ネット上のコミュニケーションスキルと能力格差についてのつづき

前エントリがこちらで、このつづきとして。
ネット上のコミュニケーションスキルと能力格差について - よそ行きの妄想

  • 個人的なメッセージとしての要素の意味

まずは寄せられたご意見ご感想を紹介したい。

元記事において下記のような表現があるから、個人的メッセージの要素があると読み取った。chnpkさんはこの部分をどのように読み取ったのか? 
他人の不幸に対して「ああゆうやつって馬鹿だよねー」ということに社会的意味があるという人 - ARTIFACT@ハテナ系

このchnpkさんというのは私のことなので、ここはひとまず素直に回答する。エンターテイメント的な要素だと読み取った。

説明に際しては例をあげたい。まずオペラである。オペラに出てくるキャラクターは他のキャラクターとのコミュニケーション手段として、その大部分を歌唱によって行う。あれではまともに言いたいことが伝わるはずがないと思うが、何故そんな手段を選択するかといえば、その歌唱(力)を聞きに来ている大勢の聴衆がいるからだ。そういう意味で、はてな風にいえばオペラとはネタであり、釣りである。

また、2ちゃんのレスで「お茶吹いたwww」とかよくあるが、別に本当に吹いているわけではない。一連のコミュニケーションの流れの中で、客観的な楽しさを演出しているに過ぎない。2ちゃんは連歌に似ているといつかどこかで学者のような人が言っていたが、そういうネタなのである。そしてそのネタ性は2ちゃんの住人自身よく把握していて、それ自体もメタ的にネタ化している


「応援しています!ガンガレーーーー!」が、「←本当は応援していない」なのは「お約束」ではないのか。必死に発言を額面どおり受け取ろうとする真面目な姿勢はある意味評価したいが、少し視野が狭いんじゃなかろうか。

  • コミュニケーションに対する幻想

そして、上述した視野の狭さはどこからくるのかと考えると、それはコミュニケーションに関する経験不足からくるコミュニケーションの幻想化ではないかと思った。

元エントリに寄せられたコメント。

いやあ、っていうかもし真意を知りたければ、本人にメール出すなりして個人的に訊けばいいんじゃないのかなあ。まあそれ以前にある程度の信頼関係を築く必要もありますが、そういう経路は確保されていて、あとは実行するか、そこまでリソース費やすインセンティヴがあるか否かでしょう。
 id:y_arimさんより

自分とは常識が違いすぎてしばらくポカーンとしてしまったが、この齟齬の本質はコミュニケーションに対する理解の食い違いだろう。
私の感覚では、まず本人にメールをして「どういう真意なんですか」と尋ねたところで、本人が自分の真意を把握している保証はどこにもない。人には無意識の領域があるのだ。

次に百歩譲って自分がエントリを書いた真意を完璧に把握していたとしても、その真意を正確に教えてくれる理由もどこにもない。『ある程度の信頼関係を築く必要もありますが』という但し書きから幾ばくかの困難性についての示唆を感じ取れるが、100%の真意を必ず交換できるほどの信頼関係は困難どころの騒ぎではない。ほとんど幻想の領域だ。対面であろうと、コミュニケーションは別に「真実を語り合うこと」ではなく、単に「連続した自己主張」である。利益にかなわなければ真意を隠すこと、というのはコミュニケーションの基礎中の基礎である。そしてその利害関係というのは、2人の仲が親密になればなるほど顕在化して、表面化するものだ。*1そして外的な要因から、相手の真意を客観的に推測するというのはまた、コミュニケーションにおける初歩的なスキルだ。

こんなことがわからない人というのは、コミュニケーションの経験が極端に少ない人なのではないか。ちなみに、私が自分の仕事を気に入っている数少ないポイントは「契約交渉」だ。これはビジネスとか法とかすごくきっちりしたルールに基づいたコミュニケーションで、私のような「創造性の高いコミュニケーションはちょっと苦手」という人でもしっかり楽しめる。コミュニケーション初心者には是非オススメしたい。さらにちなみに、うちの嫁なんかは大元のasami81さんのエントリを見て「これって、個人に伝えたいわけじゃないよね」ってすぐ理解してた。

このコミュニケーションに対する幻想に関する理屈は、きっとはてな界隈にどっぷり浸っている人には毛頭理解されない*2と思う。ただ逆に、こんなことは、こんなとこを見ていない人にとっては自明のことだと思う。

  • 無意識うんぬん

「どう考えてもこういう意図で書かれたものだ」と断定的に言及しておきながら「本人の意図は関係ない、無意識レベルでなされた可能性があるからだ」ってのは卑怯かつ不実にすぎると思うが。客観的な議論ですらない。
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だそうだ。コメント欄でも同じ趣旨のご指摘があって、

「無意識」は周囲で勝手に盛り上がるための免罪符じゃあないですよ。
 id:y_arim

この話は、何も言い返さずに放置して負けたと思われるのもシャク、というだけの理由で一応触れるが、じゃあ「無意識とはこういうものだ」とか「客観的な議論とはこういうものだ」という反論がきてから改めて真面目に考えたい。
というのも、一応私は前回のエントリで、客観的な状況証拠からasami81さんの無意識的な意図を客観的に推察して提示したつもりであって、それについて単に卑怯だとか不実だとか客観的じゃないとか無意識の誤用だとか言われても、ご指摘があまりに抽象的で私には反論の余地がない。ただなんとなく、id:y_arimさんが上記指摘をするに際してのコンテクストを推察すると、「真意というものが必ずどこかに存在しているはずだ」という勘違いというか私との認識の隔たりが根底にあるような気がする。そこに目をつぶって話をすすめるとは何事か、と。もしそうだとすれば「私の立場は、『真意』なんてそもそも誰にもわからないとするものなんです」と言えばわかっていただけるのだろうか。

  • ただ意味もなく歌いまくるだけのオペラは(たぶん)つまらないという話

再度お便り紹介のコーナー。

他人の不幸に対して「ああゆうやつって馬鹿だよねー」ということに、いったい、どんな社会的に意味があるのだろうか? そんなものはワイドショー的娯楽だ。
他人の不幸に対して「ああゆうやつって馬鹿だよねー」ということに社会的意味があるという人 - ARTIFACT@ハテナ系

こんな短い文章郡なのに、きっちりと矛盾している様はむしろ美しい。意味はないと示唆したまさに次のセンテンスでワイドショー的娯楽という意味を与えている。

敢えて背後にある意図を汲み取ると「ワイドショー的娯楽」は意味がないと暗示的に断言しているのだと思うが、そうだとしてもなぜそんなことが断言できるのか。これは日々「ワイドショー的娯楽」に興じている例えば主婦層なんかを排除(し、おそらく自らを包摂)する意味合いを持つ。この短絡的な排除は、同氏に『他人の不幸をネタにエンターテイメントを書くなよ』と言わしめる安っぽい正義感とどのように整合するのだろうか。なんであってもそれに対する需要があるのであればそれは「意味」だと私は思うが。「職業に貴賎なし」である。
逆に何らかの道徳的価値観から意味を見出そうと言う話なら、その議論は時間の無駄と言う意味で「無意味」だ。

それから『他人の不幸に対して「ああゆうやつって馬鹿だよねー」ということ』という極端なデフォルメ化。馬鹿の対象が不幸であるという確証をいかにして得たのだろうか。現に私は、asami81さんが馬鹿にした対象は不幸やまして人格でもないことを勝手に確信している。「罪を憎んで人を憎まず」である。ただこのデフォルメ化は煽りの常套手段なのでスルーしたい。


何れにせよ、発言にはテーマがないとつまらない。上のオペラの例をまた持ち出すと、極端に技巧的に洗練されたオペラ歌手にあっては例えばその発声練習だけでも十分価値のあるコンテンツなのだろうが、それはあくまで一部の例であって、基本的にはオペラにはストーリーやテーマがあって、それをいかに歌唱と言う制限されたコミュニケーションによって伝達するかというところが本質なのだろう。*3

asami81さんの当初の発言も、あの盛況ぶりをみるとなんらかのテーマが内在しており、それが共感や反感を生んだ可能性が高い。どういったテーマを受け取るかについては、はっきりいて受け手の自由なので、受け取り方についていちいち講釈をたれるつもりはまったくないが、少なくともコミュニケーションの手段たる煽り口調を対象とした批判は本質とはズレていると言わざるを得ないだろう。それはわざわざオペラ*4を見に行って、「なんでそこで歌うのなんでそこで歌うの」とひたすら突っ込むことと同程度に野暮だろう。


ちなみに、私が勝手に受け取った、件の発言における社会的な意味とはなにか。青臭いのは承知でまずはちょっと自分の信条を語ると、「(あきらめず)最後までやれば失敗じゃない」というのがある。私はこの信条に通じるものを件のエントリのテーマとして感じ、共感した。あの増田は収入をバカにされたくらいで、あの失礼な親に屈するべきじゃないと思った。逆に言えば、そんなことで屈してるからバカにされるような収入しか得られないんだ、と。

言うまでもなく、以上は単なる個人的な主観なので、社会的な意味などとして一般化されるべき事柄ではない。しかしながら、受け手における受け取り方を完全な変数として考え、不特定多数に向けて、一種のエンターテイメントとして、何らかのテーマを発信するという行為そのもの、それだけを抽出した場合。それでもなお、そこには意味があると考える。なぜなら、不特定多数に現に受け取られたという単なる事実こそが、まさにそういった創作活動に対する需要を表すからだ。


オペラでもいいし、映画でもいいし、小説でもいいし、音楽でもいいし、バラエティ番組でもいいが、一方でそういう創作活動は是認しておいて、ああいった創作活動は拒絶する、というのがよくわからないのだ。やたら長くなってしまったが、最後に一応結論めいたことを言わせていただくと、ああいう芸風*5も芸風として認めてやるわけにはいかんのか、というのが当エントリのテーマである。

*1:わかりやすい例は「相手に嫌われたくない」とか。

*2:「なんでそこまで発話者に擦り寄る努力を聞き手がしなければならないんだ。不公平だ。謝罪して賠償しろ。」という声が聞こえてくる。

*3:残念ながらちゃんとは見たことがないので想像の域はでない。

*4:オペラというよりミュージカルかな?私が言いたいのは。

*5:感情的煽りとでもいうか