教育

この間の話のつづき。

しかしながら、やはり子供が保育園に行かなければならない直接的な理由は、道徳心によるものではない。それは私が連れて行かなければならないからである。そして、私が連れて行かなければならないのは、先に書いたような私の思想によるところである。


例えば、私が神を信じるとしても、私は神ではない。自分を神と錯覚し、子供に対して高圧的な態度をとるのはきっと間違いである。自分の信じるところを説明し、理解してもらい、協力してもらうことがあるべきかたちであって、子供にとっては特定の信念を押し付けられることは迷惑に他ならないはずである。そこには対話があるべきであって、上から目線の所謂「教育」ではない。


重ねて言うが、信仰とは、道徳とは、自らが信じるから意味があるのであって、他人に強要すべきものではない。他人に信仰を押し付けそれを善とするのはエゴである。業深き故である。これこそまさに唯円が歎異抄において、歎いておった問題ではないか。


では、教育とはいったい何か。それは対話である。相手の主張を聞き入れ、自分の望むところを説明し、折り合いをつける作業である。私は神ではないから。今日は、そんなふうに思った。