はじめに
本論の目的は現代における非モテの社会的位置づけを研究することと、それによりいくつかの現代社会の抱える病理を明らかにすることである。
研究の対象である非モテの定義については、まずは以下を参照されたい。
非モテとは - はてなキーワード
非モテとは一般的には、異性からモテないこと。また、モテない状況にいる人のことを指す。もともと「モテ」という言葉から生まれてはいるため、誤解されやすいが、現在の用法としては「非モテ」の対義語として「モテ」が配置されている訳ではないことに注意。「モテ」は第三者による評価だが、「非モテ」は自意識の問題といえる。
「モテる」とは複数の異性から恋愛対象として求められることを指しているが、「非モテ」における「モテ」の意味することは、もっと原始的な、他者(異性だけではなく)から求められるという意味に変化している。他者による承認が得られないという悩みなのだ。
中でも、恋愛経験がないために、一人でもいいから異性に好かれたいという恋愛による承認を求める人が「非モテ」を自称することが多い。「非モテは複数の人にモテたいんでしょ。そんなモテる人なんてごく少数で、一人の人に愛されればいい」というような発言は、非モテという言葉を見かけた時によく見かけるが、これは誤解である。
その一方で、「モテるための努力を回避する」という恋愛至上(資本)主義へ批判的態度およびその人のことを指す場合もある。
後者の非モテはさらに挫折型←→非挫折型、恋愛至上主義そのものからの退却←→恋愛(モテ)資本主義からの退却と大きく4つの型に分類できると思われる。
(『電波男』(本田透著)は「挫折型・非−恋愛資本主義」であり、『負け犬の遠吠え』(酒井順子著)は「挫折型・非−恋愛至上主義」、近年の若年世代のライト萌えオタク層は「非挫折型・非−恋愛資本主義」となる)
以上の通り、非モテの定義自体は非常に多岐にわたるが、ここではあまり個人の劣等感や悩みを研究したいわけでもないので、上でいうところの後者、即ち『「モテるための努力を回避する」という恋愛至上(資本)主義へ批判的態度およびその人』を研究の対象としていきたい。以後本論においては特に注釈がない場合の非モテは上記の意味を持つのでよろしく。
バブル崩壊後の日本社会はニヒリズムが蔓延する社会であった。そのなかで、唯一若者が情熱を比較的傾注させたのが恋愛であった。非モテとはそれに対するアンチテーゼであるようだ。
一方で、非モテはときに「社会からの承認が得られない」という広範な悩みであって、日本社会の病理でもある。引きこもりの社会問題化や非モテによる凶行などを目にするに付け、そう思う。しかしながら、非モテを異常者として括り、社会から阻害することでは何も解決しないのではないか。私は、そこに必要なのは非モテとそれを生み出した社会に対する研究であって、その先にこそ、より望ましい社会があるのだろうと信じて止まないのである。
こんな崇高な理念を掲げて、非モテについて勉強してみた。
なお、勉強してみたといっても、まあ1週間足らずの話なので、是非それを念頭に軽い気持ちで読んでほしい。