法律について

こないだの話に関連して。法律っていうのは字面だけ憶えればいいってものではなく、書いてあることだけ守れっていればいいというものでもない。本質を理解することが大事である。こないだはさらっと「本質に則り、(中略)言葉尻を調整」とか書いたけど、ちょっと詳しく。


法律というのは、突き詰めて考えると世論である。世の中に蔓延する倫理観とか雰囲気とかそういうのを明文化したものが法律である。立法権はどこにあるか。立法権を担う国会議員は如何にして選出されるか。世の中の仕組みは基本的には民意を適宜法律として明文化していくようにできているものである。法律はその意味で単なる結果であり、ものごとの出発点たり得ない。
世論に敏感でいることができれば、法律の個々のテキストなぞさほど意味のあるものではない。細かな線引きの問題はあるが、ぎりぎり内側ならOKかというと、そういうものでもない。


そういう意味で、本質さえ理解していれば、あとは言葉尻の問題だけで、ネットの法律について考えることくらい大した問題でもないと思った。


しかし例外はないか。

  • 世論が著しくその質を劣化させた場合。

そうすると、ある時点の権力が、自らの権力の基盤である世論を、自らの権力を維持する目的で操作することを試みる。換言すると社会の上部構造が下部構造を支配しはじめる。もしくは、上部構造が下部構造を軽視し、騙しはじめる。あなたたちの言うことを聞いてますよ、という顔をしながら、まったく別のことを推し進めるようになる。
いずれも、職業としての政治家の存在が生まれて以降、構造的に必然的な問題であるが、基本的な仕組みに立ち返ると世論の劣化という前提なくしては起こりえないと思われる。
結果として、(本来の)世論と法律は乖離する。

  • 選挙について。

選挙とは、国民の目線からして、一定の選択肢のなかから次の権力者を選択する行為である。その意味で受動的であり、例えば権力者として如何にふさわしい人物が思い当たろうと、その人物が立候補しないことには投票のしようがない。立候補に関する敷居をあげることは既存の勢力による権力の維持に繋がり、恣意性が介在する余地があることになる。

  • 日本では社会のルールが法律に先行する場合が多い。

例えば、家庭というのは最小単位の社会である。最小単位の社会においても、法律に優先する場合があったりする。DVなどもそう。知らない人を殴りつけた場合と、妻を殴った場合では処遇が違うと思う。ただの極端な例だが、その家庭に、かっとなてつい手をあげてしまっても夕飯までにちゃんと誤ればおkみたいなルールがあれば、そのルールは法律に優先する。学校なんかも似たような状況だと思う。そうすると、法律を社会の要請にあわせて、細かく、適宜変更する必要性は薄れる。