上初めての侵略戦争なのである。

 

ことほど作用に大掛かりな歴史的聖戦に挑むにあたって、マナーを呼びかけるポスターを貼るくらいでは戦況の好転は望むべくもない。歩く派が転向せざるを得なくなるような絶大な力が必要だ。

なにか。

やっぱり月9じゃないか。そう。キムタクである。エスカレーターの右側で立ち止まるキムタク。隣には山口智子。歌い出す久保田利伸。ちょっと古いか。