お金について
id:YOSIZOさんという方から、トラックバックという大変ありがたいものを頂戴したので、御礼がてら少し論を重ねてみる。
まずは、一般論的な見地から、以下の問題提起に便乗する。
なのに「お金を稼ぎたい」という人を、卑しいとか浅ましいとか考えるのはなぜだろう。
お金が欲しいと言う事を恥ずかしく感じるのはなぜだろう。
ここではまず上の命題を、「なぜ日本社会のエートス(社会の倫理的雰囲気)は金銭、特に金銭欲に対して否定的なのか」、と整理してみる。エートスという言葉は世論という言葉に近い気もするが、各人の意識下にあるものとは限らず、無意識下にある場合も多いことから、世論とは区別され得る。特定の社会においてその構成員の心的または物理的な動きに対して支配的な働きをもたらすことから、法律に近しいともとれるが、エートスは無形であり明文化されないため、法律や規則の類とも明確に異なる。例えばある部落に昔から伝わる風習で、当該部落の居住者は否応無く守らざるを得ないもの。これはエートスである。
エートスの存在を立証するのは非常に困難が伴うが、氏の論にあるようにマスコミの姿勢から存在を確認することは有効であるように思う。マスコミは公共性を有するから、またはより多くの視聴者の同意を得、視聴せしめることでより多くのスポンサーから資金の提供を受けることが彼らの生業であるから、最大公約数的な立ち位置を取らざるを得ず、その報道姿勢が、所属する社会のエートスに収束することは至極当然と考えられる。ちなみに、このことは本件のような比較的おおがかりな、根本的な問題に限らず、それこそ社会の雰囲気が毒餃子問題の糾弾に向けられているのであれば、マスコミはいちはやくその雰囲気を察して、みずからの報道姿勢を構築する必要がある。流行り廃り、である。
ただ、問題として、エートスは明文化される類のものではないことから、マスコミの報道が実際のエートスと合致しているか否かについて、事後的でさえも正確に把握する手立てはないということがあげられる。これによってマスコミがありもしないエートスをでっち上げ、世論を扇動するということが可能となる。しかしながら、こういった類の情報操作は、上述したような彼ら自身の存在意義と根本的に矛盾し、ともすれば視聴者を完全に失うリスクを有するため、その目的は凡そ政治的な意図に限られること、及び、本件においては非常に長期的かつ本質的なエートスを議題として扱っているため、情報操作の可能性、及びそのメリットは著しく小さいことから、この問題についてはこれ以上言及することは避ける。
以上より、日本社会におけるエートスとして、金銭及び金銭欲を否定するものは確かにあると考える。次はそのエートスの系譜に焦点をあてたい。
この過程においては、ニーチェによる道徳の系譜が非常に的を射た内容であるため、結論だけを拝借したい。即ち、道徳の系譜はルサンチマン(弱者による遺恨)であるとするものである。元をただせば、被支配者層が自らを肯定し、支配者層を否定するための枠組みこそが道徳の起源であるということであり、つまり支配者層の行いをまず「悪」であると定義し、その逆である自らを「善」と定義づけたものである、ということである。道徳の系譜自体はキリスト教の基本思想である隣人愛をモチーフにしたものであるが、結果的に富めることを否定する価値観がエートスとして存在していることは同じであるから、それぞれは同種の起源を有することは自明であろう。また、この論は、社会の大半は常に被支配者層であること、そして民主主義社会においては数こそが力であることを考えると、非常に納得感があると思っている。
ここまでで、頭書の提起に対する自分なりの回答としては足りたと理解している。即ち、日本社会においては(寧ろ資本主義社会全般においては)、金銭または金銭欲を否定するエートスは必然的に存在しており、当該エートスに少なからず心的物理的に制約をうけることは避けられない。
それでは、こうしたエートスは人類を幸福に導くものとなり得るのであろうか。氏の論では冒頭部分においてこの命題について触れられている。人生を充実させるさまざまな方法に係る手段として、お金は非常に重要な役割を果たすから、それを否定することは率直に考えて自然なことではないという感覚が述べられているように思う。
これについて、私はしごく最もな見解であると思う。この自然な感覚との乖離は、件のエートスが、上述したとおりルサンチマンに基づくものであるから、本来の人間の欲求と単純に相反する内容になってしまっていることが大きな要因であると考える。即ち、富めるものを悪と定義付けるために人間の本質的な欲求(ディオニソス的なもの)を否定してしまっているため、その対義語としての善が実現不可能なものになってしまっているところに、そもそもの矛盾がある。私は、そういったエートスは否定され、新たなものに更新されるべきであると考えている。そういった中で思い至った思想が、引用していただいたようなお金を是認する道徳観である。
お金を否定することはどこかおかしいという風潮は、事実として芽生え始めてきていると私は感じている。あとは代替的な価値観さえ世に出れば、現代社会のエートスは自ずと更新され得る下地は十分にできているのではないだろうか。お金を否定するのではなく、上手に付き合うことこそが幸福への近道だと信じてやまない。
ドラッカーは著内にて、企業の目的は利益ではなく顧客を創造することであると定義づけた。そして利益についてはその目的を達成するための手段であると言った。企業の社会では新しい価値観はすでに公のものとなっている。個人も手段としてのお金の効果をしっかりと把握し、いたずらな拒絶をよしとする風潮を見直すべきなのではないだろうか。
おしまい。