プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

なかなか難解な本で、ちょっと読むのに時間がかかってます。
普段は結構極度な斜め読みで、1-2日で一度読み終え、面白そうだった箇所なんかを中心に2,3度読み返すというのが私の読書法ですが、この本は、斜め読みできませんでした。
まあ、そんなにめずらしいことではなく、ちょっと難しい話はどうしてもそうなるわけですが。
まだ途中なのですが、だいたい言いたいことはわかったので、メモです。

結構面白いです。
まずは概要をまとめてみます。

1、資本主義の発展に際して、それを人々の内面から支えた精神構造があったのではないか。
2、近代的な資本主義においては、個人が、【自身の必要性を超えて】資本を拡大させる必要があり、特に初期段階においては非常に非合理的かつ思想的に不自然な面があったと言わざるを得ない側面がある。
※伝統的な社会においては、自身の生活を最低限賄うための、広義での資本主義は存在していたが、資本を拡大させること自体を目的とし、究極的に合理化された今日見られるような特徴は確認されず、その間には大きな隔たりを感じざるを得ない
※資本主義が当初発展したイギリス・オランダなどの欧州諸国は、敬虔なキリスト教国家であり、キリスト教の考え方として、富の獲得はむしろ忌むべきものとされており、こういった思想が国民性をかたちづくっていたなか、資本主義が発展したことには直感的に不自然である。
3、即ち、各人の生活や享楽的な幸福ではなく、資本の獲得自体を各人の義務とするような思想、いわば倫理観なくしては、資本主義の発展は考えづらい。
4、キリスト教は歴史的に(今日でももちろん)それ自体を目的とした富の獲得は非道徳的なものとして位置づけているが、カトリック⇒ルッター派プロテスタント⇒カルヴィニズム⇒ピュウリタニズムと移り変わる中で、世俗的労働に対する位置づけを徐々に変化させている。即ち、世俗の労働を天職としてそれを受け入れ、それを全うすべきとする、いわば世俗的労働の甘受の段階を経て、究極的にはピュウリタニズムにおいて、世俗的な労働は禁欲の手段として、また隣人愛を実践するに当たって最良の手段であり、義務であるとする思想に至る。こうした思想が、はからずしも資本主義発展の支柱となった可能性はきわめて高い。
5、そうした思想に基づき、懸命に労働に励んだ結果、また、禁欲にはげんだ結果、当然に富が蓄積され、富が蓄積されるうちに、それ自体が既にとまらない歯車となり、かつ、富の獲得の成功した信仰にあつい人々を、徐々に信仰から遠ざけていき、結果としては資本主義として、世俗内禁欲の行動様式だけが残った。


話しの順序は、実際の本と多少異なりますが、論理展開としては大体上記のような感じです。
こう書いてみるとあっけないのですが、その精緻な証明の過程と、随所に散りばめられた名文の数々は一読の価値ありといった感じです。


個人的に大変興味深かったのは、やはり上記で言う3にあたる部分です。
資本主義の根幹に、まさか倫理観があるとは夢にも思いませんでした。
同著内にもありますが、資本主義が発展するにつれ、その仕組み自体が非常に強固に機能し始め、いまやそういった思想や倫理観による内面的な支えは必要なくなっているわけですが、やはり本質的な部分ではそういったものが必要なのだと思います。事実、資本主義の英雄たる人物が倫理観を持ち合わせていなかった例を思いつきません(ヒルズ族は英雄ではない)。


日本にここまで(GDP世界2位になるほど)、資本主義が根付いたのは、そういった資本主義の精神における禁欲性と国民性の親和性が非常に高かったためでしょう。稼いだお金を全部浪費してしまえばGDPは増えないわけで。

さらに言えば、今後の発展を考えた場合にも、そういった倫理観の国民的な底上げが大変重要なのだろうと私は推測するわけなのですが、果たしていまの日本が向かっている方向と少しでも合致しているのでしょうか。。というのが感想です。



◆10月15日メモ
近代資本主義の初期段階において、ヴェーバーによれば、
・目的:禁欲と隣人愛の実現⇒神のご加護
・手段:義務としての労働(資本の最大化)を目標
(結果:利益)


関心事は、その後何がどのように変化したか。である。

・原理原則は変わっていないはず。

・目的において、宗教的意味合いは明らかに薄れている。ただし、近しいことはよくきく。社会に対する貢献は隣人愛と似通っている。ドラッカーによれば顧客の創造とのことであるが、これも協議の社会貢献ではないか。ドラッカーにおいて意味が狭まっていることこそが、資本主義の発展の現われということか?即ち、資本主義との親和性が高い社会貢献が選択されたという可能性である。いずれにしても薄れているか、まったく認識されていない。

・労働は、肉体的労働から知的労働に大きくシフトした。が、ここはあまり変わってないか?ただ、主体が個人から組織へと移り変わる中で、各人の労働は組織としての運動として、より科学的な側面を多くもつようになった。資本の最大化(それ自体は非合理的であるが)に対してもっとも合理的な手法を常に検討している。

・主体は個人から組織へと変遷している。
現代におけるほぼすべての経済主体は企業であり、そうでなくても組織である。このことは明らかに近代以前とは異なるではないか。禁欲は、個人の目的足りえるが、組織の目的足り得ない。組織は継続することが目的というか、必要である。このため、利益は単なる結果ではなく、経済活動を継続するための条件となった。ときに目的と混同されるまでに存在感を高めている。


こう書いてみて気づいたが、禁欲という概念が消失したためか、目的と手段があまりかみ合っていない。禁欲的な資本拡大は消えうせ、行動様式としての資本拡大だけが残っている。